2017年6月24日 (土)

平和の礎―戦争を記憶する沖縄、忘却する本土

623日は沖縄の「慰霊の日」であった。

糸満市の平和祈念公園で沖縄戦戦没者の追悼式が行われた。


沖縄タイムズは追悼式の模様を次のように報じた。


翁長知事、相次ぐ事件・事故に憤り 沖縄全戦没者追悼式典

http://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/105028

沖縄戦から72年「戦争はもう嫌だ」 慰霊の日、島を包む平和の祈り

http://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/105014


朝日新聞では「慰霊の日」にちなみ鉄血勤王隊の生存者である古堅実吉さん(87)の話を紹介している。


命の限り 沖縄戦語る

http://www.asahi.com/articles/DA3S13002339.html

 

記事に出ていた沖縄師範健児之塔も平和の礎(いしじ)も行った。
訪れたのは普通の日であったが、戦没者の家族が平和の礎を訪れ、おそらく家族とおぼしき人の名を刻んだ文字を撫で、水をかけ弔っていた姿が強烈な印象としてある。

沖縄戦は太平洋戦争の末期、1945(昭和20)年41日に米国を中心とする連合国軍が沖縄本島に上陸(その前326日慶良間諸島上陸に始まる)、日本軍と激しい戦闘が行われ、多くの民間人を含む20万人を超える犠牲者が出た。


6
23日は牛島司令官が摩文仁岳中腹の司令部壕内で自決した日(22日説もある)で組織的な戦闘が終結したとされる日である。


但しその後も散発的な戦闘は続き、沖縄市では、

沖縄戦の降伏調印式は、沖縄市の前身である旧越来村森根(現、嘉手納飛行場)で行われました。米第10軍の司令部が置かれていた旧越来村森根に、宮古島の第28師団長・納見中将、奄美大島から高田少将、加藤少将らが呼ばれ、正式に降伏調印式が執行されました。1945年(昭和20年)97日のことであります。

(沖縄市「沖縄戦の歴史」)

http://www.city.okinawa.okinawa.jp/heiwanohi/2524

 

として沖縄戦公式終結の97日を「沖縄市民平和の日」に制定している。


太平洋戦争は中国、台湾、インド以東の東南アジアの、いわゆる「外地」が中心であった。

しかし、戦況悪化により本土にも戦争はあった。

最初は1942418日東京、名古屋等へのドーリットル空襲であった.

無差別の大規模なものは沖縄戦に先行する半月前の1945310日のB29による東京大空襲(B293百機飛来し、東京下町を焦土化し約10万人が死亡)を始めとする大阪、神戸、名古屋等の各地で空襲があった。
各地の例の一つに私の出身地仙台での空襲がある。敗戦直前の710日にB29100機以上来襲、10003000人が死亡、約6万人が被災。

1945
86日には広島に、89日には長崎に原爆が投下された。
広島では投下直後を含め約12万人、長崎では7万人以上の犠牲者が出た。

ただ国内の地上戦の戦場は沖縄であった。

 


今年の沖縄慰霊の日が72年目。私の世代と時を同じくしている。

 

私の記憶としては当然自らの戦争体験はない。但し戦後の疲弊は経験していてそれが12歳頃まで明確にあった。
戦争の記憶が人々によって語られ、教育現場でも強くあった。

経済成長が始まる1955(昭和30)年頃から急速に戦争の記憶が遠のいたように記憶している。

 

急速に遠のいた背後には意識的なものがあったように思う。

 

「死」の記憶を遠ざけ、「生」を謳歌する。日本人は高度成長の裏で為政者のみならず大衆意識としても死穢意識を強くした。それが完成するのが1975(昭和49)年前後の「総中流」であったように思う。

もとより個的な戦争の影は残った。
私の叔父のフィリピンでの戦死にしても、それは母にとって認知症になっても深い傷としてあった。
だが共有はされなかった。

 

沖縄は米軍が占領し、米軍施政下に置かれた。
いわゆる本土復帰は1972(昭和47)年のこと。


沖縄は、戦時中は日本軍の、戦後は米軍の支配下にあり、戦後の日本の経済成長とは無縁にあった。
これが沖縄の貧困に影響している。

沖縄では戦争、戦後の記憶が共有されただけではなく、いまだに多くの米軍基地を抱える。

 

