エッセイ

2018年9月20日 (木)

彼岸入り 墓参り

本日9月20日は彼岸入り。
そこで墓参りに出かけた。

私が管理している墓の一つが東京・品川にある臨済宗の寺「東海寺」の大山墓地にある。
東海道新幹線が通ることで改築したらしい。
墓のすぐ後ろを新幹線が走っている。
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新幹線のための改築の際に墓所は少し狭くなったらしいが、今でも大きい。
その理由は明治37年に55歳で死亡した父方の曽祖父が陸軍の将軍であったからだ。
曽祖父の横に曾祖母の墓があり、左手前に祖父の弟の家族の墓が同じ墓域にある。
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父方の祖父母の墓は仙台の北山にあるキリスト教墓地にある。
東海寺の墓は祖父が建てたと曽祖父の墓に刻まれており、祖父も曽祖父の墓に分骨されている。
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祖父の弟である大叔父の墓には大叔父夫妻とその子まで入っているが、いつの間にかその下は別に墓地を求めて管理を放棄したために、私がこの墓所を管理している関係上、今は私がまとめて管理している。

午前中に墓参。
墓所内を掃除し、花を3か所に供えた。

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この同じ墓地には先年亡くなった歌手の島倉千代子さんの墓があり、いつも花が供えられている。
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同じ大山墓地には江戸中期の国学者である賀茂真淵の墓がある。
寺墓地なのに墓所には鳥居があり、その奥に墓がある。
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賀茂真淵の墓

東海寺は秀吉の時代から家光の時代に活躍した禅僧である「沢庵和尚」こと、沢庵宗彭が開山した寺で、沢庵の墓もある。
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大きな自然石である。
漬物の「たくわん」は沢庵和尚が考案したと伝えられル。
たくわんを漬ける時の石が先か、沢庵和尚の墓の石が先かはさておき、沢庵和尚の墓の石は見事なものである。

墓参後に徒歩3分ほど離れた東海寺の和尚に挨拶した。
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品川駅構内でかき揚げ蕎麦を食い、昔の事務所神宮前にある25年以上行きつけの理髪店に行って帰った。

東京は午後から雨、今もシトシトと降っている。

2018年9月14日 (金)

「終活ブーム」の底にあるもの

「人生90年」時代に突入した。
明治期までの「人生40年」の倍、統計的な話ではあるが、「人間の一生」は長くなった。

子どもは、6歳で小学生、12歳で中学生…と成長のめどがある。
しかし、高齢者には「いつまで」というめどがない。

私は「たぐいまれ」と言われた古希を過ぎた。
正直なところ生きるのにいささか疲れている。
「もう、いつでもよい」という想いだが、こればかりは自分では決められない。
学生時代に同級の親友に死なれて以降、元々執着心があまりない人間であるが、4年前に姉を72歳で亡くして以降、ことさら自分の生へは一切執着はない。

※こんなことをすぐ言ったり書いたりするものだから、「元気だして」「まだまだ長生きして」とかの励ましを受ける。身体も今のところ元気だし、別に死に急いでいるわけではない。若い人に「70年よく生きましたね」と感心されたが、幸運か悪運かは知らず、生死の境を彷徨う病気等を経験したことはなかった。とりわけ健康に留意して生活したわけではなく、徹夜、深酒等と健康に害あることはたくさんやった。「がんばって生きた」訳ではない。生存という意味ではなんとなく生存という結果になっている。生きている以上、私は「書く者」だから、あっちこっちに難癖をつけながら、私なりに考え、私なりに書いたり、話したり、している。
「今の瞬間を生きる」と言うつもりもない。普通に生きている、今のところは。「生」に過度の思い入れをもたないのは、死者のことが常に私の頭にあるからだ。

よく、尊敬された老僧がいざ自分が死ぬとなると恐怖に怯えた、という話がされ、「人間いつになっても死は怖いものだ」と死と恐怖を結び付けて話されるが、いささか疑っている。

私も姉の年齢を超えた。
72
年も人生を生きていると、さまざまな死、親しい人との別れを体験せざるを得ない。
私もそうであった。
とりわけ辛いのが、同年輩や自分より若い者の死。

