2017年5月19日 (金)

僕はあなたの息子でした―個から見た死と葬送(27)

これを書いたのは2年半ほど前のことである。
今も父の死は鮮明である。
遺骨の一部は今も私の引き出しに入れてある。


父は晩年、よく「危篤だ」と自分で電話をかけてきた。

兄には別な日に「危篤」になったようだ。
要は「顔を見せろ」ということだ。

行くと息子の顔をまじまじとみつめ、
「僕が死んだらどうするか言ってみろ」
と言うのだ。

自分の意思が息子に伝わっているか、確認をするのだ。

危篤になった時のことから始まり、葬式や納骨、そして自分の書斎の本の行く末まで、全部を、私が父からそれまで何度も聞かされたとおりに言うと、
「それで頼む」
と言った。

知り合いから電話があると、
「死んでから葬式に来てもらうより、今の生きているうちに会いに来てくれ」
と見舞いを催促する。

父はあらたまった席では「私」と言ったが、少し気楽な関係では自分のことを終生「僕」と言っていた。

その父が死んでから14年。
十三回忌は2年前にしなければいけなかった計算だ。
生きていれば百歳を超えている。

死後5年目あたりから、父のことは「懐かしく」感じるようになったが、いまだに父の思い出は明徴である。

父の葬儀でとり乱しながら、私は必死に父に語りかけていたものだった。

「私は、僕は、あなたの息子でした」
と。

その言葉は、14年後の今も、私の中では少しも色あせていない。

2017年4月26日 (水)

遠くなる母とその死―個から見た死と葬送(25)

携帯電話が鳴った。
2215分。

「高倉和夫さんですね。林病院の看護師の及川と申します。お母様の芳子さんが危篤になられましたのでご連絡します」


すぐに病院に車を走らせた。


ひどく落ち着いている自分がいた。


母は4人部屋から個室に動かされていた。

「高倉さんですね。こちらへどうぞ」


病室では若い医師がモニターを見ていた。
というより私が来るのを待っていたかのようだ。
モニターの線はもうなだらかであった。


2255分、ご臨終です」


と医師は言い、立って私に頭を下げた。


母の手を握ってみたが、ダラーンとしていた。
もはや生体反応はない。


「よろしいですか?」


と、看護師が言い、頷くと点滴器具などを片づけ始めた。
作業は事務的に淡々と進んだ。


母は地下の霊安室に移された。

 

顔を寄せると臭いがする。
忙しい看護師が寝たきりで生じた褥瘡の手当てにまで手が回らなかったのだろう。

薄く化粧はしてくれた。
だが、身体の手当てまでは充分にいきとどいていない。

しかし、そのことで病院を責める気にはならなかった。
家ではとても世話ができなかったのだから、これを含めて自分の責任だと思った。

看護師が
「お決まりでなければ葬儀社を紹介しましょうか」
と、言ってくれたので頼んだ。


母が入院し、認知症になってから4年と3カ月が経っていた。


母はどんどん表情が
変化していった。
母親なのだが、母親から遠くなっていく。

寂しさ、仕方のなさ…自分の気持ちを何とも整理しかねない。
そのまま日が進み、母はさらにどんどん遠のいていった。

ついには息子の顔も認識しなくなった。

それには自分の気持ちが追いつかないでいた。

幼少期からずーっと愚鈍な自分をぐいぐいと引っ張ってくれた母だった。
母らしさが消えっていった。

「終わった」
という思いと、入院前の溌剌とした母の姿が頭の中で交錯して、ひたすら混乱するばかりだった。

母の死後の1週間のことはほぼ記憶にない。

葬儀会館へ移動。
母の遺体は安置され、納棺、通夜、葬儀、出棺、火葬、骨上げ…と進んだということはうっすら記憶している。
だが、そこで自分がどう感じたか、葬儀社の人、坊さん、会葬者の方、親戚にどう対応したのだろうか。
ぼんやりとした記憶でしかない。

今、母は自宅に戻り、小さな骨壺に収められ、元気だったまさに「母」の笑顔の写真の前に置かれている。


2017年4月14日 (金)

死亡数 人口動態統計と人口推計2006年版、2012年版、2017年版の比較

国立社会保障・人口問題研究所は、平成27年国勢調査の確定数が公表されたことを受けて、これを出発点とする新たな全国人口推計(日本の将来推計人口)を行い、 平成29(2017)年4月10日にその結果を公表。
http://www.ipss.go.jp/pp-zenkoku/j/zenkoku2017/pp_zenkoku2017.asp

『四訂葬儀概論』(4月1日発行)にはギリギリ間に合わなかったのは残念。そこで死亡数についてのみ出生中位・死亡中位の推計を2006年版推計、2012年版推計と合わせて対照比較できるようにして提供する。
人口動態統計(確定)は推計値より概ね死亡数より低く推移していて、今回の推計はこれまでの推計に比べて抑制気味になっている。
死亡数は2015年の確定数では129万人であるが、140万人に達するのは2006年と2012年の推計では2019年であったが、2017年推計では1年遅れの2020年。
要するにこれまでの推計より実際には生存年数が少々伸びていることからきている。

なお、ここでは省いたが、出生数については2015年の確定値が1,005,677 人であった。2006年の推計では83万6千人、2012年推計では95万2千人と推計されていたが、出生率が改善されており、今回の推計ではこれを反映している。

 

