2017年2月19日 (日)

布施と寺の関係―戒名、布施問題の多角的アプローチ⑥

布施と寺の関係

 

「布施」は理念的には、

「施す人も、施される人も、施す物品も本来的に空であり、執着心を離れてなされるべきもの」

とされている。

本質的には、仏法を説く「法施(ほっせ)」も布施としてなされるものであり、見返りを期待したものではない。
また、その僧を支えるものとしてなされる「財施(ざいせ)」も「布施」としてなされるものであり、何らかの対価、見返りを期待したものではない。
また僧や仏教徒の布施は寺院の関係を超える。地域社会に精神的、身体的、経済的、人間関係的に不安や困窮し困難にある人や事態に対して布施する。これが「無畏施(むいせ)」である。

近年、若い僧侶を中心に災害支援、被災者の物心支援、生活困窮者への支援、終末期にある病者、高齢者の支援、貧困や疎外された子どもの支援、海外の弱者への支援…などさまざまな活動が積極的に行われるようになってきている。


以上が前回のまとめである。

 

前回も紹介したように、

「布施」について『岩波仏教辞典』は後段で
転じて、僧侶に対して施し与えられる金品をいう。

と極めて現実的な解釈を示した。
これは「布施」が日本仏教においては寺檀(じだん)制度を支える財政基盤として機能したことを示している。

 

そこで「檀家制度」における布施の機能を見る前に、そもそも寺という組織について考えてみたい。
これは過去がどうあったかではなく、現代において寺という組織が機能するために、どういう検討が必要か、という課題である。

 

「寺」という組織のあり方

 

僧は個だけではなく、仏教集団、寺院、教団…という組織をもつ以上、「組織のあり方」を考えざるを得ない。

これは仏教寺院だけではなくキリスト教会も必然的に抱える問題である。

 

第1は、活動理念である。

一般に宗教教団の場合、教義であり、その教義の普及により信者の獲得となる。

だが組織が小さく、民衆の近く位置するに伴い、活動理念はより具体的にされないと、それを支える意識が不明確になる。

また、教義というのも歴史的産物である以上、常に問い返しが必要とされる。
問い返しのない教義は保存はされるかもしれないが、単なる遺物と化し、活きて働かないものとなる。

 

第2は、組織運営である。

宗教団体では、とかく上から下、という形態が見られる。
しかし、上から下へ「教える」という一方通行だけではうまくいくわけがない。

下からの信頼、信仰が強くなければ組織は機能しない。

下から、つまり信者側からの熱意ある活動を組織に活かさないと組織は活性化しない。


実際に、住職や牧師中心で成員である信者が活性化していない寺や教会は活き活きとしていない。

 

第3は、活動の透明化である。

 

その組織が何をしようとしているのか、それをどうしようとしているのかを上だけではなく下まで認識を共有しなければならない。

例えば寺の行事一つとっても、これが欠けては成立しない。


これは、一方的な考えの押しつけになってはいけない。
成員個々の多様な考えは尊重されるべきである。

だが、個々に遠慮して何も発言しない、というのもまたおかしい。

 

第4は、組織の財政基盤の確立である。

 

現実的に組織運営する以上、その活動を可能とする財政的基盤を作らなければならない。

また、その財政は組織の形態によって変わる。
ボランティアがお金と労力だけで係わる場合があるが、それはしばしば不安定で、また負担が偏ることで継続性が困難になる。

その規模に合った人件費、運営費が確保される必要がある。


理念が正しくとも成員だけで維持できる組織というのは少ない。

また成員の経済力もさまざまである。
成員が過負担になれば組織から遠のく。

企業ではないのだから、それぞれに合った負担ということが許される必要がある。貧困者を閉めだす寺なんて最悪である。

成員だけで無理なら協賛、寄附が必要となる。
これは一部の資産家や企業に頼り過ぎてはだめである。
石材業者、葬祭業者等に頼り過ぎれば癒着も生じるし、偏り過ぎるとそこが撤退したとたんに成り立たなくなる。
薄く、広く求める必要がある。


戦後の農地解放で寺は経済的な打撃を受けた。
寺自体が大地主であったのが土地を取られ、大檀家が地主、大農家に偏ったため、大檀家が没落し、財政基盤を喪失した、という寺は多い。


