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2009年4月24日 (金)

犯罪、悪、罪って何だ?

先日、親鸞仏教センターの講演会へ行き、改めて人間の負っている罪、悪について考える機会をもった。
人間のあるがままの姿、それは過ちも犯し、感情的にもなり、差別や偏見をもち、目先の利益を求め、怠惰、卑怯、他人を軽視し、一時的な欲求から自由になれず、妬み、謗り、裏切り、その他もろもろけっして倫理的な意味では善ではありえない。

修行や教育によってもその内面を改めることは不可能だと言っていい。
法における罪とは、そうした内面の罪ではなく、社会化された法に規定された罪に過ぎない。
また、法的な意味で罪とされることからも、慎重に避けようとは努めるものの、誰にも逸脱することだってあり得る、ということを知っておくべきなのだ。

マスコミは法的な罪を、あたかもその人間特有の欠陥がもたらしたもののように報道し、法的罪の概念を超えて人間存在そのものの罪のように語るが、総務大臣の職にあるものが、人そのものを口汚く断罪するが、それは醜い。

スマップのKが酒に酔って公園で全裸になって騒いだ、というが、近所の人間がうるさい、迷惑だと感じた、というせいぜいが迷惑をかけたというだけのレベルのことである。
公園で全裸になったといっても見ている人間がいないのだから、それによって不快を感じる他者がいないのだから、それを犯罪とするのは根拠がない。
一般人であれば一晩留置所に入れ、説諭して帰宅させるだけのこと、有名人だからといって違う対応をするのは、法の下での不平等になりはしないか。

薬物中毒の疑いをもったのだろうが、家宅捜索という形を取らなくても、本人が了承すれば可能なことだ。

酔っ払い正体をなくすなどということは、他者には迷惑であるが、酒呑みであれば何度か経験したこと。私は導眠剤を服用するから、最後は無意識状態になり、倒れたり、罵詈雑言を吐くなど日常のことだ。

Kが深酔いして自分を失う、というのは別に異常行動ではなく、酔っ払いにあり得る行動である。だから通常警察は保護し、迷惑行動をそれ以上させないようにする。いちいちを「犯罪」化させるのは適切とは言えないだろう。

「有名人だから自覚が必要」「こんなことをする人だとは思わなかった」「有名人だから何やってもいいわけではない」
―これこそが戯言なのだ。

こんなレベルで犯罪者が作られるというのは明らかに異常である。
また、このことを大喜びで報道するスポーツ紙、ワイドショーの心性のほうが、酒に呑まれたKよりも、よほど人間性が卑しい。

ここまで書きながら、書き始めから論理は少しずつヅレているのはわかるのだが、ついでにヅレついでで言うと、「裁判員制度」はおかしい。

裁判所で裁かれるべき犯罪は「法的な意味での犯罪」である。人間を裁く場ではない。それを明確にしないといけない。
その意味では民間人の感情で裁かれるべきではなく、法的訓練を受けた者が行うべき行為なのだ。
民間人の裁判参加よりも、法律の専門家である判事、検事、弁護士の人事交流が盛んになるほうがいい。

今回のKの件は、テレビで芸人連中がその失敗を大笑いし、Kは安眠や深夜の仕事をしている人に迷惑をかけたと、1軒ずつ訪問し、菓子の包み持参で謝罪してまわれば済むことである。
CMの停止や仕事の自粛など不要である。

人間とその社会の醜悪さというのは、自分も弱く、失敗もする人間だということを棚に上げて、さも自分は立派であるかのようにして裁き、中傷してしまうということである。
醜悪なのはKではなく、Kを好き放題に引き回す警察の有名人への嫉妬と嘲笑しているマスコミ、テレビの前にいて興味津津の人たちだ。

私も品性が卑しいので、アメブロで見て「コリャなんだ?」と興味をもってネット上のニュースを調べたが、おかしいのはどっち?という思いがした。この卑しい私の意見、けっこういい線をいっているように思う。

さて冒頭に帰る。
人間は修行、信心、信仰によって他と差別され特権階級のように選ばれ、罪人であることから救われるのではないだろう。
宗教により人間が一段高みに上ることはあり得ないのだ。価値が上がるわけではない。あるがままでしかない。
少なくとも私はあるがままにこだわるつもりである。
だから宗教者に対して、「宗教者のくせして」というような非難はしない。それは意味がないからだ。
それは「聖職」と言われる「教師」等に対しても言えることで、そもそも人間には「聖職」などというのはないのだ。
役目だけがあるのだ。

教師や上司の不当なパワハラ、セクハラ等の不当行為は現に被害者がいるのだから厳しく追及してしかるべきだ。
いま外に問題が出るようになったが、前は職場内で隠蔽、泣き寝入りされていた風土が確かにあった。
また職業差別、偏見はまだまだ社会に根強くある。この根絶のために粘り強く取り組む必要がある。
社会的偏見をもつ人に社会的に「いい人」と思われる人が多いように感じるのは私の偏見がなすゆえか?



