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2018年8月に作成された記事

2018年8月31日 (金)

「暴力」とは何か?

今朝(2018831日)の朝日新聞朝刊スポーツ欄の「視点」(パワハラ疑惑 体操協会が第三者調査へ 「反暴力」揺るがすな)は、何とも言えぬ不快感を感じさせるものであった。
https://digital.asahi.com/articles/DA3S13658205.html?iref=pc_ss_date
そこには「暴力」についての本質的考察を欠いた、「優等生的な常識」「上からの説教」だけがあったように感じたからだ。

日本体操協会が、指導中の暴力を理由に速見佑斗コーチを無期限の登録抹消処分としたことに対し、指導を受けていた宮川紗江が処分の見直しと、同協会幹部からパワーハラスメントを受けたことを訴えている問題で、同協会はパワハラについて第三者委員会の調査に委ねることにした。新たな展開となったが、コーチの暴力の是非はパワハラとは分けて考える必要がある。

 スポーツ指導における暴力は、それを受けた側がどう感じるかにかかわらず許されない。」
という言葉から始まる。

体罰の問題性について
指導上の暴力は、された選手だけでなく、その様子を見せられる周辺の選手をも傷つける。2011年、愛知・刈谷工高野球部の2年生が自殺した経緯を調べた愛知県の第三者調査委員会は「部内で体罰を見聞きしたことなどでうつ病を発症し、自殺の一因となった」という報告書をまとめた。
と指摘する。
これは正当である。
過去のスポーツ界において「指導」と称した「体罰」が横行し、多くの生徒を傷つけたことは事実だし、スポーツ、体育の世界で、それがまだ払拭されていないし、早急に改善すべきはその通りである。


しかし、
「速見コーチが選手をたたいたり、髪を引っ張ったりする行為が繰り返しあった事実を、同協会が第三者の訴えから本人に確認し、処分をしたことは極めて正しく、反暴力の立脚点として揺るがせない。処分の重さが適切か、宮川へのパワハラがあったかどうかは別問題だ。

 幸い、宮川自身、暴力を受けたことを認め、「暴力は認められない」と考えを改めている。
 2012年に大阪・桜宮高男子バスケットボール部の主将が顧問の暴力などを理由に自殺して以降、暴力的指導の根絶に向けてスポーツ界は努力している。それを後戻りさせる論議は避けなければならない。」
とする結論には違和感がある。

問題は「体罰」だけではない。
それだけが優先されるべきではない。

 同時に、指導者の選手のえこひいき、正当性を欠く指導の強制等も同様に、あるいはもっと広く蔓延し、多くの生徒を傷つけてきた事実も早急に改善されなければならず、どちらが先に、という問題ではない。
 そういう意味で具志堅副会長(日本体操協会)が「体質改善」ということを言ったのは正当性がある。

「視点」を書いた記者への私のいらだちは、「暴力」について、「身体的暴力」に偏し、「心理的暴力」の問題性について、どこか鈍感なところが感じられるからだ。
また、暴力案件についても体操協会の調査と宮川選手の発言には差があり、第三者委員会の調査が必要なのに、体操協会の調査をそのまま受け入れていることだ。

「暴力」という言葉は、人間の長い歴史の中で語られ続けてきたが、実は未成熟な言葉で、必ずしも社会的な合意を充分に得ていない。
一般には「乱暴な力。無法な力」と辞書的には解されているが、近年はもう少し幅をもって理解されるようになっている。
例えばウイキペディアでは
暴力(ぼうりょく)とは他者の身体財産などに対する物理的な破壊力をいう。ただし、心理的虐待モラルハラスメントなどの精神的暴力も暴力と認知されるようになりつつある。」
と書いている。

おそらくこう規定するのがいいのだろう。
「暴力とは、他の人間あるいは集団(の一部)が、何らかの行動、言葉、態度、物理的な力を発揮する、あるいは発揮しないことによって、その人間の人権をおかす、おかそうとする、またはおかしかねない事態を招くことをいう」