※これが高度経済成長期の「戒名(院号)」料問題の背景となっている。


「布施」問題はこのコンテキストで正しく語られる必要がある。


「布施は檀家制度が崩壊したので根拠がなくなった」と言う人もいるが、寺は危機にあるが崩壊、消滅したわけではない。

これからの寺を検討すべき課題として「布施」問題はきちんと、中途半端ではなく検討される必要がある。

仏教界の議論はまだまだである。

寺のあり方を問う中できちんと議論されるべきである、と私は思う。
 

そうでないと苦労している僧侶たちを見捨てることになる。

 

第5は会計の公開である。

 

今の寺を見ていると経済的に自立している寺は全体の3割もないだろう。
むしろ財政実態を公開し、どうしたらいいかを皆で考えることから再出発すべきだろう。成員であることの自覚もできる。

また、そのためには寺の運営実態を透明化し、寺が何をしていくべきかの目標を共有することが必要だ。

私の知っている寺では、個人名は伏せるが、葬儀のお布施も公開している。

100万円以上出す人もいれば、その人にお金がなく、寺が負担して葬儀を出すこともある。

平均で20万円代であった。

自分たちの葬儀だけではなく、信者全体の葬儀を可能にするために葬儀代がまさに布施として活用されている。
会計公開は成員の自覚につながるし、寺が公共性を確保するための義務でもある。

 

第6は組織の規律である。

 

組織が崩れるのは自己規律がないことからきていることが多い。


組織運営が一部の者の都合がいいように偏ったり、運営が公平を欠いたり、偏見に基づいた差別やいじめが行われたり、お金の使い方がいい加減であったり、私欲がまかりとおるものであったり…


およそ最低限の規律が確立され、常に第三者の点検に耐え得るものである必要がある。


あたりまえのように見えるが、相当意識的にしないと規律保持は難しい。

また、規律が崩れると組織内はもとより対外的信用も崩れる。
雑誌やテレビのワイドショーで寺や僧侶の悪い話題が取り上げられるのは、規律が失われた寺の問題であることが多い。

 

 

檀家制度成立以前

 

寺の組織は「檀家」制度によって支えられてきた。

といっても本格化は江戸中期以降のことで、歴史的に中世までは寺の檀那(だんな)は権力者、貴族、武家に偏していた。

ある意味で権力者の権威の誇示に寺は利用されてきた。

また、寺は宗教的=世俗的権威ともなり一大勢力ともなった。
これが戦国時代に信長が仏教団と激しく対立、排撃されるところともなった。


仏教は権力者が檀那であった時代はある程度は拡がったが、民衆の中に定着したとは言えない。

 

 もっとも中世以降になるとさまざまな僧が民衆へのアプローチを行うようになるが、それは教団としての組織的なものではなかった。


例えば、平安時代の
938年、阿弥陀聖、市聖と呼ばれ中世以降の高野聖、民間浄土教行者である念仏聖の先駆けとなった空也(972年没)が京で念仏を広める。

これ以降、民間仏教の「聖(ひじり)」と言われる僧が民衆の中に入り、死者儀礼や農耕儀礼と結びつき大衆化していった。

 

 

「檀那(旦那)」とは、

サンスクリット語のdânaに相当する音写。もともとは、施し・布施を意味するが、わが国では、寺院や僧侶に布施・寄進をするパトロン、つまり檀越(だんおつ)・檀家と同じ意味で用いられた。布施を受ける寺のことは〈檀那寺(だんなでら)〉と呼ばれる。檀家はそこで死後の菩提(ぼだい)を弔ってもらうことになるので〈菩提寺(ぼだいじ)〉とも呼ばれる。なお檀那は、家を支えるパトロンとか、恩恵を与えてくれる者の意味から、既婚の男子、特に夫や主筋の相手に対する一種の敬称とも転じ、〈旦那〉とも書かれるようになった。(岩波仏教辞典)

 

