2017年3月12日 (日)

遺族の肖像・東日本大震災アーカイブ⑥

◎遺族の肖像―311の被災者

 

「記憶がゴチャゴチャ」している被災者

 

女川町から転出した人たちだけではなく、残った人たちもさまざまな転変をよぎなくされた。

ほとんどが犠牲者と何らかの関係があった人たちである。
精神的に大きな打撃を受けたことに加えて環境の大きな変化を受けた。
それがそれぞれにさまざまな変化を強いた。

「復興」といっても、それは女川町の人々を大震災以前に戻すことではない。

家族、親族、隣人、知人の喪失、暮らしの環境の激変…これらは戻ることはない事実である。
喪失、激変の現実を抱えたままであるが、これからの生活を成り立たせる仕組みを準備すること、大震災後の復興とはこのような限界をもったものである。
しかしこれとて遅々として進まない。

被災地の人たちが語る言葉、目線で大震災を見てみよう。


大震災は、予期しない衝撃であった。
予期しない速さで、予期しない大きな規模で、災害が自分たちに襲来し、悲鳴、泣き叫ぶ声、周りの人と手を取り合って高台に逃げた。
逃げ遅れ、多くの人が大津波に呑みこまれた。


家族も家も街も自然もその前に投げ出され、そして気がつくと凄まじい荒廃が目前にあった。
それが瞬時に起こった。
自分も周囲も大きく変貌していた。そして電気も水道も食料も寝る場所もなく、そして家族もいない。


被災地以外ではテレビの実況で仙台空港に押し寄せる大津波、気仙沼が夜を通じて燃えていたことが伝えられたが、被災地では電気が途絶し、こうした惨状を伝える情報が入手できない。
情報孤絶に陥っていた。


暗い、寒い夜が明け、降る雪の中、高台から街を見ると、そこには見たこともない光景があった。
街は破壊され尽くされていた。


その日以降、被災者の人々は生きてきた。
見通せない不安、自分たちの置かれた現実が何かもわからない。
そうした心的、物的な混乱を抱えて生活してきた。


ある時は必死で、ある時は呆然として、ある時は滂沱の涙を流し、ある時は自分を鞭打ち、ある時は投げやりになり、ある時は肩を寄せ合い、ある時は時が流れるままに生きてきた。


それらの日々を「記憶」として整理しようとしても困難である。

 

1年続いた葬式

 

 鈴木さんは葬儀社を営む。
犠牲者の葬儀は大震災の翌月の4月になって始まり、翌年の一周忌までほぼ1年かけて行われた。

 

鈴木さんは妻と13年前に死別している。
妻の実家は仕出し屋を営んでいたが、妻の母と仕出し屋を後継した妻の兄(
55)が大津波で生命を喪った。
鈴木さんは妻の実家の家族の葬式を大震災から9カ月後の
12月に行った。

 

女川(だけではなく東北地方)の葬式は、葬儀に先立つ火葬、つまり骨葬である。
葬式は、他の地域同様に、通夜、葬儀、法要が通常はセットになって営まれる。
だが大震災の犠牲者の葬式は通夜と法要抜きで葬儀式のみが行われた。


あるお寺では、1日に6~7件の葬儀が行われたこともある。
時間、日程上、通夜、法要とセットで行うことが事実上困難であった。


犠牲者の葬式では各家族が経済的理由も含めさまざまな事情をもつ中、「世間体」を気にしないよう葬儀は平等に、また葬儀に参列する者も親族を喪った人が多い中「お互いさま」という言葉があるように、香典ナシ、お礼ナシ、法事ナシが暗黙のうちに了解されて行われた。

 

 町役場職員の震災直後

 

 ここで一つの家族(親族)の体験を紹介しよう。


これは被災地では奇異な例ではない。
しばしば見られる事例の一つである。
また、体験を語ろうにも家族が全滅して体験として語れない家族(親族)もある。
ある家では祖父母、夫婦、子ども全員が生命を喪った。
これもまた被災地では珍しいことではない。


阿部聡さん(29)は、震災当日は職場である女川町役場で勤務していた。


地震があり、職員が3人1組になって町民の避難誘導にあたっていた。
最初は女川第二小学校グランドを避難場所とした。
小学校は女川町の北西部にあり高台にあった。


当日は雪が降り寒かった。
「寒いから校庭にテントを張ろうか」と話していたところ、突然メキメキという音がした。
下を見ると見られるはずがない濁流があり土ぼこりくさい臭いがする。


