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2018年3月に作成された記事

2018年3月28日 (水)

死者・遺体の尊厳を守るー葬祭サービスとは何か?②

■葬儀はだれのためにあるか?

 

「葬祭サービス」の目的は、葬儀等を十全に支援することにある。

そして葬儀等の目的を集約するならば、死者を弔い、送る(別れる)ことである。

 

これは一義的には死者の尊厳を守り弔うことであり、これを死者の近親者が充分に行えるように、近親者の想いに配慮して行うことである。

 

葬儀の葬祭事業者への発注は死者の近親者から行われるため、葬祭事業者にとっての顧客は発注する近親者であり、近親者のために葬儀を行う、と考えがちである。

それは一概には誤りとは言えない。

しかし単純すぎる。

 

そもそも死者が発生しなければ葬儀はない。

その死者を弔い、葬るために葬儀はあるのだから、葬儀の最大の主人公は死者である。

 

葬儀は誰のために行われるか、「死者のため」か「近親者のため」か、の二者択一を迫られるならば、その解答は「死者のため」である。

葬儀において「死者のため」が貫徹されなければ、結局は「近親者のため」にもならない。

 

仮に近親者が死者をいい加減にし、自分たちの満足のために葬儀を行なおうとするならば、葬祭従事者は近親者の意に反しても「死者の尊厳は私が守る」と心に覚悟するのでなければ葬祭サービスは成立しない。

 

■「遺体管理」は重要な責務

 

近年の通夜の場では、柩に近寄らず、遠巻きにしている近親者が少なくない。

「葬儀」ではなく「遺体処理」の場になっているのでは、と危惧する例が少なくない。

 

何も呼び名が「葬儀」とつくから死者の弔いを大事にしていて、「直葬」だから遺体処理だというほど単純ではない。

 

経済格差も大きいし、それぞれの家族の状況、事情、さらには死に至った状況も個々では異なる。

葬儀の外見だけでは判断できない。

それぞれの個々の固有の事情を見なければわからない。

 

90年代後期から主潮流となった「葬儀の個人化」は、外見では判断できない時代に入ったということである。

 

昔から葬儀が急がれるのは「遺体は腐敗する」からである。

遺体の腐敗が進み、死者の尊厳が失われることへの怖れが葬儀を急がせる。

 

死の状況にもよるが、一般的に言うならば、死亡後2~3日で葬儀を終了するのは、近親者の心情、心理を考えると「別れの時間」が不足している。

3日よりも4日、5日がいい。

少なくとも慌ただしいと近親者が思うことは避けるべきである。

 

問題は遺体を必要な期間管理できるかということである。

エンバーミングを処置するのでなければ遺体の安全な保全には自ずと限界がある。

葬祭従事者の大きな役割の一つが「遺体の管理」である。

 

だがこの任務の重要性に対する葬祭事業者の認識は未だに充分ではない。

正確に言うならば、充分な認識をもっている人、ほとんど認識していない人、その中間にある人が混在している。

 

2016(平成28)年の人口動態統計によるならば、死亡数は1,307,748人。

病院等死75.8%(2000年比▲4.3)、老人施設死6.9%(同+5)、自宅死13.0%(同▲0.9)、その他2.1%(同▲0.7)である。

 

16年前の2000年(死亡数961,653人)と比べると老人施設死が増えて、病院等死が減少している。

老人施設死が増加しているのは老人施設入居者増だけが理由ではなく、かつては老人入居者が危篤になると病院に搬送されて病院で死亡していたケースが多かったのが、病院に搬送して治療の見込みがない場合には、そのまま施設で看取るという考えをする施設が増加したことが多い。

 

1951(昭和26)年には病院等死11.6%、自宅死82.5%であったから大きく変わった。

 

病院等死が2割を超えたのは経済成長が著しくなった1959(昭和34)年。

病院等死が過半数を超えたのが1977(昭和52)年。

この時期を前後に葬祭事業者が大きく増加した。

それゆえ死後の遺体に対する処置は病院がするもの、という観念をもつ葬祭事業者が多い。

 

しかし、病院等での死後の処置は「遺体の管理」という観点で見ればはなはだ不充分なものである。

 

■遺体の変化、感染症 

 

遺体の死後変化は死後1時間内外から発生する。

外見的に死後硬直が出る等明らかになるのは主として病院等から出て以降である。

また病院では死後硬直が進む以前に死後の処置を済ませようとする。

 

だから看護師等は遺体の死後変化については無知に等しく、その対処は充分ではない。

病院における死後の処置はとりあえずの処置に過ぎない。

 