言葉による虐待、差別、不当な無視・放置や偏見もそうである。もとより武力もそうである。
どれがより酷いか、より優先されるべきかは、常識的に定まる性質のものではない。

極端な事例であるが、親の殺害において、それ以前の親から子への精神的虐待への反発があるものもある。
暴力は状況によって個別に異なる。
暴力には一方的に加害者と被害者に峻別できないケースもある。

広い意味で「暴力」を言うならば、私にも社会、集団、家族に対して加害者である面があり、あるいは加害者になる可能性がある。
暴力は、誰もが無縁ではないのだ。

「視点」の記者を好意的に見るならば、宮川選手の記者会見によってパワハラ問題が大きくなり、パワハラも問題だが、コーチの体罰事案が忘れ去られるのではないか、という危機感があったのかもしれない。
しかし、この記事からは残念ながら、それはうかがえない。

記事から感じるのは、身体的暴力と心理的暴力を区分けする暴力に対する偏見である。
さらに言うならば、自らを暴力と無縁の第三者としてしまう、断罪する側に身をおく、おこがましさである。
週刊誌やテレビに見え隠れする偽善性がここにもうかがえる。

「暴力」かどうか、当事者にはよく見えない。
自分や自分の属する集団には甘くなりがちだからである。
だから「第三者委員会」のようなものが必要なのだ。

以上は、私が記事に感じた違和感を文章にしたものであり、あくまで私の感想に過ぎない。
反論を期待したい。

2018年8月28日 (火)

葬送問題のコンテキスト 「NPO法人が切り開いた葬送の多様化とその将来」

このところ紹介すべき本の紹介がしきれていない。
3冊を本の表紙だけ紹介しておこう。いずれも優れた本。出版順に

①星野哲『「定年後」はお寺が居場所』(集英社新書)
Hoshino

②松島如戒『私、ひとりで死ねますか―支える契約家族―』(日本法令)
Matsushima

③瀧野隆浩『これからの「葬儀」の話をしよう』(毎日新聞出版)
Takino

星野さんは立教大学社会デザイン研究所研究員、元朝日新聞記者。
松島さんはりすシステム創始者。
瀧野さんは毎日新聞社会部編集委員。
お三方とも私と親しい関係にある。


これからが本文


葬送問題のコンテキスト 
シンポジウム「NPO法人が切り開いた葬送の多様化とその将来」

2018
82413001430 エンディング産業展で「NPO法人が切り開いた葬送の多様化とその将来」と題するシンポジウムが開催された。
当日配付資料を100部作製し持参したのだが、少々残ったようなので、90名以上の方が参加した模様。
会場が100人定員だったので、会場はいっぱいになった。

パネリストは、葬送の自由をすすめる会副会長の西田真知子さん、りすシステム創設者の松島如戒さん、エンディングセンターの井上治代さん、そしてコーディネータは当時を知る人間というので私が指名された。
西田さん
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松島さん

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井上さん

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西田さん、松島さん、井上さんの順に各15分ずつに最初に発表した。
全体が90分しかないので、私の進行の不手際があり、ディスカッションの課題として4つ用意したものが、「NPO が果たした意味、意義、問題点」だけで終えた。
私としては消化不良の感があったが、聴く側としては90分という短くない時間であったので、けっして短い時間ではなかっただろう。
そこで「解説」として私が用意し、当日も用いた資料に参考写真を加えて以下に示す。

 

■墓の略歴


★墓地は古来よりある。

★民衆が墓をもったのは室町後期(戦国時代)以降。

★江戸時代までは個人単位の墓が多い。

★明治末にコレラ流行を機に政府が火葬を推進、明治民法が「家」を単位にしたため以降「家墓」が人気に。

1960年火葬率6割を超える(現在ほぼ100%)