沖縄の鉄血勤王隊生存者である古堅さんは87歳。
おそらく1930(昭和5)年生まれだろう。
太平洋戦争開始の1941(昭和16)年には11歳、沖縄戦終結の1945(昭和20)年には15歳。
おそらく動員された最後の世代であったろう。

最後の玉砕戦の先兵として駆り出された世代が1913(大正2)年~1925(大正14)年の大正生まれ世代。

現存者は少ない。

 

指導者層の中心はそれ以前の明治中期以降生まれ世代である。現存者はいないに等しい。

ちなみに開戦時の首相であった東條英機は1884(明治17)年生まれである。

 

子どもとして意識があって戦禍を体験した世代の最後は1942(昭和17)年生まれ、75歳前後が最後である。
しかし沖縄で米軍政下を意識的に体験したのは1969(昭和44)年生まれ以前であるから現在48歳以前の人たちである。

 

沖縄では戦争、戦後の意識が共有され(風化の危険もささやかれているが)、本土ではほとんどが忘却されている。
この意識の差が大きな軋轢を生んでいる。


2017年6月13日 (火)

「個人化」という社会の問題―葬送を小手先で考えるな!

葬儀の「個人化」現象は1995年前後から明確になり、それから20年。

これが葬儀だけの問題ではなく、今日本社会に大きく進んでいる「個人化」という大きな問題の現象の一つである。

この問題に切り込んだ経産省の20代、30代の若手のレポート「不安な個人、立ちすくむ国家」が注目を浴びている。
これを報じた朝日の今朝(2017年6月13日)の記事
社会保障「現役世代に冷たい」 経産省若手、異例の提言
http://digital.asahi.com/articles/ASK6D4GVQK6DULFA01D.html?iref=comtop_8_05

経産省ホームページに掲載されている報告書本文は、元はパワーポイント資料なのだろう65ページに及ぶ。
探すのが面倒だからリンクしておく。
http://www.meti.go.jp/committee/summary/eic0009/pdf/020_02_00.pdf

私は昨日名古屋で話してきて、日本社会が戦後であっても
1955年 から始まる経済成長
1975年 頃から顕著になり総中流化
1991年のバブル崩壊を期にした
1995年 前後からの個人化、高齢化、不況の顕在化
2000年 頃からこの問題の顕在化
2008年 のリーマンショックでこの傾向が明確になったこと

こうした社会変化に葬送の世界が見事に照応している。
むしろ反映していない部分もある。これからそれが出てくるだろう。
多様化、個別化を真剣に考えなければいけない。

講演の一部で語ってきたところであった。

社会保障、子どもの貧困、保育所不足、単身化
ひいては
お一人様の死の急増

こういった問題に正面から取り組んだレポートだと思う。

葬儀であれ墓であれ、終活であれ、そこから落ちこぼれるむしろ大きな問題であれ、きちんと見るなら根本から考えなくてはならない。
小手先で流行を追ってはいけない。

その中で「今、人が死亡すること、死別」という大事な営みがどういう問題に晒されているのかきちんと考えなくてはならないと思う。

私は「死」「葬送」というジャンルで発言しているものだから、あえてこだわる。

2017年6月 8日 (木)

認知症―報道に学ぶ

私の母は4年前99歳の1ヶ月前にして死亡。
10年以上認知症であった。

母は最初の頃こそ私を息子と認識していたが、そのうち「息子」とは私が小学生時代のことを言い、目の前にいる私を「親しい人間」とはわかっていたが息子とは認識しなかった。

全ての記憶がなくなったわけではない。
フィリピン戦線でどういう経緯で死亡したかも不明なままに弟の「遺骨」なるものが戦死公告と共に送られてきて、開けてみたら石が1個だけだったことは、最期まで憤怒と共に繰り返し語っていた。

父が87歳で死亡した時、2歳下の母は既に認知症だったからその歴は15年を超える。
父は本人の強い希望で在宅で死んだ。
それを可能にしたのは父の想いを理解してくれた主治医が丁寧に訪問治療をしてくれたことによる。

父が「今晩が峠」と医師に言われた晩、そのことを母に告げなかったのだが、母は本能的に危機を感じたのだろう。
母はその晩、寝間着に着替えず、父に寄り添った。
父が死亡したのは、翌朝、医師が訪問してくれた前であった。
母はとりわけ取り乱すわけではなく、その後、たんたんと父の葬儀に子の言うがままに従って動いた。