人口推計は出生中位、死亡中位 単位千人
年 次 人口動態統計(確定) 2006年人口推計 2012年人口推計 2017年人口推計
死亡 死亡 死亡 死亡
平成 18 (2006) 1 084 450  1,103   1 084 450   1 084 450  
19 (2007) 1 108 334 1,122 1 108 334 1 108 334
20 (2008) 1 142 407 1,146 1 142 407 1 142 407
21 (2009) 1 141 865 1,169 1 141 865 1 141 865
22 (2010) 1 197 012 1,192 1 197 012 1 197 012
23 (2011) 1 253 066 1,216 1,264 1 253 066
24 (2012) 1 256 359 1,240 1,232 1 256 359
25 (2013) 1 268 436 1,265 1,258 1 268 436
26 (2014) 1 273 004 1,290 1,285 1 273 004
27 (2015) 1 290 444 1,314 1,311 1 290 444
28 (2016)   1,338 1,337 1,312
29 (2017)   1,361 1,363 1,338
30 (2018)   1,384 1,388 1,364
31 (2019)   1,406 1,412 1,390
32 (2020)   1,429 1,435 1,414
33 (2021)   1,450 1,458 1,438
34 (2022)   1,471 1,479 1,460
35 (2023)   1,491 1,499 1,482
36 (2024)   1,509 1,519 1,502
37 (2025)   1,526 1,537 1,522
38 (2026)   1,542 1,554 1,540
39 (2027)   1,557 1,569 1,557
40 (2028)   1,571 1,584 1,573
41 (2029)   1,585 1,598 1,589
42 (2030)   1,597 1,610 1,603
43 (2031)   1,609 1,622 1,616
44 (2032)   1,620 1,632 1,629
45 (2033)   1,630 1,641 1,640
46 (2034)   1,639 1,649 1,650
47 (2035)   1,646 1,656 1,659
48 (2036)   1,653 1,661 1,666
49 (2037)   1,658 1,665 1,672
50 (2038)   1,661 1,668 1,676
51 (2039)   1,663 1,669 1,679
52 (2040)   1,663 1,669 1,679
53 (2041)   1,662 1,667 1,678
54 (2042)   1,659 1,663 1,674
55 (2043)   1,654 1,657 1,669
56 (2044)   1,648 1,650 1,662
57 (2045)   1,641 1,642 1,652
58 (2046)   1,632 1,633 1,642
59 (2047)   1,623 1,622 1,631
60 (2048)   1,614 1,612 1,619
61 (2049)   1,603 1,601 1,608
62 (2050)   1,593 1,590 1,596

2017年3月12日 (日)

遺族の肖像・東日本大震災アーカイブ⑥

◎遺族の肖像―311の被災者

 

「記憶がゴチャゴチャ」している被災者

 

女川町から転出した人たちだけではなく、残った人たちもさまざまな転変をよぎなくされた。

ほとんどが犠牲者と何らかの関係があった人たちである。
精神的に大きな打撃を受けたことに加えて環境の大きな変化を受けた。
それがそれぞれにさまざまな変化を強いた。

「復興」といっても、それは女川町の人々を大震災以前に戻すことではない。

家族、親族、隣人、知人の喪失、暮らしの環境の激変…これらは戻ることはない事実である。
喪失、激変の現実を抱えたままであるが、これからの生活を成り立たせる仕組みを準備すること、大震災後の復興とはこのような限界をもったものである。
しかしこれとて遅々として進まない。

被災地の人たちが語る言葉、目線で大震災を見てみよう。


大震災は、予期しない衝撃であった。
予期しない速さで、予期しない大きな規模で、災害が自分たちに襲来し、悲鳴、泣き叫ぶ声、周りの人と手を取り合って高台に逃げた。
逃げ遅れ、多くの人が大津波に呑みこまれた。


家族も家も街も自然もその前に投げ出され、そして気がつくと凄まじい荒廃が目前にあった。
それが瞬時に起こった。
自分も周囲も大きく変貌していた。そして電気も水道も食料も寝る場所もなく、そして家族もいない。


被災地以外ではテレビの実況で仙台空港に押し寄せる大津波、気仙沼が夜を通じて燃えていたことが伝えられたが、被災地では電気が途絶し、こうした惨状を伝える情報が入手できない。
情報孤絶に陥っていた。


暗い、寒い夜が明け、降る雪の中、高台から街を見ると、そこには見たこともない光景があった。
街は破壊され尽くされていた。


その日以降、被災者の人々は生きてきた。
見通せない不安、自分たちの置かれた現実が何かもわからない。
そうした心的、物的な混乱を抱えて生活してきた。


ある時は必死で、ある時は呆然として、ある時は滂沱の涙を流し、ある時は自分を鞭打ち、ある時は投げやりになり、ある時は肩を寄せ合い、ある時は時が流れるままに生きてきた。


それらの日々を「記憶」として整理しようとしても困難である。

 

1年続いた葬式

 

 鈴木さんは葬儀社を営む。
犠牲者の葬儀は大震災の翌月の4月になって始まり、翌年の一周忌までほぼ1年かけて行われた。

 

鈴木さんは妻と13年前に死別している。
妻の実家は仕出し屋を営んでいたが、妻の母と仕出し屋を後継した妻の兄(
55)が大津波で生命を喪った。
鈴木さんは妻の実家の家族の葬式を大震災から9カ月後の
12月に行った。

 

女川(だけではなく東北地方)の葬式は、葬儀に先立つ火葬、つまり骨葬である。
葬式は、他の地域同様に、通夜、葬儀、法要が通常はセットになって営まれる。
だが大震災の犠牲者の葬式は通夜と法要抜きで葬儀式のみが行われた。


