2009年6月23日 (火)

蒸す

梅雨ですから「蒸す」のはあたりまえですが、このジトジト感は不快です。
このところ頭には冷却シートを貼り続けです。
これは癖になり、貼らないと落ち着かない、困ったものです。
コンビニで見つけて貼り、薬局に行ったら安いパックがありました。でも清涼感、持続力はコンビニの勝ちです。

このところ1日根つめて仕事をすると2~3日身体が使いものになりません。こういうところに「老い」を感じます。
やっていると「お!この調子だと朝までやれる」と感じるのですが、また、眠眠打破を数本飲みながらですが、もつのですが、後がいけません。

葬祭の現場では感性豊かな若者が増えるというプラスの現象と、まったく相反する乱暴な葬儀営業が目につきます。
葬儀を単なるビジネスの一つとして見て、それを当然とする人たちです。
彼らは葬儀業界を「遅れている」というのですが、どうも批判の観点を取り違えているようなのです。
「儲かる」だけでしたら他にもいろいろな業種があるのですから、そちらでおやりください、と言いたくなるのです。
彼らから言わせると、葬儀業界は遅れているので、簡単に勝てるというのです。
確かに業界はいい企業が伸びるわけではなく、なんでこんな乱暴な企業が伸びるの?という不思議に満ちています。

死に関わり、死者に係わり、死別の悲嘆であるグリーフを抱えた遺族に係わるという本質を理解しようとしていない。

斎場(会館)があり、舞台一杯に飾る生花祭壇があり、リムジンの洋型霊柩車があればいいと思っているのです。人は葬儀社、互助会から取ればいい、自分にノウハウなくてもやれる、と思っているのです。
そういう奴ほど安っぽい「感動」を押し付けているのです。

現金を振り回し、口先ではもっともらしいことを言い、跋扈するんですからいやになります。
消費者もそんな輩に簡単に騙されちまうのです。

その中でまっとうな人がいるということに感激するし、共感を感じます。(考えたら、お金持ちでない人に多い!)

葬儀業界について取材したいという依頼があり、企画書に「ディープな業界事情を」とあったものですから、
「取材に対してはできるだけオープンに応じることにしているが、偏見がある場合にはお断りする」
と断ってしまいました。

「おくりびと」効果にはいいものだけがあるわけではありません。

「死亡者数も増えるし、これからの葬儀業は儲かる。零細企業も多いし」と、他業種の大手企業が目をつけ始めています。
その連中は葬儀の何たるかも理解していないのだから困ります。

物販業ではないのに、見積書にはモノの値段だけが並ぶ不思議。
消費者が賢くなったとはいえ、「サービス」には金を払おうとしないものなのだから、こうしたおかしな価格構成がまかりとおっているのです。
業者だけが悪いのではないのです。
しかし、業に携わる人が変えていかないと「不透明」という謗(そし)りは払拭できないでしょう。
「不透明」なのではなく、表示方法の拙(まず)さなのに。

きょうは晴れて、暑いのですが、ジワっとした不快感があります。
感性が鋭く、しかも勉強熱心な若者が多く集まるようにはなっています。それはとてもうれしいことです。
しかし、商売はうまいのでしょうが、きちんとした哲学をもつ経営者が多くないように思います。
これからますますそうなるような気がして憂鬱なのです。



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2009年6月11日 (木)

ちょっと一段落

いま原稿をメールで送って一段落です。
このところいくつもの原稿が重なり、おまけに地方に出かける機会も多く、アップアップで、ついブログの更新を怠ってきました。

94年に出した本の文庫版ということで、修正を開始したら、今の時点とはあまりに違い、修正というよりもほとんどが新規に書いたり、もう無茶苦茶です。
葬儀の変化が95年前後ですから、その変わり目に書いたもので、自分なりに愛着がある本ですが、15年はさすが変化が激しく、書き直しを余儀なくされました。

ずいぶん変わったものだ、と思います。
いい変化ももちろんあるのですが、これはおかしいぞ、というのもけっこうあります。

「葬儀・告別式」がなくなって「通夜・告別式」と言ったほうが適当になり、「直葬(ちょくそう)」が増えたり、関西では「香典辞退」が増えたり、「自宅葬」が風前の灯であるだけではなく、遺体の自宅への搬送・安置が少なくなったり、葬祭文化を無視した儲けだけを考えた新規参入組が増えたり、etc.