ここにいては危ないというので町民をもっと高い総合体育館へ誘導した。


水は上の中学校に行く坂の手前まできていた。
役場庁舎の屋上には取り残された職員の姿があった。


小学生も中学生も総合体育館に避難していた。


大津波に巻き込まれながら、よじ登り、総合体育館まで辿り着いた人がいた。
しかし、水を吐き出す力がなく、低体温で死亡した。


その晩、ラジオでは「荒浜に200体の遺体」と伝えていたが、下に降りることができない。
2日間、山の上で過ごすことになった。


といっても聡さんは町役場の職員。
一避難民でいることは許されなかった。

11日夜から聡さんは避難所となった総合体育館の係となって動くことになった。
総合体育館に避難した人は約500名。
町の職員といっても何ができるわけではない。
寝具も食料もない。
しかしあちこちから苦情や要求が飛び込んでくる。


避難してきた人たちも皆ショックを受けている。
寒さ、不安を抱えてやり場のない怒り、イライラ等のさまざまな感情が充満している。
役場職員ということであたられ、翻弄された。

12日にはわずかな食料が投下され入ってきたものの避難者全員に渡る数がなければ配給できない。
「平等」でなければ食料にありつけない人たちの不満が爆発するからだ。

 

聡さんは総合体育館の廊下、ステージとわずかな空間を見つけてベッドにした。


3日目になって移動が可能となった。
4日目からはヘリコプターの誘導を務める。

その後は山の上に乗り捨てられた父親のトラックから合羽を取り出し、それを着て捜索、遺体収拾にあたった。

 

聡さんは3・11から約1年間の記憶が明確でない。
時間関係もゴチャゴチャしている。
疲労から鬱状態になった。
最初は病院から睡眠薬をもらって何とか仕事をしていたが、二年後についにリタイアをよぎなくされた。

 

行方不明―実感のない死の継続

 

聡さんは両親と弟、妹の5人家族。妹・昌子さんはいとこの佐藤輝昭さん(35)の家族と一緒に輝昭さんの姉夫婦を頼りに一時神奈川県に避難した。


輝昭さんは聖花園の従業員。
幼い子供を抱える輝昭さん一家は福島原発の放射能の不安もあり、また地元では何もなく食料のめども立たなかったからだ。


輝昭さんは父・佐藤義信さん、母・良子さんの両親を津波で喪った。
母・良子さんもまた聖花園の従業員であった。


輝昭さん一家が一時神奈川に避難した住宅に、聡さんとその母・幸子さん(
55)、幸子さんの兄の高橋洋さん(58)、そして鈴木通永さんのねぐらとなった。
洋さんは妻と長女を喪った。

 

聡さんの父・幸子さんの夫・阿部誠一さん(当時54歳)については最初安心していた。

というのは山の上にトラックがあったからだ。
そこに避難したのだろう、と考えていたが、総合体育館にもどこにも顔を見せない。
2日目の夜になっても現れない。
仕事道具のトラックを真っ先に避難させて、また下に降りていき、そのまま行方不明になった。

 

幸子さんは小学校の近くにあった給食センターに勤務していた。
そこで震災、大津波に遭遇。
給食センターは高台にあったので無事だった。
聡さんとは当日に会い、互いに無事を確認していた。
幸子さんは寒い中、自分の車の中で寝た。

 

2日目の夜、夫のトラックに行ってみた。
夫は頑強で死ぬわけがないと思っていたが、トラックのドアは鍵がかかっておらず、人気がなかった。
「あ~いないんだ」と思って泣いた。
ただ、まだどこか実感がなかった。

 

食料が入ってくるようになると給食センターは総合体育館にいる避難者の食事作りに追われる。
避難所生活をしている人に「給食室にいてあんたたちだけが食べてんだろう」と言われ、妬まれ、心が傷ついた。

 

幸子さんが、肉親の死に直面したのは幸子さんの母の遺体が発見された時が最初であった。
いるはずの病院にいないと聞いて不安だった。
遺体が発見されたと聞いても否定する想いが強く、なかなか受け容れられない。
しかも父も行方不明のまま。

 

3日目以降に自衛隊も女川町に入り、人手も足りたことを確認すると、4日目に給食センターを休職した。

母の遺体が発見され、夫も父も行方不明、姉・良子さんとその夫・義信さん夫婦(輝昭さんの両親)も行方不明。
「避難して生きた人たちの食事を作っている場合ではないだろう」と言うのがその時の心境だ。
6日目に輝昭さん一家が神奈川県に一時避難するのに娘を預け、輝昭さんの住宅で約2か月生活することになった。