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2009年4月10日 (金)

「おくりびと」効果

「おくりびと」効果にはいろいろあるようだ。
撮影地を訪れる人が増えた。
映画関係者が地元で県民栄誉賞をもらった。
その一つに「葬儀関係の仕事をしている、と普通に言えるようになった」があります。

あの映画では「おくりびと」への評価が高まったと同時に
「やはり死には、これだけ差別意識、嫌悪感があるんだ」と
痛感した人もいました。

いろいろなブログを見て歩くと、肉親の葬儀のことと重ねて見た人が多いような気がします。

葬式というのは当事者にとっては何かと慌しい。
葬式が終わって、柩に花入れ(一般に「お別れの儀」とよび、花を「別れ花」という)をし、出棺、火葬とあっというまに進行してしまった、と感想を言う人もいた。

「葬式」というのは「社会的にやんなくちゃならない約束事」で、遺族の心理とは関係なく進むもの、という諦観のようなものがあったようにも思うのですが、「大切な人と別れ、送り出す」というプロセスだということが、ようやく少し理解されてきたように思います。

私が書いて人気のある記事は「グリーフ(死別の悲嘆)」ではなく、依然として「マナー」に関するものであるのは少し淋しい感じがします。

もちろん5年ほど前から急速に「グリーフ」に関心を寄せる人が増えて、勉強する人も増えています。
「死生学」(「死学」と言え!)の講座をもつ大学もほんとうに増えました。

しかし、「グリーフケア」を「癒し」と考える人が多いのは気に入りません。安直な癒しはグリーフケアと正反対にあると言っても過言ではありません。
「癒してあげる」などという言葉を聞こうには鳥肌が立ちます。ここにはあいかわらず三人称の「かわいそうな人への親切な行為」というイメージが残っているように思えて嫌なのです。
こういう「善意」な人は昔から多いのですが、あー嫌だ!

話はまた逸れましたが、「マナー」が気になる人は葬儀にとまどっているのであろうと思います。
死者や遺族にどう接していいのかわからない。失礼があったら日常よりももっと酷いダメージを与えることになる。
だから、私の書いたものが読まれる、とつながるわけです。
私の書くマナー記事はガンジガラメの習慣の塊のように思える葬儀を解(ほど)いているので、安心して読めるのでしょう。

死をいま現に体験している人と会葬者とでは温度差があります。同じ遺族の中にも温度差があります。
以前に遺族になった人が今遺族になった人に助言できるか、というわけではありません。

夫を亡くした女性に
「私が主人と死別したのは30代で子どもたちも小さくて、どうしたらいいかわからなかった。あなたはお淋しいでしょうが、お子さんも立派になられたのですから、すぐ立ち直れますよ」という類。(これを「悲嘆比べ」という)

「いつまでも泣いていてはダメ。後ろを向いても何も改善されないのだから。前を向いて生きていかなければ。お子さんの未来があなたにかかっているのだから」
(こんなことがあるから私は「ポジティブシンキング」という奴が嫌いなのだ)

街で知人に会って、微笑んで挨拶すると
「よかった。心配していたのよ。お元気になられたのね」
(そんなに簡単に他人の気持ちがわかってたまるか。結局他人には理解してもらえない、という反発を招きかねない)

母親を亡くした子へ
「かわいそうに。まだまだ親の手が必要だったのに。あなたがいい子に育つのがお母さんへの供養になるのだから、がんばってね」
(こういう言葉に肝心の心がなく、同情する自分がかわいいと思っていることを子どもは見抜く。健気を装えばいいのだと)

「自分の死」への関心も高まっています。
中村仁一医師が提唱する「自分の死を考える集い」、いい試みであると思います。中村医師が「穏やかな死」と題してNHKで話されたベタおこし原稿があります。整理されていないだけ説得力がある気がします。
http://hk-kishi.web.infoseek.co.jp/kokoro-196.htm
医療の限界を知れ、ということでしょう。医療で治ることに期待しすぎるな、どっちみち人は皆死ぬ。

