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2017年2月26日 (日)

死の自己決定権―死に対する自由意思の限界(下)

本稿は「現代の死―死に対する自由意思の限界(上)」
http://romagray.cocolog-nifty.com/himonya/2017/02/post-a72d.html#_ga=1.154086584.1288449594.1488071937
の後編。


死の自己決定権

■「死の自己決定権」の文脈

生きる上での「自己決定権」というのは個人の基本的人権として認められている。これは「死の自己決定権」に及ぶのか、及ぶとすればどこまでか、が議論としてある。


憲法第
11条から第14条には基本的人権が定められ、特に第13条は重要である。


13 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。


一般社団法人日本尊厳死協会の設立目的に「死の自己決定権」論議の日本における経緯が簡潔に書かれている。


日本尊厳死協会は、1976年1月に産婦人科医で、国会議員でもあった故太田典礼氏を中心に医師や法律家、学者、政治家などが集まって設立されました。自分の病気が治る見込みがなく死期が迫ってきたときに、延命治療を断るという死のありかたを選ぶ権利を持ち、それを社会に認めてもらうことが目的です。

設立から40年近くが経ち、終末期に対する社会の認識も変わりつつあり、延命治療を望まない人が多数になっています。今後の目的は、そういった人たちにリビングウイルの提示という方法をお伝えすることにあります。

 

この簡潔な文章の裏に書かれているのが「安楽死(積極的安楽死active euthanasia)」と「尊厳死(dying with dignity、消極的安楽死)」を巡る議論である。
そして同法人の最初は「日本安楽死協会」という名であった。

 
63
年の太田らの「安楽死法案」では「安楽死」を「苦痛を和らげることを主目的とするもので、死期を早めることを目的としない。
従って、使用するのは薬剤であって、麻薬あるいは睡眠薬、神経安定剤である。
ただ、その使用の結果、生命を短絡する危険があってもそれにこだわらない」というものであった。

これは現在の尊厳死法案につながる見解であるが、太田自身は「積極的安楽死」を許容する立場であった。


「積極的安楽死」とは「苦痛が極度に激しく、人間的に意味ある生を送れる見込みが将来にわたって存在しない生の状況から患者を解放する目的から医療的処置でもって死に至らしめる行為」を言う。

 
14
年、米国オレゴン州の29歳の女性が進行性の脳腫瘍で医師から半年の余命告知を受け、激痛から、自宅で尊厳ある死をすることを決意、医師からの薬を自ら飲んで死亡した。オレゴン州は米国で安楽死を認めている州である。この医師による行為は自殺幇助でないか、とマスコミやネットを賑わせた事件であった。

これは「積極的安楽死」の範疇に入り日本では認められていない。

日本では立法化されていないではないか、との意見があるが、95年東海大病院安楽死事件(末期がんの患者の遺族が「見ているのが辛い」との強い要請を受けた医師が治療中止、鎮痛剤投与、最後に塩化カリウム製剤を注射し心停止に至った。
これが殺人罪で起訴され、判決では嘱託殺人罪で執行猶予付きの有罪となり確定した)についての横浜地裁判決で医師が法的責任を問われない消極的安楽死(尊厳死)の4条件が示されている。

 

1.患者が耐えがたい激しい肉体的苦痛に苦しんでいる。

2.患者の病気は回復の見込みがなく、死期の直前である。

3.患者の肉体的苦痛を除去・緩和するために可能なあらゆる方法で取り組み、その他の代替手段がない。

4.患者が自発的意思表示により、寿命の短縮、今すぐの死を要求している。

 

■生も死も「自由意思」は万能ではない

今、議員立法で「尊厳死法案」が検討されている。
私は、安楽死について積極的にせよ消極的にせよ一般論として是非を言うものではない。
だが、医療行為に「本人の自由意思」が金科玉条として過度に入ることは危険と思っている。


今の高齢者の口癖は「迷惑をかけたくない」である。
また難病患者も家族の負担を考慮する。
こうした人たちが「本人の自由意思」で尊厳死を望むということが入り込む余地があることを危惧するからである。


もとより本人の尊厳は大切である。
しかし、生も死もほとんどが本人自由意思で決定されているわけではない。


「ピンピンコロリ」信仰は昔から民衆の中に根強くある。
特に女性に根強い。
それは死者を看取った苦渋の体験から生まれた貴重なものである。


同じく「ヨメイラズ」は嫁に介護の世話をさせたくない、というものであったが、これは時代状況がすっかり変わった。
介護し看取るのは、嫁ではなく、結婚して姓が変わろうが実の娘の仕事になったからである。


「ピンピンコロリ」の願望は切実だが、それが現実化されることはほとんどないのも事実である。



患者のクオリティ・オブ・ライフを無視しての延命治療優先の時代には「本人の自由意思」は重要な課題であった。

だが尊厳死の意思を示せば、無判断も含めて8割かたの医師が尊重する時代になった。
今度は「自由意思」を隠れ蓑にした問題も注意すべき状況を迎えている。

「本人の自由意思」が発揮できるのはそんなに大きくない。
「本人の自由意思」を理由に生も死も不当に傷つけられていいわけがない。

社会は歪(ひず)みにこそ注意深くあらなければいけない。
そうした配慮こそ「人権の尊重」には求められている。


おわりに


私は先に書いたように「終活ブーム」には否定的である。
そこには死や老後の不安を煽ろうとする商業主義を見るからだ。

しかし、
70年以降、カトリック、プロ手スタンを問わずキリスト者が、わずか1%の存在ながら、終末期医療、死別の悲嘆、自死、高齢者問題等々の現場で先頭を走り続け、今もそうであることを感慨深く思っている。
この人たちの働きがなかったら日本の死の状況は大きく変わっていただろう。

しかし、近年は若い仏教者の関心が高い。
寺のせめて1割が変われば世の中が変わる。
キリスト教のプロテスタントが個人、個々の教会としてはがんばっているのだが、教団が内向きに転じて久しい。
「世にある教会」としての姿勢を放棄している。
ここは仏教者に期待すること大である。

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