2017年5月19日 (金)

僕はあなたの息子でした―個から見た死と葬送(27)

これを書いたのは2年半ほど前のことである。
今も父の死は鮮明である。
遺骨の一部は今も私の引き出しに入れてある。


父は晩年、よく「危篤だ」と自分で電話をかけてきた。

兄には別な日に「危篤」になったようだ。
要は「顔を見せろ」ということだ。

行くと息子の顔をまじまじとみつめ、
「僕が死んだらどうするか言ってみろ」
と言うのだ。

自分の意思が息子に伝わっているか、確認をするのだ。

危篤になった時のことから始まり、葬式や納骨、そして自分の書斎の本の行く末まで、全部を、私が父からそれまで何度も聞かされたとおりに言うと、
「それで頼む」
と言った。

知り合いから電話があると、
「死んでから葬式に来てもらうより、今の生きているうちに会いに来てくれ」
と見舞いを催促する。

父はあらたまった席では「私」と言ったが、少し気楽な関係では自分のことを終生「僕」と言っていた。

その父が死んでから14年。
十三回忌は2年前にしなければいけなかった計算だ。
生きていれば百歳を超えている。

死後5年目あたりから、父のことは「懐かしく」感じるようになったが、いまだに父の思い出は明徴である。

父の葬儀でとり乱しながら、私は必死に父に語りかけていたものだった。

「私は、僕は、あなたの息子でした」
と。

その言葉は、14年後の今も、私の中では少しも色あせていない。

2017年5月14日 (日)

バブル文化についてつらつら―雑感②

今ウケるバブル文化

 

今朝20170514

の朝日から気になった言葉を抜いてみた続き。
(ディジタルから引用しているので、本紙とは一部異なる)

「バブル景気」は80年代後半から91年まで続く。911月に崩壊するのだが、気分としては91年いっぱい引きずり、すぐまた戻るだろうと思っていたが、95年頃から不況を実感し、宝石が売れなくなり、葬送の傾向も個人化に傾斜していく。
個人的には8691年というのは、出版編集という編集者の仕事から苦手な管理職的な仕事の負担が増え、嫌気がさし、会社を辞め、ジャーナリストとして独立した時期に照応する。極めて屈折の振幅が大きい時期であった。何せ「異常」な時期であった。

 

日本がバブル景気に沸いた1980年代後半から91年ごろ、華やかな衣装で自由を謳歌(おうか)する女性に象徴される「バブル文化」が栄えた。最近、当時を再現するアイドルが現れるなど復活の兆しがある。何が魅力なのか。あの時代の功罪とは。(赤田康和)

この記事でバブル象徴とも言うべきディスコ・ジュリアナ東京が、バブル崩壊直後の91年に誕生したことを知る。
もっとも私はディスコとは無縁な生活であったが、バブルは崩壊したが気分は継続していて、崩壊が社会的認識になるのは95年くらいから、というのがわかる。
ウィキペディアには「ジュリアナ東京(ジュリアナとうきょう)は、1991平成3年)515から1994(平成6年)831までウォーターフロントと呼ばれた東京都港区芝浦にジュリアナ東京ブームを築いた伝説的なディスコである」と説明されている。94年に閉鎖というのが象徴的である。

 

大多さんは91年の「東京ラブストーリー」もプロデュース。恋人に「カンチ、セックスしよっ!」と呼びかける赤名リカ(鈴木保奈美)に世の男性はほれ込み、女性は共感した。「リカはいびつで不器用で孤独。でも前向きに生きていく。だから視聴者も感情移入したのでは」

「大多さん」とはフジテレビの常務。当寺敏腕プロデューサーとして活躍。

 

(漫画家の)柴門ふみさんは「ずっとあこがれだった欧米文化を取り込み、作品に結実。コンプレックスも消化できたのがバブル期」と話す。ただ文化が画一的で、東京に偏在していた面もあるという。「ワンレンなど皆が同じファッションだった。ネットもなく地方では見たい映画は来ないし本も限られていた」

 

なるほど、当時はネットがなかったのだ!

