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2017年9月に作成された記事

2017年9月19日 (火)

死学 ―遺体の位置づけと取り扱う者の倫理①―遺体に対する考察

遺体に関する考察

 

「遺体」についてはこれまで何回か書いている。

しかし、ブログではまとまった形では掲載していない。そこでこの地味だが逃れられないテーマについて、さまざまな形で書いたものを再編して掲載する。
SNSという特性の同時性とはかけ離れたものであるが、ご理解いただきたい。
しばらく続くが、関心のある方は目をとおしていただけると幸いである。

 

葬儀を論ずる場合に「遺体」は外せない。
しかし、過去に仏教会との関係で葬儀について書き、その中で遺体について書いたら、「残酷過ぎる」ということで、その箇所がカットをよぎなくされたことがあった。


葬儀は死を受けとめる作業であり、プロセスである。遺体の現実を見ずして葬儀を語れるか、と憤慨したが、それまで散々と意見の違いで摩擦が生じていたので、やむなくカットした、という苦い思い出がある。

 

最初は

死学thanatology,death study

―遺体の位置づけと取り扱う者の倫理」
IFSA『遺体衛生保全概論』所収)
を3回に分けて掲載する。

 

死学thanatology,death study

―遺体の位置づけと取り扱う者の倫理①

 

1.死学とは何か?

 

はじめに

 

本論は遺体を取り扱うエンバーマーにとっての遺体の取り扱いに関する倫理について書くことを本旨としている。
但し、エンバーミングは別名で「葬儀科学funeral science」とも称されるように、大きくは死学thanatology,death studyに位置づけられるべきものとしてある。


ところが死学とは、欧米においても日本(多くは「死生学」という用語において)においても内容は確定しているものではない。

人の死は個の死だけではなく、近親者(血縁に限定せず親しい関係を結んだ者、という意味で用いるが)等との関係において起こる出来事である。その意味では医療という範囲を超えていく。


近年においては、1995年に生じた117阪神・淡路大震災、2011年に生じた3・11東日本大震災において数千人、数万人というレベルでの大量死が起こっており、そこで死者および近親者への取り扱い、支援が問題となっている。
それはあくまで個々の死でありながら社会としてどう対応するかが問われる問題としてある。


考えてみるならば、人間が経験してきた歴史には、常に(と表現していいほど)、日常に発生する個々の死に加えて、感染症、自然災害、近代においては戦争により大量死が繰り返されてきた。

乳幼児の死は、戦後日本でようやく抑制することに成功したが、アフリカ、アジア等の第三世界においては今もなお大きな問題としてある。貧困、公衆衛生が人間社会にとって大きな問題となっている。

死学は、死を接点とする、そもそも諸側面から問われる問題を、それがしばしば当該分野では単独に、あるいは孤立的に捉えられがちなテーマを、学問分野だけにもにとらわれず、多様な視点から照射して、個々の患者本人とその周囲の近親者に対して、原点を探りつつ、自由で人間的な死、自由で人間的な弔いを支援するとともに、死に対して向き合っていける社会の実現に寄与することを目的としたものである。

死学の最初に関心を呼んだのは終末期医療terminal care)の分野で人間的な死に方を実現するための患者への支援、ケアの場面であった。

近代医療が治療cureを優先し、患者の人間的な生き方を無視しがちな状態に警鐘を鳴らし、cureだけではなくcareも充分に配慮すべきとの主張を行った。
今の日本では大方のコンセンサスとなっているこうした終末期医療は、死学がもたらした大きな成果である。

同時に災害、戦争、事故、犯罪の被害者である近親者の問題にも関心が向けられてきた。

こうしたことに遭遇して死亡した人の近親者だけではなく、がん等の病気の患者に対する近親者の看護、また近親者の死に面した遺族に対する支援、ケアも課題となっている。WHO(世界保健機構)がホスピスの課題として患者本人へのケアだけではなく、その家族のケアも重要と指摘したのは最近のことである。
しかし、この家族へのケアの状況は医療機関では重要なことと認識されていながら、具体的に取り組んでいる事例はまだ少ない。


喪の作業grief workに対する関心は高まっているが、これの障害になっているのは家族の態様や社会のあり方である。こうして死を排除してきた近代の社会も問われることとなった。

今日terminal care 、あるいはgrief careと呼ばれるものの起源は、欧米では宗教者による病者やその家族へのパストラルケアpastoral careにある。ホスピスの起源が修道院に求められるように。

患者やその家族、あるいは災害等の被災者の家族への傷みpain,今、特定の宗教に偏してではなく,スピリチュアルspirichual、つまり根源的問いとして語られている。
死に瀕した人、あるいは死別した人の傷みが深いことをspirichual painspirichual careは語る。だが、これは中世社会が経験したように論理を超えるゆえ危険性があることも心得ている必要がある。


