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2010年3月 6日 (土)

抑圧された悲嘆

きょうは雨、午後に旧知の人を訪ねて寺に行く予定。

昨日締切の原稿を「月曜日まででいいですよ」との優しい編集者の言葉に甘んじて、昨日完成しなかった原稿をきょう帰ってから仕上げなくてはと思う。
そろそろたて込んでくる。外出を控えて1本1本書いていかなければ、と思う。

昨日、問い合わせがあったが、「直葬」についてはっきりしたデータはない。知り合いの連中から訊き出したのが東京23区では20~30%程度、ある新宿区の葬儀社では40%ラインの攻防が続いているようだ。
ある葬儀社の人間は「うちでは少ない」と言っていたとの記事を読んだが、その葬儀社が少ないだけで、他の葬儀社にそういうお客はまわっている、と考えたほうがいい。
地方でも確実に増えているが、まだ訊き出したデータが少ないので数字の公表はできない。

「直葬」については、傍らで書き続けている原稿できちんとまとめようとしている。さまざまな側面から今検討を加えている。

僧侶や葬儀社にとっては直葬は脅威だが、消費者は何とも思っていない。
僧侶や葬儀社は財政的に厳しくなるから問題だが消費者には関係ないからだ。
消費者にとっては「火葬だけ」「安い」というプランが出てよかった、という人もいるし、そういう選択肢を与えるネーミングしたヤツが悪い、と非難されることもある。
でも「消費者」としてではなく「遺族」という当事者にとって、介護・看護、死の看取り、その後の葬儀のプロセスは大切な問題だ。

このところマスコミも死の前後のことをていねいに扱うようになってきている。
死の前のターミナルケアの問題は80年代という早くから注目されていたが、今、死後の遺族が体験するグリーフについても取り扱いが目に見えて増えている。
仏教界でも「自死遺族」に対する関心が増加している。
「死んだら終わり」ではなく、本人の死後を遺族は生きるのだから、終わりはそう簡単にはこない。

3月は「自殺対策月間」ということで、特に力が入っているのかもしれない。
政府は対策の一つに「うつ病と不眠には、深い関係があります」ということで「眠れてますか?」キャンペーンを行なっている。
自死(自殺よりはこっちを使いたい)者のかなりが(経済的、健康的、人間関係やさまざまな問題があったうえで)精神状態が「うつ」になっている、と考えられるので、そのうつ病の典型である「不眠」を早期に発見し、結果として自死防止につなげたい、ということである。

私は自分の体験から言えば(極めて狭い、一般化できない体験であるが)、自分が「うつ」になったとき、自分としては「うつ」であるとの自覚がなかった。それほど奇妙であるとは自分ではわからなかった。
発見したのは周囲の人間である。「反応がおかしい」「目が普段と違う」等である。

自分で悩んでいたのは、仕事である「原稿がまったく進まない」ことであった。
それでも過去に一晩で400字40枚くらいは書いた経験があるので、いざとなったら書けるだろう、と楽観していたが、その「いざ」が全く訪れない。
同時に「不眠」になった。これは苦しい。

精神科に行ったのはおそらく発病して4週間後くらいだったろう。
発見は3週間後であるが、あいにく年末年始の休みにあたっていたから遅れた。
病院に行って処方された薬で最も個人的に助かったのは「導眠剤」であった。

自分がうつ病になっ原因はわからない。
今でも投薬中である。
だから新しく生命保険には入れない身である。

個人的体験でしかないが、対外接触が嫌になり、視野狭窄に陥った。
死ぬほうが圧倒的に親しく、生きるエネルギーは枯渇し、生きることが要求する膨大な力を思うと無理と感じた。

そういう状態だから電車に乗るという行為が不安だった。
ホームに立つと、入ってくる電車に吸い込まれる気持ちがし、それを避けるため、ホームの中央に立ち、電車が停車したらはじめて動く、ということをしていた。

今でも時々症状は出るが、「今、自分はうつだな」とわかるだけ楽である。そんなときはひたすら動かない、心配しない、忘れることを心掛ける。

自死を「追い込まれた死」という認識が広がっているのはいいことだ。
「自分で自分を殺すなんていのちを粗末にしている」と非難するか
「自殺するなんてよほど大きな問題を抱えていたのね」と同情するか、
家族や親しい人は「なぜ相談してくれなかったの」「信頼されていなかった」「あの言葉が死においやったのかしら」と自責し、あるいは死者を怨む。