学校現場での子どものいじめ等による自死や死につながる非行が報道されるたびに、校長や教育委員会は「いのちの大切さ」を説く。こんな言葉に迫力がない、ということをTBSラジオ22時からの「アクセス」で報道していました。同感。
人間の生も死も、抽象化するのではなく、常に具体的にこの生、この死をはらわたをひっかきまわすようにして考え、感じるのでなければ力をもたない、と思うのです。

「いのちの大切さ」の空虚な合唱は、そこに傷んでいる人をむしろ脅迫するか、まったく響かないか、あるいは世間の無理解を知って期待しないか、ではないか、と思うのです。

学校現場でデス・エデュケーション(「死の準備教育」と訳されるが「死に関する教育」でいいんだが)がほんのわずかばかり行われている段階で、現場の教師の方々はそれぞれ試行錯誤しながらやっておられるのでしょう。でも、生や死を頭で認識するレベルはダメだと気づくべきでしょう。なんだかんだと言われますが、葬儀というのは、そこで名前もいろいろもった存在である人が死に、それでダメージを受けた遺族がいる場です。その「体験する死」から感じるところがなければ死は永遠にわからないでしょう。
私は死にすぐ生を対峙させるのではなく、具体的な死にこだわる、こだわらざるを得ないことを大切にしたいと思うのです。

「死生学」というのは死をカモフラージュして、お化粧したようで嫌いなのです。
死はお化粧しなくとも充分に人間的な出来事です。
忌避できるのは第三者の死だけです。

誰も自分が死ぬこと、家族が死ぬこと、友人が死ぬこと、尊敬する人が死ぬことから逃れられないし、それがいつどんなときかも予測できるものではありません。だからといってそれを達観するのではなく、こだわるのが「死学」であろうと思うのです。
また「グリーフワーク」とはそうした固有の営みであるのだと思います。

最近よく息子に叱られるのですが、それは他人が言っている言葉のコンテキストを理解しないで言葉そのものに反発して怒り出す癖が昔からあったというのです。
今で言えば、それは「癒し」ですね。
くれぐれも私の前で言わないでください。私が暴走しかねませんから。

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2009年4月 2日 (木)

1ヵ月のご無沙汰です

前回が2月27日でしたので、3月は1回も更新せずでした。
心配してくださる方もいましたが、ある関係先の件で悩み、追われ、消耗したことがあり、予定の原稿がどんどん後回しになり、精神的に追い込まれて「原稿書けない」病の穴に落ち込んだり、精神的には最悪状況でした。

でも、悩ませた1件は、いろいろありましたが、4月から責任ある職務から無事離れることができて、逃げ出すことができました。
関係者の方々にはご迷惑をおかけしましたが、私としては心理的に割り切ることができたので、今後は善良な第三者として見守りたいと思います。

確かに、ある方から「感情的」と批判されましたが、中立を心がけたつもりにしても、「想い」があるので、そう受け取られたかもしれません。その批判をいただいたことは名誉とありがたくいただくことにしました。

そうこうしているうちに桜の開花宣言。寒くて満開は遅れているようですが、春は何かと気が明るくなります。

今年は不毛なことには関係しないで着実に原稿を書くことに徹したいと思います。

やはり63歳という年齢は確実に衰えを加速させます。
1日に2件のことをするのが結構難しくなりました。人に会うということはエネルギーを奪い取ります。
ですから原稿を書く日には予定を入れないようにします。
講演を頼まれたら、それに集中することにします。

前回、3月の新刊をご案内しました。
大法輪閣から『Q&Aでわかる 葬儀・お墓で困らない本』です。
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4804612823.html
http://www.7andy.jp/books/detail/-/accd/32213867

やさしく、わかりやすく、正確、中立的に書いたつもりです。
売れないとせっかく出してくれた出版社に悪いので、販売にご協力いただけると、たいへんうれしいです(゚゚)(。。)

そうそう、この前の土曜日、ケイタイの未来を考えている研究者等の前で「死と葬送」について話してきました。
別にケイタイと葬送を結合することを考えているのではなく、ワークショップする上で一見関係なさそうなテーマで発想に刺激を与えようということらしく、普段は会うことのない技術者の方々の前で新鮮な気分で話してきました。
聴いていた方もおもしろかったようです。




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