姉のちょっと気をゆるした間に家(母が女学校時代に住み、いまだに「母」(私の祖母で、私が4歳の頃既に死亡)がいると思っている昔の仙台の実家)に「帰ろう」とし、外に出て、転んでも前に這いながら進んだ、ということもある。
その時は鬼気迫るものがあったが、温和な状態も多かった。
特に食事の席は楽し気であった。

世話をした姉は、介護に行き詰まり、母をショートステイに預け、空いていたツアーに申し込み、急にエジプトに行ったりした。
ショートステイはありがたかった。

結果的に姉の介護後の時間はほぼなかった。
母を見送り10ヵ月後に姉がステージⅣのがんと診断され、11ヵ月後に72歳の生涯を終えたからだ。
それを考えると、姉の急の単独のエジプト旅行を可能としたショートステイの仕組みはありがたかった。


朝日新聞アピタルで精神科医の松本一生さんによれば
http://www.asahi.com/articles/SDI201705316812.html?iref=comtop_list_api_f01
松本さんらが「認知症は誰もがなる可能性がある病気。怖がることなく早期発見、早期治療・対応に努めましょう」と言い続けてきました。」
のが2004年のことだからまだ12年くらいの歴史にすぎない。

松本さんは言う。
認知症を早期に発見することができたとしても、診断だけでその後のサポートがなければ、患者さんは「早期絶望」せざるを得ないこともあるのです。当時は今とは異なり、専門医療機関でも本人や家族の支援をしているところは限られていました。そのためにこのような残念な展開(専門医とかかりつけ医の軋轢。専門医の診断後の態度が原因で、患者さんが絶望し、症状が急激に悪化したことがあったため、かかりつけ医は「専門医には紹介しない)になったのでしょう。

 自戒の念も込めて思います。専門医は診断するだけでなく、本人には自尊感情を傷つけずに通院してもらい、家族とは積極的にケアや福祉対策について話ができるようにしなければならないのです。

今朝の朝日の朝刊
(インタビュー)認知症、家族と社会と 「認知症の人と家族の会」代表理事・高見国生さん
http://www.asahi.com/articles/DA3S12977543.html?iref=comtop_list_ren_n05
はさまざまなことを教えてくれる。

もしこの人がいなかったら、認知症に対する社会の関心はもっと低かったのではないか。
と記者(編集委員・村山正司)は語る。

高見さんの発言は示唆に富んでいる。

認知症の本人の話が、思った以上にメディアのスポットライトを浴びましたな。認知症になっても普通に生きられる。そういう明るいトーンの報道が多かった。ただ、認知症になって苦しんでいる人や、介護で苦労している人のことも忘れたらあかん」

 「そのころは役場に相談に行っても、
認知症は対象外やと言われた。要望書では患者への定期的な訪問、援助のほか、通所サービスや短期入所をさせてくれと言うたんです。今のホームヘルパー、デイサービス、ショートステイですわ。『在宅福祉の3本柱』として厚生省が政策にしたんは89年のゴールドプラン(高齢者保健福祉推進10カ年戦略)でしたな」
会を結成した37年前当時のことだ。私たち家族もこの恩恵を受けた。

 「国には要望するんやけど、政党は一切回らなかった。国政選挙で推薦してくれんかという話があった時も断りました。特定の政党を応援したら会がまとまらない。本当に認知症の人と家族の利益だけを物差しにしようと意識していましたね」
何か動かすにはすぐ政治に結びつきがちだが、この姿勢はまっっとうだ。

「介護保険で家族の生活は変わったか」という質問に対し
 「そりゃ雲泥の差です。会員にアンケートを取ると、デイサービスやショートステイに行ってくれることで『自分の時間ができた』とか『外出できるようになった』という回答が増えた。ただ変わらないのは、気持ちのしんどさ。認知症の人の介護は毎日が新しい出来事の連続で、気が休まらない」
介護保険に対し「利用しない者には取られるだけで恩典がない」といらだつ声もあるが、また不充分さを嘆く声は聞くが、以前と以後ではまったく異なる。

「このところ国は、すごく自助を強調するけど、僕はお上が言う話やないと思う。あんたらは公助だけ一生懸命やってくれたらええ。自助は住民が勝手にやるんです。家族の会はほんまに自助ですよ。」
まさにその通り。公が「自助」を言うのは筋違い。本人、介護者はいやでも自助せざるを得ない。
不足を補い、介護者の疲弊を防ぐのは「公助」の責任であり義務だ。
国の「上から目線」はいつになったら直るのか。

