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2018年1月に作成された記事

2018年1月30日 (火)

四畳半からの報告20180130

IFSA(日本遺体衛生保全協会=エンバーミングの組織)から『エンバーミング技術』3号が出た。



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目次
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日本のエンバーマーたちの技術進化はめざましく、先進国の北米とも遜色ないレベルになっている。
今回の3号は橋詰知子さん(スーパーバイザー、燦ホールディングスグループ公益社)が座長となってまとめたもの。
馬塲、佐藤(貴)、関、橋詰さんが創刊号からの編集委員。
監修は高篠智(杏林大医学部講師)、宇屋貴(スーパーバイザー)さん

私は創刊号以来の最後の尻たたき役で制作を完成する役。
こういう若い人たちと一緒にする仕事は楽しかった。

1000円+郵送料
事務局は
〒254‐0013神奈川県平塚市田村9-9-16
電話0463-52-0544
メール:formail@embalming.jp
ホームページ:http://www.embalming.jp/
こうした仕事もしている。


昨晩、白河の青木かおるさんから電話があり衝撃を受けた。

全葬連会長、公益社(京都)会長、葬祭ディレクター技能審査協会会長の
松井昭憲さん(75)が急逝された。
今朝、京都公益社の松井さんと同級生で営業本部長の加藤さんに電話してうかがったところによると
死亡は19日、24日には密葬を近親者で済ませ、2月15日13時から京都駅近くの公益社南ブライトホールにて社葬が行われるとのこと。
文字通りの急逝。
深夜に浴室で倒れ、救急車で搬送し、搬送先の病院で息を引き取られたとのこと。

松井さんとは先代で全葬連2代目会長を務めた松井信史朗さんからの付き合い。
雑誌を創刊した当時、先代が全葬連の役員に私を紹介してくださった。

昭憲さんは私の4つ上。
全葬連教育研修委員長の時、中央にあまり出て来られない所属員のために地方でセミナーをやる、というので当時燦ホールディングスの社長であった吉田武さんと私が組んで地方行脚したのはよく覚えている。

全葬連会長になって以降、「勉強したい」というので上京された折に、しばしば品川駅近くのホテルで「家庭教師」を務めさせていただいた。
京都公益社の社員研修等で話をさせていただいたこともある。

全葬連と全日本仏教会では今でも定期的に意見交換を行っているが、松井さんが会長になってからのこと。
仏教会と葬祭業界が話もしたことがないのはおかしい、というので初回は私が仲立ちをさせてもらった。

葬祭業界の国際組織であるFIAT‐IFTA(国際葬儀連盟)の副会長で、今年会長に就任が内定していた。
就任演説の原稿を依頼され、昨年すでに渡していたが、読まれることはなくなった。

さまざまな評価はあるだろう。
だが、私は個人的に親しくさせていただいたことを深く恩義に感じている。
一昨年の私の雑誌休刊、事務所閉鎖でも、変わらぬ付き合いをさせていただいた数少ない一人であった。
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京都新聞の訃報はhttp://www.kyoto-np.co.jp/politics/article/20180129000144

公益社会長の松井昭憲氏(まつい・あきのり)が19日午前1時15分、急性心筋梗塞のため京都市内の病院で死去した。75歳。京都市出身。近親者で密葬を行った。社葬は2月15日午後1時から京都市南区西九条池ノ内町60、公益社・南ブライトホールで開く。葬儀委員長は京都銀行頭取の土井伸宏氏。喪主は長男雄(ゆう)氏。

 2004年から全日本葬祭業協同組合連合会長を務めた。

個人的なことで言えば
昨年末に母方の叔母(母の弟の妻)が亡くなった。
これで親の世代が全員死んだ。
といっても子世代でも従妹が62歳で、姉が72歳で死んでいる。
生命は順番どおりとは限らない。

私も姉の死んだ歳に並んだ。
いつ死んでもおかしくない歳であるし、自覚はあるのだが、元気であるため長命しそうなのが不安である。
「死ぬことが怖い」
というが、幾多の友人、身内の死を経験することで、それはない。