「戦国時代」とは、室町後期の応仁の乱から織豊政権誕生による天下統一に至るまでの時代のことである。

政治的には乱れ、飢饉、戦乱で民衆は苦しんだ。
一方それまでは貴族や武士の下で翻弄されていた民衆が農業生産力を向上し、定住し、近世の村をつくり、一定の社会的地位を向上させた時期にも相当する。


「戦国仏教」という言葉もあるように。この時期を中心に仏教の民衆化は進む。

それを可能としたのが「葬祭仏教」であった。

(以下続く)


☆近況報告と予告

①仏教タイムズ2017年2月16日号
http://www.bukkyo-times.co.jp/pg125.html
に「僧侶派遣の現状と背景を追う(最終回)仏教界への提言―聖たちの覚悟を現代に 碑文谷創(葬送ジャーナリスト)」
。タイトルは編集部が付けたもである。全日本仏教会の「法務執行に関する協議会」の中間報告を読んではいるが、直接は触れていない。1800字という制限であったので、問題の根幹だけに絞って書いた。記事はネット紹介。まだ掲載紙が手元に届いていない。

②日本消費者協会第11回「葬儀に関するアンケート調査」(2017年1月)
仏教タイムス2月17日号には
2017/1/19
「日本消費者協会・葬祭アンケート 葬儀費用、やや増加 相談は寺院から業者 仏式葬儀 首都圏で減少気味」
というレポートがあり、これはネットで読める。
中外日報も報じている。2017年2月3日付

「僧侶と葬儀の関係希薄に 日本消費者協会調査」

http://www.chugainippoh.co.jp/rensai/jijitenbyou/20170203-001.html
この日本消費者協会調査は入手したので、後日きちんと分析し、書く。
問題も多いこの調査、読み方も含めて提示したいと思う。
何回かに分けて書くことになるだろう。


③橳島次郎『これからの死に方 (平凡社新書)』

http://booklog.jp/item/1/4582858082
を読んだ。
なかなか切れ味のいい本だ。
多くの人に読んでほしい本。
中には?の部分もあるので、これについては問題点も含めていずれ書評したい。


 

 

 

 

2017年2月17日 (金)

親友の葬式―個から見た死と葬送(19)

親友の葬式

彼の葬式が行われる葬儀会館は駅からわかりやすい立地にあった。
冬から春に移行する時期。
コートはなくとも歩いて少し汗を感じるくらいだった。

式場に入る。
遺族席に行って挨拶する。


死者の配偶者が私が来たことに驚き、腰を上げる。
そして私が亡くなった彼の小学校以来の親友であることを周囲に教える。


「わざわざ、申し訳ありません…」


「いや、彼との約束だから。むしろもっと早く来るべきだったのですが」


「ちょっと顔を見てやってください。彼もSさんには会いたいでしょうから」


死後数日経っていたので、顔色は濃く沈み、筋張っていたが、面差しは穏やかだった。


「最後はずいぶん苦しんだのですが、亡くなると、すっと穏やかになって」


「奥さんが献身的に世話されましたからね。対面できてよかった。ありがとうございました」


そのうち式場は人が埋まり始めていた。
彼は高校教員を長くしていたから教え子や同僚とおぼしき人が
30代から80代まで来ていた。

あまり長く彼を独占しておくわけにはいかない。
彼のすっかり冷たくなった頭髪の生え際を撫で、別れを告げた。


彼とボランティア仲間だったという僧侶が導師となり式は進行した。
読経の声にも涙が被さっているように聞こえた。


教え子たちの弔辞は、彼のユーモラスな一面も紹介して座が和んだ。

皆彼を愛していたのだ、と強く思った。

彼を少し嫉妬している自分がいた。
私の葬式には彼は来てくれない。

2017年2月16日 (木)

布施の基本的理解―戒名、布施問題の多角的アプローチ⑤

戒名、布施問題について間が空いた。
前回は「布施問題の現況」について書いた。
http://romagray.cocolog-nifty.com/himonya/2017/01/post-68ab.html#_ga=1.177174245.173638439.1487207866