「つどいで大事にしているんは、初めて来た人にしゃべってもらうこと。どこの支部の者も言うんは、初めて来はった人は悲愴(ひそう)な顔してね、泣きながら介護の話をするけども、帰る時には笑顔になって帰っていきはる。初めての人の悩みには、同じような経験をした会員が必ずいて、自分はどうしたか話すんです。独りぼっちでないと分かってもらうことで元気になる。」
これに対し、聞き手は「そのやりとりはかなり高度な技術ではないか」と問うのだが、この回答が秀逸である。

「カウンセリングの専門家ではないし、そんなん全然違うわけです。でも、自分のこととして分かるから、共感が生まれる。人間てね、親が徘徊(はいかい)して困ってると言う時は泣くけども、人が自分とおんなしことを話すと笑うんですよ。なんかあれ不思議やね。悲しくてつらい話やのに、ああ、あの人も一緒かとなると笑う」
この回答を引き出すために記者はインタビューをしたのではないか、と思ってしまう。
卑近過ぎる例を挙げると、私は30~40代にひっきりなしにぎっくり腰になった。
そりゃ辛い。
エレベータを降りるのにも、柔道の受け身をしながら転んで降りるほど。
その経験があるから、ぎっくり腰にあった人間には面と向かって嗤うことにしていた。
これは私なりの精一杯の思いやりという奴だ。
ぎっくり腰は辛い、痛いといっても一時的なもの、比べるものではないが雰囲気はわかる。

「カウンセリングの専門家」といえども自分が体験していないことについては「頭」だけの理解。
「聴く」ことを心理学用語で「傾聴」なんて言っているが、私は偏見があって嘘臭さを感じている。
当事者に「傾聴」なんて言葉を吐こうものなら、「こいつは所詮他人」と拒否されるのがおちだ。
「傾聴」を企業でも使用しているが、嘘臭い。
こんな嘘臭い言葉をなぜ追放しないのだろう、と思う。
いわゆる「いい人」がこの言葉を熱心に語ると無残に感じる私がいる。
私は「傾聴嫌い」を広言している。

「もし仮に僕らが出した政策要望が100%実現しても、家族が
認知症になって変わっていく姿を見る悲しさやつらさはなくならへんのやと。そういう感情は、制度ではなくて個人のつながりの中で癒やされるんやから、政策より支援のほうが大事やと思っていました」
この人は現実にきちんと向き合っている、と感じるのはこのスタンスだ。

最後の言葉は、あたりまえのことだが胸に響く。
「ただね、認知症は老化に伴って増えるんですから、必死に治そうとか、防ごうとか思わなくてもいいように思うんですよ。薄毛だって認知症だって、老化の一つと思えば一緒やないですか。もっとも、薄毛でも生活の支障はない。そやけど認知症は生活に支障が出るから、支えないかんという話が出てくる。この違いだけで、みんな薄毛だからいうて死のうとか思わへんでしょ。そういうふうに考えるべきちゃうかな」

書き手として思うのは、取材でここまで絞った言葉を限られた紙面で表現した記者に敬意を表したい。
簡単にできた記事ではない。

2017年6月 1日 (木)

あのとき それから 1990年日本初の樹木葬

昨日2017年5月31日朝日新聞夕刊特集「あのとき それから 1999年(平成11年)日本初の樹木葬」(記者:帯金真弓さん)が掲載された。

Jumokuso20170531_2
http://digital.asahi.com/articles/DA3S12965781.html?ref=pcviewer


いま樹木葬は中国、韓国でも人気らしいが、起源は1999年に岩手県一関市の祥雲寺(当時:現在は知勝院)が山ごと「樹木葬墓地」として許可を得て開設したのが最初。
自然保護活動と葬送を一体化した提案であった。
http://www.jumokuso.or.jp/description/index.html

これは2005年の「都市型樹木葬」をうたったエンディングセンター「桜葬」の提案につながる。
http://www.endingcenter.com/jumoku/


元来「樹木葬」は90年前後の新潟妙光寺の永代供養墓「安穏廟」に代表される継承を必要としない、誰にも開かれた墓「永代供養墓」の動き、
http://www.myoukouji.or.jp/annon/index.html
1991年の葬送の自由をすすめる会の「自然葬」(散骨)
http://www.shizensou-japan.org/
における自然志向を背景として生まれたものである。

