葬儀

2017年3月12日 (日)

遺族の肖像・東日本大震災アーカイブ⑥

◎遺族の肖像―311の被災者

 

「記憶がゴチャゴチャ」している被災者

 

女川町から転出した人たちだけではなく、残った人たちもさまざまな転変をよぎなくされた。

ほとんどが犠牲者と何らかの関係があった人たちである。
精神的に大きな打撃を受けたことに加えて環境の大きな変化を受けた。
それがそれぞれにさまざまな変化を強いた。

「復興」といっても、それは女川町の人々を大震災以前に戻すことではない。

家族、親族、隣人、知人の喪失、暮らしの環境の激変…これらは戻ることはない事実である。
喪失、激変の現実を抱えたままであるが、これからの生活を成り立たせる仕組みを準備すること、大震災後の復興とはこのような限界をもったものである。
しかしこれとて遅々として進まない。

被災地の人たちが語る言葉、目線で大震災を見てみよう。


大震災は、予期しない衝撃であった。
予期しない速さで、予期しない大きな規模で、災害が自分たちに襲来し、悲鳴、泣き叫ぶ声、周りの人と手を取り合って高台に逃げた。
逃げ遅れ、多くの人が大津波に呑みこまれた。


家族も家も街も自然もその前に投げ出され、そして気がつくと凄まじい荒廃が目前にあった。
それが瞬時に起こった。
自分も周囲も大きく変貌していた。そして電気も水道も食料も寝る場所もなく、そして家族もいない。


被災地以外ではテレビの実況で仙台空港に押し寄せる大津波、気仙沼が夜を通じて燃えていたことが伝えられたが、被災地では電気が途絶し、こうした惨状を伝える情報が入手できない。
情報孤絶に陥っていた。


暗い、寒い夜が明け、降る雪の中、高台から街を見ると、そこには見たこともない光景があった。
街は破壊され尽くされていた。


その日以降、被災者の人々は生きてきた。
見通せない不安、自分たちの置かれた現実が何かもわからない。
そうした心的、物的な混乱を抱えて生活してきた。


ある時は必死で、ある時は呆然として、ある時は滂沱の涙を流し、ある時は自分を鞭打ち、ある時は投げやりになり、ある時は肩を寄せ合い、ある時は時が流れるままに生きてきた。


それらの日々を「記憶」として整理しようとしても困難である。

 

1年続いた葬式

 

 鈴木さんは葬儀社を営む。
犠牲者の葬儀は大震災の翌月の4月になって始まり、翌年の一周忌までほぼ1年かけて行われた。

 

鈴木さんは妻と13年前に死別している。
妻の実家は仕出し屋を営んでいたが、妻の母と仕出し屋を後継した妻の兄(
55)が大津波で生命を喪った。
鈴木さんは妻の実家の家族の葬式を大震災から9カ月後の
12月に行った。

 

女川(だけではなく東北地方)の葬式は、葬儀に先立つ火葬、つまり骨葬である。
葬式は、他の地域同様に、通夜、葬儀、法要が通常はセットになって営まれる。
だが大震災の犠牲者の葬式は通夜と法要抜きで葬儀式のみが行われた。


あるお寺では、1日に6~7件の葬儀が行われたこともある。
時間、日程上、通夜、法要とセットで行うことが事実上困難であった。


犠牲者の葬式では各家族が経済的理由も含めさまざまな事情をもつ中、「世間体」を気にしないよう葬儀は平等に、また葬儀に参列する者も親族を喪った人が多い中「お互いさま」という言葉があるように、香典ナシ、お礼ナシ、法事ナシが暗黙のうちに了解されて行われた。

 

 町役場職員の震災直後

 

 ここで一つの家族(親族)の体験を紹介しよう。


これは被災地では奇異な例ではない。
しばしば見られる事例の一つである。
また、体験を語ろうにも家族が全滅して体験として語れない家族(親族)もある。
ある家では祖父母、夫婦、子ども全員が生命を喪った。
これもまた被災地では珍しいことではない。


阿部聡さん(29)は、震災当日は職場である女川町役場で勤務していた。


地震があり、職員が3人1組になって町民の避難誘導にあたっていた。
最初は女川第二小学校グランドを避難場所とした。
小学校は女川町の北西部にあり高台にあった。


当日は雪が降り寒かった。
「寒いから校庭にテントを張ろうか」と話していたところ、突然メキメキという音がした。
下を見ると見られるはずがない濁流があり土ぼこりくさい臭いがする。


ここにいては危ないというので町民をもっと高い総合体育館へ誘導した。


水は上の中学校に行く坂の手前まできていた。
役場庁舎の屋上には取り残された職員の姿があった。


小学生も中学生も総合体育館に避難していた。


大津波に巻き込まれながら、よじ登り、総合体育館まで辿り着いた人がいた。
しかし、水を吐き出す力がなく、低体温で死亡した。


その晩、ラジオでは「荒浜に200体の遺体」と伝えていたが、下に降りることができない。
2日間、山の上で過ごすことになった。


といっても聡さんは町役場の職員。
一避難民でいることは許されなかった。

11日夜から聡さんは避難所となった総合体育館の係となって動くことになった。
総合体育館に避難した人は約500名。
町の職員といっても何ができるわけではない。
寝具も食料もない。
しかしあちこちから苦情や要求が飛び込んでくる。


避難してきた人たちも皆ショックを受けている。
寒さ、不安を抱えてやり場のない怒り、イライラ等のさまざまな感情が充満している。
役場職員ということであたられ、翻弄された。

12日にはわずかな食料が投下され入ってきたものの避難者全員に渡る数がなければ配給できない。
「平等」でなければ食料にありつけない人たちの不満が爆発するからだ。

 

聡さんは総合体育館の廊下、ステージとわずかな空間を見つけてベッドにした。


3日目になって移動が可能となった。
4日目からはヘリコプターの誘導を務める。

その後は山の上に乗り捨てられた父親のトラックから合羽を取り出し、それを着て捜索、遺体収拾にあたった。

 

聡さんは3・11から約1年間の記憶が明確でない。
時間関係もゴチャゴチャしている。
疲労から鬱状態になった。
最初は病院から睡眠薬をもらって何とか仕事をしていたが、二年後についにリタイアをよぎなくされた。

 

行方不明―実感のない死の継続

 

聡さんは両親と弟、妹の5人家族。妹・昌子さんはいとこの佐藤輝昭さん(35)の家族と一緒に輝昭さんの姉夫婦を頼りに一時神奈川県に避難した。


輝昭さんは聖花園の従業員。
幼い子供を抱える輝昭さん一家は福島原発の放射能の不安もあり、また地元では何もなく食料のめども立たなかったからだ。


輝昭さんは父・佐藤義信さん、母・良子さんの両親を津波で喪った。
母・良子さんもまた聖花園の従業員であった。


輝昭さん一家が一時神奈川に避難した住宅に、聡さんとその母・幸子さん(
55)、幸子さんの兄の高橋洋さん(58)、そして鈴木通永さんのねぐらとなった。
洋さんは妻と長女を喪った。

 