あるお寺では、1日に6~7件の葬儀が行われたこともある。
時間、日程上、通夜、法要とセットで行うことが事実上困難であった。


犠牲者の葬式では各家族が経済的理由も含めさまざまな事情をもつ中、「世間体」を気にしないよう葬儀は平等に、また葬儀に参列する者も親族を喪った人が多い中「お互いさま」という言葉があるように、香典ナシ、お礼ナシ、法事ナシが暗黙のうちに了解されて行われた。

 

 町役場職員の震災直後

 

 ここで一つの家族(親族)の体験を紹介しよう。


これは被災地では奇異な例ではない。
しばしば見られる事例の一つである。
また、体験を語ろうにも家族が全滅して体験として語れない家族(親族)もある。
ある家では祖父母、夫婦、子ども全員が生命を喪った。
これもまた被災地では珍しいことではない。


阿部聡さん(29)は、震災当日は職場である女川町役場で勤務していた。


地震があり、職員が3人1組になって町民の避難誘導にあたっていた。
最初は女川第二小学校グランドを避難場所とした。
小学校は女川町の北西部にあり高台にあった。


当日は雪が降り寒かった。
「寒いから校庭にテントを張ろうか」と話していたところ、突然メキメキという音がした。
下を見ると見られるはずがない濁流があり土ぼこりくさい臭いがする。


ここにいては危ないというので町民をもっと高い総合体育館へ誘導した。


水は上の中学校に行く坂の手前まできていた。
役場庁舎の屋上には取り残された職員の姿があった。


小学生も中学生も総合体育館に避難していた。


大津波に巻き込まれながら、よじ登り、総合体育館まで辿り着いた人がいた。
しかし、水を吐き出す力がなく、低体温で死亡した。


その晩、ラジオでは「荒浜に200体の遺体」と伝えていたが、下に降りることができない。
2日間、山の上で過ごすことになった。


といっても聡さんは町役場の職員。
一避難民でいることは許されなかった。

11日夜から聡さんは避難所となった総合体育館の係となって動くことになった。
総合体育館に避難した人は約500名。
町の職員といっても何ができるわけではない。
寝具も食料もない。
しかしあちこちから苦情や要求が飛び込んでくる。


避難してきた人たちも皆ショックを受けている。
寒さ、不安を抱えてやり場のない怒り、イライラ等のさまざまな感情が充満している。
役場職員ということであたられ、翻弄された。

12日にはわずかな食料が投下され入ってきたものの避難者全員に渡る数がなければ配給できない。
「平等」でなければ食料にありつけない人たちの不満が爆発するからだ。

 

聡さんは総合体育館の廊下、ステージとわずかな空間を見つけてベッドにした。


3日目になって移動が可能となった。
4日目からはヘリコプターの誘導を務める。

その後は山の上に乗り捨てられた父親のトラックから合羽を取り出し、それを着て捜索、遺体収拾にあたった。

 

聡さんは3・11から約1年間の記憶が明確でない。
時間関係もゴチャゴチャしている。
疲労から鬱状態になった。
最初は病院から睡眠薬をもらって何とか仕事をしていたが、二年後についにリタイアをよぎなくされた。

 

行方不明―実感のない死の継続

 

聡さんは両親と弟、妹の5人家族。妹・昌子さんはいとこの佐藤輝昭さん(35)の家族と一緒に輝昭さんの姉夫婦を頼りに一時神奈川県に避難した。


輝昭さんは聖花園の従業員。
幼い子供を抱える輝昭さん一家は福島原発の放射能の不安もあり、また地元では何もなく食料のめども立たなかったからだ。


輝昭さんは父・佐藤義信さん、母・良子さんの両親を津波で喪った。
母・良子さんもまた聖花園の従業員であった。


輝昭さん一家が一時神奈川に避難した住宅に、聡さんとその母・幸子さん(
55)、幸子さんの兄の高橋洋さん(58)、そして鈴木通永さんのねぐらとなった。
洋さんは妻と長女を喪った。

 

聡さんの父・幸子さんの夫・阿部誠一さん(当時54歳)については最初安心していた。

というのは山の上にトラックがあったからだ。
そこに避難したのだろう、と考えていたが、総合体育館にもどこにも顔を見せない。
2日目の夜になっても現れない。
仕事道具のトラックを真っ先に避難させて、また下に降りていき、そのまま行方不明になった。

 

幸子さんは小学校の近くにあった給食センターに勤務していた。
そこで震災、大津波に遭遇。
給食センターは高台にあったので無事だった。
聡さんとは当日に会い、互いに無事を確認していた。
幸子さんは寒い中、自分の車の中で寝た。

 

2日目の夜、夫のトラックに行ってみた。
夫は頑強で死ぬわけがないと思っていたが、トラックのドアは鍵がかかっておらず、人気がなかった。
「あ~いないんだ」と思って泣いた。
ただ、まだどこか実感がなかった。

 

食料が入ってくるようになると給食センターは総合体育館にいる避難者の食事作りに追われる。
避難所生活をしている人に「給食室にいてあんたたちだけが食べてんだろう」と言われ、妬まれ、心が傷ついた。

 

幸子さんが、肉親の死に直面したのは幸子さんの母の遺体が発見された時が最初であった。
いるはずの病院にいないと聞いて不安だった。
遺体が発見されたと聞いても否定する想いが強く、なかなか受け容れられない。
しかも父も行方不明のまま。

 

3日目以降に自衛隊も女川町に入り、人手も足りたことを確認すると、4日目に給食センターを休職した。

母の遺体が発見され、夫も父も行方不明、姉・良子さんとその夫・義信さん夫婦(輝昭さんの両親)も行方不明。
「避難して生きた人たちの食事を作っている場合ではないだろう」と言うのがその時の心境だ。
6日目に輝昭さん一家が神奈川県に一時避難するのに娘を預け、輝昭さんの住宅で約2か月生活することになった。