では遺体の変化に直面する葬祭従事者が充分に認識しているか、と言えば残念ながらそうではない。

葬祭従事者も死後変化については正確な認識に乏しく、公衆衛生的配慮も不充分である。

せいぜいドライアイスをあてるだけで遺体は管理不在の下におかれる。

 

遺体の変化は病気、死因、環境によって大きく異なり個体差が大きい。

また日々変化するので細かな観察が欠かせない。

遺体の管理に心砕く事業者はいるが、それは少数派に留まっている。

 

※遺体の変容については

http://romagray.cocolog-nifty.com/himonya/2017/09/post-b3b3.html

 

 

「遺体処置」といえば納棺、湯灌を外注化するところが多い。

一般により丁寧な作業が行われているが、腐敗進行という観点で見るとおよそ効果がない処置である。

 

葬儀の祭壇設営、式の進行は専門分野であるが、遺体の管理は専門外であると認識している葬祭従事者があまりに多過ぎる。
これでは「丁寧で高品質な葬祭サービスを提供している」とは言えない。

 

葬祭従事者は、自分がわからないものだから病院等での専門職である看護師による死後の処置を過剰に信頼し、映画『おくりびと』が人気になれば納棺・湯灌の遺体処置業者に丸投げするケースが少なくない。
極端に言えば遺体の顔も状態にも無関心な葬祭事業者があまりに多過ぎる。

遺体を遠巻きにするのは近親者だけではなく、葬祭従事者も同様である。

 

遺体を詳細に観察している葬祭従事者は理解していることだが、顔面に浮腫等が発生し、近親者が会葬者に遺体との面会を嫌がる事例は1015%程度あるし、身体に至っては5割以上に見られる。臭気も無視できない。

 

また遺体は公衆衛生的にも安全とは言えない。

感染症でも特に危険な一類・二類、三類および指定感染症については厳しく管理され告知も義務づけられている。

だがそれ以外の場合、感染症を主な死因とする死亡の場合以外は死亡診断書・死体検案書に記載されない。

多くの場合、個人情報であることを理由に開示されない。

また医師が遺体の保持している感染症のすべてを把握していないケースが多い。

 

それゆえ葬祭従事者が遺体を扱う際には、危険な感染症を保持していることを前提としたスタンダードプリコーション(標準予防策)に基づいて遺体を取り扱う必要がある。

 

遺体に接する近親者、葬祭従事者への公衆衛生的配慮にもっと関心を払う必要がある。

 

■死者の尊厳を守るということ

 

死者の尊厳ということは、生前の死者の功績や名声に無関係に、また葬儀費用の高にも無関係に誰にも等しく認められるべき権利である。

いのちの尊厳に欠かせない、葬送に従事する者にとって最も重視されるべき理念である。

近親者から遺体を預かり、葬儀が完了するまで葬祭事業者が遺体の管理の責任を負っていることの重要性は極めて大きい。

 

死者の尊厳を守る意味では、東日本大震災の教訓から、葬祭従事者の誰もが、公衆衛生に配慮した遺体対応ができるようになっていることが社会的責任としてある。

 

エンバーミングは現在年間4万体に処置されている。

死亡数に対して約3%である。

2000年に2万体を越し、この時が約1.7%であったから処置件数は倍に、割合も1.8倍近く増加している。

でも、事業者、施設、技術者が少なく、まだまだ選択肢になりえていない地域が多い。

 

※エンバーミングについては

http://www.embalming.jp/

 

浮腫の激しい遺体、事故遺体、病気でひどく変容した遺体、海外等に居住してすぐ帰れない近親者、子どもも高齢者も安心して死者と対面できること等を考慮すれば、エンバーミングの処置率は全体の30%程度には可能になるのが望ましい。

事業利益の向上のためではなく、遺体の尊厳、ゆとりある別れの実現のため、エンバーミングは積極的に検討されていいと思う。

 

エンバーマーの養成機関

https://www.humanceremony.ac.jp/subject/embalming/

 

2018年3月27日 (火)

いくつかの報告―経王寺「ハスのカホリ」、毎日新聞「合葬墓」

経王寺

少し前の話だが、互井鑑章さんが住職の日蓮宗経王寺(東京都新宿区)の寺報『ハスのカホリ』2018年春号47号が送られてきた。


経王寺のホームページ
http://www.kyoouji.gr.jp/index.html
経王寺のFacebook

https://www.facebook.com/kyoouji/

 