いのちの価値はけっして長さではない。
また、自分のことを考えても、若い時に書いたものを今書けと言われてもできない。
今が「成熟」というわけではない。
歳を重ねての成長もあるし、退化もある。
その時、その時の価値があるのだと思う。
また、過ぎ去ったことは後悔しても戻れない。

また、いのちの長短は自分ではけっして選べない。

話は変わるが、昨秋に新潟妙光寺の住職交代での記念誌
『角田山妙光寺法燈継承式記念誌 妙光寺のこれまで、そして、これから』
を編集させていただいた。
さんざん皆であーでもない、こーでもない、と打ち合わせを重ね、寺の全体像をどう伝えたらいいかを議論して作った。
寺に関係する人が自分の関心のあるところから、どこからでも読めて、負担なく読める、ということを一義的に考えて編んだ。
また、若い世代の僧侶たちに読んでもらいたい、と願って編んだ。
地方の過疎地にあるけっして豊かとはいえない寺がどう歩んできたか、檀家の人たちの暮らしにどう寄り添ったか、写真1枚1枚にこだわって編んだ。
永代供養墓の先駆者という派手な面だけではなく、地味な歩みも知ってほしかった。

この記念誌を毎日新聞の昨日(2018年1月29日)朝刊コラム「身じまい練習帳」で滝野記者が取り上げてくれた。
滝野記者のFacebookにはその前後のことも含めて書いてある。
https://www.facebook.com/takahiro.takino.3?fref=hovercard&hc_location=friends_tab

若い世代の僧侶たちに読んでほしい。
入手は可能だ。
価格はついていないが、1冊あたり実費だけで2千円はかかっている、ということは頭に入れて郵送費込みで寺に申し込んでほしい。
といっても残部がたくさんあるわけではない。
真に読みたい人だけが申し込んでもらえば、と思う。
http://www.myoukouji.or.jp/about/index.html
もっともわけてくれるかを私が保証するものではない。

2018年1月26日 (金)

檀家制度の成立ー葬祭仏教の史的展開④

葬祭仏教の史的展開

1 葬祭仏教の誕生
http://romagray.cocolog-nifty.com/himonya/2017/03/post-2697.html

2 葬式仏教と葬祭仏教

http://romagray.cocolog-nifty.com/himonya/2018/01/post-c6ed.html

3 聖たちの世界

  http://romagray.cocolog-nifty.com/himonya/2018/01/post-eba8.html

4 檀家制度の成立(今回)


■檀家制度の原型

檀家制度が法制化されるのは江戸中期の寺請制度によるものであるが、貴族や武士以外が檀那となり寺を支えるようになったのはそれより古い。
「戦国仏教」と言われる室町後期から戦国時代にかけて聖(ひじり)たちが民衆の中に入っていったことによる。
この手掛かりになったのが「葬祭仏教」である。

この時代以降江戸初期にかけて全国に寺院が展開される。
現在も多く残る仏教寺院の多くはこの時代に創建されている。
この寺院展開はさまざまであるが、大きく2通りある。
元来の村落墓地に寺が建設されたもの、寺が創建されて墓地が造られたものとがある。

いずれにしても大量に出現し、全国展開した仏教寺院は、貴族や武士によらず民衆が檀那=スポンサーとなってできたものである。
しかもこの多くは仏教各宗団が組織的に創建したものではなく、文字通りに民衆が地方展開した僧侶たちと協働して、それぞれで創建されたものである。

この背景には農業の生産性が向上し、農民が土地に定着し、農民たちが結束して「近世の村」を誕生させ、武士たちに対し一定の力をもつようになったことがある。
「戦国時代」というと武士が覇権を争い、織田・豊臣・徳川という近世の統一政権形成の時代と想定されるが、過酷な状況にあって、他方では民衆が大きく力を伸張させた時代である。

そしてこの結果として民衆を檀家とする大量の仏教寺院が全国展開された。
全国統一をなしとげた徳川幕府が支配を強化するためには、この勢力は無視できないものはとなっていった。