最近、腹を立ててるのは、首都圏での出棺前の初七日
犯人は葬儀社か遺族か僧侶か、と言っているうちに一部の葬儀社は標準コースにしてしまっている!
何たる見識のなさか。
こんなのはやらないほうがまし、と僧侶は一致して異議を唱えるべきだと思う。
「やるだけまし」では断じてない。

「家族葬」の実態は「安い、簡単な葬儀」の意味になっているのが7割くらいか?

「一応お葬式はしましたよ」といういい訳になっている。

何にもしないでよいから、家族だけで遺体を囲んで、ずっと2日間でも過ごしてみたら。
きっと、そのほうが意味があるに違いない。
外から鍵かけて閉じ込める。

手製の会葬礼状以外は認めない、とか。

死者と係らずに済むようになっている。

斎場(葬儀会館)のロビーでコーヒーの無料サービス?
葬儀は少しくらい不自由な方がいい。快適だと何のためにここにいるかも考えなくさせちまう。

年寄りは子ども世代に「迷惑をかけたくない」なんて考える必要ない。
今の孫ども祖父母の葬儀で香典を出すどころか、交通費に日当まで祖父母の葬儀用貯金からもらっている。


一段落、なんて書くと怒る人もいるはずだ。
「まだ、こっちには来ていない!」と。

6月、7月はそうでなくとも忙しいのに、自分で自分の首を絞めているみたいだ。
今のところ、ここ少しはウツも大人しくしてくれているから楽だ。

そういうわけで生きています。

現状報告まで。

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2009年5月14日 (木)

くじら幕

「くじら幕」の説明をしようというのではない。
これは本のタイトルである。
正式名称は

木塚たかし著『くじら幕―葬儀屋さんが見たもの』(近代文芸社刊)
http://books.livedoor.com/item/3245503
http://www.honya-town.co.jp/hst/HTdispatch?nips_cd=9984404781
http://store.shopping.yahoo.co.jp/7andy/32232654.html

葬儀に従事している人の本はある。
だが、結構あやうい本が多いのも事実だ。
この出版社も危うい扱いをしているのが、本に巻かれた帯に
「現役最前線の葬儀屋が語る、その内幕」
とあることでわかる。

だが、この本はいい本である。

率直に葬儀の現場にいる人の、まっとうな視線で描かれている。

小見出しのタイトルには編集者の小ざかしさが出ているが、著者の眼はまっとうである。
終章の「父の死。そして喪主として」
には家族の死と家族がその死に出会うということがどういうことか、が素直に描かれている。
私もこれを読みながら「父の死」の情景がまざまざと浮かんできた。

きょうはこの本を紹介する。

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2009年5月 9日 (土)

歳をとったら怒りやすくなった

きょうは久しぶりに晴れた。
昨日までの降っているのか止んでいるのかはっきりせい!といったぐずぐずぶりが一掃された。

きょうは健康診断。
昨夜は夜9時までに食事を済ませよとのことで、8時半に帰宅。
眠剤飲んで早く寝たら、朝5時半に起きた。
6時半からのテレビ体操をして、といっても9時から、それもすぐ近くの2年前に入院した病院だから、飯もコーヒーも飲めないとすることがない。7時から30~40分また寝た。

検診の結果はまだ出ないが、メタボと肝臓の値で飲酒を控えるように書かれるだろう。
ということで、医師の診断では自分から言っておいた。

このところ、すぐ腹を立てているような気がする。
客観的には怒るまでのないことかもしれないが、なぜか「許せん!」と偉そうな(自己嫌悪!)腹立ちようなのだ。
きっと老化のせいだろう、と迷惑被害者には思ってもらうしかない。
おそらく老化は事実だろう。

最近腹立たしいのは「マーケティング」
何かこれだけで全てを切り取って、状況を謙虚に理解しようとしないやから。
そいつらが謙虚に学ぼうという姿勢があればいいが、「教えてやろう」みたいな面をされりゃ、腹が立つ。