 

聡さん・幸子さん親子、幸子さんの姉の息子である輝昭さんの近親者があまりに多く大震災の犠牲になった。

 

遺体で最初に発見されたのが幸子さんの母・ミヨコさん、聡さん、輝昭さんの祖母である。
近所の人に「遺体安置所にいるよ」と知らされた。

 

2番目に遺体で発見されたのが聡さんの父方の祖父・阿部鶴吉さん。
3番目に遺体で発見されたのが幸子さんの義姉、洋さんの妻・たか子さん。
輝昭さんの父・義信さんが遺体で発見されたのが4番目で1カ月後であった。

 

輝昭さんの母で幸子さんの姉、佐藤良子さん、聡さんと輝昭さんのいとこ、洋さんの長女・祥子さん、聡さんの父で幸子さんの夫・誠一さん、幸子さんの父で、聡さん、輝昭さんの祖父・鶴吉さんが行方不明のまま。
鶴吉さんは足が悪く逃げきれなかった。

 

4人が遺体で発見されて、⒋人が行方不明のまま。

 

聡さんは遺体捜索活動を続けながら、最初は「父は生きているかも」という想いを捨てきれなかった。
それが「いつ」というかは定かでないのだが、次第に諦める心境になっていった。

 

幸子さんも夫に対し「また下に降りていくなんてばかだな」と思っていた。

 

3人に共通するのは、近親者が死ぬということがどういうことかわからない、ということだ。
行方不明の場合には遺体もない。
死別の悲しみの実感がわからないまま、ということだ。

 

死亡届の提出と葬式

 

6月に法務省が家族申述書の提出により行方不明の人の死亡届の提出を認め、受理することになった。


書類作成がたいへんだったことは記憶しているが細部は記憶にない。
死亡届を出し、受理されると弔慰金がもらえる、行方不明のままでは弔慰金が出ないというので多くの人が出した。
3人もまた同じだった。

 

行方不明の人たちの葬式は死亡届の提出・受理の後、順次行われた。
だが3人には葬式の記憶が定かではない。

 

「震災の日と葬式を出した日が離れているので、あまりよく記憶していない」

 

と語る幸子さん。

 

行方不明の人の葬式には遺骨がない。

 

鈴木さんがその様子を説明してくれた。

 

「ご遺体、ご遺骨がないので、故人の生きた証しとなるもの、それすら流失して無い場合、自宅があったところの土を甕(かめ)に入れて、写真があれば写真と位牌でもって葬式をした」

 

行方不明の人の葬儀については、あちこちで家族の話を聞いた。

 

「親戚の手前もあるから葬式を出した」

 

「葬式を出さなくてはならないという感じが周囲からひしひしと伝わってきた」


葬式を家族の主体的意思でした、というのとは違っていた。
だから葬式に実感がもてないでいたように思われる。

 

幸子さんは葬式を出した日について言う。

 

「確か暑かったと思う」

 

輝昭さんは震災直後を振り返る。

 

「震災当日から4日目くらいまでのことを、当時は『短い』と思ったのですが、今になってみると、とてつもなく長い時間だったな、と思う」

 

ペットボトル飲料は貴重品。
水は子どもたちに飲ませ、自分の水分は酒だった、と言う。

 

おそらく酒なしであの混乱と不安な日々を過ごすことが難しかったのだろう。

 

死者、行方不明の人たちも、あの日に何が起こったのかよくわからなかったのだろう。
そして遺った人も何が起こったのか、それが現実なのか、よくわからないでいるのだろう。

 

多くの人たちが被災地を去ったのは、仕事を求めてのことが多いだろう。
だが、土地にいることに耐え難い想いを抱いて去った人たちもいるのではないか。

 

輝昭さんは震災直後に約2カ月地元から離れた。
聡さんは2年後に役場を辞めた。
幸子さんは母の遺体発見を機に給食センターを休職して辞めた。
遺った者も安穏ではなかった。

 

そして今3人は葬儀社に勤務し、遺族が死者を送るサポートをしている。

(雑誌SOGI通巻149号。2015年)

2017年2月27日 (月)

三回忌―個から見た死と葬送(20)

三回忌


三回忌だという。

つい2カ月ほど前の出来事のような、はたまた夢の中の出来事であったかのような…。

現実感がまるでないのだ。
心を裂かれた傷みはまだ癒えることはない。

でも、癒える必要はないのだ、と思う。

この傷みこそあなたの残り香なのだから。

この傷みがなくなったら、あなたが私の手の届かない先に行ってしまったことになるから。

どうか、私の心を傷ませ続けてください。

「時間が解決してくれる。いや時間しか解決してくれない」
と人は言う。


それは何と残酷なことだろう。

時間よ、止まってほしい。
かろうじて心の傷みがあなたの不在を意識させてくれているのだから。

子どもは、ほんとうはあなたがいないと何にもできない私だと知っているので、心配してくれている。

まるで子どもが私の庇護者であるかのようだ。

あなたが私を看取ってくれるもの、と私は勝手に心で決めていた。

だから最期の枕辺であなたに遺す言葉まで決めていた。

しかし、それを伝える機会は永遠に失われた。


そしてあなたは別れの言葉も遺さずに逝ってしまった。


私の唯一の日課は朝線香の火をつけること。


2017年2月26日 (日)

死の自己決定権―死に対する自由意思の限界(下)

