エッセイ

2017年9月10日 (日)

人の生死は残る者の心に刻まれ、受け継がれていく

前回の更新が7月29日だから、1ヶ月以上放置したことになる。
過去には半年以上放置した前歴があるから、私としては珍しいものではない。

放置の理由はいつも単純である。
他にやることに気が囚われて、更新できずの日が続いて、そのうちこれを書こうか、あれを書こうかと迷い、結局手つかずになる、ということだ。

そこできょうはかまえず、今朝の新聞で、これはと思ったことを書き留める。

「大のスポーツ狂い」(皆は信じないかもしれないが中高ではバスケットボールの選手で、結構優秀なガードのプレイヤーだった)としては、心躍る出来事だったのは昨日、陸上100m男子、桐生が日本人初の9秒台、9秒98で走り抜けたことだった。
「暁の超特急」吉岡隆徳が当時の世界タイ記録10秒3を記録したのが1935年のこと。
桐生が高校3年で10秒01を記録してから、その後何人かのスプリンターが出てきたが、私はなぜか桐生に賭けていた。
その桐生が9秒台に突入したのだから昨日から心が躍り放なしである。

今朝の朝日では「科学の扉」で気になる記事が。
「『想定外』を考える新感染症 瞬く間に」
である。
そこで書かれているが
 
20世紀中に起きたパンデミックは3回あり、すべてインフルエンザだった。世界で2千万人以上が死亡したとされるスペイン風邪(1918~19年)も、元々は鳥インフルエンザウイルスが起源とされている。

 パンデミックが起きれば交通網が止まり、医療機関は患者であふれる。世界銀行は、スペイン風邪のような深刻なパンデミックが起きた際の損失を世界のGDPの約5%にあたる4兆ドルと試算している。国の想定では最悪の場合、国内の患者数が2500万人、死者を64万人と推計。米政府は今年6月に発表した想定で、死者は最悪で193万人に上ると予測している。

これだけ公衆衛生が徹底する世の中になったが、人間は感染症(かつては「伝染病」といわれた)を克服できていない。
それどころか地球温暖化、グローバル化、人口増加で、「動物から人へ」という感染症の脅威、瞬時の拡散、大打撃の脅威は拡大している。

想えば日本でも中世に「疫病」と恐れられ、日本人の死穢(しえ)意識を決定づけることになったのも感染症の脅威であった。
(ケガレ意識というものはこうした事実に基づいていることを知らず、どうでもいい議論を展開している人類学、民俗学の「学者」が多すぎる!)

東ローマ帝国が機能不全に陥った背景にはペスト大流行による人口の急激な減少があった。

「メメント・モリ」(死を想え)という言葉が有名だが、これは14世紀の「黒死病」と恐れられたペストの大流行を背景としている。

話は替わり、
広告特集で私の大好きなミュージシャン山下達郎が取り上げられている。
新曲REBORNについて話しているところに過不足なく彼の死生観が語られている。

「僕は、人が死んだら灰になるだけ、という死生観には納得できない。
家族や友人たちが一人二人とこの世を去る中で、たとえ彼らが社会的に特別なことを成し遂げたわけではなくても、彼らが生きた歴史や思い出は、残された者も心に刻まれていく。そして、それは受け継がれていく。」

大げさに言えば、私たちが歴史の中に生きている、というのは有名無名を問わず、生きて死んでいった人たちの流れの中にいる、ということであり、その中で私たちも死んで次の世代にバトンを渡していくということである。

これからも時たまこのブログを書く。
あまり期待しないでいてくれると気が楽である。
「ブログの更新が止まっていますね」と言われるのは結構プレッシャーである。
気が結構弱いのだ。

近況で言えば、たいしたことはないのだが、1週間前ほどからときたま咳込む現象が生じて悩んでいる。便秘だといっては気にし、眼がむずかるといっては目薬をさし、右耳が聴こえにくい(今は治った)といっては心配し・・・原稿を少しずつ書きながら悩んでいる。そんなつまらない気が小さいことにくよくよしている。