ほかの人がブログで批判していたが、
http://funeralservice.livedoor.biz/archives/404043.html

同感なのは
窪田順生『死体の経済学』(小学館新書)という本の酷さ。
素人はこれで何か知ったつもりになるかもしれないが、内容にも信頼性がなく、葬祭業への差別意識と偏見に満ち満ちた、低俗という言葉がぴったりの本だ。
人間が低俗でないと、ここまで酷い本は書けない。卑しいのだ。
けっしてこの本から事実らしいという引用をしないこと。学生さん方は要注意だ。免疫も知識もないから。
こんなくだらない本を1冊出すと、あたかも専門家のような面をして雑誌でコメントしている。
私も小学館から本を出しているが、これは小学館だって品性も出版社としての良識が問われる。こっちも恥ずかしくなる。
出てすぐ読んで、腹を立てて隅っこに放り投げていたのだが、他の人がブログで的確に批判していたものだから、やっぱり酷いものは酷いということを言っておこうと思った。

低劣なものに腹を立てると、こっちまで低俗な文章になってしまうが、己は元々低劣、だが正義面だけはすまいと思っている。

どうもいろいろ仕事が先に進まず、皆さんに迷惑をかけているストレスの吐き出しの感があるが。
読み飛ばしてくだされ。

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2009年5月 3日 (日)

昼の散歩

世間は休みです。
都心の道路は空いています。
東名60キロの渋滞だとか…

昼の散歩
きょうは赤坂御所の後ろを通り、迎賓館のところを四谷へ、そして四谷三丁目で曲がって帰る。
途中ソバを食し、計1時間

迎賓館近くの道路脇に咲いていた花

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これが赤坂御所の裏側
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2009年4月24日 (金)

犯罪、悪、罪って何だ?

先日、親鸞仏教センターの講演会へ行き、改めて人間の負っている罪、悪について考える機会をもった。
人間のあるがままの姿、それは過ちも犯し、感情的にもなり、差別や偏見をもち、目先の利益を求め、怠惰、卑怯、他人を軽視し、一時的な欲求から自由になれず、妬み、謗り、裏切り、その他もろもろけっして倫理的な意味では善ではありえない。

修行や教育によってもその内面を改めることは不可能だと言っていい。
法における罪とは、そうした内面の罪ではなく、社会化された法に規定された罪に過ぎない。
また、法的な意味で罪とされることからも、慎重に避けようとは努めるものの、誰にも逸脱することだってあり得る、ということを知っておくべきなのだ。

マスコミは法的な罪を、あたかもその人間特有の欠陥がもたらしたもののように報道し、法的罪の概念を超えて人間存在そのものの罪のように語るが、総務大臣の職にあるものが、人そのものを口汚く断罪するが、それは醜い。

スマップのKが酒に酔って公園で全裸になって騒いだ、というが、近所の人間がうるさい、迷惑だと感じた、というせいぜいが迷惑をかけたというだけのレベルのことである。
公園で全裸になったといっても見ている人間がいないのだから、それによって不快を感じる他者がいないのだから、それを犯罪とするのは根拠がない。
一般人であれば一晩留置所に入れ、説諭して帰宅させるだけのこと、有名人だからといって違う対応をするのは、法の下での不平等になりはしないか。

薬物中毒の疑いをもったのだろうが、家宅捜索という形を取らなくても、本人が了承すれば可能なことだ。

酔っ払い正体をなくすなどということは、他者には迷惑であるが、酒呑みであれば何度か経験したこと。私は導眠剤を服用するから、最後は無意識状態になり、倒れたり、罵詈雑言を吐くなど日常のことだ。

Kが深酔いして自分を失う、というのは別に異常行動ではなく、酔っ払いにあり得る行動である。だから通常警察は保護し、迷惑行動をそれ以上させないようにする。いちいちを「犯罪」化させるのは適切とは言えないだろう。