聡さんの父・幸子さんの夫・阿部誠一さん(当時54歳)については最初安心していた。

というのは山の上にトラックがあったからだ。
そこに避難したのだろう、と考えていたが、総合体育館にもどこにも顔を見せない。
2日目の夜になっても現れない。
仕事道具のトラックを真っ先に避難させて、また下に降りていき、そのまま行方不明になった。

 

幸子さんは小学校の近くにあった給食センターに勤務していた。
そこで震災、大津波に遭遇。
給食センターは高台にあったので無事だった。
聡さんとは当日に会い、互いに無事を確認していた。
幸子さんは寒い中、自分の車の中で寝た。

 

2日目の夜、夫のトラックに行ってみた。
夫は頑強で死ぬわけがないと思っていたが、トラックのドアは鍵がかかっておらず、人気がなかった。
「あ~いないんだ」と思って泣いた。
ただ、まだどこか実感がなかった。

 

食料が入ってくるようになると給食センターは総合体育館にいる避難者の食事作りに追われる。
避難所生活をしている人に「給食室にいてあんたたちだけが食べてんだろう」と言われ、妬まれ、心が傷ついた。

 

幸子さんが、肉親の死に直面したのは幸子さんの母の遺体が発見された時が最初であった。
いるはずの病院にいないと聞いて不安だった。
遺体が発見されたと聞いても否定する想いが強く、なかなか受け容れられない。
しかも父も行方不明のまま。

 

3日目以降に自衛隊も女川町に入り、人手も足りたことを確認すると、4日目に給食センターを休職した。

母の遺体が発見され、夫も父も行方不明、姉・良子さんとその夫・義信さん夫婦(輝昭さんの両親)も行方不明。
「避難して生きた人たちの食事を作っている場合ではないだろう」と言うのがその時の心境だ。
6日目に輝昭さん一家が神奈川県に一時避難するのに娘を預け、輝昭さんの住宅で約2か月生活することになった。

 

聡さん・幸子さん親子、幸子さんの姉の息子である輝昭さんの近親者があまりに多く大震災の犠牲になった。

 

遺体で最初に発見されたのが幸子さんの母・ミヨコさん、聡さん、輝昭さんの祖母である。
近所の人に「遺体安置所にいるよ」と知らされた。

 

2番目に遺体で発見されたのが聡さんの父方の祖父・阿部鶴吉さん。
3番目に遺体で発見されたのが幸子さんの義姉、洋さんの妻・たか子さん。
輝昭さんの父・義信さんが遺体で発見されたのが4番目で1カ月後であった。

 

輝昭さんの母で幸子さんの姉、佐藤良子さん、聡さんと輝昭さんのいとこ、洋さんの長女・祥子さん、聡さんの父で幸子さんの夫・誠一さん、幸子さんの父で、聡さん、輝昭さんの祖父・鶴吉さんが行方不明のまま。
鶴吉さんは足が悪く逃げきれなかった。

 

4人が遺体で発見されて、⒋人が行方不明のまま。

 

聡さんは遺体捜索活動を続けながら、最初は「父は生きているかも」という想いを捨てきれなかった。
それが「いつ」というかは定かでないのだが、次第に諦める心境になっていった。

 

幸子さんも夫に対し「また下に降りていくなんてばかだな」と思っていた。

 

3人に共通するのは、近親者が死ぬということがどういうことかわからない、ということだ。
行方不明の場合には遺体もない。
死別の悲しみの実感がわからないまま、ということだ。

 

死亡届の提出と葬式

 

6月に法務省が家族申述書の提出により行方不明の人の死亡届の提出を認め、受理することになった。


書類作成がたいへんだったことは記憶しているが細部は記憶にない。
死亡届を出し、受理されると弔慰金がもらえる、行方不明のままでは弔慰金が出ないというので多くの人が出した。
3人もまた同じだった。

 

行方不明の人たちの葬式は死亡届の提出・受理の後、順次行われた。
だが3人には葬式の記憶が定かではない。

 

「震災の日と葬式を出した日が離れているので、あまりよく記憶していない」

 

と語る幸子さん。

 

行方不明の人の葬式には遺骨がない。

 

鈴木さんがその様子を説明してくれた。

 

「ご遺体、ご遺骨がないので、故人の生きた証しとなるもの、それすら流失して無い場合、自宅があったところの土を甕(かめ)に入れて、写真があれば写真と位牌でもって葬式をした」

 

行方不明の人の葬儀については、あちこちで家族の話を聞いた。

 

「親戚の手前もあるから葬式を出した」

 

「葬式を出さなくてはならないという感じが周囲からひしひしと伝わってきた」


葬式を家族の主体的意思でした、というのとは違っていた。
だから葬式に実感がもてないでいたように思われる。

 

幸子さんは葬式を出した日について言う。

 

「確か暑かったと思う」

 

輝昭さんは震災直後を振り返る。

 

「震災当日から4日目くらいまでのことを、当時は『短い』と思ったのですが、今になってみると、とてつもなく長い時間だったな、と思う」

 

ペットボトル飲料は貴重品。
水は子どもたちに飲ませ、自分の水分は酒だった、と言う。

 

おそらく酒なしであの混乱と不安な日々を過ごすことが難しかったのだろう。

 

死者、行方不明の人たちも、あの日に何が起こったのかよくわからなかったのだろう。
そして遺った人も何が起こったのか、それが現実なのか、よくわからないでいるのだろう。

 

多くの人たちが被災地を去ったのは、仕事を求めてのことが多いだろう。
だが、土地にいることに耐え難い想いを抱いて去った人たちもいるのではないか。

 

輝昭さんは震災直後に約2カ月地元から離れた。
聡さんは2年後に役場を辞めた。
幸子さんは母の遺体発見を機に給食センターを休職して辞めた。
遺った者も安穏ではなかった。

 

そして今3人は葬儀社に勤務し、遺族が死者を送るサポートをしている。

(雑誌SOGI通巻149号。2015年)

2017年2月23日 (木)

仏教界への提言・葬儀は何が問題か?―戒名、布施問題の多角的アプローチ⑦番外編

仏教タイムズ2017年2月16日号に「仏教界への提言」が掲載された。
これを本ブログのシリーズ「戒名、布施問題の多角的アプローチ」の番外編として公開する。

紙面は大きいが、字数が少ないため、問題を絞った。
全日本仏教会の中間報告へも言及していない。
しかし、最も言いたかったことを書いた。

編集部からは「消費者からの視点」で書くよう要請を受けたので、「葬儀とは遺族にとってどういう場面か」ということを切り口にした。
そのことで戒名問題、布施問題、僧侶派遣についても根本的なことを書けたかと思う。
詳細は本ブログで展開しているので、本ブログの読者にはわかっていただけるだろう。

201702224

この記事は「僧侶派遣の現状と背景を追う〈5〉最終回」として掲載された。

読みやすいように、以下本文を掲載する。

■遺族にとって葬儀とは?