 

55年あたりから、多少の浮き沈みはあったが、日本社会は経済成長が続き、その最後を飾ったのがバブル景気であった。
何せ毎年のように流行がつくられ、それを追って大量消費していた。
多くが一方向に向き、例えばミニスカートが流行れば、脚が太かろうと短かろうが流行った。
ネクタイの幅が急に細いのしか出なく、今度はえらい幅の広いのしか売られない、というアパレル業界の陰謀が民衆を翻弄、民衆も流行を楽しんだ。

墓石が立派になり、ブランド石がいいとされたのも70年以降。墓石や葬儀の提灯に家紋が入るのが大流行。

喪服ならぬ礼服が幅を利かし、葬儀は遺族でもない人が黒づくめで会葬するようになる。

根拠がないのに「これがほんとう」という神話が横行。

その底には戦争期、戦争直後の苦労、欧米文化へのあこがれの大爆発があったろう。
悲しい成り上がり者の仇花がバブル文化という奴だ。

人間は悲しいかな、経済成長が上向きなときは、過去のマイナスを消そうとする。
あの戦争がなかったかのようにした。
個々にはその傷口はけっして消え去ったわけではないのに個々の世界に閉じこめ、戦争責任も曖昧にされた。

 

経済成長を美化する動きがあるが、あの世界にはさまざまな問題を内包していたし、ある意味では人間を卑しくさせた。

 

「戒名料」問題は寺の問題と非難されるが、高位とされる院号を競ってほしがったあさましい民心があって生まれた現象でもある。

95
年頃よりその反発が世を覆った。

葬送の世界にいる者は葬送だけが変わったと思っているかもしれないが、そんなことはない。
あれだけ戦後復興のシンボルであったスーパーマーケットだって今苦しんでいる。

「個人化」という現象は、最初はバラバラであったが、そこにいろいろな顔があるということがこの20年でようやく見え始めたのではないか。

バブル景気の反動なのか、価格低下⇒企業のブラック化は葬送業界にも及んでいる。
不当な安売りは葬祭従事者の労働条件を悪化させている。それがひいては葬祭サービスの質の低下につながっている。

(僧侶の方のSNSの投稿を見ると、直葬でぞんざいな扱いをする葬祭業者のことが書かれていることは心配)

ここまでくると葬儀のいい悪いはもはや外形では判断できない。
個々を見るしかない。

 

しかし期待できるのは、現状に対して悩んで、迷って、考えこんでいる僧侶、葬祭ディレクターがいるということだ。

 

 

共謀罪から「聖俗」二元論までつらつらと―雑感①

今朝(20170514)の朝日から気になった言葉を抜いてみた。(ディジタルから引用しているので、本紙とは一部異なる)





共謀罪


共謀罪に関するカメラマン宮嶋茂樹の発言


むしろ共謀罪は、市民が犯罪者を拒む理由になるんじゃないか。「あなたとは会うだけで共謀罪に問われそうだから」と。もちろんテロリストや暴力団などの組織的犯罪集団と関係があるような人は一般市民とは言えない。

 若い頃、大物右翼の赤尾敏氏(故人)を撮影した写真展を開いた。最初に会場に来たお客さんが「よう、宮嶋君。いい写真だね」と言う。公安刑事だった。身辺を洗われていると感じたが、別に悪いことはしていない。不肖・宮嶋、女の好みとか警察に知られたくない秘密はある。だけど、少しくらい監視されたって枕を高くして眠る方がいい。
(略)

日本人は、テロや他国からの攻撃に対する危機感が薄い。先月、北朝鮮ミサイル発射で一部の地下鉄が運転を見合わせた。「過剰反応だ」という声もあったが、止める判断は正しかったと思う。災害時の避難指示なら「空振り」でも文句が出ないのに、ミサイルやテロだとやり過ぎと言われる。国民に「どうせ起きるわけない」という思い込みがある。聞き手・岩崎生之助)

 

共謀罪は計画段階だと物証に乏しく自白重視の捜査になるのでは?というので、2003年鹿児島県議選をめぐる冤罪事件「志布志事件」で無罪となった元被告の証言。


共謀罪」の国会審議で政府は「一般人は対象外」「裁判所による令状審査が機能しており、恣意(しい)的な運用はできない」などと答弁している。ただ、一般人かどうか、嫌疑の有無などの判断をするのは捜査当局だ。中山さんは「一度決めれば、あらゆる手段を使って、描いた筋書き通りに『犯人』を仕立てる危険がある」と感じる。