ハスのカホリ』2018年春号47こに互井さんと私の対談「葬儀とお寺の未来」が掲載されている。

 

ハスのカホリ』表紙

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目次

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互井住職×碑文谷創

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合葬墓

毎日新聞2018322日夕刊「どうすれば安心」で合葬墓(永代供養墓)が取り上げられた。
契機は築地本願寺が合同墓を造ったことにある。

 

築地本願寺の合同墓

https://tsukijihongwanji-lounge.jp/top/goudoubo.html

 

毎日の記事は小松やしほ記者が取材して記事にした。
これに私と小谷みどりさんがコメントしている。

記事は

https://mainichi.jp/articles/20180322/dde/012/040/004000c

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2018年3月22日 (木)

葬祭サービスの歴史的文脈ー葬祭サービスとは何か?①

以下、昨年度に季刊誌『CORI』に連載した「葬祭サービスとは何か?」を数回に分けて掲載する。
1年をおいて掲載するのは雑誌に対する仁義のようなものである。
掲載にあたって手を加えている。
本稿の対象は葬祭事業者である。
第1回は「葬祭サービスの歴史的文脈」である。

葬祭サービスの歴史的文脈~葬祭サービスとは何か?①

「葬祭サービス」という表現はいまや葬祭業を語るときに一般的な表現としてある。
しかし、その歴史は、本格化してまだ約20年にすぎない。

1955(昭和30)年以降に日本では「葬祭サービス」という用語が現れ始めた。
だが、それは米国のフューネラルサービス(葬儀。元は埋葬時の祈りを中心とした礼拝に起源を持つ)を誤訳して「葬祭サービス」としたことから始まった。

「遺体、遺族に対する火葬(あるいは死後の事務処理)までを一貫してサポートするサービス」と理解されるようになったのはこの10年といってもよい。

1995(平成7)年前後以降、高齢化と家族像の変化・拡散を背景に、それまで地域共同体に基盤をもった葬儀が「個人化」へ大きく舵を切った。
その潮流が明確になったのは2008(平成20)年のリーマン・ショック以降である。

長く地域社会の慣習、仏教を中心とした宗教儀礼としてあった葬儀は大きく変質しようとしている。
それに伴い、葬祭業者が提供する葬祭サービスも内容を大きく変えようとしている。
しかし、葬祭業者がこの変化にどう対応していいいか、ということについては認識もさまざま、ある意味「右往左往」状態にある。

① 葬具提供業から開始された葬祭業

葬儀の歴史は古い。
人類が死を自覚して以降のこと、といってよい。

その歴史は日本においても流転してきた。
だがここでは「葬祭業」という専門業の登場以降を見てみたい。

葬祭に従事する職業が登場したのは古い。
だがそれは墓を掘る、火葬をする等の使役に従事する人々で、葬祭を事業とする人たちではない。

葬祭業の登場は江戸末期と想定されるが、その実態は、ほんの一部を除いて明らかではない。

「葬祭業」が明確に登場するのは1877(明治10)年以降といっていい。
江戸末期には創業していたかもしれない仙台の菊地葬儀社、東京下谷の小泉桶甚本店、名古屋の一柳葬具總本店はその頃に企業として創業されている。
明治という近代から本格的に葬祭業は登場したことになる。
だが、これとて現在の葬祭業全体の出自とは言い難い。

※1877(明治10)年といえば西南戦争の年である。
それにさかのぼること10年、1868(明治元)年に神仏分離令が出され、廃仏毀釈等の仏教排撃運動が激化。
これが止んだのは1872(明治5)年のことであった。
幕末の政権交代に伴う混乱が一段落し、産業興隆に向かう時代に突入する、まさにその時、葬祭業が誕生したことになる。

現在の葬祭事業者を分析すると、戦後の高度経済成長以前に創業し、現在残っている事業者はわずか1割程度である。
全体の約4割は1955(昭和30)年前後に始まる度経済成長期に創業している。
また全体の約5割は個人化の潮流が発生した1995年以降の創業となっている。

最初期(といっても地域により明治から昭和中期と幅が広いが)葬祭業に手を出すきっかけとしては棺(龕)(ガンヤ、カンヤ)の製造、造花の製造(ハナヤ)、その他葬具材の提供から小間物屋、葬儀の食材の提供から八百屋、乾物屋等、出自は多彩である。

1877年と言えば西南戦争の年である。幕末の政権交代に伴う混乱が一段落し、産業興隆に向かう時代に移行する頃。
産業が興隆することで、商工業業者が台頭し、その地位を示すかのように都市部では葬列が大型化、奢侈化することになる。