葬儀というのは一般論で語られるものではない。
個々の人にとっては身内が死亡し、直面する重大事なのだ。
その死者とどう相対し、送り出せばいいのか迫られる。

それが高齢(何歳から「高齢」なのかわかりにくくなっているが)で徐々に弱ってきた場合には、ある程度の受け入れ準備があるかもしれない。
死亡してホッとする場合もあれば、強い寂寥の感情に襲われる場合もある。
老老介護の場合には遺された者が役割喪失感に襲われることもある。

状況はさまざまである。

たとえがんでステージⅣを宣告され闘病していた身内であろうと、その最後が生かしているのがむごいと思っていた場合でも、死亡という事態に愕然とする。
まったく違う心的情況に追いやられる。

人間の死は、たとえ高齢者が多いとしても、基本は年齢を選ばない。
若年者が死ぬこともあり、遺された年長者、特に高齢者の場合、自分が生き残ったことへの罪悪感でさいなまれることも多い。
その悲嘆は長期化、深刻化する事例が少なくない。

災害死、突然死、事故死、戦死、犯罪死…遺族はその事態を受けとめることを拒否し茫然としている。

単独世帯が4分の1を超えた。
身内の死を後から知らされる場合もある。
家族以外がその死を世話することもある。
家族に拒まれ、あるいは家族を拒んだまま死亡する人もいる。

いかなる形であれ、死は、他人にとっては「人間は死ぬ」という事実以外のものではないかもしれないが、身内にとっては迫られる事態、緊急時としてある。

そういう「人の死」に対処するのが葬儀である。
個々の死がそうであり、固有である。

僧侶は、どんな立場で葬儀を勤めるにせよ、その固有の死に相対する想いなくして葬儀を勤めることはできない。

また、単に同じ儀礼を型通りに行えばいいものではない。

その死者、死者の周囲の人の想いに無関係に行われるのは葬儀ではない。
単なる装飾だと知るべきである。

■紛いものの「仏教式葬儀」の横行

仏教の体裁をとった葬儀は、これだけ批判されても8割以上ある、というのは、過去の慣習を引きずった結果であり、ほんとうに必要とされているものは多くて4割。

それを僧侶に葬儀を依頼するのがあたりまえ、という感覚でいる僧侶が多すぎる。
その証拠に一つひとつの葬儀に向き合って行われない葬儀が多すぎる。

葬儀で初めて遺族に会うのに、話も聴かない、死者がどうであったか、遺族の気持ちも知ろうとしない僧侶がいる。

ある僧侶派遣団体では、僧侶が遺族と話をするのを禁じている。
バカな、と思う。
そこには商売しかない。

自分の宗派の儀礼に則ることには熱心だが、死者にも遺族にも無関心な僧侶がいる。

遺族も僧侶と話すことを敬遠し、僧侶も遺族を敬遠する。

そこで行われる僧侶の営みは大いなる空虚以外の何ものでもない。
それは葬儀とは呼べないしろものであることは確かだ。
そうした紛いものが横行し、それが「葬儀」だと言われているところに不幸がある。

そうした紛いものに対して「布施」なんてあるはずがないではないか。
出す方にも受け取る方にも。

遺族の心理は敏感である。
紛い物か本物かは頭ではなく、肌で感じ取る。

■信頼される寺

寺に行けば、そこの住職が檀信徒や周囲の人に信頼されているかわかる。

「オラが死んでも住職が葬式してくれるから安心」
と思われている寺は意外と多い。
そこではあまり布施の額や「戒名料(院号料)」などという言葉を耳にしないものだ。

遺族が少し無理して包んでくると、
「後々の付き合いもあるから半分だけ今はいただく」
と半額返す僧侶もいる。

生活困窮者の檀信徒が死ぬと、「檀信徒の葬儀は寺の責任」と無料で、しかも香奠持参で駆けつける僧侶もいる。

こうした僧侶は、一般の目に入らないだけで、多くいる。
そうした住職の下にいる檀信徒たちには、生活不安、家族間の問題、その他の不安はあっても寺への不安はあまりない。

■送り手がいなくても送る覚悟

私は葬祭ディレクターの育成にこれまで長く関与してきた。
そこで言ってきたことは

「たとえ身内が死者に無関心であろうと、死者の尊厳を守り、たとえ自分だけでもきちんと弔い、送る覚悟をもて」

ということであった。

同じことが僧侶にはより以上求められると思う。

「葬祭仏教」として民衆に定着したのは、戦国時代の聖たちのそうした覚悟があったからではないか。

 

 




2017年2月17日 (金)

親友の葬式―個から見た死と葬送(19)

親友の葬式

彼の葬式が行われる葬儀会館は駅からわかりやすい立地にあった。
冬から春に移行する時期。
コートはなくとも歩いて少し汗を感じるくらいだった。

式場に入る。
遺族席に行って挨拶する。


死者の配偶者が私が来たことに驚き、腰を上げる。
そして私が亡くなった彼の小学校以来の親友であることを周囲に教える。


「わざわざ、申し訳ありません…」


「いや、彼との約束だから。むしろもっと早く来るべきだったのですが」


「ちょっと顔を見てやってください。彼もSさんには会いたいでしょうから」


死後数日経っていたので、顔色は濃く沈み、筋張っていたが、面差しは穏やかだった。


「最後はずいぶん苦しんだのですが、亡くなると、すっと穏やかになって」


「奥さんが献身的に世話されましたからね。対面できてよかった。ありがとうございました」


そのうち式場は人が埋まり始めていた。
彼は高校教員を長くしていたから教え子や同僚とおぼしき人が
30代から80代まで来ていた。

あまり長く彼を独占しておくわけにはいかない。
彼のすっかり冷たくなった頭髪の生え際を撫で、別れを告げた。


彼とボランティア仲間だったという僧侶が導師となり式は進行した。
読経の声にも涙が被さっているように聞こえた。


教え子たちの弔辞は、彼のユーモラスな一面も紹介して座が和んだ。

皆彼を愛していたのだ、と強く思った。

彼を少し嫉妬している自分がいた。
私の葬式には彼は来てくれない。

2017年1月29日 (日)

「布施」の問題の現況―戒名、布施問題の多角的アプローチ④

「布施」問題の現況

「布施」が今問題になっているのは、主に「葬儀の布施」である。

通称「お経料」とか「戒名料」と言われるのはその類である。

葬儀のお経の対価として「お経料」、戒名の対価として「戒名料」と言われる。

仏教会では「布施は対価ではない」として、布施は本来定額化されるべきではない、と布施の定額化に抵抗する。

それに対して僧侶派遣業は「消費者はいくら支払っていいかわからないで悩む」と、「明瞭化」をうたって定額化を進める。

寺院の一部では、消費者の「わからない、という心理は理解できる。強制ではなく、目安は出すべきだろう」と目安金額の提示をしている。

ネットで見ていると葬祭関連事業者ではなく、寺院のホームページに「布施料」などといった表現を見つけ、思わず嗤ってしまったことがある。

「布施」基盤の喪失

「布施」は寺院の財政的基盤であることは事実である。

寺院は信仰共同体であり、これの運営を財政的に支えるのは檀信徒であり、それが「布施」である。

ところが檀信徒に寺を支えるという意識が希薄になってきている。
あるいは寺を積極的に支えようとする檀信徒が少なくなってきている、ということが一つの問題。
昔は「大旦那」という存在がいたが、今は少ない。
金をもっていても大きく負担しようという大旦那がほとんどいなくなった。