1970年代より都市化の影響で大都市周辺で墓地開発が急増。自然破壊が問題に。墓石のブランド化、墓石に家紋入れが流行

1980年代後期 墓システムが問題化

1991年バブル景気崩壊で墓地需要急低下。少子高齢化多死社会が問題に。

2011年経産省調査。墓新規3割。うち3分の1が永代供養墓、散骨、樹木葬等の新形態を選択している実態が明らかに。


■永代供養墓(合葬墓)


「合同墓」「共同墓」「合葬式墓地」とも
個別納骨⇒13年、33年を経て承継者がいない場合に合葬、最初から合葬の大きく2つのタイプが


★「承継者の有無を前提としない墓」

 「血縁」から「結縁」へ

★跡継ぎがいないかわいそうな人のための墓(無縁塔)ではない。

★人間の生き方はさまざま。
それぞれの生き方、生を尊重し、承継者の有無にかかわらず寺あるいは墓地が責任をもって供養(管理)


★「永代供養墓」1985年比叡山久遠墓が最初

1990年前後(19891991

 新潟 妙光寺「安穏廟」(小川英爾さん)
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京都 女の碑の会「志縁廟」(谷嘉代子さん)
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 上から1979年12月に京都・常寂光寺に建立された「女の碑」、中、1989年11月に建立した「志縁廟」、下、谷嘉代子さん

  東京 「もやいの碑」(松島如戒さん)
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 マスコミが話題に


★現在、約2000? 今、改葬(お墓の引っ越し、墓じまい)先としても注目。遺骨処分場になるケースも


※当日は女の碑の会「志縁廟」の写真を紹介できなかったが、雑誌『SOGI』19号(1994年)に当時は花園大学教授だった谷さんに寄稿いただいており、そこにあった写真が上の写真である。

 

■散骨(自然葬)

 

1991年 葬送の自由をすすめる会が相模灘で散骨実施 
 「自然葬 (しぜんそう)とは、墓でなく海や山などに遺体や遺灰を還すことにより、自然の大きな循環の中に回帰していこうとする葬送の方法の総称」(初代会長の安田睦彦さん)
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上、安田睦彦さん、下1993年3月宮城県大森山再生の森での最初の山での自然葬(葬送の自由をすすめる会)

1994年 東京・公営社「海洋葬」 企業による散骨の最初。
今は小型セスナ機、ヘリコプターによる海上散骨も


2014年 一般社団法人日本海洋散骨協会「海洋散骨ガイドライン」

■樹木葬

 

★墓地として許可を得る(粉骨の必要なし)。


1999年岩手県一関市で祥雲寺(現・知勝院)が樹木葬墓地を開設。
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 Chisak
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中、前住職で開創者の千坂げん峰さん

森を墓地としての許可を得て、自然との共生という理念に共感する人が墓地として使用することで自然育成・保護活動を支援。
穴を深く掘り、遺骨を骨壺なしで埋蔵し、埋蔵地に花木を植える。半径1メートル以内の占有使用権を最後の埋蔵後33年に限り認める。そのエリアの共同利用は可。承継者がいなくとも改葬することはない。


★エンディングセンターが2005年「都市型樹木葬」として東京・町田いずみ浄苑内に「桜葬」。

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(エンディングセンター)

その後「樹林葬」とか、「墓石の代替に樹木」と解釈され、さまざま理念なき世界に。

 

■生死の境界と「生前契約」


★「生」「死」の分断。死のタブー。


1985年頃より「終末期ケア」が課題に


1990年頃より「墓システムの矛盾」が提起


1995年頃より「葬儀の個人化」が進む


2000年頃より「死別によるグリーフ」が問題に

 終末期ケアと葬儀の双方から「本人のケア」と共に「家族のケア」の重要性が提起

 成年後見制度施行


2010年頃より「終活ブーム」
 経産省「ライフエンディング・ステージ」という概念で終末期と死後事務等の連続的支援を提起


2015年頃より

 単身世帯の増加(一般世帯の3分の1)で「ひとり死」が課題に

2018年8月27日 (月)