2017年5月19日 (金)

僕はあなたの息子でした―個から見た死と葬送(27)

これを書いたのは2年半ほど前のことである。
今も父の死は鮮明である。
遺骨の一部は今も私の引き出しに入れてある。


父は晩年、よく「危篤だ」と自分で電話をかけてきた。

兄には別な日に「危篤」になったようだ。
要は「顔を見せろ」ということだ。

行くと息子の顔をまじまじとみつめ、
「僕が死んだらどうするか言ってみろ」
と言うのだ。

自分の意思が息子に伝わっているか、確認をするのだ。

危篤になった時のことから始まり、葬式や納骨、そして自分の書斎の本の行く末まで、全部を、私が父からそれまで何度も聞かされたとおりに言うと、
「それで頼む」
と言った。

知り合いから電話があると、
「死んでから葬式に来てもらうより、今の生きているうちに会いに来てくれ」
と見舞いを催促する。

父はあらたまった席では「私」と言ったが、少し気楽な関係では自分のことを終生「僕」と言っていた。

その父が死んでから14年。
十三回忌は2年前にしなければいけなかった計算だ。
生きていれば百歳を超えている。

死後5年目あたりから、父のことは「懐かしく」感じるようになったが、いまだに父の思い出は明徴である。

父の葬儀でとり乱しながら、私は必死に父に語りかけていたものだった。

「私は、僕は、あなたの息子でした」
と。

その言葉は、14年後の今も、私の中では少しも色あせていない。

2017年5月14日 (日)

バブル文化についてつらつら―雑感②

今ウケるバブル文化

 

今朝20170514

の朝日から気になった言葉を抜いてみた続き。
(ディジタルから引用しているので、本紙とは一部異なる)

「バブル景気」は80年代後半から91年まで続く。911月に崩壊するのだが、気分としては91年いっぱい引きずり、すぐまた戻るだろうと思っていたが、95年頃から不況を実感し、宝石が売れなくなり、葬送の傾向も個人化に傾斜していく。
個人的には8691年というのは、出版編集という編集者の仕事から苦手な管理職的な仕事の負担が増え、嫌気がさし、会社を辞め、ジャーナリストとして独立した時期に照応する。極めて屈折の振幅が大きい時期であった。何せ「異常」な時期であった。

 

日本がバブル景気に沸いた1980年代後半から91年ごろ、華やかな衣装で自由を謳歌(おうか)する女性に象徴される「バブル文化」が栄えた。最近、当時を再現するアイドルが現れるなど復活の兆しがある。何が魅力なのか。あの時代の功罪とは。(赤田康和)

この記事でバブル象徴とも言うべきディスコ・ジュリアナ東京が、バブル崩壊直後の91年に誕生したことを知る。
もっとも私はディスコとは無縁な生活であったが、バブルは崩壊したが気分は継続していて、崩壊が社会的認識になるのは95年くらいから、というのがわかる。
ウィキペディアには「ジュリアナ東京(ジュリアナとうきょう)は、1991平成3年)515から1994(平成6年)831までウォーターフロントと呼ばれた東京都港区芝浦にジュリアナ東京ブームを築いた伝説的なディスコである」と説明されている。94年に閉鎖というのが象徴的である。

 

大多さんは91年の「東京ラブストーリー」もプロデュース。恋人に「カンチ、セックスしよっ!」と呼びかける赤名リカ(鈴木保奈美)に世の男性はほれ込み、女性は共感した。「リカはいびつで不器用で孤独。でも前向きに生きていく。だから視聴者も感情移入したのでは」

「大多さん」とはフジテレビの常務。当寺敏腕プロデューサーとして活躍。

 

(漫画家の)柴門ふみさんは「ずっとあこがれだった欧米文化を取り込み、作品に結実。コンプレックスも消化できたのがバブル期」と話す。ただ文化が画一的で、東京に偏在していた面もあるという。「ワンレンなど皆が同じファッションだった。ネットもなく地方では見たい映画は来ないし本も限られていた」

 

なるほど、当時はネットがなかったのだ!