本稿は「現代の死―死に対する自由意思の限界(上)」
http://romagray.cocolog-nifty.com/himonya/2017/02/post-a72d.html#_ga=1.154086584.1288449594.1488071937
の後編。


死の自己決定権

■「死の自己決定権」の文脈

生きる上での「自己決定権」というのは個人の基本的人権として認められている。これは「死の自己決定権」に及ぶのか、及ぶとすればどこまでか、が議論としてある。


憲法第
11条から第14条には基本的人権が定められ、特に第13条は重要である。


13 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。


一般社団法人日本尊厳死協会の設立目的に「死の自己決定権」論議の日本における経緯が簡潔に書かれている。


日本尊厳死協会は、1976年1月に産婦人科医で、国会議員でもあった故太田典礼氏を中心に医師や法律家、学者、政治家などが集まって設立されました。自分の病気が治る見込みがなく死期が迫ってきたときに、延命治療を断るという死のありかたを選ぶ権利を持ち、それを社会に認めてもらうことが目的です。

設立から40年近くが経ち、終末期に対する社会の認識も変わりつつあり、延命治療を望まない人が多数になっています。今後の目的は、そういった人たちにリビングウイルの提示という方法をお伝えすることにあります。

 

この簡潔な文章の裏に書かれているのが「安楽死(積極的安楽死active euthanasia)」と「尊厳死(dying with dignity、消極的安楽死)」を巡る議論である。
そして同法人の最初は「日本安楽死協会」という名であった。

 
63
年の太田らの「安楽死法案」では「安楽死」を「苦痛を和らげることを主目的とするもので、死期を早めることを目的としない。
従って、使用するのは薬剤であって、麻薬あるいは睡眠薬、神経安定剤である。
ただ、その使用の結果、生命を短絡する危険があってもそれにこだわらない」というものであった。

これは現在の尊厳死法案につながる見解であるが、太田自身は「積極的安楽死」を許容する立場であった。


「積極的安楽死」とは「苦痛が極度に激しく、人間的に意味ある生を送れる見込みが将来にわたって存在しない生の状況から患者を解放する目的から医療的処置でもって死に至らしめる行為」を言う。

 
14
年、米国オレゴン州の29歳の女性が進行性の脳腫瘍で医師から半年の余命告知を受け、激痛から、自宅で尊厳ある死をすることを決意、医師からの薬を自ら飲んで死亡した。オレゴン州は米国で安楽死を認めている州である。この医師による行為は自殺幇助でないか、とマスコミやネットを賑わせた事件であった。

これは「積極的安楽死」の範疇に入り日本では認められていない。

日本では立法化されていないではないか、との意見があるが、95年東海大病院安楽死事件(末期がんの患者の遺族が「見ているのが辛い」との強い要請を受けた医師が治療中止、鎮痛剤投与、最後に塩化カリウム製剤を注射し心停止に至った。
これが殺人罪で起訴され、判決では嘱託殺人罪で執行猶予付きの有罪となり確定した)についての横浜地裁判決で医師が法的責任を問われない消極的安楽死(尊厳死)の4条件が示されている。

 

1.患者が耐えがたい激しい肉体的苦痛に苦しんでいる。

2.患者の病気は回復の見込みがなく、死期の直前である。

3.患者の肉体的苦痛を除去・緩和するために可能なあらゆる方法で取り組み、その他の代替手段がない。

4.患者が自発的意思表示により、寿命の短縮、今すぐの死を要求している。

 

■生も死も「自由意思」は万能ではない

今、議員立法で「尊厳死法案」が検討されている。
私は、安楽死について積極的にせよ消極的にせよ一般論として是非を言うものではない。
だが、医療行為に「本人の自由意思」が金科玉条として過度に入ることは危険と思っている。


今の高齢者の口癖は「迷惑をかけたくない」である。
また難病患者も家族の負担を考慮する。
こうした人たちが「本人の自由意思」で尊厳死を望むということが入り込む余地があることを危惧するからである。


もとより本人の尊厳は大切である。
しかし、生も死もほとんどが本人自由意思で決定されているわけではない。


「ピンピンコロリ」信仰は昔から民衆の中に根強くある。
特に女性に根強い。
それは死者を看取った苦渋の体験から生まれた貴重なものである。


同じく「ヨメイラズ」は嫁に介護の世話をさせたくない、というものであったが、これは時代状況がすっかり変わった。
介護し看取るのは、嫁ではなく、結婚して姓が変わろうが実の娘の仕事になったからである。


「ピンピンコロリ」の願望は切実だが、それが現実化されることはほとんどないのも事実である。



患者のクオリティ・オブ・ライフを無視しての延命治療優先の時代には「本人の自由意思」は重要な課題であった。

だが尊厳死の意思を示せば、無判断も含めて8割かたの医師が尊重する時代になった。
今度は「自由意思」を隠れ蓑にした問題も注意すべき状況を迎えている。

「本人の自由意思」が発揮できるのはそんなに大きくない。
「本人の自由意思」を理由に生も死も不当に傷つけられていいわけがない。

社会は歪(ひず)みにこそ注意深くあらなければいけない。
そうした配慮こそ「人権の尊重」には求められている。


おわりに


私は先に書いたように「終活ブーム」には否定的である。
そこには死や老後の不安を煽ろうとする商業主義を見るからだ。

しかし、
70年以降、カトリック、プロ手スタンを問わずキリスト者が、わずか1%の存在ながら、終末期医療、死別の悲嘆、自死、高齢者問題等々の現場で先頭を走り続け、今もそうであることを感慨深く思っている。
この人たちの働きがなかったら日本の死の状況は大きく変わっていただろう。