吉本隆明が海水浴中に溺れて意識を失った事故を振り返って、死ということを意識しなかった、と書いたが、私も自分の体験から本人にとっては単なる「移行」であるように思う。
しかし、家族や親しい者にとっては「喪失」となる。

NHK教育テレビの再放送で「自死遺族が孤立している」状態を伝え、解説者が「沈黙した悲嘆」と言われてきたが「抑圧された悲嘆」というのが実態だろうと言っていた。
「悲しむ」という遺族にとって当然の行為が白い目で見られる、好奇心の塊で見られる、そうだから隠す。
自死者の葬式が普通に行なわれるようになったのは(それも一部であろうが)ごく最近のことである。それまではけっして本葬が行なわれることがない「密葬」が営まれていた。

私がdeath and life study という言い方が嫌であくまでdeath studyでいいのではないか、と想う(かなり感情的に)のは、何か「生」に価値観を優位にしようという考えがあるのではないかと、偏見かもしれないが思うからだ。
「死の事実」の確認、単純に事実として確認すること、そのことが大切に思うのだ。

いのちと死は切り離されているのではなく、いのちに死は内包されているのだと思う。
偏見なく死をあるがままに受け止めることができたら、と私は思う。

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コメント

前略、お久しぶりです。

あたたかくなったり、寒くなったり、不安定な天気の中、上をむいたり、したをむいたりしながら、只管執筆しておられる編集長の姿が目にうかびます。
想いを込めて書かれる記事だけにひしとつたわってくるものがあります。

自死に限らず・・・受け入れられない死・・
受容できない死の悲しみは抑圧をうけハードなグリーフワークを強いられるとおもわれます。それを支えてきていたのが各種のコミュニティだったわけですが・・。地域が・・医師が・・宗教者が・・葬儀社の社員が・・。いろいろな場面で生と死に携わった者がその場面場面でケアをしていければいいなとおもいます。
そして人を葬るとき、その人の辿ったときを偲び、生きていた事の実感を共有できればなお素敵だろうと思います。
今週半ばは少し寒くなるそうです。ご自愛下さい。
早々

>いのちと死は切り離されているのではなく、いのちに死は内包されているのだと思う。

命なくして死は無く、死なくして命もないとすればその通りですね。

>何か「生」に価値観を優位にしようという考えがあるのではないかと、偏見かもしれないが思うからだ。

確かに、「命を惜しむ気持ち」自体が、生の優位性を言っているようにも聞こえます。(一方、他者からマーケティングの対象になっているような不安な気持ちにもさせられます。)

従って、
>「死の事実」の確認、単純に事実として確認すること、そのことが大切に思うのだ。

この原点に返ることが、今一番大事なことのように思えます。=葬儀という儀式に付与された意義付けを一旦はずす、ということです。
すべてを個々に考え直すようになってきている状況が直葬に表れているように思えます。
この意味で葬儀を安易に「文化」という枠組みに嵌めてはいけない時代になっているように思えます。

しかし一方で、
>人を葬るとき、その人の辿ったときを偲び、生きていた事の実感を共有できればなお素敵だろうと思います。

このような要求も捨てがたくあり、それを「供養」という言葉などで表現されたりして、堂々巡りになっています。
個と共同体の中でどっちつかずの要求のはざまでじたばたせざるを得ないのが、葬儀の場なのかもしれず、それを受け止めるのも葬儀の場なのかもしれません。

「食育」という言葉が出始める前、三分でご飯が出来る便利さ。早い・安いが謳われていた時代だったと記憶しています。
「食」は便利→安い、からやっと最近になって安全→安心が重要であると認識されてきたような気がします。
それならば、「死育」も必要ですね。
言葉は適切でないかも知れませんが、夢・希望とはかけ離れた感じがあるかもしれませんが「死育」は生きるために又どう生きていくかの為に必要ではないでしょうか。
間違いなく、もれなく、死は万人にやってきてくれるのですから。
どう向き合うのか、もっと真剣に考える時間やきっかけが必要なのではないでしょうか。
「死」を身近に感じたときに「生」に取り組める気がしています。
日本人が今最も学ばなければならないことに「死育」があると思います。
皆様はどうお考えでしょうか。

こんばんわ!先日東京の某会主催の勉強会に出席し、一所懸命『葬儀』に取組んでいる同業の人たちといろいろ勉強してきました。

>また「死」を身近に感じたときに「生」に取り組める気がしています。

そうですね。そう思います。
永年葬儀がその役割を担ってきたのですから。
いま、時代の風潮からか、だんだん葬儀に参列して失った悲しみを共有できなくなっているとおもいます。もっと死を感じてもらえる場にしないといけないんですよね。

                  

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