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2016年10月25日 (火)

「家族葬」における「家族」とは?

「脳死」が出て「心臓死」という言葉が流通するようになったと同じく、
「家族葬」が流行することで「一般葬」という言葉が使われるようになった。
しかし「一般葬」という言葉はあまり好きではない。
葬儀というのは本来死者や家族によって個別固有なはずなのに、と思うからだ。

大体「家族葬」という言葉はブレのある言葉だ。
出現した時はバブル期までの葬儀への反発から出てきた言葉だったように思う。
バブル期の末期には、普通の個人葬で200~300人の会葬者を集めた葬儀が珍しくなかった。
そして会葬者の7割程度を生前の死者を知らない人が占めた例が少なくなかった。
本人の関係者というより家族の会社関係者とか。
7割が死者本人を知らない人ということは、悲しんでいない第三者が7割ということだ。
家族はそうした人たちに失礼がないようにと葬儀では気を遣う。
本来は弔うことに専心すべき家族がだ。
家族の弔いは、葬儀が終わり、皆が去った後、仏壇、後飾り壇の前で始まる。
弔うべき人が弔うのが葬儀であるならば、弔うべき人の想いが活かされないのはもはや葬儀ではない。

何のための葬儀か、と不信感をもった家族が少なくなかった。
高度経済成長以降、葬儀は社会儀礼化が異常に進んだ。その結果が弔う人を疎外する葬儀を生んだ。
祭壇の大きさで葬儀の立派さが競われた。
死者を弔うことと祭壇の大きさなんかと比例すべきもないのに。

高度経済成長期~バブル期の「一般的な葬儀」というのは歴史的に見れば異常な葬儀だった。
社会儀礼というのは葬儀がもった一つの機能ではあったが、社会儀礼に偏した葬儀は異常であり、それは葬儀の本質を破壊するものであった。
今の葬儀の状態を見て「伝統儀礼の軽視」と批判する人が多い。
しかし、高度経済成長からバブル期の葬儀が決して褒められるようなものではなかった。
それこそが葬儀の本質の破壊行為であった。
散々破壊しておいて今になって「伝統儀礼の軽視」などというのはそもそもおかしい。

だからバブルが崩壊し、高齢化ということが大きく影響するようになると、「一般的な葬儀」がもっていた価値観が崩れた。
崩れた葬儀の受け皿となったのが「家族葬」である。
死者を弔うべき人が疎外された葬儀を本来の弔うべき人に戻そうという機運、というよりも、「だれのためかわからない葬儀は嫌だ」という、家族の葬儀で嫌な体験をした人々の想いが「家族葬」に向かった。
自分たちが「遺族」として嫌な想いをした葬儀を子どもたちに体験させたくないと思う人たちが「家族葬」志向に向かった、という面がある。
「家族葬」を支持した人が最も多いのは若い世代ではない。
若い世代はそもそも葬儀を体験していないから、体験しても隅に座っていただけなので肯定も否定も切実な感覚がない。
「家族葬」を支持したのは60代以上の家族の葬儀を体験した世代であった。

また環境も大きく変わった。
日本の葬儀を支えていたのは地域共同体であり、高度経済期以降はこれに企業が加わった。
地域共同体は弱くなり、もはや葬儀を差配する力をもたなくなった。
企業もバブル景気崩壊の痛手が大きく、従業員を支援する余力を失った。
いやがおうでも「個人化」を葬儀は強いられた。
共同体の規範も社会的常識も力を失った。
「一般的な葬儀」を要請する力は急速に衰えた。

もう一つは高齢化である。
よく出される例であるが、90歳の人が亡くなった時、本人の同世代の約半数は既に死亡しているか、生きていても要介護状態にあるとか出席が難しい人が多い。
同世代のきょうだいやいとこたちも同じである。
子どもももはや定年後であることが多い。子どもの義理で集まる人ももはやそれほど多くない。
地域社会でも付き合いが続くのはせいぜい80歳である。その世界でも隠退して10年を経つとその人をよく知る人も少ない。
ほっておいても葬儀であるからと集まる人は少数化せざるを得ない。
あえて「家族葬」と言わなくとも葬儀は小型化する。

「家族葬」は言葉自体がもつ難しさを抱えている。
もともと「家族葬」への傾斜は厳密な「家族葬」の概念規定に基づくものではない。
しかし「家族葬」と言うと、それを概念化する愚かな者が出てくる。

その大きなものが「家族葬」とは「家族だけでする葬儀」という誤解だ。
人を囲む関係は血縁だけとは限らない。
血縁者ほどあてにならないものはない、という人は多いはずだ。
家族が本人を最も支えている人である場合が多い一方、家族から疎外されている人も少なくない。
本人に最も親しい人を「近親者」と言うならば、それは「家族」には必ずしも限定できない。
本人にとっての「近親者」はその人によって異なる、数の範囲も異なる。
人の生き方、環境によって異なるのがあたりまえなのだ。
(※「近親者」という語の意味を少し変えてみた。)