もう一つは、宗教的浮動層の増加により、そもそも寺との関係がないにもかかわらず、葬儀や法事だけに僧侶を呼ぶケースが少なくない。

彼らには寺の活動を支えようとする意識はなく、あくまでも葬儀や法事の宗教的サービスの対価としての意識しかない。
そこで「対価ではない」と言ってもチンプンカンプンという現実がある。

彼らに寺を支える「布施」という意識はまるでないのだから、「対価である以上、料金を明示してほしい」という意見があるのは、ある意味で当然と言える。

寺院は「建前」を主張するが、宗教サービスの受け手である消費者は「本音」で迫る。
その「せめぎ合い」というのが「布施」を巡る問題である。
布施が寺院の財政的基盤、という問題は、布施の本質論だけではなく、寺院に「定額化」が布施の安い水準への統一になり、寺院収入を減らすことになるのではないか、という危機感もある。

地方寺院の問題

寺院の状況も異なる。

都市化つまり過疎化で、地方寺院は檀信徒が減少し、そもそも寺院収入は低下傾向にあり、地方経済も悪化しているから檀信徒にこれ以上の負担を求められない。

そこで寺院の僧侶は檀信徒に頼るのではなく、自ら正業を別にもつ。
つまりは兼業化している僧侶が多い。

但し、兼業寺院の現実も困難を抱えている。

兼業の主なものは昔から「役所の職員」「教師」「農協の職員」が多かった。
ところが役所は地方自治体の広域合併で職員が減っている。
教師は少子化で減っている。
農協も大型合併で職員数が減っている。

つまりは兼業先が少なくなっている。
住職が兼業できないと寺院は跡継ぎ不足に悩むことになる。
地方に行けば「子どもに寺を継がしていいものか」と悩む僧侶は多い。

また1カ寺で専任の住職を雇えない寺では複数の寺を兼務する「兼務住職」に頼る。
中には10カ寺ほど兼務する僧侶もいる。
いっそ寺を合併すればいいのにと思うが、これは一筋縄ではいかない。
それぞれの寺の檀信徒にとっては「おらが寺」であり、合併を好まない檀信徒が多い。

こうした兼務寺院では寺の本堂等の老朽化が大きな問題となる。
老朽化した建物を修復したいと思っても、当該寺院の檀信徒だけではできない。
そこで兼務先の他の寺の檀信徒に寄進を呼びかけても、自分の寺の話ではないので応えようとする人は少ない。
よって荒廃する寺院が後を絶たない。

「布施」相場の格差

葬儀の「布施相場」は、全国平均すれば40~50万円というところだが、現実的に多いのは20~30万円というところである。

都市部では50~70万円という数字が言われるが、郡部では5~10万円というのも少なくない。

5万円と70万円の違い、それはそのまま檀信徒の経済力の差である。

もう少し言うならば、郡部の寺の僧侶は地域住民と顔が見える場所にいる。
都市部の寺の僧侶は地域住民という感覚がなく、顔が見えない場所にいる。
という問題である。

この問題は大きい。
郡部寺院の住職は檀信徒の生活が見えているので「もっと」とは言えない。
都市部寺院の住職は檀信徒の生活が見えないので「もっと」と言える。
さらに言うならば、宗教的浮動層は檀信徒ですらない。顔が見えるはずがない。

「僧侶派遣」の問題は寺院格差を背景とした問題でもあることが問題を複雑化している。
(この項続く)

2017年1月22日 (日)

死者との関係づけ―戒名、布施問題の多角的アプローチ②

戒名、布施問題の多角的アプローチ②

死者との関係づけ

仏教葬儀でなぜ「授戒」が重視されたか?(下)


日本の仏教葬儀の内部に少し立ち入って見てみることにしよう。

※誤解してほしくないのは、ここで教理を語っているのではないこと。
儀礼が民衆の心性とどう関係していたのか、その全部ではなく、一端を探る試みだ、ということである。
一つの見方を提示するもので、あるべき方向を提示しているわけではない。
しかし、これはこれで私の模索の一つの結果を提示している。


「導師」に期待されているもの

死後の世界に橋渡しする存在が導師である。

導師とは民衆に法施をなし、仏法に導く僧侶という意味ではない。
葬儀においては、まさに死後の世界に導く者であり、この役目においては、超自然的なものの化身、代行者であると理解されているように思う。

ある僧侶が地域共同体の葬儀の時代にあって、僧侶は地域共同体の一員として葬儀の儀礼執行を分業した、と語っていた。

だが、分業以上のものであると思う。
その僧侶の人間性を別として、葬儀の導師を務めることによって、聖化された存在と見なされたのであると思う。

創価学会が、僧侶抜きの葬儀を提案したとき、これに対する強いアレルギーが出たのは、僧侶が収益源を失うことへの僧侶からの反発もあったろうが、導師を欠くことにより、あの世への移行が不確実なものになることに対する民衆側の不安があったのではないだろうか。
創価学会の友人葬でも儀典の係が「導師」を務めている。
「導師」の期待されている役割を暗黙のうちに受け入れたのだろう。

枕経

仏教葬儀の儀礼で最初にくるのは枕経である。

枕経とは、新しい世界に移行させるための死者に対する修練であり、秘伝を伝えることであると理解されたのではないか。

歴史的にも中世の浄土教では死にゆく者への臨終経としてあったものである。
枕経は、まさに死者に対するものとして存在した。

授戒

仏教葬儀の中心をなす儀礼は、浄土真宗を除き、授戒である。

これは意味あることであると思う。
授戒は死後の世界に入りしむるための秘儀として位置づけられたのだと思う。

ちょうど古代の男子の成人儀礼で割礼を施すように、授戒儀礼では、死者を剃髪し、過去を殺し、新しい世界の世界観たる戒を授ける。

授戒は、死者を新しい死後の世界に移行させる決定的瞬間なのである。
それ故に授戒が中心をなしたのではないか。

日本の仏教葬儀が俗人が出家して僧侶となるための加入礼を模したことは偶然ではない。死後の世界へはイニシエーションが必要なために援用されたのだと思う。
授戒し、死者が戒名を授かることは、死者が霊的存在として再生したことを示しているのである。

戒名の有無は、死者が死後の世界に無事位置づいたことを示す証明であり、遺族にとっては死者と新しい関係づけをすることが可能となったことを証明するものなのである。
戒名を得ることの意味が、民衆にとってこのように理解されたからこそ、民衆は死者のために戒名を得ることへ殊更に拘ったのだ、と考えると理解しやすいように思う。

そして導師による引導とは、まさに、死後の世界に死者が入ったことの宣言としてあった。

曹洞宗では一挙に仏世界に導くとして「喝(かーっ)」などと大声するが、その場にいる者たちには、深い印象と安心を与えるものである。

藤井正雄が、日本における葬儀式の展開は、真宗と日蓮宗を除き
「没後作僧すなわち死者を仏弟子にする授戒式と、その新仏弟子を浄土に引導するという二重構造になっている」(『祖先祭祀の儀礼構造と民俗』)
と述べているが、このことは日本の仏教葬儀がイニシエーションをその本質としていることを示しているように思う。

