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2009年4月10日 (金)

「おくりびと」効果

「おくりびと」効果にはいろいろあるようだ。
撮影地を訪れる人が増えた。
映画関係者が地元で県民栄誉賞をもらった。
その一つに「葬儀関係の仕事をしている、と普通に言えるようになった」があります。

あの映画では「おくりびと」への評価が高まったと同時に
「やはり死には、これだけ差別意識、嫌悪感があるんだ」と
痛感した人もいました。

いろいろなブログを見て歩くと、肉親の葬儀のことと重ねて見た人が多いような気がします。

葬式というのは当事者にとっては何かと慌しい。
葬式が終わって、柩に花入れ(一般に「お別れの儀」とよび、花を「別れ花」という)をし、出棺、火葬とあっというまに進行してしまった、と感想を言う人もいた。

「葬式」というのは「社会的にやんなくちゃならない約束事」で、遺族の心理とは関係なく進むもの、という諦観のようなものがあったようにも思うのですが、「大切な人と別れ、送り出す」というプロセスだということが、ようやく少し理解されてきたように思います。

私が書いて人気のある記事は「グリーフ(死別の悲嘆)」ではなく、依然として「マナー」に関するものであるのは少し淋しい感じがします。

もちろん5年ほど前から急速に「グリーフ」に関心を寄せる人が増えて、勉強する人も増えています。
「死生学」(「死学」と言え!)の講座をもつ大学もほんとうに増えました。

しかし、「グリーフケア」を「癒し」と考える人が多いのは気に入りません。安直な癒しはグリーフケアと正反対にあると言っても過言ではありません。
「癒してあげる」などという言葉を聞こうには鳥肌が立ちます。ここにはあいかわらず三人称の「かわいそうな人への親切な行為」というイメージが残っているように思えて嫌なのです。
こういう「善意」な人は昔から多いのですが、あー嫌だ!

話はまた逸れましたが、「マナー」が気になる人は葬儀にとまどっているのであろうと思います。
死者や遺族にどう接していいのかわからない。失礼があったら日常よりももっと酷いダメージを与えることになる。
だから、私の書いたものが読まれる、とつながるわけです。
私の書くマナー記事はガンジガラメの習慣の塊のように思える葬儀を解(ほど)いているので、安心して読めるのでしょう。

死をいま現に体験している人と会葬者とでは温度差があります。同じ遺族の中にも温度差があります。
以前に遺族になった人が今遺族になった人に助言できるか、というわけではありません。

夫を亡くした女性に
「私が主人と死別したのは30代で子どもたちも小さくて、どうしたらいいかわからなかった。あなたはお淋しいでしょうが、お子さんも立派になられたのですから、すぐ立ち直れますよ」という類。(これを「悲嘆比べ」という)

「いつまでも泣いていてはダメ。後ろを向いても何も改善されないのだから。前を向いて生きていかなければ。お子さんの未来があなたにかかっているのだから」
(こんなことがあるから私は「ポジティブシンキング」という奴が嫌いなのだ)

街で知人に会って、微笑んで挨拶すると
「よかった。心配していたのよ。お元気になられたのね」
(そんなに簡単に他人の気持ちがわかってたまるか。結局他人には理解してもらえない、という反発を招きかねない)

母親を亡くした子へ
「かわいそうに。まだまだ親の手が必要だったのに。あなたがいい子に育つのがお母さんへの供養になるのだから、がんばってね」
(こういう言葉に肝心の心がなく、同情する自分がかわいいと思っていることを子どもは見抜く。健気を装えばいいのだと)

「自分の死」への関心も高まっています。
中村仁一医師が提唱する「自分の死を考える集い」、いい試みであると思います。中村医師が「穏やかな死」と題してNHKで話されたベタおこし原稿があります。整理されていないだけ説得力がある気がします。
http://hk-kishi.web.infoseek.co.jp/kokoro-196.htm
医療の限界を知れ、ということでしょう。医療で治ることに期待しすぎるな、どっちみち人は皆死ぬ。

学校現場での子どものいじめ等による自死や死につながる非行が報道されるたびに、校長や教育委員会は「いのちの大切さ」を説く。こんな言葉に迫力がない、ということをTBSラジオ22時からの「アクセス」で報道していました。同感。
人間の生も死も、抽象化するのではなく、常に具体的にこの生、この死をはらわたをひっかきまわすようにして考え、感じるのでなければ力をもたない、と思うのです。

「いのちの大切さ」の空虚な合唱は、そこに傷んでいる人をむしろ脅迫するか、まったく響かないか、あるいは世間の無理解を知って期待しないか、ではないか、と思うのです。

学校現場でデス・エデュケーション(「死の準備教育」と訳されるが「死に関する教育」でいいんだが)がほんのわずかばかり行われている段階で、現場の教師の方々はそれぞれ試行錯誤しながらやっておられるのでしょう。でも、生や死を頭で認識するレベルはダメだと気づくべきでしょう。なんだかんだと言われますが、葬儀というのは、そこで名前もいろいろもった存在である人が死に、それでダメージを受けた遺族がいる場です。その「体験する死」から感じるところがなければ死は永遠にわからないでしょう。
私は死にすぐ生を対峙させるのではなく、具体的な死にこだわる、こだわらざるを得ないことを大切にしたいと思うのです。

「死生学」というのは死をカモフラージュして、お化粧したようで嫌いなのです。
死はお化粧しなくとも充分に人間的な出来事です。
忌避できるのは第三者の死だけです。

誰も自分が死ぬこと、家族が死ぬこと、友人が死ぬこと、尊敬する人が死ぬことから逃れられないし、それがいつどんなときかも予測できるものではありません。だからといってそれを達観するのではなく、こだわるのが「死学」であろうと思うのです。
また「グリーフワーク」とはそうした固有の営みであるのだと思います。

最近よく息子に叱られるのですが、それは他人が言っている言葉のコンテキストを理解しないで言葉そのものに反発して怒り出す癖が昔からあったというのです。
今で言えば、それは「癒し」ですね。
くれぐれも私の前で言わないでください。私が暴走しかねませんから。

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コメント

前略、ご無沙汰です。【「グリーフケア」を「癒し」と考える人が多いのは気に入りません。安直な癒しはグリーフケアと正反対にあると言っても過言ではありません。】オクリビト・・クレジットに載らない原作者も  臭いものに蓋をするだけの行為・・とおっしゃっておられました。難しいです・・・。
でも・・そのとおりでしょうね。死しての安心か この世の安心か・・・。ご自愛くださいませ。早々

umezoさん
お久しぶりです。
このところ短気が酷くなり、鬱憤を書き散らかしています。最近の「死生学」の流行に善意は見えるのですが、危うさを感じています。

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