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2008年10月30日 (木)

秋を感じて

最初にご案内
ホームページを更新している。
http://www.sogi.co.jp/
この中に「変わりつつある葬儀の課題」を書いている(「評論」)。
いまの全体像を知っていただくにはいいだろう。少し長いが読んでいただければうれしい。
また、日経BP連載も2週に1回のペースで書いている。
http://www.nikkeibp.co.jp/style/secondstage/manabi/ceremony/index.html

昔の友人が映画の券をもってきた。
かつて赤坂小梅という芸者歌手がいた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E5%9D%82%E5%B0%8F%E6%A2%85
この赤坂小梅について地元福岡県田川市川崎町の人たちがドキュメンタリを制作した。
「小梅姐さん」http://www.koumenehsan.com/100nen/
これの実行委員会の事務局にかつての仲間がいてそれが私にも回ってきた。
11月8日(土)~28日(金)までポレポレ東中野で
自主制作、思ったよりかかったようだ。
実際に足を運んでくれる人を求めている。
私の昔の仲間も10日紙芝居師として登場するとのこと。
私は学生時代、石炭の時代が終わり閉山炭住となった筑豊に休みの度に出かけたことがある。田川にはよく行った。

ぐんと涼しくなった。
山の冠雪、北海道での雪のニュースも耳にする。
秋が深まり、冬が近づいてくる。

日曜日、月曜日と再び岩手県一関市行き。
今度は中学卒業48年目の同窓会。
中途半端な年になったのは、最近死んでいく同級生が増えたため。
今回参加者には3名のがん患者がいた。
人生80年と言われるが、それはあくまで平均の話。
実態として私の同年62~63歳で既に少しずつ歯こぼれするように死んでいっている。

定年で年金生活になっている者、定年後に再就職したが、それも今度の3月までと話す者
欝を患っているのも私だけではない。
孫のいる者もいるがいない者も同じくらいいる。
この歳まで独身の者もいる。
国際結婚した者もいるし、子どもが国際結婚した者もいる。

会には250人中、参加できたのは80名弱。
2次会には40名くらい行っただろうか。
3次会はぴたり14名。

卒業以来48年ぶりで会う者もいる。すっかり変わってわからない者もいる。その一方、しばらく話しているうちに顔の中心からおぼろげに子ども時代の顔が浮かび上がってくる者もいる。そのまま歳を重ねただけの童顔もいる。

幸せそうな顔しているが、倒産、一家離散を経験した者もいるなど、一様ではない暮らしを抱えている。

子ども時代、私たちは一様に貧しかった。だが、それ故の不満はなかった。皆が同じように貧乏だったから不満を感じることがない。
男の子にはチャンバラが人気であった。自分で木を切ることで遊び道具となるからだ。
チャンバラを通じて、どこまでが危険か、そうでないかの境界を勉強した。それは自ずと、文章化されないがルールであった。
走りが得意な者、編み物が得意な者、スケートが巧い者、人を笑わす者、勉強ができる者、喧嘩が強い者、詩作に秀でた者、さまざまな基準があって、それぞれがその分野ではヒーローだった。

日教組が諸悪の根源みたいに言った大臣や知事がいたが、私たちの時代は、岩手県教組(ガンキョウソ)が強い時であった。
いまの人には信じられないだろうが、クラス会、学級会が「児童自治会」と呼ばれ、子どもが自分たちの意思でカリキュラム以外を動かしていた。私はいろいろなことをこの時期に身に着けた。
教師は危険等の問題が出ないかぎり子どもの意思を尊重した。子どもが主役の時代に僕たちは育った。
教師とは親しく、小学時代の担任の家にはよく自転車を連ねて遊びに行ったし、中学ではバスケットボールの練習終了後には職員室に行き、当直の教師と遅くまで話していたりした。

考えてみれば小学入学が敗戦後6年。まさに戦後の貧しさと純粋な戦後民主主義教育のただなかであったわけだ。
この教育環境はいまでは得られるものではない。しかし、その中で育ったことを私は誇りをもっている。

もういっそう秋は深まっているだろうが、一関で撮った秋の風景を紹介しておこう。
街は他と同様に活気を欠いているが、いなかにはまだこうした美しさ、自然の豊かさがある。

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2008年10月24日 (金)

難波は歌舞伎町より猥雑だった

2泊3日で大阪へ行ってきた。
遊びではなく所用である。

泊めていただいたのは普段はビジネスホテル程度が多い私には身分不相応なホテル、前に九州でスイートルームなるものに泊めていただいたがそれ以来の豪華なホテル。
気持ちが落ち着かない。
昼に簡単に腹を満たそうと思ったら、最低が2500円のサンドイッチ。ホテル外に出れば安い店はあるのだが、時間がなく、泣く泣くそのサンドイッチを食した。