妙光寺・安穏廟が切り開いたもの

2018年の新潟・妙光寺の送り盆(第29回フェスティバル安穏)が825日(土)に行われた。

妙光寺からの報告
https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=1660681727391950&id=503879279738873

永石光陽さん(大分・常妙寺住職)のレポート
 https://www.facebook.com/hiroshi.fujita.79677/posts/1009145359291530?comment_id=1009187275954005&notif_id=1535349947679400&notif_t=feedback_reaction_generic
瀧野隆浩さん(毎日新聞社会部編集委員)のレポート

https://www.facebook.com/takahiro.takino.3/posts/1208307602645726


今回は安穏廟とフェスティバル安穏の歴史について触れる。

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1989
年に当時まだ目新しい「永代供養墓」である安穏廟が開設され、翌1990年の8月に第1回の「フェスティバル安穏」が開催された。これがNHK が報じたことで一挙に墓問題に火が点いた。

この第1回の企画に際し、住職の小川英爾さん(現・院首)をサポートしたのが当時ルポライターであった井上治代さん(社会学者)。ゲストに当時の墓問題のスペシャリストであった藤井正雄さん(宗教学、大正大学教授)、女の碑の会の代表で翌年1990年に京都。常寂光寺に女の碑の会員のための「志縁廟」を開設した谷嘉代子さん(関西大学教授)等が参加してシンポジウムを開催。
この場に出席したのが90年に東京・巣鴨にもやいの会の会員用合葬墓「もやいの碑」に開設、1993年生前契約のりすシステムをつくった松島如戒さん、1991年に相模灘で「自然葬」と称して最初の散骨を行った葬送の自由をすすめる会の会長となる安田睦彦さん(元朝日新聞記者)等。
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1990
年前後の日本の葬送の変革の旗手たちが一堂に揃った記念碑となるイベントであった。
藤井正雄さん、谷嘉代子さんは亡くなられている。
私が松島さんにお会いしたのは44歳の時、松島さんは53歳であった。今、私は72歳、松島さんは81歳である。
井上さん、小川さんは当時30代であった。

地元スタッフが育ち、地元の檀信徒が中心となって2010年から「送り盆」となった。

 

現在「LGBTの人でも入れる墓」ができるなど話題になっているが、安穏廟は事実婚であろうと、LGBTであろうと、友人同士であろうと、当人同士が合意している限り、「血縁」という枠を超えて一緒に入れることを、1989年当時から可能としている。これは1999年にできた岩手県一関の樹木葬墓地(知勝院)でも同様である。

■「安穏廟」とは?

お墓を建てたいが後を委ねる家族がいない、」「子供がいても後々の負担をかけられない、かけたくない。」

こうした家族の変化を受けて、妙光寺では、宗派を越え、かつ跡継ぎを必要としないお墓『安穏廟』を平成1(1989)年、全国に先駆けて実現しました。承継者がいなくなっても、妙光寺が基金運用によって供養、管理を続けるお墓です。
時代とともに変化する私たちの暮らしのなかで、『安穏廟』が提唱したことは、単に新しいお墓としてだけでなく、家族や血縁を超えて人々が集い、生き方について語り合う交流の場の大切さです。開設から四半世紀以上が経ち、人々の心のよりどころとしてしっかり定着しています。

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■安穏廟、フェスティバル安穏の小史

 

1989(平成1)年

 安穏廟完成

1990(平成2)年

 フェスティバル安穏が開始

 第121世紀の葬送と結縁を考える」ゲスト:藤井正雄(大正大教授)、谷嘉代子(関西大教授・女の碑の会代表)角田由紀子(弁護士)、長島義介(新潟青陵大教授)
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1993(平成5)年

 安穏廟2基目完成

 第4「葬送の自由の声に仏教はどう応えるか」ゲスト:山折哲雄(宗教学者)

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1996(平成8)年
 第7回「
私の人生、私の死」ゲスト:新藤兼人(映画監督)