死後の修行という考え

しかし、引導の後にも、日蓮宗などでは、死者は死後しばらくの間は修行するという考えがある。
これは何故だろうか。

イニシエーションにとって、新しい世界に入るには、本来から言えば、修行が必要であるという観念がある。
だが、死者にはその充分な時間がなかった。
そのため死者には死後も修行が課せられたと考えるのが合理的であるように思う。
これが四十九日である。

この死者の修行は死者が単独で行うのではない。
遺族も死者と共に修行に参加することになる。
これが四十九日間を遺族が籠もることの意味であり、喪に服することの意味である。

服喪というグリーフワーク

遺族はかつて、「素服」という死者の衣と等しい服で身を包んだ。
まさに死者と共に修行に参加することを義務づけられたのである。

この服喪は、死は死者に単独で生じるものではなく、死者と遺族の間に起こる共同的なものであることを示しているように思われる。

ファン・ヘネップも
「服喪中は遺族と死者とは共に一つの特別な集団を構成しており、生者の世界と死者の世界との中間におかれている」
と語る。

と同時に、服喪は遺族の悲嘆を位置づけるものであった。
服喪をシステム化することにより、遺族が家族の死によって生じる精神的な衝撃、悲嘆が生じることを自然なこととして認容したのであると思う。

遺族に対して、システムとして服喪を課すことは外からの強制ではあるが、それを遺族自身が主体的になすことによって遺族自身のグリーフワークとなっていく。
遺族は服喪という死者との共同作業を行うことを自らに課すことによって、死者のために供養し、それを死者に振り向けて回向するという名分の下に、グリーフワークをなしたのである。

服喪の習慣が仏教世界だけでなく、各地に見られるのは、死の共同性が文化を超えて人間にとって本質的なものであることを示している。
死別した者の悲嘆が人間にとって極めて自然なことであることが受け入れられていたことを示しているように思われる。

修行を終えた死者は、最終的な秘儀である中陰儀礼(四十九日法要)を経ることによって、新しい世界である死後の世界に一人前として認められることになる。
これは仏教的には「成仏した」「浄土に往生した」などと表現される。

忌み

ここで「忌み」も新しい意味をもつことになる。

四十九日は「忌中」と名づけられ、「忌みの中にある」ことを示すものである。

「忌み」とは、一般に理解されているような、死穢を避けるということだけではない。
古い世界を殺すことを意味したのではないか。
例えば、今でも関西地方を中心に残る民俗である出棺時の死者の使用した茶碗を割る行為である(真宗はこれを嫌うが、一面的理解からきていているように思う。もっとも茶碗を割る風習自体がなくなりつつある)。

これは古い世界である生前の残存物を抹殺し、死者を古い世界に戻りようのない者とすることによって、新しい世界である死後の世界で生かすための象徴行為であったのではないだろうか。

確かに死に対する恐怖心や嫌悪感は現実にあった。
また、愛する存在としてあった死者を遺された生者が断念するという意味もあったであろう。こうした心性を合理化するものとしてもあったろう。

ファン・ヘネップによるなら分離儀礼であるが、忌みは、死後の世界での再生を願って行う、死者の古い世界の抹殺行為という積極的な意味を付与されたのだと思う。

服喪することを「忌み籠もる」と言う。

これは遺族が死穢に染まっているから遠慮して籠もるという消極的な行為だけではない。

死者が新しく死後の世界に再生するための(同時に遺族がグリーフワークをなすことにより悲嘆を表出し、死者亡き後の世界に生きるための)積極的な行為として理解されたのだろう。

カミ、ショウリョウ、ホトケ、ソレイ

死者が、こうしたイニシエーションを経て、つまり死と再生を経て、死後の世界に仲間入りし、加入した存在の名称が「カミ(神)」「ショウリョウ(精霊)」「ホトケ(仏)」である。
また、家族にとっては「祖先」であり、「祖霊」である。

イニシエーションにより死と再生を経たゆえに、祖先は力をもつものと見なされ、現世に生きる者である子孫を超越的に見守り、助ける存在として理解されたのではないだろうか。

まさにファン・ヘネップの言うところの「統合」の完成である。

イニシエーションが完成することにより、死者は死後の世界に位置づき、死者のパワーが生者に統合することによって、生者もまた回復し、死別の精神的混迷から抜け出し、新しい死後のステージに移ることが可能となるのである。

イニシエーションは死を内包する

エリアーデによるならば、
イニシエーションの「目的は、加入させる人間の宗教的・社会的地位を決定的に変更すること」であり、
「哲学的に言うなら、イニシエーションは実存条件の根本的変革」に等しい。
「ほとんどふるえ上がるほどの恐ろしい厳粛さ」を示す儀礼である。

多くの加入礼が、死を内包するという事実は、人間存在を揺るがし、人間関係に裂け目をもたらす二人称の死という事態こそがイニシエーションを必要としたことを根拠づけるのではないだろうか。

イニシエーションとして葬儀を行うのは、死が、単に人が存在を失うというマイナスの出来事としてのみ理解されたのではないからだ。
あるいは、そう理解したくないという想いがイニシエーションを生んだのであろう。

しばしば、死ぬことは、本源である世界に還ること、往還することであると理解された。
これは自然の循環と豊穣を積極的に理解したいという心性から出たものではないだろうか。

仏教の教理を別として、民衆が仏教葬儀を以上のようにイニシエーションとして理解したことは、ほぼ間違いのないことではないだろうか。
そして各宗派の葬儀に対する理解も、死に際してイニシエーションが必要であるという民衆の感覚と無縁ではなかったと思われる。
これが枕経、授戒、引導などの葬儀における位置づけとなって表現されたのではないだろうか。

死と再生

改めて確認しておきたいことは、死が「危機」であると理解されたから、民衆は家族の死に際してイニシエーションを必要としたのである。

死者の再生であり、同時に遺族は死者と共に小さな死を体験することにより、危機に陥った自らの再生をなすためのものであった。

死の危機に直面したとき、近代人といえども古代的心性、つまりは原初的な心性が奥底から湧き上がってくるのでないか。
これは人間の本源からくるエネルギーなのかもしれない。
人間の歴史は、こうして死と再生を繰り返してきたのだろう。

近代人は、世俗化され、聖なる世界から引きずり出された存在である。

それゆえに、儀礼という宗教的世界の中で再生することを簡単には実感できなくなっている。
これは不幸である。

だが、死という危機に直面して、水面下で、こうした葬儀というイニシエーションを必要とする想いがフツフツとしているのではないだろうか。
そうとでも理解しないと、崩れかけているとはいえ、民衆にとって葬儀というものがもつ意味が正確に理解できないような気がするのだ。

現在、戒名問題や仏教葬儀などへの不信が出ている。
これにはさまざまな原因や理由がある。
この背景については、今繰り返すことはしない。

世俗化や近代化を余儀なくされ、これからは、確かに葬儀は多様化してきたし、今後はいっそう多様化が進むだろう。

今や葬儀をどう行うか、についてのコンセンサスが薄れてきただけでなく、なぜ行うのかについてもコンセンサスをなくしているように思う。

だが、家族の死に直面した人の想いが、根本的なところで変わってしまっているとは考えにくい。
死は個別化されつつあるとはいえ、依然として危機であり、危機をもたらすという基本的な部分を変えていないからだ。