明治中期以降、今日目にする寝棺、祭壇の基礎となった輿、造花の銀蓮、金蓮、四華花等のさまざまな葬具が開発、提供され、葬列を彩ることになる。
このための各種葬具を提供するために葬具提供業者として葬祭業が展開を開始した。

しかし、これは都市部の話である。
都市部では街を練り歩く大型葬列が奢侈であるとの批判を受け、大正から昭和初期にかけて葬列から告別式へと中心が移動する。
代わって登場するのが霊柩車であり、告別式の装飾壇としての祭壇であった。

大正時代の初期に、現在の一部上場企業燦HDの公益社の前身の一つで、大阪で大型葬列時代に奴の行列等を演出し名を売った駕友、名古屋の一柳が前後して米国の当時流行の霊柩自動車ビム号を導入した。

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大正11年霊柩車ビム号(『一柳葬具総本店100年史』)


1922(大正11)年、元首相、早大の創始者、侯爵・大隈重信の日比谷公園での30万人を動員したと言われる国民葬。
ここで小型トラックの荷台に輿を載せた形が登場。
これが影響して自動車と輿が一体化した宮型霊柩車が昭和初期から東京、横浜、名古屋、大阪等の大都市で使用される。
自宅や寺院の葬儀では輿に葬具を並べた告別式用の祭壇が装飾された。
この告別式の誕生に伴う祭壇装飾、葬具提供に加えた式場装飾が葬祭業の第2期。

しかし、宮型霊柩車、祭壇の全国化は朝鮮戦争停止の1953(昭和28)年以降のこと。
それ以前は、地方では地域共同体主体型の葬祭事業者を必要としない葬儀が行われていた。

② 葬祭事業の確立

戦後の生活混乱期を背景に、主として地方部から新生活運動が展開された。
地域住民の香典の低額一律化、返礼品の簡素化等である。
「新生活運動」は、1947(昭和22)年に政府が提唱した新日本建設運動が最初で、「生活困窮に打ち克つ」「勤労精神」「文化の発揚」以外に「相互扶助友愛」「合理的・民主的な生活慣習の確立」等が謳われた。
地域の青年団、婦人会、労組が動員された。新日本建設運動は収束したが、地方での新生活運動は以後も展開され、90年代にようやくほぼ終息した。

この新生活運動を背景に登場したのが冠婚葬祭互助会である。
1948(昭和23)年に神奈川県横須賀に第1号。全国展開の契機は、紅白歌合戦の大晦日開催が始まり戦後復興が急激になった1953(昭和28)年、名古屋で山本信嗣が冠婚葬祭互助会を興したこと。

葬儀専門事業者も互助会の台頭に危機感を募らせ、1956(昭和31)年に任意組合全日葬祭業協同組合連合会(全葬連の前身)を発足させた。

祭壇が全国的に普及した時期と重なり、祭壇セットを基本料金として金額明示した互助会は葬儀においても急速に影響力を強めた。
冠婚葬祭互助会と葬祭専門事業者の正面対決が「葬具屋」「葬儀屋」の時代から「事業としての葬祭業」への道を拓いた。

1955(昭和30)年前後以降が高度経済成長である。
高度経済成長期は日本の消費文化を大きく変化させた。
葬儀もまた大きく変化した。

地域共同体色を残しながらこれに会社が関与し、会葬者数が拡大。
社会儀礼色を強めた。
互助会を含む葬祭事業者が進めたことは祭壇の大型化であり、会葬者サービスに手を抜いて遺族に恥じを欠かせないことであった。
立派な葬儀を滞りなく執り行うために葬儀のマニュアル化が大きく進んだ。

1985(昭和60)年以降、斎場(葬儀会館)建設が一つの傾向になり(最初は70年代初期)、90年代以降は「斎場戦争」と言われるようになった。
いまや自宅葬は約1割である。

葬儀が自宅離れし、地域共同体依存型から葬祭事業者依存型へと変化した。
これは葬祭事業者の位置取りとしては大きな変化となった。

それまでは死者、遺族の側には親戚、地域関係者、宗教者がいて、葬祭業者は葬儀の中心ではなく周辺の式場設営、会葬者の案内をしていればよかった。
それが急に葬儀の内部に、死者、遺族の側に位置することになったからである。

と同時に葬祭業は消費者からの視線に晒されることになった。

③ 葬儀の個人化と求められるサービスの変化

バブル景気の崩壊は1991(平成3)年から開始したが、景気後退の認識が消費者の間で定着したのが1995(平成7)年頃からである。
宝石が急激に売れなくなるのもこの時期である。