「有名人だから自覚が必要」「こんなことをする人だとは思わなかった」「有名人だから何やってもいいわけではない」
―これこそが戯言なのだ。

こんなレベルで犯罪者が作られるというのは明らかに異常である。
また、このことを大喜びで報道するスポーツ紙、ワイドショーの心性のほうが、酒に呑まれたKよりも、よほど人間性が卑しい。

ここまで書きながら、書き始めから論理は少しずつヅレているのはわかるのだが、ついでにヅレついでで言うと、「裁判員制度」はおかしい。

裁判所で裁かれるべき犯罪は「法的な意味での犯罪」である。人間を裁く場ではない。それを明確にしないといけない。
その意味では民間人の感情で裁かれるべきではなく、法的訓練を受けた者が行うべき行為なのだ。
民間人の裁判参加よりも、法律の専門家である判事、検事、弁護士の人事交流が盛んになるほうがいい。

今回のKの件は、テレビで芸人連中がその失敗を大笑いし、Kは安眠や深夜の仕事をしている人に迷惑をかけたと、1軒ずつ訪問し、菓子の包み持参で謝罪してまわれば済むことである。
CMの停止や仕事の自粛など不要である。

人間とその社会の醜悪さというのは、自分も弱く、失敗もする人間だということを棚に上げて、さも自分は立派であるかのようにして裁き、中傷してしまうということである。
醜悪なのはKではなく、Kを好き放題に引き回す警察の有名人への嫉妬と嘲笑しているマスコミ、テレビの前にいて興味津津の人たちだ。

私も品性が卑しいので、アメブロで見て「コリャなんだ?」と興味をもってネット上のニュースを調べたが、おかしいのはどっち?という思いがした。この卑しい私の意見、けっこういい線をいっているように思う。

さて冒頭に帰る。
人間は修行、信心、信仰によって他と差別され特権階級のように選ばれ、罪人であることから救われるのではないだろう。
宗教により人間が一段高みに上ることはあり得ないのだ。価値が上がるわけではない。あるがままでしかない。
少なくとも私はあるがままにこだわるつもりである。
だから宗教者に対して、「宗教者のくせして」というような非難はしない。それは意味がないからだ。
それは「聖職」と言われる「教師」等に対しても言えることで、そもそも人間には「聖職」などというのはないのだ。
役目だけがあるのだ。

教師や上司の不当なパワハラ、セクハラ等の不当行為は現に被害者がいるのだから厳しく追及してしかるべきだ。
いま外に問題が出るようになったが、前は職場内で隠蔽、泣き寝入りされていた風土が確かにあった。
また職業差別、偏見はまだまだ社会に根強くある。この根絶のために粘り強く取り組む必要がある。
社会的偏見をもつ人に社会的に「いい人」と思われる人が多いように感じるのは私の偏見がなすゆえか?



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2009年4月10日 (金)

「おくりびと」効果

「おくりびと」効果にはいろいろあるようだ。
撮影地を訪れる人が増えた。
映画関係者が地元で県民栄誉賞をもらった。
その一つに「葬儀関係の仕事をしている、と普通に言えるようになった」があります。

あの映画では「おくりびと」への評価が高まったと同時に
「やはり死には、これだけ差別意識、嫌悪感があるんだ」と
痛感した人もいました。

いろいろなブログを見て歩くと、肉親の葬儀のことと重ねて見た人が多いような気がします。

葬式というのは当事者にとっては何かと慌しい。
葬式が終わって、柩に花入れ(一般に「お別れの儀」とよび、花を「別れ花」という)をし、出棺、火葬とあっというまに進行してしまった、と感想を言う人もいた。

「葬式」というのは「社会的にやんなくちゃならない約束事」で、遺族の心理とは関係なく進むもの、という諦観のようなものがあったようにも思うのですが、「大切な人と別れ、送り出す」というプロセスだということが、ようやく少し理解されてきたように思います。

私が書いて人気のある記事は「グリーフ(死別の悲嘆)」ではなく、依然として「マナー」に関するものであるのは少し淋しい感じがします。

もちろん5年ほど前から急速に「グリーフ」に関心を寄せる人が増えて、勉強する人も増えています。
「死生学」(「死学」と言え!)の講座をもつ大学もほんとうに増えました。

しかし、「グリーフケア」を「癒し」と考える人が多いのは気に入りません。安直な癒しはグリーフケアと正反対にあると言っても過言ではありません。
「癒してあげる」などという言葉を聞こうには鳥肌が立ちます。ここにはあいかわらず三人称の「かわいそうな人への親切な行為」というイメージが残っているように思えて嫌なのです。
こういう「善意」な人は昔から多いのですが、あー嫌だ!