しかし、近年は若い仏教者の関心が高い。
寺のせめて1割が変われば世の中が変わる。
キリスト教のプロテスタントが個人、個々の教会としてはがんばっているのだが、教団が内向きに転じて久しい。
「世にある教会」としての姿勢を放棄している。
ここは仏教者に期待すること大である。

2017年2月25日 (土)

現代の死―死に対する自由意思の限界(上)

現代の死
死に対する自由意思の限界(上)

死について「本人の自由意思」がキーワードになっている。
この問題については数回取り上げているが、キリスト教関係の雑誌で私が大学院時代から書かせていただいた『福音と世界』2015年3月号に書かせていただいた論稿を掲載する。

※内容は近年書いたものと重複することがあることをお断りしておく。


はじめに―個人的なこと


最初に個人的なことを書く。

筆者の姉は、13年6月に大腸がんでステージⅣであることを医師から宣告され、11か月後の翌年4月、72歳で死亡した。

本人は若い時に、長男がまだ幼い時に、2度のがんを体験している。
2度目の時は本人も家族も強い危機感を抱いていた。
しかし幸いなことに快癒した。快癒したとはいえ、しばらく定期的に抗がん剤を打つために通院していた。
その抗がん剤投与は本人にとって苦痛なものであった。
投与した日とその翌日は寝ている以外は何もできなかった。

その抗がん剤投与の苦しさを知っていたこと、また既にリンパ腺や肝臓に転移していて手術でがんを除去できる段階ではなかったこともある。
本人は傷みの除去以外の治療をしない、つまり無治療を選択し、私を含め家族も同意した。

本人は近く、といっても車で2時間以上かかる地にある緩和ケア病棟があることを探し、見学もし、気に入り、一時は入院もした。
しかし、最期は家の近所の病院に入った。
治療のためというより、日常動作が介助なしには家ではできなかったからである。また、近所の病院であれば働いている息子も毎日来ることができる。そのことが選択のキーとなった。

無治療という選択を否定するのではない。
おそらく私も同じ病状であれば同じ選択をしたであろう。
だが家族は少し楽観視するものである。
5年はともかく3年、いや2年は生きてくれるだろう、と期待していた。

だが、現実は家族の想いよりもはるかに速く進行した。
11か月後の最期の、痩せて骨と皮だけになり昏睡を繰り返す様子は見ていて耐え難いものがあった。
それを「本人の選択」という言葉では納得できるものではなかった。


どの選択がいいわけではない。
おそらくあの段階で「治療」を選択すれば、治療で本人を傷ませ、さらに後悔したであろう。だから選択を後悔するものではない。

そもそもどういう生き方、死に方だったら尊厳があるか、などという問いは不毛である。
すべてが尊厳あるし、どのような場合でも尊厳あるものとして接するべきなのだと思う。

告知以降、きょうだい3人で繰り返し話し合ったことは、自分たちを納得させるためのことだけであった。

いずれ皆死ぬのだから、先か後かの違いにすぎない。私たちの関係は変わらない。

かし、姉の死から9か月を経た今も、姉の死に納得していない自分がいる。

 

 

■「終活」という用語とその背景

「終活」という用語は、学生の「就職活動」を「就活」ということにもじっての造語である。
「終末活動」の略ではない。言うならば「(自分や家族の)終末期や死後に備えるための準備活動」ということである。

「死」については、80年代まではタブー意識が強く、そのため「縁起が悪い」と話題にすることが避けられたものである。

しかし、避けていたのは「社会」であり、人々の中ではしたたかなリアルな死生観が生きていたことを示したのが
94年の永六輔『大往生』(岩波新書)である。
以降「茶の間でお葬式が話題」になるようになった。

他方、単独世帯が増加するにつれ、死後数日経過後、中には1カ月を経過して発見される単独死が増加している。
これが初めて取り上げられたのは6千人を超える死亡者が出た
95年の阪神・淡路大震災後の仮設住宅で、一人暮らしの単独死が続けて発生したことによる。

老後、終末期、死後に関する問題は、もはやタブーとして放置できない現実問題となっている。

キリスト教会で問題にされるようになったのは久しい。
教会員の高齢化が著しく、すでに現場の牧師は高齢単独者の増加、介護や看取り手の不在という事態に対応を余儀なくされており、複数の法定後見人を務めて対応に追われているケースも少なくない。


「高齢化率」というのがある。
56年の国連の報告書でつくられたものだが、65歳以上人口が全人口に占める割合を言う。
7~
14%を「高齢化社会」とし、1421%を「高齢社会」とし、21%超を「超高齢社会」としている(なお、高齢化率が50%を超えた地域を「限界集落」と言い、地方での増加が著しい)。

 


日本社会の高齢化率は、高度経済成長下の
70年に7%を超えて「高齢化社会」となり、95年には14%を超えて「高齢化」の「化」が取れて「高齢社会」となり、07年には21%を超えて「超高齢社会」となっている。

世間やマスコミでは依然として「高齢化社会」と表現しているが、現実ははるかに先を行っている。
同時に「高齢化」が著しく伸長している様を表現しているのであろう。
13年、日本の高齢化率はすでに25%を超えた。

「終活」という用語は、09年に『週刊朝日』が連載記事に名付けたことから始まる。
11年8月の経産省「ライフエンディング・ステージ」に関する報告書が出たことを契機に、「公が認定した領域」ということで、それまでの葬送関連に加えて行政書士、税理士、保険関係業者等が一挙に群がり、流行語とした。
老後、死後への不安感を抱く層を煽って「終活ブーム」がつくりだされた(だから報告書作成に深く関与した私に責任の一部はある)。

