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2016年10月14日 (金)

「自死」ではなく「自殺」? 血迷ったか中外日報①

仏教界のオピニオン紙「中外日報」2016年9月30日号の社説「自殺美化の危険」は、自死に対する偏見を助長するもの以外のなにものでもない。
http://www.chugainippoh.co.jp/editorial/2016/0930.html

新聞などでは近年、自殺といわずに「自死」と言い換える傾向が見られる。刺激的に響く語を避けて穏やかな表現に修正することはよくある。本紙では自殺と自死を併用するが、「自死」と表記する場合、残された「自死遺族」の立場・人権を特に配慮している。

そのことも踏まえ、あえて指摘したい。「死」と「殺」は違う。「死」は自動詞だが、「殺」は他動詞である。病気や事故による死は病死、事故死といわれ「殺」は用いない。つまり「殺」は誰かの殺意と行為がもたらす死である。

すると自殺はやはり自「殺」であって、自「死」ではない。もともと生きとし生けるものは必ず死を迎える。生にとって死は当然であり自然ですらある。死とは、はじめから生に含まれる。人間の思うままにならない、頭を垂れるほかない厳粛な定めの現実化である。(略)

生と死は対立概念、あるいは矛盾概念とさえ考えられているが、実は死は生の否定ではない。本来は生き了えること、生の完了である。それに対し「殺」は生の中断で、まだ完了しない生の破壊である。一切の事物の存在には必ず始まりと終焉がある。しかし終焉と破壊は同じではない。要するに生の否定は「死」ではなくて「殺」なのだ。

人がいつか死ぬのは致し方ないが、殺人はそうではない。罰しようがないから自殺罪はあり得ないが、自殺幇助は犯罪になる。私のいのちは私のものだから、どう扱おうと私の勝手だ、という人がいるが、とんでもない心得違いである。そもそも生命があって私があるので、反対ではない。生命は私が手に入れたり、自分で作ったりしたものとは違って、自分の所有物ではないから、自分勝手に処分してよいものではない。

「自死」とは「自分で死ぬこと」「みずから死を選ぶこと」という意味であるようだ。誰でも自殺を考えたこと、もう死んでしまいたいと思ったことがあるだろうし、自殺には他人には窺い知れない苦悩、同情すべき事情があるのだろう。しかし、死は来るもので、招くものではない。自分勝手に選んではいけない選択肢である。

「殺」と「死」は全く別物だ。親しい人の自殺を「自死」と考えたい心情は理解しなければならないが、それはやはり言葉の誤用であり、自殺という行為を美化する危険性もはらむのである。

まずこの社説の目線が問題である。これを「上から目線」と言わずして何だろう。
これは80~90年代の文かと思わず疑ってしまう。
80~90年代には文芸春秋を始めマスコミが大量の文化人を動員して「せっかくのいのちを中断してはならない。生きる価値がある」とばかりに自殺防止キャンペーンをはったものである。
問題は「自殺者」の「生への意思が欠けている」ことにあるとの論理であった。

近年、「いじめによる自殺」「パワハラによる自殺」等々が報じられており、学校や企業が告発されているが、この社説の論理に従うならば、こうした自死者も(他人には窺い知れない苦悩、同情すべき事情があるのだろう、とは言いながら)また自らを殺した者であり、死んで罰しようがないだけの話になる。

かつてキリスト教の牧師や仏教の僧侶の中には自死者の葬儀を断ったり、葬儀をするのでも、その中で「自分のいのちであっても授かった尊いいのちなのだから、自分だけのいのちではない。自分のいのちを殺めてはならない」と説教し、自死者を断罪した例が少なくなかった。
中外日報が仏教のオピニオン紙であるならば、こうした自死者への宗教界の過ちを自己批判すべきなのであって、今さら自死者を犯罪者扱いする論理を展開することではないだろう。

私は今も抗うつ剤を処方してもらっているうつ患者であるが、その酷い時は視野が極度に狭窄し、自己判断することは全くできず、生きることの展望がまったく途絶える状況に陥ったことがある。そこで死に至らなかったのは意思による克服でもなく、他人のアドバイスでもなく、単なる偶然でしかない。その瞬間に電車が入ってきたら線路に転落していても全く不思議ではなかった。常に死を窺っていたし、それ以外の選択肢はなかった。

もとより人がうつに陥るのは固有の問題である。それぞれの健康、経済、人間関係、あるいはそれが錯綜している場合も少なくないだろう。
だがずいぶんと時間が経過し、今では「今危ないな」と自覚できるようになったが、それでも自分がうつになった原因を分析することは困難だ。おそらく精神的疾患はそう論理的に説明できないのだろう。
だが、極度に酷いうつを体験した者としては、そこでは判断力も意思力も一切が失われるということはよくわかる。
だから、少し回復した時に人によく言ったものである。
「がんで死ぬ者がいるように、うつで死ぬ者もいるのだ」と。

(この項続く)

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