話はまた逸れましたが、「マナー」が気になる人は葬儀にとまどっているのであろうと思います。
死者や遺族にどう接していいのかわからない。失礼があったら日常よりももっと酷いダメージを与えることになる。
だから、私の書いたものが読まれる、とつながるわけです。
私の書くマナー記事はガンジガラメの習慣の塊のように思える葬儀を解(ほど)いているので、安心して読めるのでしょう。

死をいま現に体験している人と会葬者とでは温度差があります。同じ遺族の中にも温度差があります。
以前に遺族になった人が今遺族になった人に助言できるか、というわけではありません。

夫を亡くした女性に
「私が主人と死別したのは30代で子どもたちも小さくて、どうしたらいいかわからなかった。あなたはお淋しいでしょうが、お子さんも立派になられたのですから、すぐ立ち直れますよ」という類。(これを「悲嘆比べ」という)

「いつまでも泣いていてはダメ。後ろを向いても何も改善されないのだから。前を向いて生きていかなければ。お子さんの未来があなたにかかっているのだから」
(こんなことがあるから私は「ポジティブシンキング」という奴が嫌いなのだ)

街で知人に会って、微笑んで挨拶すると
「よかった。心配していたのよ。お元気になられたのね」
(そんなに簡単に他人の気持ちがわかってたまるか。結局他人には理解してもらえない、という反発を招きかねない)

母親を亡くした子へ
「かわいそうに。まだまだ親の手が必要だったのに。あなたがいい子に育つのがお母さんへの供養になるのだから、がんばってね」
(こういう言葉に肝心の心がなく、同情する自分がかわいいと思っていることを子どもは見抜く。健気を装えばいいのだと)

「自分の死」への関心も高まっています。
中村仁一医師が提唱する「自分の死を考える集い」、いい試みであると思います。中村医師が「穏やかな死」と題してNHKで話されたベタおこし原稿があります。整理されていないだけ説得力がある気がします。
http://hk-kishi.web.infoseek.co.jp/kokoro-196.htm
医療の限界を知れ、ということでしょう。医療で治ることに期待しすぎるな、どっちみち人は皆死ぬ。

学校現場での子どものいじめ等による自死や死につながる非行が報道されるたびに、校長や教育委員会は「いのちの大切さ」を説く。こんな言葉に迫力がない、ということをTBSラジオ22時からの「アクセス」で報道していました。同感。
人間の生も死も、抽象化するのではなく、常に具体的にこの生、この死をはらわたをひっかきまわすようにして考え、感じるのでなければ力をもたない、と思うのです。

「いのちの大切さ」の空虚な合唱は、そこに傷んでいる人をむしろ脅迫するか、まったく響かないか、あるいは世間の無理解を知って期待しないか、ではないか、と思うのです。

学校現場でデス・エデュケーション(「死の準備教育」と訳されるが「死に関する教育」でいいんだが)がほんのわずかばかり行われている段階で、現場の教師の方々はそれぞれ試行錯誤しながらやっておられるのでしょう。でも、生や死を頭で認識するレベルはダメだと気づくべきでしょう。なんだかんだと言われますが、葬儀というのは、そこで名前もいろいろもった存在である人が死に、それでダメージを受けた遺族がいる場です。その「体験する死」から感じるところがなければ死は永遠にわからないでしょう。
私は死にすぐ生を対峙させるのではなく、具体的な死にこだわる、こだわらざるを得ないことを大切にしたいと思うのです。

「死生学」というのは死をカモフラージュして、お化粧したようで嫌いなのです。
死はお化粧しなくとも充分に人間的な出来事です。
忌避できるのは第三者の死だけです。

誰も自分が死ぬこと、家族が死ぬこと、友人が死ぬこと、尊敬する人が死ぬことから逃れられないし、それがいつどんなときかも予測できるものではありません。だからといってそれを達観するのではなく、こだわるのが「死学」であろうと思うのです。
また「グリーフワーク」とはそうした固有の営みであるのだと思います。