 

55年あたりから、多少の浮き沈みはあったが、日本社会は経済成長が続き、その最後を飾ったのがバブル景気であった。
何せ毎年のように流行がつくられ、それを追って大量消費していた。
多くが一方向に向き、例えばミニスカートが流行れば、脚が太かろうと短かろうが流行った。
ネクタイの幅が急に細いのしか出なく、今度はえらい幅の広いのしか売られない、というアパレル業界の陰謀が民衆を翻弄、民衆も流行を楽しんだ。

墓石が立派になり、ブランド石がいいとされたのも70年以降。墓石や葬儀の提灯に家紋が入るのが大流行。

喪服ならぬ礼服が幅を利かし、葬儀は遺族でもない人が黒づくめで会葬するようになる。

根拠がないのに「これがほんとう」という神話が横行。

その底には戦争期、戦争直後の苦労、欧米文化へのあこがれの大爆発があったろう。
悲しい成り上がり者の仇花がバブル文化という奴だ。

人間は悲しいかな、経済成長が上向きなときは、過去のマイナスを消そうとする。
あの戦争がなかったかのようにした。
個々にはその傷口はけっして消え去ったわけではないのに個々の世界に閉じこめ、戦争責任も曖昧にされた。

 

経済成長を美化する動きがあるが、あの世界にはさまざまな問題を内包していたし、ある意味では人間を卑しくさせた。

 

「戒名料」問題は寺の問題と非難されるが、高位とされる院号を競ってほしがったあさましい民心があって生まれた現象でもある。

95
年頃よりその反発が世を覆った。

葬送の世界にいる者は葬送だけが変わったと思っているかもしれないが、そんなことはない。
あれだけ戦後復興のシンボルであったスーパーマーケットだって今苦しんでいる。

「個人化」という現象は、最初はバラバラであったが、そこにいろいろな顔があるということがこの20年でようやく見え始めたのではないか。

バブル景気の反動なのか、価格低下⇒企業のブラック化は葬送業界にも及んでいる。
不当な安売りは葬祭従事者の労働条件を悪化させている。それがひいては葬祭サービスの質の低下につながっている。

(僧侶の方のSNSの投稿を見ると、直葬でぞんざいな扱いをする葬祭業者のことが書かれていることは心配)

ここまでくると葬儀のいい悪いはもはや外形では判断できない。
個々を見るしかない。

 

しかし期待できるのは、現状に対して悩んで、迷って、考えこんでいる僧侶、葬祭ディレクターがいるということだ。

 

 

共謀罪から「聖俗」二元論までつらつらと―雑感①

今朝(20170514)の朝日から気になった言葉を抜いてみた。(ディジタルから引用しているので、本紙とは一部異なる)





共謀罪


共謀罪に関するカメラマン宮嶋茂樹の発言


むしろ共謀罪は、市民が犯罪者を拒む理由になるんじゃないか。「あなたとは会うだけで共謀罪に問われそうだから」と。もちろんテロリストや暴力団などの組織的犯罪集団と関係があるような人は一般市民とは言えない。

 若い頃、大物右翼の赤尾敏氏(故人)を撮影した写真展を開いた。最初に会場に来たお客さんが「よう、宮嶋君。いい写真だね」と言う。公安刑事だった。身辺を洗われていると感じたが、別に悪いことはしていない。不肖・宮嶋、女の好みとか警察に知られたくない秘密はある。だけど、少しくらい監視されたって枕を高くして眠る方がいい。
(略)