もとより事業者が煽ったからといって即「ブーム」が引き起こされるわけではない。
この背景には、毎年250万人が誕生したという団塊世代がすべて65歳以上の前期高齢者の仲間入りしたことがある。


もともと『文藝春秋』を代表とする雑誌の主たる読者は団塊世代がその中心を占め続けてきた。
この塊が仕事から退き、いざ自分たちの「老後設計」の問題に取り掛かった。
この時点に合わせてマスコミが仕掛け、それに塊としての層が乗ることで「終活ブーム」なるものが現れた。

 

■「デス・スタディ」と現代の死の問題


「デス・スタディ(死学death study、元はthanatology。アルフォンス・デーケンがこれを「死生学」と訳した)」が大きな課題となったのは、最初は米国で、直接的には朝鮮戦争からの帰還兵が、前線で殺傷や仲間の死を体験し、精神的疾患を抱えることが多かったことによる。
すでにドイツの精神分析者のフロイトが対象喪失に伴う悲嘆については扱っていた。


日本へは70年代にすでに紹介されていたが、関心が広く展開したのは80年代の中期以降である。
キューブラー・ロスが紹介され、A・デーケンが精力的な活動を展開し、ホスピスが紹介されたことによる。

終末期医療における延命至上主義の見直しによるクオリティ・オブ・ライフ(生活の質の向上)、インフォームド・コンセント(説明と同意に基づく医療の提供)が広く話題を呼ぶようになり、医療の現場を変えた。

デーケンらの「生と死を考える会」の各地での活動により死別悲嘆の問題について、死別体験者同士による対話と共感の必要性が説かれ、さまざまな形で自死遺族、子を喪った親の問題が共有されるようになった。


95
年の阪神・淡路大震災、11年の東日本大震災では、突然の大量災害死、遺体の取り扱い、遺族の悲嘆が広く問われた。


「自死」についてもこの間広く取り上げられた。
かつての「自分の意思で自分を殺す」という「自殺」観が見直され、さまざまな固有の理由が重なった精神的疾患によりもたらされた自由意思によらない死がその多くを占めていることが注目を浴びている。
教会も寺もかつては「自死者」に対して「殺人者」呼ばわりし、葬儀の席で非難、葬儀拒否という行動を取った事例が一部にはあった。


10
年にはNHKTVが「無縁社会」を報じ、引き取り手のいない遺体が年間約3万2千体ある事実を報道した。
その多くの近親者は甥、姪の関係にある者が多く、血縁的には最も身近であっても生前の関係はなく戸惑う声が聞かれた。
少子化、離婚率の上昇、生涯未婚率の急激な上昇、家族分散化による単独世帯の増加、その孤立化を生んでいる。


日本の戦後の高度経済成長は豊かさももたらしたが、急激な地方から都市への人口移動により、地域共同体の崩壊を招き、個人化が進み、過剰に「自己責任」論が言われるようになった。


戦前の昭和初期には、80歳以上での死者は全死亡者のわずか3~5%程度であり、その死とそれに続く葬式は、長寿にあやかろうとする祝いの雰囲気すら漂うものであった。
それが高齢化の著しい伸長により、全死亡者の約6割が80歳以上の死亡者で占められるようになった。
その死は私事化され、葬式をしない直葬は全体の1割、東京では2割を超え、近親者のみで行う葬式である家族葬は全体の4割、東京では6割を超えるようになった。


高度経済成長期の葬式の社会儀礼偏重への反感が招いたとはいえ、死の極端な私事化は、死者を知る者の弔う想いを拒絶し、排除するかのようになっている。
また死者に接する機会の急激な喪失は、死および死者への接し方、弔い方がわからない人たちが多数を占めるようになった。
死は近親者にとまどいだけをもたらし、その悲嘆の表明の仕方を奪い、安く事業者に依頼するだけのものになった感がある。


葬儀は規模を別にして、近親者のみの親密な別れの場であることと死体を単に処理するがごとき場とに大きく分裂してある。


遺体はエンバーミングするのでなければ腐敗していくという認識すら欠いた人たちは驚くほど多い。


墓の世界も大きく変動している。

明治末期以降、明治民法の家(イエ)を単位とし、当時コレラの大流行により火葬化を進めることで成立した家墓制度。
高度経済成長期に都市周辺での核家族用の墓ブームを招いた。
だが、90年代以降は、承継者がいない、いても依拠しない人の増加で多様化が進んだ。

承継者不要の永代供養墓(合葬墓)、散骨(自然葬。遺骨を細かく砕き墓地以外の海等に撒く)、樹木葬(墓地である森林等に墓石等の人工物を設けずに遺骨を埋蔵)の認知が広がり、今や墓を求める層の3分の1がこうした新しい葬り形態を選択するまでになった。


日本社会は、91年のバブル景気の崩壊、08年のリーマンショックを契機として著しい格差社会となった。
これが高齢化に与えた影響は大きい。


80
歳以上の高齢者の増大は認知症患者の増大を招く。
病院の治療病棟の廃止は高齢者の病院からの追い出しを招き、一方で受け皿を期待された高齢者施設を増加させる動きは追いついていない。


「最期は家で」という高齢者の欲求は高いものの、家族の縮小化に伴い、介護要員がいない。
こうした高齢者の単独世帯、二人世帯での老老介護は多い。

政府は高齢者医療費、介護費用の削減を目的として「在宅ケア」へ舵をきった。
だが、「在宅ケア」を可能とする地域医療・介護態勢はまだまだ整備が行き届いていない。
自宅に放置された高齢者難民を大量に生んでいる。
「家で看取る」ことは理想ではあるが、それが一部のモデルケースを除けば現実からほど遠い現実である。