 

聡さん・幸子さん親子、幸子さんの姉の息子である輝昭さんの近親者があまりに多く大震災の犠牲になった。

 

遺体で最初に発見されたのが幸子さんの母・ミヨコさん、聡さん、輝昭さんの祖母である。
近所の人に「遺体安置所にいるよ」と知らされた。

 

2番目に遺体で発見されたのが聡さんの父方の祖父・阿部鶴吉さん。
3番目に遺体で発見されたのが幸子さんの義姉、洋さんの妻・たか子さん。
輝昭さんの父・義信さんが遺体で発見されたのが4番目で1カ月後であった。

 

輝昭さんの母で幸子さんの姉、佐藤良子さん、聡さんと輝昭さんのいとこ、洋さんの長女・祥子さん、聡さんの父で幸子さんの夫・誠一さん、幸子さんの父で、聡さん、輝昭さんの祖父・鶴吉さんが行方不明のまま。
鶴吉さんは足が悪く逃げきれなかった。

 

4人が遺体で発見されて、⒋人が行方不明のまま。

 

聡さんは遺体捜索活動を続けながら、最初は「父は生きているかも」という想いを捨てきれなかった。
それが「いつ」というかは定かでないのだが、次第に諦める心境になっていった。

 

幸子さんも夫に対し「また下に降りていくなんてばかだな」と思っていた。

 

3人に共通するのは、近親者が死ぬということがどういうことかわからない、ということだ。
行方不明の場合には遺体もない。
死別の悲しみの実感がわからないまま、ということだ。

 

死亡届の提出と葬式

 

6月に法務省が家族申述書の提出により行方不明の人の死亡届の提出を認め、受理することになった。


書類作成がたいへんだったことは記憶しているが細部は記憶にない。
死亡届を出し、受理されると弔慰金がもらえる、行方不明のままでは弔慰金が出ないというので多くの人が出した。
3人もまた同じだった。

 

行方不明の人たちの葬式は死亡届の提出・受理の後、順次行われた。
だが3人には葬式の記憶が定かではない。

 

「震災の日と葬式を出した日が離れているので、あまりよく記憶していない」

 

と語る幸子さん。

 

行方不明の人の葬式には遺骨がない。

 

鈴木さんがその様子を説明してくれた。

 

「ご遺体、ご遺骨がないので、故人の生きた証しとなるもの、それすら流失して無い場合、自宅があったところの土を甕(かめ)に入れて、写真があれば写真と位牌でもって葬式をした」

 

行方不明の人の葬儀については、あちこちで家族の話を聞いた。

 

「親戚の手前もあるから葬式を出した」

 

「葬式を出さなくてはならないという感じが周囲からひしひしと伝わってきた」


葬式を家族の主体的意思でした、というのとは違っていた。
だから葬式に実感がもてないでいたように思われる。

 

幸子さんは葬式を出した日について言う。

 

「確か暑かったと思う」

 

輝昭さんは震災直後を振り返る。

 

「震災当日から4日目くらいまでのことを、当時は『短い』と思ったのですが、今になってみると、とてつもなく長い時間だったな、と思う」

 

ペットボトル飲料は貴重品。
水は子どもたちに飲ませ、自分の水分は酒だった、と言う。

 

おそらく酒なしであの混乱と不安な日々を過ごすことが難しかったのだろう。

 

死者、行方不明の人たちも、あの日に何が起こったのかよくわからなかったのだろう。
そして遺った人も何が起こったのか、それが現実なのか、よくわからないでいるのだろう。

 

多くの人たちが被災地を去ったのは、仕事を求めてのことが多いだろう。
だが、土地にいることに耐え難い想いを抱いて去った人たちもいるのではないか。

 

輝昭さんは震災直後に約2カ月地元から離れた。
聡さんは2年後に役場を辞めた。
幸子さんは母の遺体発見を機に給食センターを休職して辞めた。
遺った者も安穏ではなかった。

 

そして今3人は葬儀社に勤務し、遺族が死者を送るサポートをしている。

(雑誌SOGI通巻149号。2015年)

2017年3月11日 (土)

女川町の場合・東日本大震災アーカイブ⑤

本日は東日本大震災発生から6年目。


■巨大地震発生と大津波の襲来


国土地理院がその後発表したところによれば、東日本大震災は、

 