今回は「布施」について基本に立ち返るところから書いてみる。

手元にある『岩波仏教辞典』(膨大な辞典類は事務所閉鎖に伴い譲渡したが、手元に残した数少ない辞典の一つ)には以下のようにある。

出家修行者、仏教教団、貧窮者などに財物その他を施し与えること。

とある。
「貧窮者などに」という言葉が入っているが、僧や寺院への財政的施しという面が強いことがうかがえる。
辞典でも、布施については「財施(ざいせ)」以外に、僧側からの「法施(ほっせ)」、そして「無畏施(むいせ)」について触れている。
今日専ら用いられている「僧や寺院への財政的施し」ということだけに布施は限定されないことを説明している。

これを私なりに再整理すると次のようになる。


「布施」
は、仏教では、布施は菩薩(悟りを求めて修行する人)が行うべきつの実践徳目の1つとされている。

施す人も、施される人も、施す物品も本来的に空であり、執着心を離れてなされるべきものとされている。

 


布施はさまざまに分類されるが、一般的には次の3つに分けられる。

 


財施(ざいせ)

 

出家修行者、仏教教団、貧窮者などに財物、衣食などの物品を与えること。
仏教の教えへの感謝を表し、施すこと。

 


法施(ほっせ)

 

正しい仏法の教えを説き、精神的な施しを行うこと。僧侶の務めとされている。

 


無畏施(むいせ)

 

「施無畏(せむい)」とも言い、不安やおそれを抱いている人に対し安心の施しをすること。
困った人に対し親切を施すこと、など。



無畏施
は、近年特に注目されている。
といっても「無畏施」という言葉で語られることはあまりない。

無畏施は、対象に檀信徒(そもそも戦国末期以降、特に江戸中期以降確立した、寺をさまざまな形で支える人。戦前は家制度を背景として「檀家(だんか)」と言ったが、戦後は家制度でなくなったこと―慣習的には残っているが―、信教の自由を背景に「檀信徒(だんしんと)」と正式には言われる。「檀徒(だんと)」と言うこともある)や信者も含むが、それだけではない。
寺の壁を越え、地域社会、社会の精神的、経済的、その他に困難にある人へさまざまな支援をすることを言う。
葬式、法事といった範囲を超えた僧侶、寺の社会的活動(だけではないが)は「無畏施」に相当するであろう。
その意味では「布施」を論ずる際に、もっと注目されていいいことであるように思う。

近くでは、
阪神・淡路大震災、東日本大震災、長崎地震等の災害時に若い僧侶を中心にさまざまな支援が積極的に行われた。
また「臨床宗教師」等の終末期患者等への支援(「日本的チャプレン」とも言われるように、北米のキリスト教のチャプレン活動に刺激され、日本にも日本人の宗教に合った宗教者の病院や施設等での活動が必要、と開始された。宗教間協力として行われている。中には仏教者に特定した活動も)もある。
http://www.sal.tohoku.ac.jp/p-religion/diarypro/diary.cgi?field=8
アジアの子どもの支援活動をするシャンティ等の活動もある。
http://sva.or.jp/about/

これらは「無畏施」に相当する「布施」である。
もっとも僧や寺が行う活動のみが「無畏施」ではなく、仏教徒が行うこうした活動がすべて「無畏施」に相当する。

この解釈には一部の仏教者から異論があるかもしれない。

「無畏施」を
「衆生を危険から救い、安全な状態にすること」(『岩波仏教辞典』)
をそのまま理解すれば、これは人々に仏法を説くことによって施すもの、という解釈も充分にあるからである。
しかし、説く内容がなければ施しにはならない。

「布施」について『岩波仏教辞典』は後段で以下のように書く。

転じて、僧侶に対して施し与えられる金品をいう。

現実的解釈と言えよう。

だが布施が成り立つのは「出す者」と「受け取る者」の間に関係が必要である。
関係があって成り立つのが布施である。
しかし、「出す者」が何かを得ることを目的とするのは布施ではない。

施す人も、施される人も、施す物品も本来的に空であり、執着心を離れてなされるべきものとされている。

のが布施の本質であるからだ。

だから、布施には定額はない。あったらおかしいのだ。それはもはや布施ではない。

しかし、「布施」も歴史的文脈を離れては語れない。
建前だけでは今日の布施問題は解決しない。

(以下、続く)