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19978

1997(平成9)年

 安穏廟3基目完成

1998(平成10)年

 第9回「柳田邦男が語る生と死」ゲスト:柳田邦男(ノンフィクション作家)

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2000(平成12)年

 安穏廟4基目完成
 新本堂上棟式

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2001(平成13)年

 杜の安穏完成

2002134

 第12回「「いま寺からのメッセージ―人々の生死を寺に託せるか―」ゲスト:高橋卓志(長野・神宮寺住職)、草野榮應(東京・明治寺住職)、秋田光彦(大阪・應典院主幹)、村田幸子(元NHK解説員))
2002132

2006(平成18)年

 杜の安穏増設

2008(平成20)年

 杜の安穏増設

2010(平成22)年

 杜の安穏池の上完成

 「送り盆」が開始

 送り盆法要、院庭ステージでのイベント、トーク、参道脇でのバザール広場、大道芸、蓮の花手作り体験、京住院・祖師堂・客殿でのイベント・各種教室、墓地・安穏廟での常経、光のなかの安穏法要、夜の交流会…と多彩、かつ、さまざまな人の自主参加による「妙光寺の夏の御祭」として模様替えした。

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2013(平成25)年

 杜の安穏池の上第2期工事完成

永代供養

永代使用料の一部を基金運用することで、お盆と春秋のお彼岸、合同供養祭の年4回の法要回向、及び維持管理を妙光寺が行います。ご事情で年会費の納入が停止された場合、その年から起算して13年間は個別埋葬を継続し、その後も総廟に合同埋葬のうえ、お名前を刻み、引き続き永代にわたり供養を継続します。

 

■使用権の相続

使用権は血縁等に関わりなく、契約者が指定してお届けいただくことによって継承できます。使用権の継承者は継承以降の年会費を納入いただきます。

 

■会員制

契約者はすべて「安穏会員」として登録いたします。会員としての義務は一切ありません。妙光寺から定期的に通信物を郵送し、所在地の確認と行事のご案内をいたします。 

 

2018年8月17日 (金)

戦場が兵士の心を蝕む

朝日新聞816日朝刊に「(消された戦争 記録と記憶:3)見過ごされたトラウマ」(木村司記者)という記事が掲載された。
https://digital.asahi.com/articles/DA3S13637456.html?ref=pcviewer
YAHOO
ニュース
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180816-00000007-asahik-soci

 


戦場での体験や軍隊生活を原因として、心に傷を負った多くの日本兵がいた。しかし、そうした人たちは、この社会に存在しないかのように扱われてきた。

という印象深い書き出しで始まる。

 

山形の精神科五十嵐善雄医師が紹介した事例は、2008年に「慢性の統合失調症」との紹介状を手に診察に訪れた男性。
学徒出陣で、旧満州へ。戦後4年間はシベリアに抑留。帰国後、幻聴に襲われ、自傷行為を繰り返した。40代後半から30年間、精神科に入院。
という男性。
幻聴や幻覚が、中国で手にかけた人たちの声や表情のフラッシュバックだった

統合失調症ではなく、戦争によるPTSD心的外傷後ストレス障害)ではなかったか――

というのが五十嵐医師の診断。


もう一つは

戦時中、精神疾患を発病した日本兵は主に、千葉県の国府台(こうのだい)陸軍病院に送られた。1937年から45年まで1万人余りが入院した。

 約8千人分の「病床日誌」(カルテ)は、終戦時の焼却命令に抗し、病院関係者がひそかに残していた。戦友の死や戦闘への恐怖、罪悪感によるストレス症状が読み取れる。日誌を研究する埼玉大の細渕富夫教授(61)は「悪夢に苦しめられるなど、PTSDとみられる患者は少なくない」とみる。