2日目、私の出番前に青木新門さんが「いのちのバトンタッチ―『おくりびと』と『納棺夫日記』―」と題して講演。
皆さん熱心に聴いておられた。
私が尊敬するYさんは、映画「おくりびと」を2回観て、そのたびに涙を流したと言っていたが、新門さんの話にも大感激。

Yさんは70代前半で新門さんとは同世代。
世間の冷酷な偏見を身をもって受けた人々である。
この世代の人たちには人間的に尊敬できる人が多い。
子ども時代を戦時におくり、敗戦後に教科書の黒塗りをさせられ、教師すら慣れない民主主義教育を教えられて価値観の変更を強いられ、そして戦後を生きてきた。
特に高度経済成長期は死にまつわることへの偏見が強かった。

2日間所用が終了後、街に出た。出たといっても地元の人に連れられであったから、どこに行ったのかわからない。

ミナミであることはわかったが、途中路上に客引きが溢れ、店のキャッチコピーにも笑えるものが多い。
このけばけばしさ、猥雑さは、新宿歌舞伎町がすでに失ったものである。
大阪は不景気だと聞いていたが、この賑やかさは必死に抗っていることの結果なのだろうか。

もっとも入ったのはその道から少し入ったところにある、落ち着いた素敵な店である。
こうした店と猥雑な店が同居しているのもおもしろい。

私は街の喧騒、猥雑さは嫌いではない。
学生のとき、行き詰ると歌舞伎町を彷徨い歩いたものである。

先日、場所は東京五反田だが、道を歩いていると黒服で固めた男女5人くらいが信号待ちしていた。
「塩が入っているよな。もって帰らないとかみさんに家に入れてもらえない」
などと言っている。
葬式帰りの40代とおぼしきサラリーマン。
いまだに死穢(しえ)意識が当然のようにはびこっていると知ったのは驚きであった。
あー、未来は暗い。

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2008年10月19日 (日)

樹木葬10周年で一関へ

昨日(10月18日)は岩手県一関へ行く。

樹木葬が最初に始まったのがここ一関だ。
祥雲寺(臨済宗妙心寺派、旧一関藩主田村家菩提寺)の千坂住職が始めた。いまは樹木葬墓地のほうは別院知勝院となっている。
入口の看板
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樹木葬は1999年の秋に始まった。
人手を失い荒廃していた里山を買い取り樹木葬墓地とした。
許可を出した一関市では日本初という意識もなく、岩手県規則に違反しないということで許可し、後に新聞に取り上げるは、人が押し寄せるでは、で目を白黒させていた。
私が市役所を訪問したとき、担当者は私が先輩にあたるということで安心していろいろ話してくれ、私が読売新聞に樹木葬について書いた記事も大事にファイルしていた。

樹木葬とは、よく誤解されるのだが自然葬ではない。自然葬は葬送の自由をすすめる会が91年に相模湾で自然との共生を願って墓地以外の場所に散骨したことから始まる。
散骨はいまでは、葬送を目的として、遺骨を細かく(原形が残らないまで)砕いて、海や山に他人が困惑することのないよう配慮して、つまり相当の節度をもって行うならば違法(刑法190条遺骨遺棄罪)ではないという法解釈が定着している。

樹木葬は自然との共生を願う点では同じだが、墓地としての許可を受けた区域にスコップをもって穴を70センチ以上掘り、遺骨(砕く必要はない)をそのまま骨壷から空け埋蔵し、また土を埋め戻し、その埋蔵地点に花木を植える。
もっとも最近は大きな木の周辺に埋蔵するスタイルも他では出てきている。

千坂住職は「墓石、カロートを用いない点だけが最近の樹木葬では注目されている」と不満だが、いまや樹木葬墓地は20箇所近くでき、韓国にも輸出され大々的な樹木葬墓地が開発されているようである。

千坂住職の願いは、墓地の近くを流れる久保川流域の生態系を保全し、1万年以上も自然と人間が織り成してつくってきた里山の自然を再生することであり、そのための樹木葬だという位置づけをしている。

最初の樹木葬墓地使用約款(通常は「使用規則」であるが双務的な「使用約款」となっている点に注意)の目的には
「本墓地は、美しい雑木林を造成・保護し、これを後世に残すという主旨に賛同する人々が、主旨を尊重し、本約款の定めるところに従い、本人または親族の焼骨の焼骨を埋蔵するために使用することを目的として設置するものです」
とあったが、いまはより鮮明に「美しい里山を保全しこれを後世に残すという主旨」と改正され、目的が明示されている。
「自然再生」がこの知勝院樹木葬墓地の大きな特徴である。
昨年から東大大学院の生態系の院生グループが泊り込みで調査・研究を続けており、今後は「墓地」としてだけではなく、「生態系保全」の活動で注目されるであろう。