人間の死と再生の物語を過去のこととしてだけ共有し、現在のこととしては共有できなくなったわれわれ。
物語に郷愁を覚えつつも、その中に入っていけなくなったわれわれ。
多様化とはそれぞれが、それぞれの仕方で共有されることのない物語を編むしかないところに追いやられた事実を語っているのかもしれない

2017年1月21日 (土)

仏教葬儀で「授戒」がなぜ重視されたか?上-戒名、布施問題の多角的アプローチ①

「僧侶派遣」の話題も賑々しい。
少し基本的に戒名、布施問題をさまざまな角度で考えてみたい。
過去に書いたものも改めて取り上げていることを予めお断りする。


戒名、布施問題の多角的アプローチ


第1回 仏教葬儀でなぜ「授戒」が重視されたか?(上)


イニシエーション
20世紀の初め、アルノルト・ファン・ヘネップは『通過儀礼』を著し、
「あるグループから他のグループへ移るには、われわれの社会における特定の儀礼──洗礼、叙品式など──にみられるのと同様な通過の際の特別な様相を呈する」
と看破した。

彼は、人生の
「区切りの一つ一つについて儀式が存在するが、その目的とするところは同じである。つまり、個人をある特定のステータスから別の、やはり特定のステータスへと通過させることに目的がある。
目的が同じであるため、その達成手段は、細部に至るまで同じというわけではないにしても、少なくとも類似するようになるのである」
と分析し、
「出生、幼年期、社会的成熟期、婚約、結婚、妊娠、出産、父親になること、宗教集団への加入礼および葬儀などの儀式が一般的に似ているのはこうした事情による」
とし、
「これらの儀式はすべて皆同一のカテゴリーに組み入れるのが合理的」
として儀礼研究に体系を与えた。

そして彼は、
「通過儀礼はさらに分離儀礼、過渡儀礼、および統合儀礼に分析される」
とした。

あまりに有名になった儀礼の分類であるが、彼は葬式についても一章を設けて詳しく通過儀礼の要素をもつことを分析している。
その冒頭で次のように述べる。

「とむらいの儀式についてまず考えられるのは、主流をなしているのは分離儀礼であって、これに対し過渡および統合の儀礼はあまり発達していないのではないか、という事である。ところが実例にあたってみるとそうではなくて、分離儀礼は数も少なく単純で、かえって過渡期の儀礼の方が持続期間も長く、複雑化しており、それだけを独立したものと認めてもよい位のものもある。さらにまた、葬いの儀礼の中で最も複雑化しかつまた重要視されるのは、死者を死者の世界に統合させる儀礼である」

これは極めて示唆に富んでいる。

統合儀礼、つまり死者の世界へ加入させるための儀礼が重要な構成要素となっていると見ているのである。

私は葬儀を通過儀礼の一類型であることを否定するものではないが、その一つにファン・ヘネップが分類する加入礼として葬儀を見ると、よりよく明らかになるのではないか、というアイディアをもっている。

ここで「加入礼」というのはイニシエーションの訳である。

ちなみにイニシエーションとは、
「 1開始、創始、創業、 2a加入、入会、入門、b入会(門)式、 3a手ほどき、手引き、b秘伝を伝えること、伝授」
(研究社『新英和中辞典』)

と説明されている語である。
文化人類学的には訳す場合には「加入礼」とされるのが一般的である。

成人式のように、古代社会において、古い子どもの世界から新たに成人した世界に加入するに際して、苦行や儀礼を通じて新たな世界に導かれることを言う。

説明的に訳すとするならば
「秘伝を伝授することにより新しい集団に導いて加入させるための儀礼」
とでもなるだろうか。

私は、このところ、戒名について考えてきた。
今一つ、なぜ戒名が葬式において重要なのか、人々が関心をもつのか、自分で納得できなかった。

そんなときエリアーデの『生と再生─イニシエーションの宗教的意義』に出会った。
葬式について論じたものではないが、読んでいて、興奮してきた。

エリアーデは前近代社会のこととして論じているのだが、それは死滅した宗教世界のことではなく、死と葬儀においては根本のところで息づいているのではないかという想いを強くしたからだ。

河合隼雄も『生と死の接点』で
「近代人は…社会的な儀式としてのイニシエーションは棄て去ったが、その無意識内には、イニシエーションの元型的なパターンが存在し、われわれに今なお作用を与えている」
と述べる。

だが、儀礼そのものに仮託する心理も消え去っているわけではないように思う。

特に、日本の仏教葬儀とその中心を占める授戒を解釈する際に、イニシエーションと考えると、見えてくるものがあるように思われる。

予めお断りしておくが、これは思いつきである。まだ考えが詰められていないが、以下、このアイディアを説明してみることにする。


葬儀はなぜ切実なのか?

葬儀は、古い世界である生前の人間が死に、新しく死後の世界に入るためには必要なイニシエーションとして考えられていたのではないか。
古い人間である身体としての人間が死に、新しく霊としての人間が生きるための加入礼の秘儀がまさに葬儀であったのではないか。

死者が出る。
あくまで2人称の死として起こった場合である。

遺族は葬儀を行うことに拘る。
このわれわれがよく知っている拘りはどうして生ずるのであろうか。
この点が私が拘るところである。


ここには「弔う気持ちは人間の自然の感情」と説明される以上の拘りがあるように思われる。

その葬儀をすることへの遺族の拘りは多くの場合、今でも実に切実である。


これは何故なのだろうか。

葬儀をしないと、死者は行き場所を失うからではないのか。

日本の民俗的観念では、弔われず、行き場所を失った死霊は、しばしば生者に対して害をもたらすと信じられてきた。

死者が行き場所を失うことは、遺された者としても死者との関係づけができないまま留め置かれることになり、これが遺族に大いなる不安をもたらすのだろう。

したがって死者を死後の世界に加入させることは遺族に課せられた大いなる義務としてあるのではないだろうか。

葬儀において、分離儀礼、つまり死者を古い生前の世界と分離させることは重要であるが、分離は既に死によって発生したのであるから、より重要になるのは死者を新しい世界に移行させることにある。
分離は加入のために残存しているものをせいぜい切り離すためのものでしかない。
あるいは、加入のための条件を整えるためのものであろう。

死者を新しい世界である死後の世界に入らせるためのイニシエーションは、日本の民衆にとっては、長く日本社会にコンセンサスを作ってきた仏教葬儀を通して行われると理解されてきたのだと思う。
その理解はかなり薄くなったとはいえ、現在でも必ずしも完全になくなったわけではない。

だから、この場合、死者や遺族が仏教徒であるかどうかはあまり問題とされない。

仏教葬儀が死者を死後の世界に加入させるための儀礼として日本人の中に理解されてきたという事実が重要なのである。
これが現在でもなお8割を超す仏教葬儀ということで現実化しているのであろう。

もちろんこの歴史的背景としては、仏教の民衆化が葬祭を中心になされたことや、江戸時代の寺檀制度の法制化がある。

この結果、
重要なのは、日本の民衆にとって、仏教徒だから仏教儀礼によるイニシエーションが選択されたのではなく、死後の世界に入るために仏教葬儀があると理解されたことである。