戦争、軍隊が兵士の心に大きな傷をもたらすことは第一次世界大戦を経験した欧米では知られていた。
でも日本(軍)では「精神的弱者が強い軍隊の障害にならないよう排除すべき」であり、徴兵が広がれば、こうした弱者が入らざるを得ないが、彼らは「落伍しても当然」という考えが優勢であった。
もっとも「死学thanatology(デーケンさんが「死生学」と訳した)」が本格的に研究されるようになった契機は朝鮮戦争の米軍帰還兵の心的障がいの研究であった。
戦場が兵士の心を蝕むリスクの研究はまだ60年くらいにすぎない。

本記事でも
イラクやインド洋に派遣され、帰国後に自殺した自衛官は61人
という事例の紹介がある。

今、10万部を超えるベストセラーとなっているのが、
吉田裕『日本軍兵士―アジア・太平洋戦争の現実』
(中公新書)


本書は、著者によるならば、「凄惨な戦場の現実」を歴史学の手法で「戦後歴史をとらえ直す」こと、「兵士の目線」で「兵士の立ち位置」からとらえ直す、という新鮮でまっとうな課題をもった挑戦である。
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本書は「異常に多い戦病死者」「餓死者」に着目している。
この着目は説得力がある。

私の母方の叔父の一人がフィリピン戦線で「戦死」とされているがその実態は知らない。
姉である私の母は、骨箱として送られた中に石が一つ入っていたことを98歳で死亡するまで(認知症でありながら)悔しがっていた。
マラリアによる死か、栄養失調による餓死か、自死か、戦闘死か、その他による死か、一切が不明なのだ。

本書では、戦争が大きく兵士の心を蝕んだことについて、2項目で書いている。

1章 死にゆく兵士たち―絶望的抗戦期の実態Ⅰ

3.自殺と戦場での「処置」

2章 身体から見た戦争―絶望的抗戦期の実態Ⅱ
病む兵士の心―恐怖・疲労・罪悪感

 

描写はリアルである。

無謀な戦場が兵士の精神を蝕み、傷つけ、多くを死に追いやったことをかなり具体的に描いている。
詳しくは自ら本書を手に取ってほしい。

確かに、日本軍の無謀さがより強く日本軍兵士の心を蝕んだことは事実だ。

だが、これは日本軍だけのことではなかった点も忘れてはならない。
米軍の太平洋戦争(19391945)においても、さらに朝鮮戦争(19501953)、ベトナム戦争(19611973)の従軍者もそうであったし、その後の湾岸戦争(1991)、アフガン派兵(2001~)、イラク戦争・駐留(20032011)もそうであった。
英仏、ロシアにおいても例外ではないだろう。
また、直接戦闘には参加していないはずの、海外派遣された自衛隊の隊員たち(1991~)にも無縁なことではなかった。

本書は、太平洋戦争における日本軍の現実に肉迫している。
その意味で必読と言えよう。

2018年8月16日 (木)

「聖職者」の虐待に思う「聖」への幻想

日本では僧侶の堕落について言及するとき、妻帯制度をもち出す人が依然として多い。
僧侶に「聖職者」たるべきことを求め、出家によって異性と交わらない道を歩むことを過度に期待した幻想による所産でしかない。


日本では1985(明治5)年に僧侶の異性との接触、異性間交渉を長く禁止していた僧尼令が廃止され、以降は僧侶の肉食妻帯は自由とされた。

 

もとより僧尼令はあれど、破戒僧はいつの時代にも存在したし、実態として守られてきたわけではなく、一休、親鸞の時はあまり問題とされていない。

 

宗教に係わる者が今でも「聖職者」と言われることがあるが、私はある意味、これは「宗教者差別」であると思う。
人権に属する人間の基本的欲求を制限することを課し、それで「聖」であることを教団のみならず社会が強制している。


こんな「差別」がいつまでも続くわけはない。
これが今続々と明らかにされているローマカトリックの神父の性犯罪である。

ローマカトリックの神父は公的には妻帯を禁止されている。
だが、こうした無理が通用するわけがなく、その無理が多くの性犯罪を生んだ。
今明らかにされているのは現在のものだけではない。
すでに死亡した神父の過去の性犯罪もどんどん明らかにされている。