日本人は、テロや他国からの攻撃に対する危機感が薄い。先月、北朝鮮ミサイル発射で一部の地下鉄が運転を見合わせた。「過剰反応だ」という声もあったが、止める判断は正しかったと思う。災害時の避難指示なら「空振り」でも文句が出ないのに、ミサイルやテロだとやり過ぎと言われる。国民に「どうせ起きるわけない」という思い込みがある。聞き手・岩崎生之助)

 

共謀罪は計画段階だと物証に乏しく自白重視の捜査になるのでは?というので、2003年鹿児島県議選をめぐる冤罪事件「志布志事件」で無罪となった元被告の証言。


共謀罪」の国会審議で政府は「一般人は対象外」「裁判所による令状審査が機能しており、恣意(しい)的な運用はできない」などと答弁している。ただ、一般人かどうか、嫌疑の有無などの判断をするのは捜査当局だ。中山さんは「一度決めれば、あらゆる手段を使って、描いた筋書き通りに『犯人』を仕立てる危険がある」と感じる。

志布志事件では、警察からは「自白」を迫られ、否認すると395日間勾留された。取調官は「否認を続ければ(経営する)会社はつぶれる」「認めなければ娘も息子も逮捕する」などと怒鳴った。ともに逮捕された妻が自供したので罪を認めるように、と迫られたこともある。心が折れそうになったが、否認を貫いた。後で妻は自供しておらず、取調官がうそをついていたことを知った。 「警察はシナリオを書いたらあの手この手で認めさせようとする。みな自分に関係ないと思っているのだろうが、自分に降りかかってきてからでは手遅れだ」(編集委員・大久保真紀)


私は共謀罪には反対だ。
そもそも容疑をかけられたら捜査をしないと「一般人」かどうかわからない。
「共謀罪は一般人が対象にならない」という論理は成立しない。
それこそ「安全な一般人」と「安全でないかもしれない危惧のある一般人=非一般人」とに分けられる可能性は高い、と元非一般人としては思う。


「元非一般人」は=「元犯罪者」ではない。もとよりそう見られてもいっこうにかまわないが。


60
70年代に感じたヒリヒリした時代感覚を思い出している。
公安があの当時の感覚で共謀罪を扱うなら、私は明らかに処罰対象になっていただろう。


「不肖・宮嶋」さんの危惧もわかる。
リスクに対する感覚の鈍さは感じている。
だが、だ。
人間=善人でないから共謀罪をもち出すのだろうが、捜査陣=善でもないから安心できないのだ。
どこかを「善」と信じられればいいのだが、人間社会はそんなに都合よくない。



土岐健治『死海写本』を読みながら、


「聖俗」二元論までつらつらと

 

ここ数日、土岐健治『死海写本』(講談社学術文庫)を電子書籍で読んだ。

紀元前
4世紀から紀元後2世紀に至る古代パレスチナの歴史が死海写本を中心に語られるのだが、そこに描かれる善と悪の軋轢・対立が歴史に翻弄される様は、「善」がいかに相対的なものであるかを教えてくれる。

 

仏教では真の意味での文献学が未成熟なため、初期仏教の世界が剖出されていないから、現代の仏教者は「平和仏教」と安穏として語る。

 

だが釈迦は紀元前500年頃であり、その死後100200年で激しい部派対立が生じた。

宗教といっても人間世界のこと。
「善」は絶対的なものでありえず、「信仰」も純粋足り得ない。
何がいいか、という価値観も相対的で、また歴史に翻弄される。

 

死海写本でエッセネ派に魅了される部分があるだろうが、彼らのいわば「出家」は、深い女性蔑視の上に成り立っていたことは無視できない事実。

今の日本仏教を「堕落」とする意見の一つに妻帯があり、それでは出家ではない、「聖性」が失われたと非難する意見も未だにある。
まさに「いまだに」である。時代遅れもいいとこだ。

江戸時代までは公式に僧侶妻帯が公認されていなかったが、実態は「聖」とは一部を除いてほど遠かったのも歴史的事実。

 