私は一般の人に比べると血縁者に対する感情が強い人間らしい。
従妹の終末期にやきもきし、その葬儀も仕切った。
姉の死に対してもそうである。
しかし、これは今の「家族観」から言えば、いささか主流ではないらしい。
例えば親が死ぬ。
弔いの中心は子どもとなる。
その子にとって家族とは親と自分たち子どもであり、せいぜいその子(本人の孫)までが一般的らしい。
私に言わせれば、死者中心に考えると本人のきょうだいは立派な本人の家族であるはずだが、子にとってみれば単なる「親戚」と考えてしまう例が少なくないらしい。
実際に私の年上の知人の女性は、早く両親を亡くし親がわりだった姉の死を半年以上知らされないままだった。
姉の子を問い詰めると「母が家族葬を希望していたから」と応えたという。
本人の妹は「家族」ではなかったらしい。
その女性が悔しがっていたのは言うまでもない。

しかし他方、さまざまな意味で困窮しても親やきょうだいからの支援を得られない人も少なくない。
本人の家族からも孤立すれば、死亡し葬儀だからといって子は、本人のきょうだいだからという理由だけで「近親者」ではないのだから連絡すらしたくない想いになっても不思議ではない。

またこんな例もある。
老親だけが地方に残り、子は都市に出るという例は多い。
子は再び地元に戻る気がない。
老親の日常の仲間は地域の人である。
その老親が死亡すると葬儀で戻ってきた子どもたちは「葬儀は家族葬で」と言って、本人が付き合っていた親の仲間を締め出す。
子たちにとっては「親」といっても特別な存在ではない。特別な存在であったのは親の仲間たちである。
子も本人にとっては真の「近親者」ではなく、血縁ではない地域の仲間が本人にとっての「近親者」である例は少なくない。
「家族葬」という名で、本人にとっての真の「近親者」が疎外され、排除され、締め出される例は少なくない。

老人施設で終末を迎える高齢者は少なくない。
老人施設に入った人を面会する人がほとんどいないという事例は4分の1以上いる。
普段面会に来ない家族に「症状が悪化した」と職員が連絡しても、「危篤」と連絡しても来ない。
「死亡」したと連絡すると「そちら(施設)で葬儀をやってくれないのですか」とのたまう家族もいる。
死亡しても家族に弔われない人は意外と多い。

家族から切られた人もいれば、家族を切った人もいる。

葬儀を見て、家族が柩の側から離れようとしない家族がいる一方、柩に近づこうとしない家族もいる。

「家族」幻想を抱えた人は3分の2以上いるだろう。しかし、3分の1はそうではない。その人たちにとって「家族」は解体し、浮遊している。
生涯未婚率が高まり、結婚しても離婚する人が3分の1の時代である。
「家族」観が多様化するのは当然だし、そこに「規範」をもち出すとおかしくなるケースが多い。
そんな時代環境で「家族葬」が主流となるとさまざまな歪みもまた生じる。

実態としての「家族葬」はさまざまである。
家族数名から80人くらいを集める「家族葬」もある。
「家族葬」が主流となれば「家族葬でいいんだ」と便乗する者も出てくる。
死者である家族に愛情を抱いているわけでもないのに、安易な簡易な遺体処理を「家族葬」という名で営むものもある。

葬儀が多様化しているのに葬儀社では「家族葬」プランや「一般葬」プランが並ぶ。
なんでこうパターン化しなければいけないのか?
中には「直葬(火葬式)」プランまである。
人によって考え方が違うのに「これが家族葬です」と言う葬儀社がいるが、その無神経ぶりに腹が立つ。
そもそも「家族葬」志向は消費者の志向に業者が便乗したもので、業者が提唱、主導したものではない。

それぞれが異なるのだから、どんな葬儀をしようと、その形態だけで評価はできない。いいも悪いも言えない。

「直葬」だから単なる遺体処理ではなく、「一般葬」(繰り返すが嫌な言葉だ)なるものでも家族の想いとしては単なる遺体処理である事例が少なくない。

宗教儀礼を選択したからといってそこできちんとした弔いが行われているわけではない。
遺族は宗教儀礼中は退屈な時間を過ごし、死者も家族の想いも知らない雇われ僧侶が気のない経を唱えている光景はよく見る。
そんなのは弔いではない。
そこで行われているのは「宗教儀礼」という名の単なる虚飾に過ぎない。
所詮虚飾に過ぎないものに「安い」も「高い」もないし、「適正」「明朗」もない。
せめて遺族か宗教者かどちらかに死者を真剣に弔う気があるなら意味もあろうが。
またその間に「消費者のために」という顔を演じるブローカーが介在することがしばしばなのが腹が立つ。

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