 

昨日(2018815日)に朝日新聞が報じたものは
カトリック神父300人が性的虐待 被害者は数千人か

https://digital.asahi.com/articles/ASL8H23KWL8HUHBI002.html?iref=pc_ss_date

そこに報じられている内容は凄まじい。


米ペンシルベニア州最高裁判所は14日、同州のカトリック教会で起きた神父による少年少女への性的虐待についての大陪審の調査報告書を公表した。報告書には虐待を行っていた神父300人以上の実名リストも盛り込まれた。教会側の隠蔽(いんぺい)工作についても指摘している。

大陪審は同州内の8教区を対象に2年かけて50万ページの教会内部文書を調べたほか、関係者への聞き取りなどを行った。過去70年以上にわたって神父400人以上の関与が浮上、うち虐待の証拠がそろった故人も含む300人以上について公表した。」
文書から明らかになった被害者は1千人ほどだが、大陪審は実際には数千人に上ると見ている。被害者の多くは少年だが、中には少女も含まれていたという。思春期前の年齢の被害者が多かった。また、教会は虐待の告発を受けても警察に通報せずにいい加減な内部調査で済ませたり、加害者を別の任地に配属したりし、問題が大きくなるのを防いでいた。」

これは「犯罪」である。
ローマカトリック教会の問題であるが、それだけではない。
人々が宗教者に無責任に「聖」の幻想を抱き、それが制度となり、それが現実と著しく異なるものであるから「犯罪の温床」となり、多くの犯罪を今もなお生んでいる。

ローマカトリック教会の犯罪報道を以下に示すが、これはカトリック教会のみを批判するためではない。
「聖職者」ではないが、プロテスタント教会にも「牧師の性犯罪」はあるし、仏教の「僧侶の性犯罪」もいまだにある。
宗教界のみならず社会に性犯罪は蔓延している。
宗教者(教職もそうだ)の性犯罪が多いのは、「聖職者」であることを期待される幻想の所産、という面があることを忘れてはならない。

キリスト教団体で性的虐待、被害4千人超 豪政府が調査

https://digital.asahi.com/articles/ASKDH4W7CKDHUHBI025.html?iref=pc_ss_date

ローマ法王「苦悩と恥辱」 聖職者の性的虐待に謝罪

https://digital.asahi.com/articles/ASL1K2FC4L1KUHBI00C.html?iref=pc_ss_date

(地球24時)聖職者の性的虐待問題、チリの司教ら34人辞意

https://digital.asahi.com/articles/DA3S13500699.html?iref=pc_ss_date

スポットライト世紀のスクープ カトリック教会の大罪 著者:ボストン・グローブ紙《スポットライト》チーム 出版社:竹書房https://book.asahi.com/article/11594245?iref=pc_ss_date
日本カトリック司教団、「性虐待被害者のための祈りと償いの日」を制定
https://www.christiantoday.co.jp/articles/22845/20161220/japan-catholic-bishops-sexual-abuse-victims-day.htm

2018年8月 2日 (木)

シンポ「NPO法人が切り開いた葬送の多様化とその将来」

エンディング産業展2018822日~24日に東京ビッグサイトで行われる。

私はこうしたイベントとはほとんど無縁で、エンディング産業展の第1回のパンフレットに葬送業界の概況について書いたことがあるくらいである。

 

私は、八木澤壮一先生等との関係で旧葬文研(葬送文化学会)のメンバーで、現・日本葬送文化学会の名前だけ(会費を納めるだけ)の会員であるが、現会長の福田充さんから話があって、2413時~14時半に行われるシンポジウムのコーディネータを務めることになった。

 

テーマは
NPO法人が切り開いた葬送の多様化とその将来

参加者は
松島如戒さん(NPO法人りすシステム、もやいの碑の創設者として知られる)


井上治代さん(認定NPOエンディングセンター理事長、桜葬を始めたことで知られる。社会学者、東洋大学元教授)