・国内観測史上最大のモーメントマグニチュード9・0。

・断層の大きさは長さ450㎞、幅200㎞。

・最大すべり量約30m。

・破壊継続時間約170秒(3分弱)

・牡鹿半島にある観測地点では上下変動は約1・2m沈下、水平変動は太平洋沖に約5・3m移動。


であった。

地震発生当時、女川町役場では、町議会の最中であった。
地鳴りがするような巨大地震であった。
その巨大地震に驚愕して間もなくの2030分後に大津波が女川に襲来した。

役場では、大津波が4階まで達した。
議員も職員もてんでに避難梯子で屋上に待避した。

引き潮では町中がまるで湾内であるかのように、水が自在に、土煙を上げて、建物や車を巻き込み回った。
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翌日の空中から町を映した情景には、電車の車両がバラバラになって住宅や道路の上に寝そべっている様子が写されている。
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これが現実に3月
11日に女川町で起こった様である。

 

■まるで戦場


聖花園は女川町の葬儀社。経営者は鈴木通永さん(51)。

大津波は鈴木さんの周囲にも被災者を生んだ。
従業員1名、ほかの従業員の家族にも行方不明者が出た。
死別した妻の実家でも犠牲者が出た。

12日は夜明けとともに従業員や家族の安否確認で瓦礫の山を登っては越え、雪の山道を登り、寸断され、道なき道を歩いた。

瓦礫の間にはそこかしこに遺体が埋もれていた。
だがどうすることもできない。

鈴木さんは夕方、従業員に「今はそれぞれの生き残った家族を守ってやってくれ」と話した。

 

まるで戦場だった。
水も食料も通信手段もない。
町は孤立した。
災害本部となるべき
女川町役場も使用できなくなった。


震災の翌々日、仮の役場が開所したその朝、鈴木さんは仮役場を訪ね、町長や役場職員と協議。
話は多数の遺体のことになった。
1社で対応できる数ではない。
また、鈴木さんのところで今動けるのは鈴木さん1人だけ。


鈴木さんは役場職員に「ここに常駐していいか」と訊いた。
町として異存はなかった。
「ぜひ、いてくれ」という回答。
鈴木さんはそれ以降、町の職員と一体となって行動することになった。


道路もなかった。
地元業者のもとに残った重機で主要な道路は何とか車1台は通れるようにした。
といっても女川と石巻間は冠水と地盤沈下で道路は寸断されていた。

 

遺体収容~安置

 

3日目、ようやくある程度道路が通れるようになったところで、鈴木さんは町職員約10人、消防団とで遺体収容を開始。

安置所は陸上競技場内の建物。
自衛隊が入るまでとりあえずできることから協力して行った。
安置所には遺体の発見地、特徴を書いた紙を張り出した。


町の外部とは連絡が取れない。
情報もない。
遺体は続々と運びこまれる。

衛生面が心配だった。
鈴木さんは何としてでも気温が上がる季節以前に火葬し、遺骨にして家族のもとに帰してあげたい、と焦る思いであった。

町民は着の身着のまま、お金はポケットにある財布のみ。
食料もない。
冷え込み、寒さの中眠れず、疲労困憊状態となった。


鈴木さんは2代にわたり葬祭業をこの町でしてきた。
町の人たちには贔屓にしてもらった。
「町民からお金なんかもらえるか!」と思った。
終わったら廃業してもいい、最後のおつとめになってもいい。
残ったトラックと自分ひとり。ガソリンがいつまでもつかという不安。
でも自分のできることを町の仲間と一緒にやろう、と思った。


拾った戸板に遺体を乗せ、トラックで戦場の町を陸上競技場観覧席の下に設けられた安置所まで運んだ。

生まれ育った町、あまりに多くの友人を喪った。
トラックを運転しながら、鈴木さんはひとり大声で泣いた。


5日目、遺族による身元確認、警察による検案活動が始まった。

安置所から電気自動車で2体ずつ倉庫に運び、検案後、隣りのテントを張った場所に安置、警察が納体袋に入れ納棺した。

棺が不足して納体袋のまま安置された遺体も多い。
警察は遺体の特徴を書いた紙を貼り出した。
人口1万人の町なので顔見知りも多く、それが身元確認を早めた。

 

仮埋葬~火葬

 