そうでなければ、明治維新により寺檀制度が法制的位置づけを失って約150年を経てもなお、また真正の仏教徒が3割以下になっても、依然として仏教葬儀が8割という事態を説明しきれない。
(この項続く)

2017年1月19日 (木)

遺族にとっての別れ、友人・知人にとっての別れ

最近、2つの葬儀に出た。
一つは知人の配偶者の、もう一つは知人の葬儀であった。

2つの葬儀に共通していたのは、出棺の前の最後のお別れ(お別れの儀)に充分な時間をとっていたことであった。

参列者が一人ひとり、思い思いに遺体と対面して別れを告げていた。
一人ひとりが故人とそれぞれの関係を結んでいたのだろう。
その別れの仕方は実に多様であった。

直立して顔を見て深く合掌する人、
撫でるように顔を触る人、
立ち去り難い表情を見せる人、
すがりつきたい想いを堪えて立ち竦む人…。

ほんとうにさまざまな別れがそこにはあった。

その別れを見ていて、故人にはその参列者一人ひとりとの深い関係があり、その生を奥深くつくっていたのであろうことが実感できるものであった。
おそらくどんな人であれ、関係の深さ、広さには違いがあるだろうが、家族以外の人とさまざまな縁を結び人生を生きているのだと思う。

父の葬儀でもそうであった。
ほんとうに多様な人が湧き出てきたような気がしたものである。
そこには息子である私の知らない父の人間関係があった。
私は思わず父に嫉妬した。

家族といっても本人の全てを知っているわけはない。
本人の全ての人間関係を把握しているわけではない。
名前は仮に知っていたとしても、その関係がどんなものであったか正確に知るわけではない。
本人には本人にしか知りえない広がりと深さをもった人間関係があり、人生があるのだと思う。

父の葬儀のときに、参列者の顔の分だけ父がいたように感じた。
もちろんその中には、いわゆる義理や仕事の付き合いだけで来た人もいたであろう。
だからそれは息子としての、遺族としての主観でしかないのだが、父が私自身の父、家族にとっての父というだけではなく、一人の人間として屹立して生きたのだという実感、尊敬のようなものを感じていた。

2つの葬儀でも同じような感想をもった。

故人が、さまざまな人からさまざまな形で愛されたのであろうことが、参列者の表情から、所作からうかがえるものであった。

参列者のお別れが一巡した後、特に親しくしていた様子の仲間が数人集まり、柩に手をかけ、ある人は頭を触り、ある人は上の天井を見つめ、あるいはお互いに目で会話していた。

最後に家族が柩の周りに集まった。
周囲の人間も自然にわかる。
家族にとって本人が、特別に位相を異にした、かけがえのない人間であったことが。

だからしばらく家族のなすままに任せる。
そこには本人と遺族という独自の空間が自ずとつくられる。

それがどんなに愁嘆場になろうとけっして異質ではない。
本人をよく知る人たちにとっては、遺族がどのように振る舞おうとも、その遺族の気持ちが納得できている。
遠く囲むようにして、静かに本人と遺族との別れを見守る。
それが共感というものだろう。

私が出た葬式は特別なものではない。
それぞれの葬式ではこういったことが、それぞれの形で行われているのだと思う。

違うとするならば、多くの葬儀では出棺の時間を気にするあまり、最後のお別れに充分な時間を割かないことである。

2017年1月14日 (土)

死者を弔う―「弔い」としての葬式(4)


死者を弔う


95年の阪神・淡路大震災でも、今回の東日本大震災でも遺族たちがとった原初的な行動は、死者を弔うことであったように思います。


祭壇がどうの、あるいは最近の家族葬がどうの、ではなく、死者を弔うことは遺族としてまずすべきことであった、ということです。


阪神・淡路大震災で焼け野原となった長田地区に足を踏み入れた時、焼け跡のそこかしこに、板切れに牛乳瓶に生けられた一輪の花、そしてペットボトルに入れられた水が載せられてありました。
おそらくその場所でいのちをなくした人に供えられたのでしょう。
その小さな小さな祭壇が輝いて見えたことを思い出します。

また負傷した人が大阪等の設備の整った病院に移るように勧める医師に、被災死した家族の弔いがまだ済んでいない、と強固に断わった姿に、家族を弔う想いの強さを見ました。


東日本大震災でも、そうした原点がそこかしこに見られました。
瓦礫の中から見つかった犠牲になった家族の写真を撫でるようにして見ていた遺族。
町が根こそぎ流出した様を高台から見ながら祈っていた子どもや家族。
無名の僧侶たちの死者を供養する読経の後ろで手を合わせていた人たち。
あるいは遠隔地の火葬場に深夜出かけた先で僧侶が待っていてくれて、おずおずと申し出た読経に感激したこと。
これらは遺族の死者を弔う想いに重なったからではないでしょうか。


死者を弔うことは死者を胸に刻みつける行為のように思います。
死者を忘れるためにではなく、より強く死者を自分の心に刻む行為だと思うのです。


東日本大震災で、宗教者が「区切りのためのお葬式」と言っていたのには大きな違和感を覚えました。

確かにグリーフワークの出発点は死の事実を否定するのではなく確認するという、遺族にとっては辛い作業にあります。
しかし、それはそれぞれの遺族がそれぞれのペースで行えばいいことです。


葬式や法事で遺族にとって必要なことは手順や知識ではないと思います。
手順は葬儀の担当者が寄り添って不安のないようにすればいいことです。
大切なのは遺族が通夜や葬儀の場でしっかり死者を弔う環境を用意することであろうと思います。


葬儀社の担当者は、遺族が来賓や会葬者に失礼がないように振る舞うことではなく、遺族が弔いに専心し、自分たちが弔ったと思える環境を用意することではないでしょうか。


現在の葬儀不信、簡素化は伝統的慣習を知らない若い世代のものと推定されることが多かったのですが、
11年の経産省の調査によれば特に70代以上の高齢者に顕著だということが判明しました。


高齢者は子どもたちに迷惑をかけたくない、という意識が強いものがあります。
また、自分たちが親を送った時は社会儀礼色が強い葬式であったので、あのような遺族が自分が弔うのではなく、お客に気を遣うだけの葬式を体験させたくない、という想いがあるのでしょう。


僧侶も葬儀社も葬儀の主役ではなく、サポート役だということを知ることです。
最近は遺族の考えを尊重する葬儀社の姿勢が出てきていますが、遺族の想いを知ろうとしないで葬儀を勤める宗教者がまだいることに驚きます。

死者のこと、死者に対する遺族の想いを知らないで葬儀をしようというのはあまりに葬儀を冒涜した行為であると思います。


もっとも遺族の中には、「葬儀の格好をつけるために僧侶を呼ぶのであって、何宗の僧侶でも料金が安ければいい」と思う輩が少なくありません。
これが派遣僧侶プロダクションの暗躍の温床になっていることは事実です。


でも葬儀社にも、僧侶を呼ぶことの意味を語り、派遣僧侶プロダクションはせめて利用しない、という見識が必要であると思います。
もっとも事前に遺族がネットから僧侶派遣プロダクションに頼んでしまっている、というケースもあります。