キリスト教のカトリックの「聖職者」は妻帯が認められていないが、では「高潔」かといえば必ずしもそうではない。
小児や女性へのハラスメント問題はたくさんあり、今深刻な問題になっている。

 

私は「出家しよう」という一途さを否定するものではないが、人間はそれをもって「聖」になるわけではないことを知るべきだろうと思う。

そもそも人間を「聖」と「俗」に分けるのに無理がある。

 

「俗」たる一般人にとって「聖」を尊敬したい気持ちはわかるが、それは幻想だし、「聖」とされる人間にも負担なのだ。

「聖じゃない」と宗教者を批判すれば、「俗」はすかっとするだろうが、そんなの解決ではない。
今は世俗化された社会だから世の中悪いのは坊さんのせい、なんて言えない。

凄まじい修行を積んで、独身を守る僧侶が宗教者として讃嘆され、名声を得るが、話すと人間的深みがまるでない、という例は昔から少なくない。

 

「聖俗」は両者の幻想と無理の上に成り立っているものだから、現実には信じがたい権威主義を生み出したりする。

 

 日本仏教で「聖」と言うと「ひじり」と読み、戦国時代を中心に民衆の中に入り、葬祭仏教の基礎をつくった下層僧侶、非公認僧侶たち、既成教団の枠外の民間僧のことを言う。

日本仏教において親鸞、道元等の仏教思想の深化とは別に、仏教の日本社会への浸透には大きな働きをなした。
社会現実、世俗への対応を担った。


しかし「聖(ひじり)」個々が「聖(せい)性」をもっていたかといえばそうではない。
字が同じことから混同されがちだが「ひじり(聖)=聖性をもった人」ではない。


また、彼らの活動は徳川幕府の本末制度の中で社会制度に絡めとられてきた。
(その後、パブリックな存在として地域社会の中に位置づいた面は評価できるのだが)

 

話は脇道に逸れたが、「善」もすこぶる相対的なものだ、少し突っ込んで見てみるとかなりあやふやな面を抱えていることがわかる。
そうしたものであることへの自戒はもっていていい。

 



2017年4月15日 (土)

「家族」…この不思議なもの


「家族」というのは不思議なものだ。

多くの人にとっては、疑いようのない濃い人間関係なのだろう。
しかし、それ故、強い反発と憎悪の対象にもなり得る。

また、家族を私物化してしまうこともある。
ほとんどが無意識のうちにだ。
それがいつのまにか、相手への肉体的、精神的暴力となったりする。
だが、それを意識化することは極めて困難である。

あるいは「関係を断つ」ことには相当の覚悟が強いられたり、いったん離れると、再度の関係づけは難しい。

「犯罪」というのは、「外から来る」と漠然と思っていることが多いが、実はかなりの確率で家族や親戚といった近い距離で発生している。
そのほとんどは「家族」や「親戚」という関係になければ発生はしなかっただろうことである。

「家族」と言うと、それぞれがわかった気になることが厄介である。
実はその関係は多様で、濃淡も異なるのだが、自分の家族関係に引き寄せて考えてしまいがちだからである。

「家族」という語は、認識よりも体験に深く影響される語なのだろう。

死別だけではなく、生きて家族を喪失することもある。
それもぼんやりと。しかし、確実に深いところで。


2017年1月16日 (月)

死の授業―個から見た死と葬送(14)

死の授業


「健全な時代」と言うべきなのだろうか。



私たちの青春時代には、背中にベタッと死が張りついた感覚で生きていたものだ。

だが、目の前に座る学生たちの目には、珍しいことを見るような好奇心、あるいは理由もない怖れの感覚が支配しているように見えた。


そもそも授業内容に関心がなく、席に着くなり堂々と机の上に両手と頭を落として寝だす無関心な者もいる。


初めて耳にすることなのだろう。
死というのは年齢・性別・健康かどうかに関係なく突然侵入してくることがあること、
高齢者の終末期の状況、
人が死ぬと腐敗すること、
昔は乳幼児の死亡率が高かったこと、
単独死のこと…などなど、
ほとんど学生たちの日常会話の俎上にのることがありえない話題なのだろう。