最近よく息子に叱られるのですが、それは他人が言っている言葉のコンテキストを理解しないで言葉そのものに反発して怒り出す癖が昔からあったというのです。
今で言えば、それは「癒し」ですね。
くれぐれも私の前で言わないでください。私が暴走しかねませんから。

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2009年4月 2日 (木)

1ヵ月のご無沙汰です

前回が2月27日でしたので、3月は1回も更新せずでした。
心配してくださる方もいましたが、ある関係先の件で悩み、追われ、消耗したことがあり、予定の原稿がどんどん後回しになり、精神的に追い込まれて「原稿書けない」病の穴に落ち込んだり、精神的には最悪状況でした。

でも、悩ませた1件は、いろいろありましたが、4月から責任ある職務から無事離れることができて、逃げ出すことができました。
関係者の方々にはご迷惑をおかけしましたが、私としては心理的に割り切ることができたので、今後は善良な第三者として見守りたいと思います。

確かに、ある方から「感情的」と批判されましたが、中立を心がけたつもりにしても、「想い」があるので、そう受け取られたかもしれません。その批判をいただいたことは名誉とありがたくいただくことにしました。

そうこうしているうちに桜の開花宣言。寒くて満開は遅れているようですが、春は何かと気が明るくなります。

今年は不毛なことには関係しないで着実に原稿を書くことに徹したいと思います。

やはり63歳という年齢は確実に衰えを加速させます。
1日に2件のことをするのが結構難しくなりました。人に会うということはエネルギーを奪い取ります。
ですから原稿を書く日には予定を入れないようにします。
講演を頼まれたら、それに集中することにします。

前回、3月の新刊をご案内しました。
大法輪閣から『Q&Aでわかる 葬儀・お墓で困らない本』です。
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4804612823.html
http://www.7andy.jp/books/detail/-/accd/32213867

やさしく、わかりやすく、正確、中立的に書いたつもりです。
売れないとせっかく出してくれた出版社に悪いので、販売にご協力いただけると、たいへんうれしいです(゚゚)(。。)

そうそう、この前の土曜日、ケイタイの未来を考えている研究者等の前で「死と葬送」について話してきました。
別にケイタイと葬送を結合することを考えているのではなく、ワークショップする上で一見関係なさそうなテーマで発想に刺激を与えようということらしく、普段は会うことのない技術者の方々の前で新鮮な気分で話してきました。
聴いていた方もおもしろかったようです。




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2009年2月27日 (金)

新刊のお知らせ

昼頃、雨がみぞれになり、そして雪になった。
といってもすぐに雨に戻り、雪の影もない。
東京では雪が舞ったのは今冬2度目であろう。
積もる雪はまだない。

24日このブログのアクセス数を見て驚いた。
23、24の連日、いつもとは明らかに違うアクセス数。

その理由は映画「おくりびと」がアカデミー賞を獲得したこと。
それに合わせて青木新門さんの『納棺夫日記』(文春文庫、桂書房)が原作であることが公表されたためであった。
私が9月28日、「『おくりびと』と青木新門さん」と題して書いた記事が検索に引っかかったようだ。
http://romagray.cocolog-nifty.com/himonya/2008/09/index.html

そういえば日経BPのセカンドステージでも第44回に「死後の処置―「おくりびと」の世界」を書いている。
http://www.nikkeibp.co.jp/style/secondstage/manabi/ceremony_081107_4.html

青木さんも急に忙しくなったようだ。
私より10歳上であるから、とりあえず「お体に気をつけてください」と電話で伝えた。
青木新門さん自身が映画「おくりびと」について書いたのは
http://www.sogi.co.jp/sub/sinmon/aoki01.htm
である。


私の方は、バタバタした生活は相変わらず。醜態もあいかわらず。
昨夜は薬を飲んだ後に息子と「差別」について論じあって大声を出す。
ここまではいいのだが、薬が効いた後、台所ですっころんで壁紙を頭で破ったようだ。
「ようだ」というのは私の記憶にはまるで残っていないのだ。
息子はえらい心配していたらしいが、私には痛みもなにもない。

