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2014年4月25日 (金)

姉の最期の記録

このブログにたびたび書いてきたが、がんの終末期にあった姉が死亡した。
その直前のいとこへの通知から、各所への報告とお礼、と私が記したものを掲載する。

①危篤に際してのいとこたちへの通知

ご無沙汰しております。
叔母さまが施設の方へ入られたとうかがってますが、その後いかがでしょうか?

本日は、姉・祐子のことで報告いたします。

昨年5月に大腸がんで、肝臓にも、リンパにも転移していてstage4であることを宣告され、その後、腸閉塞で入院等してまいました。
4月に入り、入浴等でも介助が必要となり、数回目の入院をしております。
それでも話しなどできる状態でしたが、今は肝臓が悪く、痛み、10日前ほどからモルヒネを使用するようになりました。

7日前ほどから昏睡状態がほとんどの生活となり、ほとんど認知できない状態になっております。
モルヒネだけで栄養分等の補給は行っていないこともあり、もともと痩せていたところにほとんど骨と皮状態です。
昨日1日行っておりましたが、夕方の5時頃に数分かすかに反応しただけでした。

この状態が後どの程度もつかわかりません。きょうでもおかしくなく、2週間程度つづくのか、まったくわかりませんが最終期であることは確実なよう です。
一応、ご報告させていただきます。

〇〇さんには見舞いに行っていただき、姉も喜んでおりました。
ありがとうございました。

②親戚に姉の死亡の通知
皆さん

今朝14日朝9時半頃、姉・祐子が入院中の宗像市医師会病院にて息を引き取りました。
昨年5月下旬に大腸がんでstage4と診断され、積極的治療は行わず、痛みのコントロールを行ってきました。
10日ほど前から急変。モルヒネ投与もあり、意思疎通に欠ける状態が続いておりました。

遺体は自宅に移動しました。
自宅:宗像市(略) 電話(略) 最寄駅 鹿児島本
線東郷駅(福岡空港から地下鉄2つ目博多駅乗り換え)

前夜式 4月15日18時より自宅 兄・重宣が司式します。
告別式 4月16日13時より〇〇にて行います。
兄が司式しての30分ほどの礼拝を行い、その後皆さんにゆっくりお別れいただ きます。 親戚の方は16日11時まで〇〇に来ていただければ、昼食を用意するほか、お別れいただけます。 会場 (略)  最寄駅 東郷の2つ手前の東福間駅が最寄りです。 宿泊いただく方はホテル(略)を予約します。 電話(略) 私の名で予約いたします。
いずれにいたしましても来られる場合、あるいは問い合わせは
私の 携帯(略) メール(略)
に集中していただくとありがたいです。 また、ご案内しましたが遠いのでご無理なさらないでください。 姉のことをそれぞれの地で思ってくださればありがたいです。
③お花等をいただいた方へのとりあえずのお礼
私事である姉の葬儀に際し、皆様から手厚いご厚志をたまわり、恐縮すると共に、深く感謝しております。
お名前を記さないで飾る、という失礼な申し出をご了解いただいたことに感謝すると共に、失礼をお詫び申し上げます。

おかげさまで無事姉の葬式を行うことができました。

私ども家族の大きな見込み違いで、少数の方がお集まりになるだろうという予測を大幅に超え、たくさんの方々にお集まりいただきました。
お願いした葬儀社の方にはたいへんなご苦労をおかけしましたが、それに迅速に対応いただき、厚く感謝しております。

姉の告別式で「お礼」としてハガキを挟ませていただきました。
義兄の「お礼」の文に仮託して私が書いたものです。
以下、記させていただきます。

〇〇祐子は、2014年4月14日午前9時29分、宗像市医師会病院にて72歳の生涯を静かに終えました。
生前、皆様に愛され、短いながらも充実した人生でした。
心より感謝申し上げます。
2014年4月16日
夫 〇〇好史
長男 〇〇博教
(愛犬)子竜

