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2018年10月に作成された記事

2018年10月30日 (火)

「Good Death」」はないだろうーおごるな終末期医療

「グッドデス(good death)」という言葉が、終末期医療、緩和ケアにおいて今注目を浴びつつあるようだ。
これを最初に目にした時、思わず「バカな!」と思った。

この用語は、提唱者の意図と異なるだろうが、死に方に「良い死に方」と「悪い死に方」がある、という価値区分を与えかねない。
ある意味で危険かつおこがましい用語であると思う。


「グッドデス」は2000年頃に米国で誕生。
日本語では「良い死」と訳さず「望ましい死」と訳されているのはそれなりの配慮だろう。
この用語の意味は、終末期医療の見直しを医療者側からではなく、患者本人、家族側の視点から患者、家族、看護者、介護者に対して調査し、その重要要素を客観的に測定し、終末期医療に活かそうという点にある。

それなら「グッドデス」などというセンセーショナルな用語にせず「終末期医療の患者、家族の視点での検証」くらいでいい。

考えてみれば「望ましい死」という訳語も充分にうさんくさい。

研究者は、患者等の側から「生の終末」のあり方を考えるべき、という「善意」で使用しているのだろうが、人間の死全体への考察、配慮を著しく欠くものとなっている。


そもそも世の中には災害、事故、犯罪、戦争のみならず子どもや若年者の死、自死、薬物死、突然死、感染症による死等々「望まれない死」で溢れているではないか。

終末期医療においてさえも、充分な看取りを医療以外のさまざまな要因でできなかった、できることを許されなかった事例で溢れているではないか。
「終末期医療に限る」とはいえ「good death/グッドデス」はあまりに無神経な用語である。
また、それに乗る方もどうかしている。


ターミナルケア(終末期医療)に決定的方向性を与えたエリザベス・キューブラー・ロス『死の瞬間』が発表されたのは1969年である。
「キュア(治療)よりケアcareが必要なことがある」という指摘は深い説得力があった。
「死」は医療という囲いの中のものではなく、「人間の死」だという本来性を示してくれた。


日本で延命治療全盛期に「尊厳死」をリビング・ウィルとして提唱されたのが1981年(前身の安楽死協会は1976年)。
老化による身体的機能の低下も人間にとって自然なこととし、終末期には過剰な栄養補給をせず、できるだけ自然で穏やかな医療を、と「平穏死」が
石飛幸三、長尾和宏らによって2010年以降に提唱されている。


キューブラー・ロスや尊厳死は、末期がんその他重篤な病の終末期にあって、治療には限界があることを認め、終末期患者への治療以外の選択肢をも促すものであり、平穏死あるいは自然死は高齢社会を背景として、人間は経年により衰えることが自然という当たり前のことに気づかせ、高齢者の終末期医療の見直しを提唱するものであった。


これまでの動きはそれなりに医療のあり方を問うチャレンジ精神にあふれていた。
むしろ人間の生にとって医療は部分的なものであることを明らかにしてくれたように思う。


人間は死ぬ定めにあるが、どう死ぬかはわからない。
さまざまな死が予期、計画を超えて起こる。
そこには良い死も悪い死もない。
また死に方だけでその人の生が評価されるわけではないのだ。

2018年10月23日 (火)

葬儀では遺体との対面が強制される?

近年の葬儀について、参列した人から
「出棺前の遺体との対面を強制された」
という声を聞く。


バブル期(もう20年以上前のことだが)の葬儀は今と大きく違って、有名人でも会社役員でもない普通の人の葬式で会葬者数が300人程度はざらにあった。
会葬者の7割が死者本人を知らない人が占めることさえ珍しくなかった。


そんな葬式では、出棺前のお別れの儀(遺体と対面しお別れし、花を添える)については死者本人と親しい人に限るため、
「ご遺族、ご親族の皆様は式場内にお残りください」
という案内がされた。
その他の人は式場外のホール、玄関前、あるいは道路で(かつては自宅での葬式が多かった)霊柩車で出棺するのを待っていてくれということだ。


現在はその案内があまり聞かれない。
案内がないので式場に留まっていると、柩が中央に出され、柩の蓋が開かれ、遺体との対面が行われる。
あまり親しくないのに、流れで遺体に花入れをさせられることになるケースもあるだろう。
そのことへの苦情である。


なぜ最後の遺体とのお別れを限定する案内がないのか?

それは近年の葬式が小型化し、60人以下の会葬者ということが多い。
バブル期と違って死者本人を知らない人が少数になったため、あえて案内する必要がなくなったからだ。

その裏には、あまり死者本人と親しくない人は黙って遠慮して席を外すだろうという暗黙の了解がある。
また遺族にしても会葬してくれた人が死者本人と親しかったかどうかわからないため、血縁という枠だけで切り分けしないことからきている。


それを「親族に限る」という案内がないからいたら、したくもない遺体との対面、花入れを強制された、などと文句を言うのはガキの言うことだ。
対面を辞するのであれば黙って近寄らないままでいるか、室外や屋外に出ればいいだけの話である。
誰も死者との対面を強制しようとはしない。
対面してお別れしたい人はご自由にどうぞ、と言うだけである。

こうした困惑が生じるのは、葬式はきわめて人間的な営みである、ということを忘れ、形式的な儀礼であると依然として誤解している人間が多いことからきている。


確かに人は誰でも死ぬ。
しかしその人の死を悼むのはその人と血縁とは限らぬ何らかの心的関係があるからである。
その人を悼み、場合によっては親族以外であっても心を傷めることもある。
親族だから悼み、心を傷めるとは限らない。
親族が悼み、心を傷めるケースが多いのは事実だが。
それが葬式なのだ。

2018年10月11日 (木)

「ハカジマイ」はほんとうに流行っているのか?