この日に行われた10周年記念「樹木葬メモリアル」は埋蔵される人の信条を尊重し、臨済宗の方式以外にキリスト教会の牧師の聖書朗読、神職の祝詞も行われた。
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樹木葬墓地を望む。手前は水田を再度起こしたもの。奥の山林が下から望む樹木葬墓地の全景
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この季節は花が咲いていないが墓地内に埋蔵された地点を表す木片の墓標
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知勝院も整備されてきた。研究者や墓参の人が泊まれる施設が充実している。99年には何もなかった。
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この日は地域や檀家の人が地元産のワインや野菜等を販売していた。祥雲寺の檀家であるという妙齢の女性2人に「あ、テレビと一緒だ」と声をかけられる。中学の時の同級生だった。
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夕方から行われた10周年記念パーティには田村家当主(私のバスケットボール部の先輩でもある!)も出席、東大の生態系の教授とともに私が祝辞という名の短い解説をした。

80年代後半からの永代供養墓(公営では合葬式墓地)、91年の散骨(自然葬)、そして99年の樹木葬墓地への10年間を「墓の革命」と呼んでいる。
明治後半から家(イエ)と深く結びついた墓を、多様な個を尊重し、自然との共生を目指すものへと大きく選択肢を広げたのがこの10年間であるように思う。

当初は千坂住職(私は「千坂君」と呼び、彼は「櫻井君」と呼ぶ)が2泊くらいの予定で来ることを勧めたが、予定がたて込んで日帰りとなった。
感慨深い日であった。

もう紅葉が近いか
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2008年10月12日 (日)

雲と酒と

10月に入り、感情の起伏に富んだ日々を過ごしている。
「まっとうであること」これはどういうことなのか?
自らの弱さを自覚しつつ、苦吟している。

楽しい酒の話。

10月2日は駿台トラベル&ホテル専門学校にライフステージ・プロデュース学科にフューネラルビジネス科という夜間の1年制のコースがある。たまに1年に1回くらい学科長の大竹さんからメールをいただき、私が1年間に書いた論稿の中からテーマを選んでくれて、話すようにと言われる。

今年のテーマは「変わりつつある葬儀の課題」という論稿についてのもの。この原稿は多岐にわたって書いたので、結構長い。90分授業の2コマでは話しきれない内容だ。

大竹さんは、それを察して、事前に学生さんらとその論稿を読んでくれていた。
それをいいことに当日はかなり自由に、あちこち脱線を繰り返しながら話すことができた。
熱心に聴いてくれて、思わず力が入った。
いい聴衆に恵まれることは、講演料よりも、話し手にとっては大切なことである。

学生に混じって数人の卒業生も来てくれていた。彼らの期の卒業制作の葬儀で私は遺体役をしたという因縁で、この期の人たちとはその後も交流がある。

講義は18時半から21時半まで。終わって彼らいきつけのお食事屋さんに行き、呑んだ。
利害関係もなく、葬送に関心をもって係ろうとしている私よりも若い(中にはちょっとしか歳の差がない人もいるが、彼らも気持ちが若い)人たちと呑みながら話すのは、とても楽しい。
講義から呑み会まで充実した夜であった。

10月10日には大竹さんとDさんと池袋のジュンという店で呑んだ。
この店はもう20年以上通っている(最近は年に2回くらいだが)。渡辺さんという73歳になる、もっと若く見えるマスターがしているレトロな店だ。
私のいきつけの店はどんどん店じまいしていて、ほんとうに残り少ない希少価値の店。
今回初めてお会いしたのだが、電話では渡辺さんから聞いていた、渡辺さんのお嬢さんがカウンターの中にいた。跡継ぎを得て、渡辺さんも嬉しそうだった。

この夜、3人で何を話したのか全くもって覚えていないのだが、途中でボトルを入れ替えて、D君が「もうこんな時間ですよ」と言ってくれるまで、時間の感覚をなくして呑んだ。
久しぶりに自宅に帰ったのが1時近く、10年ぶりくらいの午前様であった。

この2人は私の死後の葬儀の面倒をみると言ってくれている。
自分としては、あんまりいい死に方はしないだろうとほぼ確信しているが、それでも面倒みてくれるというのはありがたい。
彼らにすれば年寄りに頼られて、少々煩いだろうが、こちらとすれば20歳下の友人というのは頼もしい。

久々の午前様の酔狂に家人は「疲れるでしょう」と心配するが、気分は上々であった。

取材する立場と取材される立場に立つが、取材されて気持ちのいいときと、不満、苛々がするのも少なくない。
週刊誌は、実態はともかく「売らんかな」でいき、そういう意味では誤ったメッセージを垂れ流している。
そもそも偏見のあるアプローチをする人もいる。そうした場合、
「全部話すからきちんと聞け」と向こうが帰りたいのを無視して喋る場合もある。
呆れたのはコメントの答えを作っておいてテレビで言うことを求めてくるケース。電話で「それは違う」と丁寧に説明したら、逃げて行った。

雲の写真を撮った(携帯で)
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これは夕方近い、ドンヨリ雲、何故かこういうのが好きだ。


これは晴れて月が見える。
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これは爽やかな秋空
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空の表情は自分の気持ちを映しだす感じがする。









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