志布志事件では、警察からは「自白」を迫られ、否認すると395日間勾留された。取調官は「否認を続ければ(経営する)会社はつぶれる」「認めなければ娘も息子も逮捕する」などと怒鳴った。ともに逮捕された妻が自供したので罪を認めるように、と迫られたこともある。心が折れそうになったが、否認を貫いた。後で妻は自供しておらず、取調官がうそをついていたことを知った。 「警察はシナリオを書いたらあの手この手で認めさせようとする。みな自分に関係ないと思っているのだろうが、自分に降りかかってきてからでは手遅れだ」(編集委員・大久保真紀)


私は共謀罪には反対だ。
そもそも容疑をかけられたら捜査をしないと「一般人」かどうかわからない。
「共謀罪は一般人が対象にならない」という論理は成立しない。
それこそ「安全な一般人」と「安全でないかもしれない危惧のある一般人=非一般人」とに分けられる可能性は高い、と元非一般人としては思う。


「元非一般人」は=「元犯罪者」ではない。もとよりそう見られてもいっこうにかまわないが。


60
70年代に感じたヒリヒリした時代感覚を思い出している。
公安があの当時の感覚で共謀罪を扱うなら、私は明らかに処罰対象になっていただろう。


「不肖・宮嶋」さんの危惧もわかる。
リスクに対する感覚の鈍さは感じている。
だが、だ。
人間=善人でないから共謀罪をもち出すのだろうが、捜査陣=善でもないから安心できないのだ。
どこかを「善」と信じられればいいのだが、人間社会はそんなに都合よくない。



土岐健治『死海写本』を読みながら、


「聖俗」二元論までつらつらと

 

ここ数日、土岐健治『死海写本』(講談社学術文庫)を電子書籍で読んだ。

紀元前
4世紀から紀元後2世紀に至る古代パレスチナの歴史が死海写本を中心に語られるのだが、そこに描かれる善と悪の軋轢・対立が歴史に翻弄される様は、「善」がいかに相対的なものであるかを教えてくれる。

 

仏教では真の意味での文献学が未成熟なため、初期仏教の世界が剖出されていないから、現代の仏教者は「平和仏教」と安穏として語る。

 

だが釈迦は紀元前500年頃であり、その死後100200年で激しい部派対立が生じた。

宗教といっても人間世界のこと。
「善」は絶対的なものでありえず、「信仰」も純粋足り得ない。
何がいいか、という価値観も相対的で、また歴史に翻弄される。

 

死海写本でエッセネ派に魅了される部分があるだろうが、彼らのいわば「出家」は、深い女性蔑視の上に成り立っていたことは無視できない事実。

今の日本仏教を「堕落」とする意見の一つに妻帯があり、それでは出家ではない、「聖性」が失われたと非難する意見も未だにある。
まさに「いまだに」である。時代遅れもいいとこだ。

江戸時代までは公式に僧侶妻帯が公認されていなかったが、実態は「聖」とは一部を除いてほど遠かったのも歴史的事実。

 

キリスト教のカトリックの「聖職者」は妻帯が認められていないが、では「高潔」かといえば必ずしもそうではない。
小児や女性へのハラスメント問題はたくさんあり、今深刻な問題になっている。

 

私は「出家しよう」という一途さを否定するものではないが、人間はそれをもって「聖」になるわけではないことを知るべきだろうと思う。

そもそも人間を「聖」と「俗」に分けるのに無理がある。

 

「俗」たる一般人にとって「聖」を尊敬したい気持ちはわかるが、それは幻想だし、「聖」とされる人間にも負担なのだ。

「聖じゃない」と宗教者を批判すれば、「俗」はすかっとするだろうが、そんなの解決ではない。
今は世俗化された社会だから世の中悪いのは坊さんのせい、なんて言えない。

凄まじい修行を積んで、独身を守る僧侶が宗教者として讃嘆され、名声を得るが、話すと人間的深みがまるでない、という例は昔から少なくない。

 

「聖俗」は両者の幻想と無理の上に成り立っているものだから、現実には信じがたい権威主義を生み出したりする。

 

 日本仏教で「聖」と言うと「ひじり」と読み、戦国時代を中心に民衆の中に入り、葬祭仏教の基礎をつくった下層僧侶、非公認僧侶たち、既成教団の枠外の民間僧のことを言う。

日本仏教において親鸞、道元等の仏教思想の深化とは別に、仏教の日本社会への浸透には大きな働きをなした。
社会現実、世俗への対応を担った。


しかし「聖(ひじり)」個々が「聖(せい)性」をもっていたかといえばそうではない。
字が同じことから混同されがちだが「ひじり(聖)=聖性をもった人」ではない。


また、彼らの活動は徳川幕府の本末制度の中で社会制度に絡めとられてきた。
(その後、パブリックな存在として地域社会の中に位置づいた面は評価できるのだが)