NHKでは憑き物がついたように「ハカジマイ」を話題にしている。
???

本日アップするのは20172月に書いたもので、『ソナエ』に掲載されたのは同年3~4月頃だろう。
再掲にあたり一部を補っている。(以下、本文)


墓石業者に聞くと「新築される墓があまりない。最近は【ハカジマイ】が多い」という。
ハカジマイ=墓をしまう(終う、了う)、つまりは「墓を片づける」ことの意。

ハカジマイとは、従来あった墓や納骨堂を整理し、遺骨をまとめて承継(跡継ぎ)を必要としない永代供養墓(合葬墓)に移すこと。

中には行き先が海への散骨のケースもあるらしい。
ハカジマイを散骨で、というのは限りなく「遺骨遺棄」に近い。

ハカジマイをすれば承継者がいない場合に墓が「無縁」となることから免れる。
己の遺骨の行方も決めておく必要があるが。

子がいても墓の世話で迷惑をかけたくないのでハカジマイを選択するケースがある。

かつては「先祖を供養する大切なお墓」で、墓参りを欠かさないのが日本人の美徳といわれた。
だが、今や邪魔者扱い。
これを聞いて「あー世も末だ」と嘆く人もいる。


ハカジマイは法律的には「改葬」にあたる。
90
年代から「改葬」が話題になった。
だが、多くは「お墓の引越し」という意味でであった。


戦後の高度経済成長期に日本では地方から都市へという人口大移動が行われた。
当時は「若者」だった世代も高齢者になった。
遠距離のお墓参りは高齢者には負担、ということで、地方のお墓を整理して今住む都市にお墓を求めて引越しするのが「お墓の引越し」。


お墓の引越しには約310万円かかる、と言われた。
元のお墓を撤去し更地にする費用が30万円程度、寺で閉眼供養してもらう費用が30万円程度、新しく都会に新設する墓の費用が250万円程度、しめて約310万円也。


ハカジマイであれば、元の墓の撤去費用30万円程度、閉眼供養30万円程度は変わらないが、新たに求める合葬墓は20万円くらいから、しめて約80万円也。

安いか高いかと言ったら、安くはないし、手間もかかる。
※言っておくが「閉眼供養をしなければ改葬許可申請に必要な埋蔵証明を出さない」と言う権利は寺にはそもそもない。あくまで任意。


「ハカジマイ」「お墓の引越し」が騒がれるのだから、さぞかし「改葬」が増えているのだろう、とデータを調べてみる。
多少は増えてはいるが今のところはビックリするほどではない。
今流行りの「終活セミナー」では「改葬」(ハカジマイ、お墓の引越し)が欠かせないテーマだが踊っているのは業者だけ?

ハカジマイを考えるのは墓の承継を大切な問題と考えていることを示すようなもので、ハカジマイを即危険視する必要はないように思う。


小谷みどりさん(第一生命経済研究所主席研究員)の調査によると、過半数が将来にわたりお墓が継承されることに懸念を示している。
そのデータが示すように、改葬は多くないが、新しく墓を求める人の約3分の1は既に承継者を必要としない新しい形の永代供養墓(合葬墓)、樹木葬、散骨(自然葬)を選択している。
新しく墓石を求める人が激減していることは事実だろう。


そもそも日本人の墓は「先祖の供養」のためなのか?
3代続いているのは古いほう。
祖父母あたりがいいところだ。
むしろ「死者となった家族の供養」あたりが実態に近かったのではないだろうか?
家族の墓参りであれば人間として自然な行為。


「家墓」の歴史が本格化したのは明治末期以降。
火葬が前提なので、火葬率が6割を超えたのが戦後の1960年。
今こそ火葬率は統計上は100%であるが、「家墓」が一般になったのは戦後と言ってもよい。
墓は、日本人は古くから先祖崇拝を伝統としてきた、という神話の象徴として、憶測で語られ過ぎたのではないか?


現在では3世帯同居が少なくなり、核家族、夫婦世帯、単独世帯が中心となった。
墓は家族の姿を似せているのではないか。

 2014年、朝日新聞が報じて話題になったのが熊本県人吉市で行った市内の全墓地995カ所の現況調査結果。
なんと「全1万強の墓の約4割超の6474基が無縁墓」だった。

 

「無縁墓」とあるが、身元調査までやったわけではないだろう。
管理料を納めていない、墓参の様子が見られない、連絡しても返事がない、と言うことなのだろう。
すべてが承継者がいないことを意味しないだろう。

人吉市だけの話ではないだろう。
地方には改葬もされず放置されたままの墓が多い。

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