家庭内に閉じ込められて外部には見えないが、すでに大量の高齢者難民がいる。

こうした現実がある以上、死後に営まれる葬式が限りなく「死体処理」に傾いている現実も無理からぬことであると思う。


生者の尊厳も守れないで、死者の尊厳を守ることは不可能である。

 

2017年2月 7日 (火)

長過ぎる不在―個から見た死と葬送(18)

基本としてここに描いたものはフィクションである。
私の周辺で生じたものが多く含まれているが、当事者の心象に投影して描いている。

長過ぎる不在

先日、後輩の息子が死亡し、葬儀に出かけた。
職場で倒れ、入院。
10日後に息を引き取ったという。

遺族の顔を見ると、15年前の私とそっくり。
目はときおり上げるが誰も見ていない。
宙を彷徨っている。

私は15年経たが、息子の不在から卒業できていない。


5年後に部屋の模様替えをしてみたが、かえって居心地が悪くなった。

息子の帽子を2つ取り出して玄関にかけてみた。
ときおり触ってみるのだが、心は冷え冷えとするばかりだ。


でも帽子はもう動かせない。


運動靴も1足だけ玄関に置いたままだ。
それは新品で、ついに足を通されなかったままだ。


娘はもうすっかり成人したが、毎朝出勤前に
「お兄ちゃん、行ってきます」
と仏壇にチーンと鉦を鳴らして出かける。


何か辛いことがあると、一人仏壇に向かって小声で言いつけている。

娘の心には兄は居ついたようだ。

私の心にはまだ居つかない。

でも卒業できないのは私だけではない。

息子の祖母である義母がそうだ。

「私が歳をとっても生きているのはお兄ちゃんに悪い気がする。代わってあげたかった」
と悔やむ。

わが家では息子の死以来、誕生日は禁句となっている。


家族が揃っているときは会話も普通に飛び交うのだが、夜はいけない。
私たち夫婦だけになると、会話は時おり続かなくなる。
気がつくと二人で呆としている。


2017年1月26日 (木)

息が止まる時―個から見た死と葬送(17)

息が止まる時

生命の火がかすかに揺れている。

静かにろうそくの火が燃え尽きようとしているのだが、そこはかとなく保たれている。

見ているしかない。

新たにろうそくを足すでもない。

新たに何かをすることを本人が本能的に拒否しているように思えた。
最期の生きざまを見守るしかない。


何もできないことを最初は切なく思ったのだが、本人を見ているとそれとは違う。

本人は、その消えゆくさまを楽しんでいるかのようだ。
まるで遊戯をしているようだ。


閉じた目が開くことはなく、
静かに息をするのを辞めるのではないか、
ほぼそのようだ、
と思っていると、
何ごともなかったように目を開け、
たどたどしいが
「おはよう」
と言う。

同じような日が数日続いたある日、
23時に病院から
「血圧が低下して危険」
との報せが入った。

眼の周囲が昼間より、深く窪んでいるように見える。

明け方だった。
人目には焦っているように見えるのだが、本人は表情そのものを変えることなく、大きく下顎呼吸を繰り返した。
その後、大きくため息をつくようにし、息は止んだ。

後期高齢のだいぶ
手前にあるが、
「惜しい」
とは思わなかった。

「もう、充分だ」
と、私たちには思えた。
ようやく家に帰すことができる。

不思議な生き物である。
人間という奴は。

そのすべてのいのちが人間のはからいの世界から外れている。

それがあるときは魔物に攫われるように感じられるのだが。

そのいのちを左右することは誰にもできない。

宗教者にも医師にも家族にも本人にもできない。

「いのちは尽きるから尊い」のではない。
生も死も含めて、ここにあることが尊いのだと思う。


周囲を見ていて、
それ以外の選択肢はないのではないか、
と思ってしまうのだ。

2017年1月25日 (水)

子連れ無理心中―個から見た死と葬送(16)

子連れ無理心中

こういうニュースがいちばん怖い。
しかも記事はいつも中途半端だ。
そこに至った経緯を想像しようとしても何も見えてこない。


でもそのニュース記事を書いた当の記者にもそれ以上は書けなかったのだろう。
警察が発表した以上の情報はないのだろう。

おそらくそれを探ったならば、1日はもとより数日でも済まないだろう。
半年あってもその真実はわからないだろう。
また、仮にわかったとしても、それを明らかにすることは死者に対してどうなのだろう。
多くの者が傷つくだろう。
しかし、そこにはもしかしたら、第三者としてではなく、明らかにすべきものがあるかもしれない。
記者は自問するだろう。

見出しが扇情的であるのは、
「自分が書かなくとも他社は書く。ならば書くしかない」
と言い訳のようにも感じる。


事柄が痛切なのに、報じるほうは中途半端な姿勢で日常感覚の意識を出ていないかのように見える。

でも新聞を広げた者には、その見出し以上のものが入ってきて、しばし呆然とする。

何故か知る由もないし、知って何かができるわけではない。
いや、何かをしたらものすごい冒涜になるかもしれない。


ときどき

「子どもが病弱なことをこぼしていた」
「仲良く公園で遊んでいた」
などの説明が記事に付されることがあるが、わからないことは同じだ。

いっそ記事にしないでくれと呻く。
だが、その次には別のページをくっている自分がいる。


そんな日は一日憂鬱である。

しかし、それが家族であったら、憂鬱だけで済むはずがない。

何か自分の血が酷く冷たい感じがした。



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