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2017年1月16日 (月)

死の授業―個から見た死と葬送(14)

死の授業


「健全な時代」と言うべきなのだろうか。



私たちの青春時代には、背中にベタッと死が張りついた感覚で生きていたものだ。

だが、目の前に座る学生たちの目には、珍しいことを見るような好奇心、あるいは理由もない怖れの感覚が支配しているように見えた。


そもそも授業内容に関心がなく、席に着くなり堂々と机の上に両手と頭を落として寝だす無関心な者もいる。


初めて耳にすることなのだろう。
死というのは年齢・性別・健康かどうかに関係なく突然侵入してくることがあること、
高齢者の終末期の状況、
人が死ぬと腐敗すること、
昔は乳幼児の死亡率が高かったこと、
単独死のこと…などなど、
ほとんど学生たちの日常会話の俎上にのることがありえない話題なのだろう。



澱んだ空気にたまらず、教壇の上から大声を出し
「聴く気のない者は出て行け」
「寝ている者、喋っている者は出て行け!」と叫ぶ。
すると学生たちは、教師が叱ることに驚き、姿勢を正す。

自分たちの常に反抗的だった時代と比べ、今の学生たちは何と温和なのだろう、と今度はこちらが驚く。



「デス・スタディ(死について学ぶ)」は、どこかで体験が交差しないと難しいのかもしれない。
「脳死」「セカンド・オピニオン」「死者との共食」など…

今は彼らには呪語に等しいかもしれない。
いつか「知る」時が来ると信じて、時間の最後まで授業をした。






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