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2014年8月14日 (木)

無縁の死者たちの葬り

今朝8月14日の朝日新聞朝刊の社会面で

「無縁の遺骨 悲しき弔いー増える孤独死 悩む自治体」

という記事が東京版では大きく扱われている。
中途半端なデータしか出ていないが、「朝日新聞調査」として東京都区市町村では
「過去5年、引き取り手がなく行政が火葬や管理をする遺体の数は増加傾向にある。昨年度は約5500体に上った。遺骨の管理は悩みの種で、多くは独自に設けた保管期限後 に合葬している」
と書いている。   

「行旅死亡人」は死亡地の市区町村に葬ることが課せられている。行旅死亡人は「身元不明」の遺体で、火葬後に本人の特徴、持ち物等を官報に記載することになっている。
各市区町村にはデータがあるが、全国集計されたもので公表されたものはない。
2010年にNHKが独自集計したところ全国で約1千人だった。併せて報道された数字が衝撃を与えた。
「引き取り手のない遺体」と呼ばれたもので、全国で約3万1千体あった。
これが「無縁死」と当時社会的に大きな衝撃を与えたことは知られている。

本日の記事で紹介されている千葉県館山市、東京都区市町村のデータを見ると、10年以降漸増傾向にある。4年後の現在、東京都区市町村の数を参考にするならば、全国で年に4万体以上(5万体未満)の引き取り手のいない遺体がある、と推定できるだろう。
今回の記事のデータを見ると、行旅死亡人はさほど増えていないので、増えているのは「身元は判明したが近親者に引き取りを拒否された遺体」であろう。

これは60年代以降の高度経済成長→都市化→核家族化→家族の解体・少数化が生み出したもので、かつ超高齢社会になった現在、特に不思議なことではない。むしろこの程度の数に留まっていることに注目すべきなように思われる。深刻化するのはこれからではないだろうか?

問題の解答は、記事中で島田裕巳さんが言っているような
「引き取り手のない遺体の増加は、家庭や地域の『人を葬る力』が失われつつある現れだ。(略)今後、団塊世代の高齢化が進み、死は飛躍的に増える。より簡単で負担が少ない供養のあり方を考えるべき時代になっている」
ではないだろう。
島田さんは何とか「0葬」に結び付けたいのだろう。

すでに葬以前に介護が家庭、さらには地域が負担することが困難になってきている。家庭では困難なので、と始まったのが「介護保険」という社会的な負担である。
しかし、これも充分でないことはもはや明確である。
これに対して「より簡単で負担の少ない介護のあり方を考えるべき時代」とは島田さんもまさか言わないだろう。

人を葬る最もミニマムな費用として日本社会が設定しているのは約20万円である。
「約」としているのは地方行政単位で多少の差異があるからである。
生活保護の葬祭扶助額、大災害時の災害救助法に基づく埋火葬費用(式典に関する費用、県が負担した費用を除く)の上限が東日本大震災時の石巻市の例で約21万円となった。
式典は本人または遺族の信条・宗旨によるからこの費用は対象としないが、遺体の納棺・保全、搬送、火葬等の最低費用が約20万円とされて、引き取り手がいない死者の葬りにおいても、この範囲で行政が負担する(但し、故人の財産がある時はそこから差し引く)。
大災害を除外したとしても、当然にも死体のある地の行政が負担する葬祭扶助費は今後増加し続けることが予想される。
すると島田さんの発言は今の約20万円は高いからもっと少額で済むように、この約20万円が減額できる方法にしろ、ということになるのだろうか?
「死者にかける費用を減額せよ」と聞こえるのだ。

人を弔う費用の最小限の費用として約20万円が高いとは思えない。
式典等の費用は家族、親戚がいなくとも死者の周辺にいる友人、知人、地域の人が任意に負担することでカバーできるだろうし、またそうするのが望ましいだろう。
仮に誰かがいなくとも行政の担当者と仕事を請け負う葬祭担当者はその死者のために手を合わせている。

身寄りがいなかったり、引き取り手がいなかった死者のために、社会は最低限これだけのことをしますよ、という保障が20万円+なのである。

死後発見が遅れた遺体は当然にも腐敗を開始している。東日本大震災でもそうだった。
そうしたリアルな遺体を尊厳をもって世話をする仕事に対して
「20万円は高いよ、10万円でやれよ」「物の費用はもっと安いだろう」と言っているように聞こえるのだ。

どんな状況におかれた死者にも、尊厳ある保全と礼節をもった葬りは保障されなければならない。
そしてそれに携わる人たちは「弔い」を心に刻んで行わなければならない。
それが憲法の基本的人権の一部を確実に構成するものであると思う。

本日の朝日には「戦後70年へ プロローグ③」として「消費者の時代 迷い道、消費者の王国 進んだ価格破壊」という興味深い考察がある。
70~80年代にあった「消費者主権」「価格破壊」というプラスイメージが90年代以降のデフレ、非正規雇用の増大、労働者の使い捨てを招いた一因ではないか、と言っている。
そこに
「私たちは『消費者の王国』にたどりついたのかもしれない。しかし、私たちの存在の別の大きな側面である『労働者』に対しては、冷たい国になった」
と書かれていた。

日本人は戦前、戦中も愚かだったかもしれない。
しかし戦後だって、戦争こそ自分の手で直接は触れてこなかったかもしれないが、さほどきれいな生き方をしてきたわけではない、と思うのだ。
いろんなところに差別、偏見は蔓延している。
第二次大戦ではそれが国家による暴力として見える形で現れたが、今は表には見えにくい形で浸透しているように思うのだ。

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