※後ろを長々と書いたのだが、途中保存せず長々と書いたため、保存できず後半のデータが紛失(泣)
今回は中途半端だが、ここまで。

2017年2月14日 (火)

子どもの貧困

子どもの貧困は日本の未来を決する問題だけではなく、子ども一人ひとりの人権に関する問題だと思う。

3keysによれば
http://3keys.jp/state/

OECDによると2005年の日本の子どもの貧困率は14.3%となっており、約6人に1人が貧困状態と言われています(2009年の厚生労働省調査によるとは15.7%)。
子どもの貧困とは、等価可処分所得の中央値の50%以下の所得で暮らす相対的貧困の17歳以下の子どもの存在及び生活状況を言い、一般的な水準の半分にも満たない水準で暮らしている子どもたちがどれだけいるのかということを指しています。

つまり社会がますます豊かになり、一般的な水準が上がっていくのに対して、その水準から落ちこぼれてしまっている子どもたちが、実に6人に1人の割合がいるということになります。
このような日本における貧困率は下図のようにOECD平均値を超えており、世界水準でみたら高い水準であることがわかります。

さらに母子世帯においては、66%が貧困となっており、地域のつながりの希薄化や離婚・核家族化等による支え合いの減少が貧困に強く結びついていることや、ひとり親家庭等に対しての社会保障が十分に追いついていない現状も窺えます。

そして

子どもたちは生まれた環境の経済的状況や、余裕等によってこれからの社会を生き抜いていく上で必要とされているあらゆる力が身につけられなくなってしまっているのが現状です。

さらにそのような力が身につかないことによって自分自身を責めたり、自信や意欲をもなくしていく、意欲や希望の格差にもつながりかねません。

日本では児童憲章によってすべての子どもたちに以下の権利があると定められていますが、実態としては環境によってそれが十分に保障されていないのです。

と指摘する。

親の責任に帰すこともできない。さらには次世代にも問題は引き継がれるリスクが高い。

これらの問題は何世代かにわたって引き継がれてきた根深い問題であり、それに対して社会に十分がサポートがないという社会の在り方の問題として考えていかなければいけません。親が生活保護を受給していた場合、その子どもが母親になった場合に生活保護を受ける確率は一般の約10倍近く、貧困率も3倍程度になります。その他でも親の離婚歴や、親からのDV歴等が、貧困状況に影響している


貧困の連鎖は深刻な問題である。

朝日新聞特集「子どもと貧困」では次のように報じている。
http://digital.asahi.com/articles/ASJBD638ZJBDPTIL022.html

困窮世帯の高校中退率が高いと貧困が連鎖しやすいとして、国は「子どもの貧困対策大綱」などで中退防止を掲げる。

 文部科学省厚生労働省によると、2014年度の高校中退者数は5万3391人で中退率は1・5%。生活保護世帯の中退者数は2323人で中退率4・5%。全世帯平均の3倍だ。

 20代への国の調査結果(12年)を労働政策研究・研修機構が分析したところ、失業率は高卒6・1%に対し高校中退者は14・6%。正社員の割合は高卒44・3%に対し、中退者は21・6%だった。
困窮世帯の高校中退率が高いと貧困が連鎖しやすいとして、国は「子どもの貧困対策大綱」などで中退防止を掲げる。

 文部科学省厚生労働省によると、2014年度の高校中退者数は5万3391人で中退率は1・5%。生活保護世帯の中退者数は2323人で中退率4・5%。全世帯平均の3倍だ。

 20代への国の調査結果(12年)を労働政策研究・研修機構が分析したところ、失業率は高卒6・1%に対し高校中退者は14・6%。正社員の割合は高卒44・3%に対し、中退者は21・6%だった。

記事では、慶応大の中室牧子准教授の話を紹介している。

高校中退で十分な技術や知識が身につかなければ、リーマン・ショックのような予期せぬ事態でリストラなどの困難に陥りやすい。高卒や大卒者との生涯収入の差も出てくる。家庭を持っても、生活が不安定で子どもの教育にお金をかけられず貧困の連鎖が起きうる。問題を放置することの社会的コストは大きい。