 

■本末制度


近世に入っての仏教は政治に絡めとられていく。
1615
年、徳川家康は寺院法度(はっと)を制定。
これを根拠に幕府は163233年に各宗本山に末寺帳の提出を命じる。

いわゆる現在に続く「本末制度」である。
仏教寺院を組織化し、幕府の管理下におさめた。
「聖(ひじり)たちの仏教」に見られる民衆への自由な展開を規制したのである。
そして以降、幕府は支配を強化する道具として仏教寺院を利用していく。
別な表現をするならば、仏教寺院の民衆への影響力を無視し政治や武力だけで民衆支配をすることはできなかった。

 

■禁教令、島原の乱、鈴木正三の布教


寺院法度の3年前の1612年、幕府は禁教令を出す。
いわゆるキリシタン(カトリック)禁制である。

このキリシタン弾圧の結果が島原の乱16371638年。
もっともこれは幕府、島原藩による領民収奪への反抗に対してキリシタン禁制を口実にしたものである。
島原の乱は幕府攻撃により3万人以上を殺戮して終結。
この結果、キリシタンは地下に潜り、鎖国となる。

島原の乱後のこの地域に曹洞宗の鈴木正三(しょうさん:15791655)が布教。
正三は『破切支丹』を著す。

鈴木正三が用いられたのは三河武士の元旗本であったこと、島原の乱後に天草代官となった弟重成からの要請による。

正三は在家仏教=仏教の民衆化を理論的に強めた。
曹洞宗が道元という思想的高みを獲得しながら、後に実態的には「生活仏教」としての性格を強化しているのは、葬祭仏教化による民衆化に加えて、正三による影響が極めて強い。

正三の『破切支丹』は仏教側からのキリスト教批判という意味で注目されるが、「仏教対キリスト教」という地平でははなはだ不公平なものである。
幕府弾圧後の後追いであるからだ。
切支丹弾圧に仏教側から理論的に支えた極めて政治的なものと言ってよい。
今でもこの地域一帯は曹洞宗が強い。


■宗門改、寺請制度


民衆はいずれかの仏教寺院に所属しなければならないという寺請制度。
今も続く檀家制度を決定づけたものである。

戦国仏教下の檀家制度は、ある意味では民衆が任意で寺をつくり、寺を民衆が任意で支えたものである。
それに対し、幕府の寺請制度は、いずれかの寺院の檀家となることを強制的に法制として定めたものである。
この差異は大きい。

寺請制度により仏教寺院は制度の一組織として位置づけられることになった。
簡単に言うならば「戸籍係」のようなものである。

寺に檀家となる家族が登録される。
檀家に子どもが出生すれば寺院に届け出る。
檀家が他藩に旅行するときは旅券である手形を寺院が発行する。
檀家に死亡者が出れば檀那寺に届け、檀那寺の住職は「枕経」という名を借りた検視を行い、葬式を行い、寺の墓地に埋葬する。

枕経は中世に臨終経として、つまり死に際に往生または成仏を願ってする念仏、読経を意味したが、次第に死後儀礼として行われるようになった。
死後ただちに行うものとされ、寺請制度下では、キリシタンでないか、不審死ではないか等を検視する役割ももたされた。
もとより臨終経に起源があることから死亡直後の家族の不安に住職が対処し、家族や地域住民とともに死者の葬りを準備する役割も担ったことであろう。

1664
年、幕府は宗門改め制度を開始。
「宗門改め」とはキリシタンでないことを調査することを直接的には目的とした。
1665
年にはキリシタンに加えて日蓮宗不受不施派も対象に加えられた。

だが実態としてはこれは名目であったと思われる。
むしろ支配の基礎となる戸籍台帳の作成による人民の個別管理が目的としてあり、租税管理、夫役管理の基本台帳で、民衆に一定の支持がある仏教寺院にこれを担わせることが適当とされたのであろう。

1671
年、幕府は諸藩に宗門人別改帳の作成を命じ、この制度は完成する。

 