桜葬の出現で墓地内エリアで容易に実施できると理解した横浜市や東京都が「人気がありより安く大量に遺骨を埋蔵できる墓地」として注目。
理念よりも「樹木を墓標とした墓地」くらいの安易な取り組みが全国に広がっている。

自然保護を真剣に考えたものでは千葉県袖ケ浦市の真光寺の里山墓地がある。
https://shinko-ji.jp/jumokuso/

現在「樹木葬」と称するものは多数あるが、理念があるものはそれほど多くなく、便乗型が少なくない。
90年前後に永代供養墓ブームが生じ、墓不況が本格化すると、理念なく追随し永代供養墓が全国に増えたが、「死後の安心を託す」のであるから便乗型の多くが失敗したという過去がある。

なお帯金記者のまとめた私のコメントは以下のとおり。

■「墓の形態=弔う心」ではない 葬送ジャーナリスト・碑文谷創(ひもんやはじめ)さん(71)

そもそも「家墓」は古来の概念ではありません。明治政府の民法による「家」意識の高まりと伝染病対策の火葬推進で、庶民に広がるのは明治末期から昭和の初め。複数人が同じ墓に入る前提となる火葬率が6割を超えたのは1960年以降。家の墓を守るのが「伝統」と語られるが、そんなことはない。

戦後は家制度が廃止されたのに墓制度は戦前のまま。経済成長と共に地方から都市への人口移動が進み、新興都市住民が周辺で墓を買った。70年代は空前の霊園開発ブームで、バブル崩壊までは数百万円もする墓が飛ぶように売れた。社会が変化しているのに、寺を中心とした業界は檀家(だんか)制度や長子継承に縛られたままで、80年代に継承性の問題が表面化したのです。

伝統はないから、崩れるのも早い。今は骨を郵送して納骨を任せる「送骨」サービスも登場し、合葬なら3万円程度で利用できる所も。火葬場から遺骨を引き取らない例も出てきています。

弔いの形態はこの30年で多様化しています。かつて墓の大きさで信心深さを語ることもあったが、今は永代供養墓でも熱心に墓参する人もいれば、立派な家墓でも放置する人もいて、放棄墓の問題は深刻です。その外形から、弔う心を測ることができなくなってきているのです。


コメントがまとめられるというのは難しいことだが、ここは帯金記者の苦労を考え、そのまま掲載しておく。

墓の略歴について書いておこう。

墓地は古来よりある。
民衆が墓をもったのは戦国時代以降
江戸時代までは個人単位の墓
明治末にコレラ流行を機に政府が火葬を推進、明治民法が「家」を単位にしたため以降「家墓」が人気に。
•1960年火葬率6割を超える(現在ほぼ100%)
1970年代より都市化の影響で大都市部に墓地需要増加。墓石のブランド化、墓石に家紋入れが流行
1991年バブル崩壊で墓地需要急低下。少子高齢化多死社会が問題に。
2011年経産省調査。墓新規3割。うち3分の1が永代供養墓、散骨、樹木葬等の新形態を選択。


2017年5月19日 (金)

僕はあなたの息子でした―個から見た死と葬送(27)

これを書いたのは2年半ほど前のことである。
今も父の死は鮮明である。
遺骨の一部は今も私の引き出しに入れてある。


父は晩年、よく「危篤だ」と自分で電話をかけてきた。

兄には別な日に「危篤」になったようだ。
要は「顔を見せろ」ということだ。

行くと息子の顔をまじまじとみつめ、
「僕が死んだらどうするか言ってみろ」
と言うのだ。

自分の意思が息子に伝わっているか、確認をするのだ。

危篤になった時のことから始まり、葬式や納骨、そして自分の書斎の本の行く末まで、全部を、私が父からそれまで何度も聞かされたとおりに言うと、
「それで頼む」
と言った。

知り合いから電話があると、
「死んでから葬式に来てもらうより、今の生きているうちに会いに来てくれ」
と見舞いを催促する。

父はあらたまった席では「私」と言ったが、少し気楽な関係では自分のことを終生「僕」と言っていた。

その父が死んでから14年。
十三回忌は2年前にしなければいけなかった計算だ。
生きていれば百歳を超えている。

死後5年目あたりから、父のことは「懐かしく」感じるようになったが、いまだに父の思い出は明徴である。

父の葬儀でとり乱しながら、私は必死に父に語りかけていたものだった。

「私は、僕は、あなたの息子でした」
と。

その言葉は、14年後の今も、私の中では少しも色あせていない。

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