西田真知子さん(NPO葬送の自由をすすめる会副会長。自然葬として散骨を実施したことで知られる。安田会長の後、一時島田裕巳さんが会長をしたが、現在は安田会長時代のメンバー中心に戻っている)

 

 

永代供養墓は1985年に比叡山久遠墓が最初であるが、社会的に注目を浴びたのが1989年創設の新潟妙光寺の安穏廟が最初。

墓は家墓中心で承継を前提とし、承継者がいない墓は「無縁墳墓」となり存続が保証されていなかった。

そこで安穏廟は承継者を前提とせず、寺が続く限り、永代に供養すると共に、血縁に限らず友人でも(今課題となっているLGBTでも当時すでにOKだった)一緒に入れる墓、すべての人に開かれている墓を提唱した。

これを取材で知った当時ノンフィクション作家であった井上治代さんが共鳴し、紹介。
妙光寺住職(当時)小川英爾さんと一緒に1990年に第1回フェスティバル安穏を開催。
テーマは「21世紀の葬送と結縁を考える」
パネルディスカッションのメンバーは弁護士、地元大学教授のほかに今年亡くなった墓地問題の碩学である藤井正雄先生(大正大学教授=当時)、女の碑の会代表の谷嘉代子先生(関西大学教授=当時)が参加した。

ここに顔を出していたのが松島如戒さんであり、「自然葬」を提唱した安田睦彦さんであった。

 

谷さんの「女の碑」は、1979年、京都・常寂光寺に建てられ、市川房江さん揮毫の「女ひとり生き、ここに、平和を希う」という名言で知られる。
「志縁廟」と名づけられた。
戦時中適齢期で多くの若者が戦場で死に、生涯独身で生きた女性たちが、血縁を超えて一緒に死後埋蔵された(現在は会員を募集停止)。

松島さんは19891990)年に磯村英一さんを会長に「地縁血縁国籍宗教不問の会員制合葬墓」である「もやいの碑」を建立
1993
年には葬儀等生前契約受諾NPO「りすシステム」を組織し、「生前契約」を日本で初めて作った。

 

「葬送の自由をすすめる会」は、安田睦彦さんが19909月に「葬送の自由」を提唱。91年に会を発足。199110月に相模灘で第1回の「自然葬」を実施。
墓地以外での葬送に道を拓いた。

 

井上治代さんは女性問題から家墓制度に疑問を感じ、取材を続け19906月『現代お墓事情―ゆれる家族の中で』を発表し、墓問題を提起。同年7月「21世紀の結縁と墓を考える会」(後に「21世紀の結縁と葬送を考える会」、En21)を組織。妙光寺、りすシステム、日本初樹木葬(岩手県)に関与して、2000年エンディングセンターに発展。2005年桜葬墓地完成。

 

葬送に関する市民運動は1990年前後に開始され、葬送の世界を一変させた、と言っても過言ではない。

 

1999年には岩手県一関で日本初の樹木葬墓地が開設された。

 

1989年~1999年、1990年代を「お墓の革命」と私は称している。

 

これに関与した松島、井上、西村さんの想いを聴く、ということは今後の葬送のあり方を考える上で極めて重要であると思う。

 

30年前の事情を知っている、ということで今回のコーディネータをすることになったが、私はこの問題に報道という面以上に関与してきた。
最初の「永代供養墓セミナー」を小川さん、松島さん、藤井先生、井上さん等と開催したり、「フェスティバル安穏」の企画に参与、りすシステムやエンディングセンターの初期の活動に参与、一関の樹木葬の最初の約款は私が作成した。安田さんからは原稿を求められたこともある(事情があって原稿は撤回したが)。

松島、安田、井上さんとは協働もしたし、喧嘩もした間柄である。

私としても第三者としてではなく、当事者として係わった時期であり、90年代は思い出深い時期である。

 

90分という限定された時間であるが、有意義な時間となるよう努めたい、と思っている。

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