女川町の火葬場は破壊を免れた。
しかし燃料がなく、火葬場に通じる道路も瓦礫の山。
燃料の入る見込みもなく、復旧の見通しは立たない。

遺体を何日安置しておけばいいのか見当もつかない。
残酷な話ではあるが、遺体は腐敗を免れない。
公衆衛生上の危惧は大きい。

町では話し合い、「仮埋葬」が選択された。

仮埋葬の用地取得、搬入方法を検討。

この頃には県の手配で木棺は入手できた。

県警の役割、町の人間による運び出し、墓地は地元の建設業者が造成…小さなコミュニティなので何でも皆で話し合い、町役場の課長の判断ですぐ実行に移した。


女川町では、他の「2年間程度の仮埋葬で土葬地域を参考にし、深く掘り埋葬」とは異なる方法が選択された。


「仮埋葬は、火葬場が復旧するまでの、あくまでも一時的な処置」
と考えていたので、墓地は穴を深く掘って柩を埋葬するのではなく、柩の上から土を盛る形にした。


火葬場が復旧したのは5月。

建設業者が掘り出し、土を払って棺覆いを掛け、鈴木らがトラックで運び、1日8体火葬した。


仮埋葬時に、家族は一緒に、親戚を近くに、と気遣った。
家族・親戚の火葬はできるだけ同じ日に行い、遺骨にして遺族に引き渡した。

約2カ月で柩の掘り起こしと火葬を終えた。計約400体。

(雑誌SOGI通巻149号。2015年)

2017年3月 9日 (木)

身元不明者の慰霊祭・東日本大震災アーカイブ④

身元不明者の慰霊祭
一昨日の7日、仙台の葬儀社・清月記の西村恒吉さんからメールをもらった。


今日(注・201737日)石巻仏教会による東日本大震災身元不明遺体慰霊祭が行われました。今年からは火葬場近くに新設された納骨堂前でのご供養となりました。僧侶20数名と、市職員5名の参列でした。

 

私たちは震災の翌年から、いつものメンバーでこの慰霊祭の準備をお手伝いしており、年々、減少する数は少なくなっていたのですが、昨年は34名のご遺骨で、今年は33名だとの事です。

1年間で1人しか身元が判明しなかったことになります。

これ以降、ご遺骨の身元が判明する可能性は低いのかもしれません。

 

安置されたご遺骨の中には「東火」と書かれたものも多く、これは当時、一旦東京都の博善社様で火葬を受け入れて頂いた方々だったと思い返しました。東京へお柩を送り出す手伝いもしましたが、今日までずっと身元不明という扱いになってしまっていることに胸が痛みました。

http://www.jiji.com/jc/article?k=2017030700989&g=eqa



2011年当時の私が書いたものには次のようにある。
東日本大震災の津波被災者について最初仮埋葬が行われ、その後掘り起し火葬が行われた。その過酷な作業が現地の葬儀社が担ったということは記憶され続けていい。

 

当時の報道を見ると、
市の火葬場は通常1日9体の火葬を
20体まで拡大したが追いつかないので仮埋葬(土葬。当時は「土葬」と表現されていた)用の墓地を市内3カ所に整備すると報じられている。

3月
22日に第1回の仮埋葬を行ったのは東松島市。


仮埋葬は自衛隊が行った。
しかし、自衛隊を
他の任務に振り替えるというので3月末日までとし、民間委託の方針になった。


石巻市の仮埋葬を請け負ったのは清月記。

清月記は仙台が本社であるが、石巻市に2カ所の会館を保有して営業展開していた。
最初は宮葬協組に依頼があったが、石巻の組合員と相談したが困難と回答。
清月記が単独で請け負うことになった。
以下は西村恒吉(仙台市。清月記)の報告による。

清月記が仮埋葬に着手したのは4月4日。
以降4月
24日まで276体行った。


当初は1000体の予定だったが、4月から東京都で火葬を引き受け、東京への搬出作業が開始されており、火葬事情の好転から中止となった。
その後宮城県内の火葬事情も好転。

石巻市は清月記に仮埋葬した柩の掘り返しての火葬を要請。
清月記は5月7日から8月
17日まで掘り起こし火葬を行った。


掘り起こしは8月
15日に終了。
計672体。
8月
17日に最後の火葬が石巻斎場で遺族立ち会いのもと行われた。
合計665体であった。


石巻市から依頼を受けての仮埋葬とその後の掘り起こし火葬を担った西村によれば、掘り起こしの最初は,4月
15日。

遺族が親戚に頼んで重機を手配し、掘り起こすので、仙台まで搬送し、安置してほしいという依頼に立ち会ったことだ。

その必死な様子が、口や鼻からあふれ出る血液や体液を拭い、可能なかぎり清めてから改めて納棺する、という過酷な作業を、遺体の尊厳を守りながら行う仕事を促した。

 