僧侶の中には仮に布施が安かろうと、遺族に弔う気持ちがあれば行く、という見識をもった僧侶はいるはずです。
その場合に布施の中から斡旋料を抜くのではなく、斡旋をお客が依頼するならば、適切な範囲の紹介料をお客に明示し、お客からもらうというのが筋でしょう。
現在の僧侶派遣ビジネスでは、ほぼ4割、中には5割という斡旋手数料が見られます。
しかし斡旋手数料が明示されている例はほとんどありません。

本来死者を弔うべき葬儀が、弔うこととはまったく無縁なビジネスに汚されている状況は脱する必要があります。

2017年1月13日 (金)

葬列―個から見た葬送(12)

基本としてここに描いたものはフィクションである。
私の周辺で生じたものが多く含まれているが、当事者の心象に投影して描いている。


葬列

山道は昨夜の雨で少しぬかるんでいた。
近所の年寄りは「滑るから危ない」と言われ、無念そうに家の前で葬列を見送った。

ここの山間はもともと土葬の習慣の残る地区であった。
だが合併し「市」となった今、市の病院で亡くなり、その市の斎場で通夜、葬儀が行われ、市の火葬場で荼毘に付されるケースが増えてきた。


この日の死者は、最近では珍しく自宅で亡くなった。

85
になる母親は「がんの末期で治療の術はもうない」と医師から言われた。
娘が、
「最期は家で」
と、
母親を自宅に連れ帰ったのだ。

娘がスプーンで食べさせようとすると、
母親は「もういい」と拒んだ。
そして静かに「ありがとう」と娘に感謝した。
その数日後の夜、眠るように静かに息を引き取った。


翌朝、連絡を受けてきた主治医が「ばあちゃん、よかったな」と言って涙を零した。


葬式は「母の遺言ですから」と自宅で行われ、近所の年寄り仲間が集まった。

山の中腹にある共同墓地までを、葬儀社の若い社員たちが柩を担いだ。
檀那寺の若い副住職が葬列を先導。
埋葬地に鍬(くわ)を入れ、引導を渡した。

深く掘られた穴に柩が静かに下ろされた。

再び盛られた土の上に、娘は履いてきた草履を脱いで置いた。
そして合掌した。


2017年1月12日 (木)

近親者の悲嘆への配慮―「弔い」としての葬式(3)

近親者の悲嘆への配慮

 

死者の近親者が死別により悲嘆を抱えるようになることは自然なことです。

それ自体病気ではありません。
人間が深い関係にある人間を喪失した時に起こる、極めて人間的な感情です。
それを埋めようとして行う近親者の作業を喪の作業(グリーフワーク)と言います。


死別の悲嘆(グリーフ)は泣き嘆くこともあれば、怒りになったり、他人への攻撃、情緒不安定、抑うつ等とさまざまな現れ方をします。
それぞれの関係によるものですから、実にさまざまです。
解放感、安堵もあるし、それだから薄情というわけではありません。

人の死は固有ですから、グリーフもまた固有でさまざまです。
こうであらねばならない、というものはありません。

注意すべきことは、睡眠障害、長期にわたる食欲不振。

周囲の人間が悲嘆や喪失に陥った人を支援すること(
grief and loss support, grief care)は特別なことではありません。
グリーフに陥った人の喪の作業(作業というより、辿る心理的・精神的あるいはそれが現れる身体症状の過程)がそれぞれなりに行えるよう配慮する、準備をすることです。
せめて周囲がそれを邪魔をしないことです。


誤解されるべきでないのは、グリーフケアが最も大切なことではなく、近親者らのグリーフワークが重要なのです。
主人公はあくまで当事者なのです。
グリーフケアは誰かの仕事であったり、それによって死者の近親者の悲嘆を劇的に改善するものではない、ということです。


好意的でしょうが、「癒してあげたい」という言葉をしばしば聞きます。
「力づけたい」という言葉も聞きます。
同じ目線に立たず、無意識に上から目線になりがちで、関係によっては力づけられることもありますが、「無理解」と反発を招き、更なる落ち込みを促進しかねません。「癒す」等の言葉は誤解をうみかねない表現です。
グリーフについては、「同情」と並び、しばしば用いるのを避けたほうがいい言葉の代表的なものです。

多くの場合、近親者の悲嘆の助けになるのはきょうだい等の家族や親しい友人です。
身近にいる人が最も有効な助け手になります。


もっとも身近な者に「裏切られた」と感じたり、不信になった時の傷は出口を失い内向化するリスクもあります。
そうした場合、まったく他人の方がいい場合もあります。

周囲からサポートを得られない人もいます。
そうした人に対して、本人が必要とするならば、その本人に必要なサポートを提供できる用意のある人が手の届くところにいる、と示すことは有効なことです。


近親者の喪の障害になるのは、しばしば葬儀慣習です。
親は子の火葬には立ち合ってはいけない、
納骨は四十九日までに終えなければならない等、
およそ根拠のない、当事者の気持ちに委ねるべきことが慣習にはあります。
そうした喪の作業の障害になる慣習を正していくだけでも近親者には益になります。

今、グリーフケアについて語られることが多くなりました。
これまで死別の悲嘆にあまりに無頓着な社会であった、ということもグリーフへの再認識を迫っているのでしょう。

しかし、グリーフケアは重要であるが、ささやかなものだという認識もまた必要ではないでしょうか。


私がどうしても好きになれない言葉に「傾聴」がある。
もともとカウンセリングの技法であることは理解している。
相手をまるごと理解しようとすることで押しつけではいけない、ということなのだろう。
それによって相手に理解してもらった、受け入れられたと思わせることなのだろう。
しかし、私には、しばしば「押しつけ」に感じるのだ。
「傾聴」活動した人も実際にはさまざまな障害にぶちあたり、それ以前の人間関係を築くのに苦労されたようだ。
「傾聴」は、どうも言葉が大げさで、自分を卑下することを強調しているようで、結果として押しつけになるようで好きにならない。
私はひねくれものだから、「土足で心中に乱入」「詐欺手法」とさえ思うのだ。
「自分はいい人」を押し付け感がある。
カウンセリングの技法として訓練することはいいが(それでも言葉は変えられないか!)、外に向かって「傾聴活動」と広言することはないだろう、と思うのだ。

人間と人間の係わりであるから、受け入れられ、確かにいい活動をしている人もいる。
「たくさんいる」と言ってもいいだろう。
それを否定するものではない。

しかし、内面に乱入するのではないか、と警戒して拒んだ人がたくさんいたことも事実だ。
「ボランティア」だけではいけなく、なぜ「傾聴ボランティア」でなくてはいけないのか?

私の感覚はつまらない誤解であればいいのだが、どうも不信感は拭いされていない。
私が「いい人」嫌い、「ひねくれもの」だからか。


スピリチュアルケアにも似た感覚がある。
スピリチュアリティは大切だが、ことさらスピリチュアリティが強調されると、何なのかな?と疑問、違和感がある。
もっと自然に全的に見られるといいのだが。
私にも過剰な部分があるから他人のことはあまり言えないのだが…

 

 

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