法制度としての寺請制度であるが、特に葬式、埋葬が檀那寺で行うことが義務づけられたため、これによって人の死と寺の結びつきが強化されることになった。
弔い、葬りにも寺院の影響力を強くした。
明治維新で法制化は解かれたものの檀家制度は生き続け、特に葬制における影響力はいまだに強力である。


2018年1月25日 (木)

聖たちの世界ー葬祭仏教の史的展開③

葬祭仏教の史的展開

1 葬祭仏教の誕生
http://romagray.cocolog-nifty.com/himonya/2017/03/post-2697.html

2 葬式仏教と葬祭仏教

http://romagray.cocolog-nifty.com/himonya/2018/01/post-c6ed.html

3 聖たちの世界(今回)

 

 

■仏教伝来

 

圭室の『葬式仏教』の本文の書き出しはこうである。

 

日本人の信仰基盤は自然崇拝であった。それは私たちを取りまく自然のなかで、自分たちに有益なものにたいする依頼、そして危険なものにたいする恐怖、という相対立する二つの感情の、率直な宗教的表現である。

 

圭室はこの先、古代からの神話、発掘成果をもとに辿るのだが、ここでは省略する。


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世紀に、日本古来の信仰があるなかで仏教が輸入されることになる。

 

仏教伝来当時の日本は、蘇我・物部二氏のあらそいに典型的に表現されているように、氏族檀権の時代であった。(略)当時の氏族首長は、現世利益的な貴族宗教を要求していた。かれらの求める現世利益の宗教とは、一体どんなものであったろうか。一口にいえば、息災延命と富貴栄達の要求を満足させてくれる宗教である。

仏教は、恩恵性の豊かな宗教で、インド・支那におけるながい歴史において、貴族の要求に対応する資質を充分に獲得していた。かくて仏教は、六世紀中葉に、日本の社会の要望にこたえて颯爽と登場した。

 

しかし、この仏教の受容は首長宗教としての限界、病気平癒、災害除去を「祈願される程度」であった。
そして聖徳太子が国力強化を企図して、宗教面においては「首長仏教を国家仏教に転換することを意図」した。
国家の積極的な保護により大化の改新(646年)以降、寺院が顕著に増加する。
国家仏教として奈良時代もっとも華やかだったのが華厳宗で743年の東大寺建設計画に至る。


平安時代、仏教は貴族の信仰を集め、貴族の喜捨により荘園領主化を進め、顕密諸教は、平安末期には貴族の財力をしのぐほどにまでなる。


また、この時代、本地垂迹説
(小学館『佛教大事典』によれば、「
本地より迹を垂れるの意。本地は根本の本体、迹は具体的な姿のこと。『法華経』の教説に由来し、宗義は、絶対・真実の仏が釈迦としてこの世に身を現わしたこと。転じて、諸仏・諸菩薩が衆生を救うためにそれぞれの風土・社会に応じて身を現わすこと、また、その現わした姿をいう。〈略〉一一世紀末ころには八幡神の本地は阿弥陀仏であるという説が成立し、以後、続々と各地の神社の本地仏が確定していく」
により、神即仏菩薩として神仏習合が進んだ。


これを政治的には台頭する武士勢力と王朝側のせめぎ合いとして見たのが日本中世史家・義江彰夫の『神仏習合』(岩波新書)である。


義江は、仏教伝来以降も基層信仰としての神祇信仰は社会底辺に根強く生き続け、王権と結びつき、普遍宗教としての仏教に見合うべく変容した。
キリスト教がヨーロッパで各地の基層宗教を吸収し、下に置いたのに比して、神祇信仰と仏教が開かれた結合、並存をした「神仏習合」を高く評価している。


また、この貴族層と結託した仏教を変えよう、そこから離れようとして遁世した聖(ひじり)たちの先駆者が9世紀の教信沙弥、10世紀の空也である。

 

■聖たちと浄土教

 