澱んだ空気にたまらず、教壇の上から大声を出し
「聴く気のない者は出て行け」
「寝ている者、喋っている者は出て行け!」と叫ぶ。
すると学生たちは、教師が叱ることに驚き、姿勢を正す。

自分たちの常に反抗的だった時代と比べ、今の学生たちは何と温和なのだろう、と今度はこちらが驚く。



「デス・スタディ(死について学ぶ)」は、どこかで体験が交差しないと難しいのかもしれない。
「脳死」「セカンド・オピニオン」「死者との共食」など…

今は彼らには呪語に等しいかもしれない。
いつか「知る」時が来ると信じて、時間の最後まで授業をした。






2017年1月15日 (日)

母の初盆―個から見た死と葬送(13)

基本としてここに描いたものはフィクションである。
私の周辺で生じたものが多く含まれているが、当事者の心象に投影して描いている。


母の初盆


厳しい日照りのなか家族4人で菩提寺に向かう。
毎年欠かさない行事なのだが今年は母がいない。


昨年も厳しい夏であった。
でも母は元気に先頭に立って歩いた。
その母が秋の訪れと共に寝込むようになり、3カ月後に静かに逝った。
だから今年の夏は母の初盆である。


本堂には100人以上の人が集まった。
法要の後、住職が立って言った。


今年もこうして皆さんにお集まりいただき、お施餓鬼を勤めることができました。
今年初盆のお宅は
23軒です。
3月の大震災でごきょうだいを亡くされた方もおいでです。
今年は震災でお亡くなりになった方々、身元不明の方々も覚えてお勤めしました。
仏さまになられたということは、全てのいのちがつながっているということです。
仏さまのいのちのつながりを共にいただきたいと思います。


母は戦争の時の話をよくした。


たくさん人が死んだ。
妹も日本への帰還船のなかで死んだ。
栄養失調だった。
その人たちはいなくなったのではなく、私のいのちに今もつながっているのよ。


つらい想い、悲しい想いも併せて、今、私たちはいのちをいただいている。


玄関先で灯を点し送り盆をした。
たくさんの人たちが手を振って去る風景が心に浮かんだ。
母もその妹もその中にいた。

(2011年9月記)



2016年12月25日 (日)

掃除のプロは寺にいる

家にいると、今までやらなかったことを普通にやるようになる。

といっても、ほんの少しだが・・・


いつも10時には四畳半に籠る。
その前の、かつては車に乗っていた時間が空く。

昨日ははなれの窓ふき。
今朝は座敷、玄関、廊下…
昭和初期の建物なので障子が多い。
はたき(といっても昔のものとは違うが)をかけ雑巾で枠や柱を拭く。

地方に行かない時は事務所に朝から夜まで祝日、土日関係なく籠る生活だったから、普通家で当然やっていたことをまったくやっていなかった。
家にいるようになったので、あたりまえにやるようになった。
といっても30~40分くらいの話。

「掃除」といえば過去に感心したのは
その手際のよさ、集中力、速さ、それでいて細部の配慮・・・
ぴか一はお寺の人たちである。

坊さん連中は掃除のプロである。
もっとも私ができなすぎなのかもしれないが…
見ていてほれぼれする。

食器洗いでも、私がちょこっと手を出したら、
「それダメ。食器の底もきちんと洗わないと」
と叱られたことがある。
檀家の女性陣からだ。
速さ、力強さ…見事なものだ。
「じゃま」と言われて、寺の台所から追い出されたことがある。

掃除をしながら、そんなことを思い出していた。
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