95年に阪神淡路大震災(死者・行方不明6,437人)が発生したことも消費者心理に少なからぬ影響を与えた。

95年に誕生した葬儀関係の用語は「家族葬」と「自由葬(無宗教葬)」であったが、圧倒的にその後に影響を与えたのは「家族葬」である。

「家族葬」という言葉の誕生を契機に、日本でも葬儀の個人化、小型化が進んだ。
既に欧米では個人化、小型化は進行していたが、日本人は別と言われていた現象である。

日本でも葬儀に対するコンセンサスが崩れ、高度経済成長期の葬儀マニュアルが容易には通用しなくなる。
経済格差も大きくなり、遺族像も多様化した。
単独世帯が4分の1を超え、「おひとりさまの死」が例外ではなくなってきた。
「高齢化」も伸張し、この課題は無視できないものとなった時期でもある。

※現在の高齢化率(65歳以上の人口が総人口に占める割合)は26.7%(2015)である。
推移を見ると、1955年が5.7%、1970年に7.1%になり「高齢化社会」に、これ以降急激に高齢化が進み、1985年に10.3%、1995年には14.6%となった。
2000年に17.4%となり「高齢社会」に、2010年には23%となり「超高齢社会」になった。
2017年の社会保障・人口問題研究所の将来人口推計によると、2025年には30.0%に、2035年には32.8%になると推計されている。

葬祭サービスは一様なパターンの商品を提供する時代ではなくなった。
個々の死者、遺族に添ったサービスを的確に提供していくことが期待される時代となった。
それはまた葬祭業が葬儀について専門家(プロ)であることが求められる時代になったことを意味している。

2018年3月10日 (土)

火の子

新宿西口の墓地近くの古い雑居ビルの一角に「火の子」はあった。

私が通い始めたのは青木新門さんに連れて行かれたのがきっかけであった。
ママのイクさんは岩手県の盛岡の近くの出身ということで、同じ岩手県一関で生まれた私に対して親近感をもってくれた。
92-93年くらいであったろうか。
開店が73年、閉店が02年であるから、その30年の火の子の歴史の晩期に私は立ち合ったことになる。

以来、私は一人でも、あるいは仲間と連れ立って、あるいは新門さんからの呼び出しに応じて通うようになった。

この店のいいところは客同士の会話が多いことだ。
イクさんが客同士を引き合わせてくれる。
いろんな方と知り合いになれた。
私が子ども時代に隣家ですでに高校生だった方と隣り合わせになる、ということもあった。
編集者が多く、そこで知り合った方から原稿依頼を受けたこともある。
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「文化人類学で日本の葬儀に関心があるハーバード大学の学生がいる」
と山口昌男さんから紹介されたのが、今オーストラリアにいる鈴木ひかるさんだ。
山口さんは当時静岡県立大教授だった。

新宿西口とはいっても、青梅街道を渡り、小路を入った墓地近くであったから、フリの客はいない。
みな最初は誰かに連れてこられたのがきっかけだ。
誰かが仲間を連れてくると、イクさんはノートに名前とメモを書き、小型のデジタルカメラで写真を撮り、記録した。
だからその人が後から行っても、名前と顔、誰と来たかがイクさんに記憶されていて、それで居つくことになる。

常連の本が並べられていて、私の本や雑誌『SOGI』もその中にあった。
私が初めて会う人には私の本をもってきて「これを書いた人なの」と紹介してくれる。

私も新門さんも、今はもうほとんど呑まなくなったが、かつてはよく呑んだ。
新門さんは豪快に呑み、豪快にしゃべった。
私と新門さんが火の子に行くと、皆で死や葬送の話題で盛り上がることもあった。

イクさんこと内城育子さんが火の子を閉め、独居しておられたが、ときおりお電話をいただくことがあった。
晩年は特に細い声になった。

尾形弘紀さんから連絡をいただき、3年前に83歳で亡くなったイクさんが撮りだめた写真展の企画を教えていただき、実行委員会に名を連ねさせていただいた。
内城育子写真展「火の子の宇宙」
3月19日から24日まで銀座ギャラリー「巻房2」で開催される。
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このことが毎日新聞に掲載された。
https://mainichi.jp/articles/20180303/k00/00e/040/195000c

とてもいい記事で、当時の火の子の様子を伝えてくれるものとなっている。

なお、尾形さんから送られた案内状も紹介しておく。
ほんとうに裏方で準備された方々に感謝!
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