昨日は姫路に行った。といっても日帰り。
その証拠に街で、新幹線のホームでかすかに姫路城が見えたので携帯のカメラで撮ったが、道路の先、あるいはビルとビルの間にあるはずの姫路城がかすんでいる。というより見えないだろう。(下)

きょう新刊が出た。
『Q&Aでわかる 葬儀・お墓で困らない本』(大法輪閣刊、本体1500円)
http://www.daihorin-kaku.com/
200902271548000







名前からわかるように平易に読める本には仕上がったと思う。全て編集に携わった誠実なSさんのおかげ。
本はできたが発売は3月10日。

平易ではあるが、いわゆる固定観念とは無縁の本。
ちょっと読んで薀蓄自慢するもよし。
小社のホームページのトップ下の本の紹介からも注文できる。
http://www.sogi.co.jp/
3月を待って書店で買ってくれるのもうれしい。
このブログの読者からの口コミで拡がってくれたらうれしい。
ネット書店(アマゾン等)ではまだ扱ってはいない。3月10日以降になれば注文できるだろう。

自分の本の紹介はしにくいものだ。1500円以上の価値はあると思うのだが。
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2009年2月22日 (日)

自分の未来は見えなかった

忙しくワサワサして、結果二重予定であることが前の晩に家族に言われて気づき、真っ青。
お会いする予定のお相手に夜遅くに電話して平身低頭して詫びるが、結果大きく迷惑をかけることになった。

呆れられるのはかまわないが、結果関連する方々に少なからずの迷惑をかけたこと。

つくづく自分の愚かさを呪って禁酒日であるにもかかわらず酒を呑み、薬を飲んだ後も呑み続け、その場で沈没、今朝家族に聞いたらとんでもない醜態であったとのこと。

昔は、10代後半から20代前半までは、「40歳」というのははるかな未来で、自分がその歳に生きていることを想像だにできなかった。
まさに「晩年」であった。
それがいつのまにかその歳を迎えたとき、自分が幼く感じて呆然としたものであった。
私は40歳の誕生日、自分の凡人であることに気づき、己の無才を呪ったものである。

その私は先日63歳となった。嬉しいより恥ずかしい感じがする。

そろそろ身仕舞いをと思うが、根っからの整理下手。何にも手をつけていない。

近頃、今の高齢者について考えている。
おおよそ80歳の人が出征したりした最後の人、若く巻き込まれた人もいるから細かくは異なるが。
80歳代の人がまさに青春期を戦時で過ごした人たちである。

80代の人たちが戦時をどう生き、戦後はそのイデオロギーを丸ごと否定されてどういう思いで生きてきたのか。
そして定年後は豊潤な高度経済成長期を生きたことになる。
彼らは「戦後世代」と名づけられた。

70代は戦渦に巻き込まれた少女少年時代。教科書の黒塗りを10代に経験した世代。
70歳前後が60年安保世代である。
大江に倣うなら「遅れてきた青年」たちである。

戦後のベビーブーマー、団塊世代が60歳前後。
60代は戦後の疲弊を幼少時代に経験。戦前世代の意識と戦後意識が激しく葛藤した中を生き、後に高度経済成長の担い手となった。

こんなに簡単に世代を区切ることはできないのだが、死生観が世代意識と深く係わっていることは否定できない。

私たち60代は現在70代の背中を見て生き急ごうとした。

高齢社会と言われる現在のデータ的指標は
http://www.nikkeibp.co.jp/style/secondstage/manabi/ceremony/index.html
の第50-51回に書いた。
書きながら何か「遠くここまできたものだ」という思いがした。

かつては長寿が祝われたが、これからはどうか。
自分の少年時代に未来である今が見えなかったと同様に今自分の未来は全く見えていない。

東京オリンピックの招致運動が行われているが、「自分はそこにもういないだろうから」と無関心な自分がいる。

前回の東京オリンピックの年に私は18歳で上京した。
まだ西新宿にはビル群の気配もなかった。

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