今回の震災に直面し、最初は寒い雪降る中、最後は夏の暑い中を海中から破断され一部白骨化した状態で収容された遺体の納棺、安置、搬送、火葬という仕事を、多くの葬祭従事者たちが逃げず、礼をもって行ったことは、ここ石巻においてもまったく同様であった。

 

2017年3月 6日 (月)

若者が町を出ていく・東日本大震災アーカイブ③―個から見た死と葬送(23)

2011年の大震災から6年。福島県の避難指示解除が進んでいるが、戻ったのは13.1%という。

朝日新聞2017年3月6日記事によると、

東京電力福島第一原発事故の発生で、福島県内の11市町村に出された国の避難指示。この春、4町村、約3.2万人に対する避難指示が解除される。避難を強いられた地域は6年前の約3割の面積にまで縮小する。ただ、帰還は進まず、自主避難した住民もおり、全国にはなお8万人近い避難者が暮らしている。(略)
ただ、すでに避難指示が解除された区域でも、実際に戻った住民の割合(帰還率)は平均で13・5%にとどまる。避難先の学校や職場に慣れ、新たな生活を選ぶ人が多いためだ。放射線への不安や、商店や病院が少ないなど生活の不便さに帰還を思いとどまる人も少なくない。


以下は、2012年1月に書いたものである。



若者が町を出て行く

若者が町を出て行く。

東日本大震災は終わったのではなく、今なお進行中の出来事だ。
「復興」が叫ばれるなか、町の未来を支えるはずだった、
20代、30代の若者層の県外流出が止まらない。

福島では、子どもを抱えた若い家族が放射性物質による健康被害を案じて町を出て行く。
妻子を避難させた仕事をもつ夫が家に単身残る例、子どもの健康への危険度に対する意見の相違から離婚する夫婦もいる。

岩手、宮城の被災地では、勤め先の工場が営業停止となり、失業保険も切れ、仕事を求めて町を去る若者が後を絶たない。

町には高齢者だけが取り残される。

大震災以前から、東北は人口流出傾向にあった地域だ。

大震災は、地域に残った者まで町に留まる選択を奪った。


大津波の到来を告げ回った消防団員が犠牲となった例は少なくない。
残った団員は遺体の収容、瓦礫撤去に追われた。
そこで残った者まで地域を去ることを余儀なくされている。


大津波は幾多の住民のいのちを奪った。
生き残った者とて、平穏な暮らしが瓦解した。


残る者、去る者、皆大きな傷を抱える。


大震災で喪われたいのちを弔う権利、余裕を遺族から奪っている。

暮らしを奪われた者は全国に散って行く。


長く続く、見えない傷が拡散。
「復興」という名で回復しないのは死者のいのちだけではない。

2017年3月 3日 (金)

妻を捜す 東日本大震災②―個から見た死と葬送(22)

妻を捜す

3月11日以降、私の胸のなかを風が吹きすさび、ときおり内部に奥が見えない空洞が広がり、心を揺さぶり続けている。

捜す。

東日本大震災発生直後は、毎日遺体安置所に通って、新しい遺体を確認して回るのが日課だった。
妻が見つかればと願い、でも妻ではなかったことにどこかで安堵していた。


4カ月経った今では、新しく収容される遺体は日に数体あるかないか。
多少類似している遺体を見せてもらうのだが、近づくのを拒むような圧迫するような臭いのバリアが立ち込めている。
鼻が殺がれ、目が窪み、遺体には生前の面影を偲べるものはない。

そこにも妻はいない。


妻をあの地獄から一刻も早く救い出して火葬してやりたい、と思うのだが、妻があのように腐乱した姿で現れるのも怖い。


私の心のうちでは、笑顔が弾け、どんな苦労も笑い飛ばす、めげない、健康そのものの妻の姿だけがある。


妻は、あの大津波に攫われ、太平洋の大海原に漂い、浄土に旅立った、と思いたい。
そして頼りない夫と子どもたちをいつも見守ってくれている、と思いたい。


遺体が発見されなければ、妻の死の事実を示すものがない。
申述書を書いて死亡届を出す、というのは手ずから妻を殺す行為にも思え、躊躇う。

今夜の食事当番は次男。
いつものように母の場所にも焼き魚を置いていた。

(
2011年7月 取材に基づく)

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