姉は生前、今は閉鎖しましたが、「ボーダーコリー子竜」というブログを開いておりました。

なお、締切が遅れた徳島新聞に姉の葬式のことを本日書き、寄稿しましたので、それを添付し、報告に代えさせていただきます。

ありうがとうございました。

碑文谷 創
④徳島新聞(4月24日掲載予定)
葬式をするということ
 4月14日午前9時半過ぎ、運転していた車がもうすぐ事務所に着くという時、携帯電話が鳴った。
車を停め、受話器を取ると、甥が「5分前に母
(私の姉)が息を引き取った」と告げた。
  2日前、私は福岡県に住む姉を見舞った。朝から入院中の姉のベッドの傍にいた。顔はげっそり痩せ、昏睡状態で、いくら呼んでも反応しない。手や足をさするだけしかできなかった。 

 夕方、ベッドの傍には私一人。このまま帰るのも悔しく、耳もとで姉の名を呼んだ。子ども時代からの愛称「ゆこちゃん!」と。すると不思議なことに、目を見開いた。私の顔を見て言葉を発しようとするのだ。しかし、言葉にならない。それが3回ほど繰り返された後、再び姉は昏睡状態に戻った。


 甥からの電話に、「とうとう」「ついに」という想いと共に、何とも言えない寂寞感、喪失感に包まれた。 

 だが私にはすることがあった。昨春すでに末期がんを宣告され、死を覚悟した姉に託された葬式の手配の一切をすることだった。事前にいざという時の打ち合せを地元の葬儀社と行っていた。電話で病院から姉を自宅へ搬送することを依頼し、併行して義兄と私の兄と電話で葬式の日程を決めた。


 当日は自宅に寝かせ、翌日に通常「通夜」に相当するキリスト教式の「前夜式」を、自宅で親族だけで行い、3日目に葬儀会館で姉の友人たちを加えて告別式を行うこととした。
 


 前夜式は牧師である兄が執り行い、柩を囲み、親族一人ひとりが、姉との思い出を語った。一人ひとりの話に私は涙して、私の番では嗚咽してろくな話ができなかった。
10人だけで、深夜まで、アルコール抜きでしみじみと語り合った。


 翌日午後1時から告別式を行うべく、柩と共に葬儀会館に入った。
 姉は、息子に「親しい友人8人にのみ告別式の通知をすること」と託していた。姉は親族、親友の計30名程度の告別式をイメージしていた。私も姉の意思どおりに、葬儀社には30人程度の告別式を行うよう依頼していた。

 式場は、中央に姉が自分で遺影用に用意した写真を飾り、柩の回りは美しいさまざまな生花で、あたかも花園のように、しかし清楚に飾られた。席は柩を半円で囲むように50席用意された。中央は大きく空け、最後の姉との告別用のスペースとした。式の後に1時間半の時間を用意し、姉の選曲していた音楽を流し、思う存分別れることができるようにしていた、はずであった。
 だが、開式の30分前に、用意した席は埋まり、中央のスペースも急遽椅子を入れられ、ロビーにも会葬者は溢れた。用意したプログラムはあっという間に不足。会館の従業員総出でコピー作業と椅子を追加する作業を必死に行ってくれた。私の息子たちもその作業に加わっていた。 


 連絡した友人8人からあっという間に関係者の間に訃報は拡がったのだ。聞けば皆姉と親しくしていた人たちだった。姉が主宰していた聴覚障がいで言葉の不自由な人たちの臨床教室の人、パソコン教室の人、近所の人…。皆一様に目を真っ赤にして参集してくれていた。


 集まった人たちは、まさに姉の生きた痕跡とも言うべき人たちであった。開式は遅れ、混乱したが、温かな気持ちに溢れた告別式となり、参加した人たちが揃って出棺を見送ってくれた。
 火葬を待つ間、私は姉に心で話しかけた。「あんたの人生、72年と短かったが充足していてよかったな」と。
 骨片となった焼骨は光って見えた。
 

 

 

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コメント

母の介護のため時短勤務、介護休業、介護離職とめまぐるしい状態からやっと少しリズムが出来て落ち着いてきました。先日20年来の友人の葬儀に懐かしい仲間と弔問。生と死を考える時間を友人に貰いました。多くの参列者の中には友人を精神的に苦しめた人の姿もあり、通夜振る舞いの席での談笑に強い違和感を感じました。自分の為に参列する人、心から故人を偲んで参列している人、葬儀は人間のいろいろな部分を見せてくれるのですね。先生はお元気ですか?4月から更新されていないので、心配しています。お忙しい・・のですよねきっと。

michikoさま

さまざまなことがあったのですね。
コメントありがとうございます。
返事にはなっていませんが、アップしてみました。

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