NHKスペシャル2月12日放映「見えない貧困~未来を奪われる子どもたち~」
http://www6.nhk.or.jp/special/detail/index.html?aid=20170212
はかつて「無縁社会」に取り組んだスタッフたちの継続的取り組みによる労作であった。

6人に1人の子どもが相対的貧困状態に置かれている日本。そ
の対策は喫緊の課題とされながら有効な手立てを打てていない。
そうした中、東京、大阪などの自治体や国が初めて大規模調査を実施。
世帯収入だけでは見えない貧困の実態を可視化し、対策につなげようとしている。
調査から貧困を見えにくくしていた要因も浮かび上がりつつある。
1つ目は、ファストファッションや格安スマホなど物質的な豊かさによって粉飾されること。
2つ目は高校生のアルバイトなど子ども達が家計の支え手になっていること。
3つ目は、本人が貧困を隠すために、教師や周囲の大人が気づきにくいことだ。
こうした状況を放置すれば、将来の社会的損失は40兆円に上るという試算もある。
進学率の低迷、生活保護や社会保障費の増加など、社会全体のリスクとして捉えるべきと専門家も指摘している。
相対的貧困に直面する子どもたちの実態ルポとデータ解析で可視化し、専門家の提言も交え、「見えない貧困」を克服する道筋を明らかにしていく。


「将来の社会的損失は40兆円」という数字にも驚かされるが、そうした規模で子どもの人権が侵害され、侵害されるリスクを抱えていることには真剣に向き合う必要があると思う。

2017年2月13日 (月)

超高齢者には「終活」の準備は無理だ では?

『月刊エルダリープレス シニアライフ版』2017年3月号に

「‘ヘルプ信号‘早急に 周囲の支援受け生活継続」という記事が掲載された。
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この原稿は「終活」といっても実際に準備しているのはわずか、という状況を踏まえてのものである。


以下、元原稿

困ったら早くヘルプ信号を出す。子や行政に甘えていい

――「終活」がブームになったのはいつからですか?

「終活」という言葉は、2009年「週刊朝日」による造語です。2012年にユーキャン新語・流行語のトップテンに選ばれ、あっという間に市民権を得ました。
――どうして火がついたのでしょうか?

 かつては「人生60年」と言われて生活設計もそれが前提になっていた。ところが今は男性が80年、女性が90年と超高齢社会になり、社会にひずみが出てきました。「長寿」そのものはいいことです。しかし、それを支える基盤が社会にも家族にもなくなりました。長くなった20~30年の生活設計ができない、という問題に直面することになりました。
――その一つは経済不安?

 今の高齢者で最も多いのは夫婦2人世帯。戦後は核家族ですから子どもが育って独立していくと夫婦だけの世帯になる。今の高齢者は優しいですから、できるだけ子どもに迷惑をかけないで、夫婦だけでやっていこうとする。例えば夫が70歳で死亡する。残された妻は自分が残りどれだけ生きるかわからない。10年なのか、20年なのか、30年なのかわからない。どれだけのお金があったら充分かめどが立たない。かつては高齢者ほど資産があって裕福でしたが、格差が広がり、今の80代より下はむしろ資産をもたない貧しい高齢者が多くなっています。「長寿」といっても80代以降は急激に認知症が増えるし、大病して身体の自由が失われる危険は高まる。「要介護」になるリスクが高まります。「高齢者の単独世帯も約25%。「おひとりさまの死」も他人事ではない。

――「老老介護」も増えていますね。

夫婦ともに75歳を超えて、配偶者が要介護になると、残った者も高齢ですから体力的に大変です。共倒れの危険もある。今は「認認介護」という言葉も出てきました。夫婦共に認知症。こうなると生活が成り立たなくなります。

――死後の不安もあります。

 配偶者の死ということは精神的にも大きな問題ですから、残った人が葬式の手配やら、死後のさまざまな事務処理など自分だけでは充分にやれるわけがありません。

 私は、自力での生活が困難になったら、周囲に「ヘルプ信号」をできるだけ早く出すように、と言っています。子どもや行政に遠慮せず出す。自分たちだけでやろうとするな、と言っています。周囲も、より注意深く配慮する必要があります。

 




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«覚せい剤についての気になる記事と情報 2017.02.10

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