圭室は、遁世聖たちが限界をもっていることを指摘しながら、

真実の宗教をもとめる人々が聖となって、清貧の生活のなかで求道に精進する姿、それは日本仏教史において、もっともすがすがしいひとこまである。その中から鎌倉時代の新仏教である浄土宗・真宗・日蓮宗・禅宗などがめばえたのも当然のことと思われる


と述べている。


曹洞宗総合研究センターの竹内弘道は「日本仏教と葬祭の関わり」(曹洞宗総合研究センター編『葬祭―現代的意義と課題』所収)の中で、高野聖たちが全国を巡って高野山への納骨を呼びかけたこと、火葬に関与した私度僧(在野の僧)である「三昧聖」がいたことを指摘している。
10世紀の空也がその先駆けといわれる。


一方、浄土教の僧侶たちの中から臨終行儀、葬式を重視する恵心僧都源信(9421017)らの二十五三昧会が現われ、阿弥陀信仰、浄土信仰を盛んにし、浄土教を庶民化する契機となった。

 

■鎌倉新仏教と葬送儀礼

 

竹内は次のように述べる。

 

仏教的葬祭儀礼が広く民間へ普及したのは、鎌倉から南北朝・室町・戦国期にかけてですが、そのことに、鎌倉新仏教の祖師たちが創設した中世仏教教団が、大きく寄与したことは歴史的事実です。彼らが、日本の歴史社会に果たした大きな役割はここにあったといっても過言ではないでしょう。そして、そのことを可能にしたのは、こうした祖師たちの教団が、遁世教団としての性格を持っていたことと無縁ではありません。

鎌倉新仏教を創設した祖師たちと、葬祭儀礼を積極的に行ったその門流の人々とを、単純に同一視することはできません。しかし、前時代から葬儀をになってきた三昧聖や念仏僧、さらに陣僧のように戦乱の中で死者の供養にたずさわった僧や、「毛坊主」とよばれた半僧半俗の僧たちと、これら遁世教団は、体制外の仏教者として、共通した伝統のなかにあったことは重要です。彼らは、そのことによって平安時代以降次第に強まった「死穢」の観念を厭うことなく、民衆救済のための布教活動として積極的に葬祭にかかわっていくことができたのです。

もちろん、彼らは独自の信仰や理論によって「死穢」の観念から自由であったのであり、葬祭儀礼を執行するに当たっては、前時代からの滅罪や鎮魂にとどまらず、往生や成仏という新たな意義づけをもって、これを執り行ったことは見落としてはならない重要な要素です。

 

しかし、「鎌倉仏教」と言われるものが仏教の民衆化をなしたというのは短絡である。

鎌倉仏教と言われるものを担った僧たち、聖と言われ民衆の葬儀に係わった僧侶たちが共通に「遁世聖」という共通の存在であったこと。
また、仏教葬儀が平安時代にはもっぱら死者の滅罪や死者の霊の鎮魂ということに求められ、その呪力に期待されていたのが変わり、聖たちは、民衆の中へ入り、死者(死者の霊)の往生、成仏という死者(の霊)の行方を問題とし、弔ったということである。

 

2018年1月24日 (水)

葬式仏教と葬祭仏教ー葬祭仏教の史的展開②

72歳になった。
「まだ若い」との世辞を聞くこともあるが、それは社会のすさまじいまでの超高齢化を背景としており、人間の自然としては老齢である、と自覚している。
70歳は「古来稀なり」であることを自覚している。
しばらくブログを放置していたが、少しずつ書いていく。

ブログを書いていると、「書きかけ」というのをしばしばする。
次を展開しようと思っているのだが、つい違う話になってしまう。

このブログでもいくつかの書きかけがある。
その一つが「葬祭仏教の史的展開」である。

「葬祭仏教の誕生」を書いたのが201731日であるからほぼ1年前である。

http://romagray.cocolog-nifty.com/himonya/2017/03/post-2697.html

いささか遅いが、その続編を書く。

葬祭仏教の史的展開

 葬祭仏教の誕生
http://romagray.cocolog-nifty.com/himonya/2017/03/post-2697.html

 葬式仏教と葬祭仏教(今回)