私たちが求められているのは病気の人、被害に遭った人、そしてその人たちの死に向かうプロセスにおいて抱く傷みと看取りと死別後に抱く家族の傷みに対して、まるでその人のことがわかるように説くことではない。
常に謙虚に固有の傷みとして受け止め、理解しようとする態度である。死者への尊敬、遺族への配慮はささやかな佇まいであり、日本語で呼ぶ「遺体衛生保全」embalmingは彼らに捧げるささやかな一つの環境なのだと思う。

 

2017年9月10日 (日)

人の生死は残る者の心に刻まれ、受け継がれていく

前回の更新が7月29日だから、1ヶ月以上放置したことになる。
過去には半年以上放置した前歴があるから、私としては珍しいものではない。

放置の理由はいつも単純である。
他にやることに気が囚われて、更新できずの日が続いて、そのうちこれを書こうか、あれを書こうかと迷い、結局手つかずになる、ということだ。

そこできょうはかまえず、今朝の新聞で、これはと思ったことを書き留める。

「大のスポーツ狂い」(皆は信じないかもしれないが中高ではバスケットボールの選手で、結構優秀なガードのプレイヤーだった)としては、心躍る出来事だったのは昨日、陸上100m男子、桐生が日本人初の9秒台、9秒98で走り抜けたことだった。
「暁の超特急」吉岡隆徳が当時の世界タイ記録10秒3を記録したのが1935年のこと。
桐生が高校3年で10秒01を記録してから、その後何人かのスプリンターが出てきたが、私はなぜか桐生に賭けていた。
その桐生が9秒台に突入したのだから昨日から心が躍り放なしである。

今朝の朝日では「科学の扉」で気になる記事が。
「『想定外』を考える新感染症 瞬く間に」
である。
そこで書かれているが
 
20世紀中に起きたパンデミックは3回あり、すべてインフルエンザだった。世界で2千万人以上が死亡したとされるスペイン風邪(1918~19年)も、元々は鳥インフルエンザウイルスが起源とされている。

 パンデミックが起きれば交通網が止まり、医療機関は患者であふれる。世界銀行は、スペイン風邪のような深刻なパンデミックが起きた際の損失を世界のGDPの約5%にあたる4兆ドルと試算している。国の想定では最悪の場合、国内の患者数が2500万人、死者を64万人と推計。米政府は今年6月に発表した想定で、死者は最悪で193万人に上ると予測している。

これだけ公衆衛生が徹底する世の中になったが、人間は感染症(かつては「伝染病」といわれた)を克服できていない。
それどころか地球温暖化、グローバル化、人口増加で、「動物から人へ」という感染症の脅威、瞬時の拡散、大打撃の脅威は拡大している。

想えば日本でも中世に「疫病」と恐れられ、日本人の死穢(しえ)意識を決定づけることになったのも感染症の脅威であった。
(ケガレ意識というものはこうした事実に基づいていることを知らず、どうでもいい議論を展開している人類学、民俗学の「学者」が多すぎる!)

東ローマ帝国が機能不全に陥った背景にはペスト大流行による人口の急激な減少があった。

「メメント・モリ」(死を想え)という言葉が有名だが、これは14世紀の「黒死病」と恐れられたペストの大流行を背景としている。

話は替わり、
広告特集で私の大好きなミュージシャン山下達郎が取り上げられている。
新曲REBORNについて話しているところに過不足なく彼の死生観が語られている。

「僕は、人が死んだら灰になるだけ、という死生観には納得できない。
家族や友人たちが一人二人とこの世を去る中で、たとえ彼らが社会的に特別なことを成し遂げたわけではなくても、彼らが生きた歴史や思い出は、残された者も心に刻まれていく。そして、それは受け継がれていく。」

大げさに言えば、私たちが歴史の中に生きている、というのは有名無名を問わず、生きて死んでいった人たちの流れの中にいる、ということであり、その中で私たちも死んで次の世代にバトンを渡していくということである。

これからも時たまこのブログを書く。
あまり期待しないでいてくれると気が楽である。
「ブログの更新が止まっていますね」と言われるのは結構プレッシャーである。
気が結構弱いのだ。

近況で言えば、たいしたことはないのだが、1週間前ほどからときたま咳込む現象が生じて悩んでいる。便秘だといっては気にし、眼がむずかるといっては目薬をさし、右耳が聴こえにくい(今は治った)といっては心配し・・・原稿を少しずつ書きながら悩んでいる。そんなつまらない気が小さいことにくよくよしている。

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