 

話は脇道に逸れたが、「善」もすこぶる相対的なものだ、少し突っ込んで見てみるとかなりあやふやな面を抱えていることがわかる。
そうしたものであることへの自戒はもっていていい。

 



2017年5月 5日 (金)

生死の境界―個から見た死と葬送(26)

そこには痩せこけて、口を開け、固まるように寝ていた人がいた。

思わず引き返し、ドアの横にある名前を確認した。


間違いなかった。
そこに姉の名が書かれており、ベッドにも姉の名が書かれていた。


声をかけても反応しない。


1週間前に、間違って携帯を押し、姉につながった。
すでに5度目の入院をしていた姉だった。
力は弱かったものの受け答えはしっかりしていた。


先に姉を見舞った兄からの電話で、著しく衰弱し変貌していると聞かされてはいた。
だが、ここまで酷い変わりようとは思わなかった。


かろうじて呼吸する様が喉で確認できるが、まるで死後硬直の様に近い。


死ぬということは大変なことだ。


死の世界と生の世界とを行ったり来たりしているようだ。


朝から傍にいても、姉は何の反応も示さない。
夕方、諦めて帰ろうとして声をかけた。
目が開いた。
手が動き、声を発するが、「ア」とか「ン」とか唸るよう…
言葉にならない。
姉の目は確かに私の姿を追っているのだが。


しばらくすると、目は固く閉じられた。
姉は深い昏睡に再び入った。


これが生きている姉に会う最後の時間だろう、と思った。
ベッドの傍に立ったまま、骨と皮だけになった手、脚をさすり続けた。

2日後、姉は息をすることを止めた。

 

2017年4月26日 (水)

遠くなる母とその死―個から見た死と葬送(25)

携帯電話が鳴った。
2215分。

「高倉和夫さんですね。林病院の看護師の及川と申します。お母様の芳子さんが危篤になられましたのでご連絡します」


すぐに病院に車を走らせた。


ひどく落ち着いている自分がいた。


母は4人部屋から個室に動かされていた。

「高倉さんですね。こちらへどうぞ」


病室では若い医師がモニターを見ていた。
というより私が来るのを待っていたかのようだ。
モニターの線はもうなだらかであった。


2255分、ご臨終です」


と医師は言い、立って私に頭を下げた。


母の手を握ってみたが、ダラーンとしていた。
もはや生体反応はない。


「よろしいですか?」


と、看護師が言い、頷くと点滴器具などを片づけ始めた。
作業は事務的に淡々と進んだ。


母は地下の霊安室に移された。

 

顔を寄せると臭いがする。
忙しい看護師が寝たきりで生じた褥瘡の手当てにまで手が回らなかったのだろう。

薄く化粧はしてくれた。
だが、身体の手当てまでは充分にいきとどいていない。

しかし、そのことで病院を責める気にはならなかった。
家ではとても世話ができなかったのだから、これを含めて自分の責任だと思った。

看護師が
「お決まりでなければ葬儀社を紹介しましょうか」
と、言ってくれたので頼んだ。


母が入院し、認知症になってから4年と3カ月が経っていた。


母はどんどん表情が
変化していった。
母親なのだが、母親から遠くなっていく。

寂しさ、仕方のなさ…自分の気持ちを何とも整理しかねない。
そのまま日が進み、母はさらにどんどん遠のいていった。

ついには息子の顔も認識しなくなった。

それには自分の気持ちが追いつかないでいた。

幼少期からずーっと愚鈍な自分をぐいぐいと引っ張ってくれた母だった。
母らしさが消えっていった。

「終わった」
という思いと、入院前の溌剌とした母の姿が頭の中で交錯して、ひたすら混乱するばかりだった。

母の死後の1週間のことはほぼ記憶にない。

葬儀会館へ移動。
母の遺体は安置され、納棺、通夜、葬儀、出棺、火葬、骨上げ…と進んだということはうっすら記憶している。
だが、そこで自分がどう感じたか、葬儀社の人、坊さん、会葬者の方、親戚にどう対応したのだろうか。
ぼんやりとした記憶でしかない。

今、母は自宅に戻り、小さな骨壺に収められ、元気だったまさに「母」の笑顔の写真の前に置かれている。


«「葬式をするって!」―個から見た死と葬送(24)

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