■仏教民衆化の社会的背景 「戦国仏教」


仏教が民衆化するうえで社会的背景が左右した点もあるとの指摘もある。

歴史家・湯浅治久は『戦国仏教』(中公新書)で、次のように指摘する。

 

戦国仏教という言葉がある。じつは鎌倉仏教が真に地域に定着するのは室町から戦国時代にかけてであり、それゆえ、鎌倉仏教ではなく、これを戦国仏教と呼ぼう、とする研究者が考え出したものである。

 

この本は日蓮宗を例にとり戦国仏教として僧侶たちの民衆との係わり合いを丁寧に追った本である。


湯浅は、戦国時代が「わき上がる社会の底辺の民衆の力があり、民衆が躍動する時代」という従来の見方に対して、戦国時代が「寒冷化と飢饉に見舞われた社会で、人々が生存をかけて闘った時代」という見方を紹介している。


湯浅は千葉県松戸市の本土寺の過去帳を分析し、「この時代はまさに繰り返される飢饉の時代であったのであり、その際には多くの人々が死を迎えたのである」という事実を示し、そうした過酷な時代にあって本土寺が教線を延ばしたことを指摘し、次のように述べる。

 

人々がその家族・縁者の死に直面して、信仰を欲し、葬送や追善の儀礼を受容することが、その教線の展開を保証していたとしか考えられない。

 

そして次のように書く。

 

また、有力者でさえ餓死に至る、とするならば、そうした事態での信仰への帰依、そして喜捨のもつ意味はいっそう重くなるのではないだろうか。その背後には、そうした信仰にもすがることができない無数の非力な人々のおびただしい死が存在していたに違いない。そうした現実こそ、宗教が受容される実質的な受け皿だったのである。

 

例えば現在の葬送事情の変化の背景に、超高齢社会の到来、戦後世代が喪主となること、バブル景気の崩壊~長期デフレ~格差社会、阪神・淡路大震災、東日本大震災、死・葬儀の生活離れ、地域・家族の変容による個人化の進展…という社会的変化を入れることを否定する人はいないだろう。


仏教の民衆化には、仏教側からのアプローチと併行して、民衆のニーズ、事情が大きな要因となったことは視点として確保しておくべきだろう。

 

■庶民が仏教に求めた葬祭―圭室諦成『葬式仏教』

 

葬式と仏教を語るうえで外せない文献は圭室諦成『葬式仏教』(大法輪閣)である。
圭室は、その「はしがき」で次のように語る。

 

庶民が仏教にもとめているものは、①葬祭、②治病、③招福、の三つである。歴史的にみれば、まず治病、つぎに招福、一五世紀ごろから葬祭という順序になる。そして葬祭化してはじめて、仏教は庶民の信仰を独占することに成功している。ところで現在の仏教においては、治病・招福の面が相対的に弱化し、葬祭一本といっても過言ではない。

 

これには異論のある仏教者も多いのではなかろうか。
「仏教には宗教が期待されていないのか」と。

だが、「葬祭化してはじめて、仏教は庶民の信仰を独占することに成功」したということを事実として否定はできないだろう。
また、現在の日本仏教寺院において、望ましいか望ましくないかは別として、少なくとも財政的には「葬祭」に支えられているという現実を否定できないでいるところが多い。

 

■「葬式仏教」と「葬祭仏教」

 

私は従来「仏教が、概ねにおいて、葬祭一本でしかないことを否定的に語る」ものとして「葬式仏教」という名を与え、「仏教が、概ねにおいて、葬祭一本でしかない事実を語る」ものとして「葬祭仏教」という名を冠してきた。

この2つを分けるのは経済基盤でも外見的行動でもなく、言葉ですらない。
態度である。
態度を分けるのに適当な用語がないものだから、勝手に使い分けている。

言うならば「葬式仏教」は「堕落した」とか、さんざん手垢に塗れているため、中立的表現としては、より使用されることが少ない「葬祭仏教」を持ち出したのである。

また、これは私のみの意見ではない。
浄土宗宗教研究所が、仏教が葬祭に係わることを貶めたり、自嘲すべきでもなく、「課題」として取り上げた『葬祭仏教』(伊藤唯真・藤井正雄編、ノンブル社1997)に負っている。

「葬式仏教」という言葉自体がすでにマイナスの価値評価(開き直りも含めて)をもつことから、いったん「葬式仏教」という言葉から離れて、いまだ手垢がついていない「葬祭仏教」という言葉で論議すべきだ、という主張が、この本には見られるからである。
これはいまさら「葬式」という言葉と「葬祭」という言葉を知ったかぶりして意味的に区別することによって出てきたのではない。


私が「葬式仏教」を批判するのは、葬式に対して生業として係わるものの、葬式に対して必ずしも自覚的に取り組んでいる例が少ないからである。

実際に僧侶養成機関において、「死」について、「グリーフ(死別の悲嘆)」について専門的に教育してきただろうか。(東日本大震災以来、「傾聴ボランティア」としての教育が多少開始されてはいる。)
それもせず、ポンと(私がよく用いる擬態語であるが、サポートもなく放り投げられ)寺という現場に置かれた僧侶が、死にゆく人や、死者を抱えることになった遺族の前に立たされて、試行錯誤してきたのではないだろうか。


多くの僧侶が語ることであるが、初めての葬儀への出仕は、人生経験も少ない若い僧侶を当惑させるものであった。

その体験に「よりよく学んだ僧侶」とその体験に「何も学べなかった僧侶」とがいるというあたりまえの事実がある。
学べなかった僧侶は、結局のところ「葬式に係わる意味」を自覚しないままに、収入源としての葬祭行事を執り行う。


また、「教義的には意味はないが、檀家が求めるから応じる」という態度を取る僧侶もいる。


また、僧侶のなかには、葬式、法事において「異常に」としか表現できないほどに「権威的」である場合がある。
「導師」は死者(の霊)の行き先を左右できる力があり、権威と受け止められるべきである、と暴力団の縄張りよろしく、対抗するものが何であれ排除して、自らの権威を守ろうとする僧侶がいる。
葬式の主宰者は「僧侶以外にはいない」と思い込み、権益を守ろうとする。


こうした誤解をした僧侶が、死者を抱えた遺族を顧みず、どれだけ不当に嘆かせ、どれほどの痛苦をもたらしてきたことだろうか。
その怨念、諦観、嘲笑が「葬式仏教」に対する非難を形づくってきた原因の一つであることは確実であろう。


「葬式仏教」が非難される点は、よく「葬式や法事にしか係わらない」点と言われる。
事実はそうではないだろう。
「葬式や法事でも、意味あることをしているとは思われない、いい加減な係わり」からであろう。


日本仏教が民衆の中に根付いたのは、「死」を抱えて精神的危機、困難、悲嘆を抱えた庶民に係わった、つまり葬祭をしたことによる。
また、日本仏教が民衆からいま見放されるのではないかという危機にあるのは、一人ひとりの死、悲嘆に寄り添うことを忘れた僧侶が白日のもとに晒されるようになったからである。
もちろん戦後文化が伝統的習俗としての葬祭への仏教の係わりを当然視しなくなった、いわゆる「世俗化」も反映してのことだが。

実際に「寺」を見ていると、それは皆同じではない。
無論、地方にある寺は村落の過疎化、檀信徒の高齢化には共通に影響を受けている。
そうであるものの、寺と檀信徒の関係は一様ではない。


力を込めていっておくが、死という現場に誠実に対応している僧侶の下にいる檀信徒や信者は、仏教を疑おうとすらしていない。
そこには深い信頼で結ばれた絆がある。
もちろんそこまで信頼を受けている僧侶が「死」だけに係わっているわけがないのだが。
そういう寺も、残念ながら多数派を構成するまでにはなっていないものの、確実に存在している。


あまり先を急ぎすぎたようだ。次回以降、圭室らの説くところをいま少し追っていこう。

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