叔母は当時91であったか、72で死んだ姉の死の様子、葬儀の模様を報告しに行った時、「なんで年寄りの私が生きていて、ユコちゃん(姉のこと)が死ななくてはいけないのよ」と宙を睨んで呻いていた。
その叔母も死んだ。
私の親世代は昨年に母方の叔母が死んですべてこの世を去った。
だが、子世代でも2人、親世代に先行して死んでいる。

姉の死で思ったことは、死ぬ者もさまざまな解決できない想いを残してであろうが、遺される方がきつい、ということであった。
貧乏くじを引いた感をしていた。

日本は「超高齢社会」にあり、私もその高齢化率を高める要因となっている。
高齢者相手の犯罪も増加、高齢者の犯罪割合も増加、貧困高齢者も増加、そして高齢者相手のビジネスも盛んになっている。
その一つが「終活ビジネス」だ。
「単身世帯」が増えれば「おひとりさま向けビジネス」が盛んになる。
ビジネスをする方からすれば変わった話ではない。
人口の多いところを対象にして狙ったビジネスをするのはあたりまえのことである。

だが何かいやなのだ。
いろんなリスクを挙げて、脅かし、怯えさせる商法に見えるのだ。
親切、優しさで言ってくれているのかもしれない。

しかし、偏見なのだろうが、そうは思えない。

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年前に当時の赤堀編集長から『ソナエ』に連載の話があり、与えられたコラム名が「終活の喝!」であった。
笑ってしまったが、こちらはお席に招かれたらありがたくうかがう身。
1回を「終活ブームの底にあるもの」とした。

前にも同じようなテーマで書いている。
私も「終活」をテーマに週刊誌等で書いているから、大きく言えばブームを煽っている立場の人間に入るのだろう。
だが、どこかで醒めて見ている。
そうした私が書いた記事である。

碑文谷 創の「終活」に喝!

「終活ブーム」の底にあるもの

 

「終活」は、2012年にユーキャン新語・流行語のトップテンに選ばれ、あっという間に市民権を得た。


「終活」という用語は週刊朝日による造語。
主として葬儀や墓について考えようという主旨の連載だったと記憶している。
だがこれに葬送以外の司法書士、保険やらの事業者がわっと飛びついたのは2011年夏に公表された経産省「ライフエンディング・ステージ」に関する研究報告が契機であった。


省庁が終末期医療、介護、遺言、エンディングノート、成年後見、介護保険、葬儀保険、葬儀、墓、遺族の死別による悲嘆、遺産相続等の死後の事務処理その他の人生の終末期~死後を一連の流れとして提示し、その課題を提起した最初のものであったろう。
終末期医療や介護は既に大きな問題としてあったが、その後の遺族の抱える問題までを一環として捉える視点のものはなかった。


日本は高齢化率が世界一の超高齢社会となったが、過去の基盤であった家族、血縁、地域共同体が弱まり、個人が周囲のサポートが得られにくくなり、行政もそれを充分にサポートするだけの人も金も不足するなか、社会的にどういうサポート体制を築くべきかの民間への問題提起としてあった。


終末期、死、死後…は人としては一連の流れの中にあるのに、それに係わる業界は分断され、横の繋がりに欠けている。
情報は氾濫しているがその質に問題があるものが多い。
当事者はどれが適正な情報かの判断がつかず、最も重要な自由意思に基づく判断・選択が困難な状況に置かれている。

隣接する専門家同士が問題意識を共有し、ネットワークを構築し、生活者のサポート体制を構築することの必要性を説いた。
私も報告書作成に数回徹夜するほど深く関与したので、報告書が評価されたことはうれしいがその後の動きにはいささか心配である。


死の問題は戦後、特に高度経済成長期以降、長く敬遠、忌避されてきた。
ようやく注目されるようになったのが、1985年以降。
がんを中心とした終末期医療のあり方がまず問題となった。

その後の進展は速かった。
高齢化が進み、家族、地域社会は急速に弱体化した。
伝統的家の象徴である墓も継続性が疑問視されるようになった。

この遠因は日本社会の興隆期とも言うべき高度経済成長にあり、急速な人口移動による地方の地域共同体の弱体化・崩壊、核家族化の末路としての家族解体と単身世帯の増加を結果した。
しかも高齢化がここに加わった。

8割あった在宅死が2割を切るまで減少し、現実に死に向き合わない家族が増え、リアルな死の認識が欠け、抽象化した。

「個人化」と言うと好ましく聞こえるが、「個人」についての社会的合意のないまま、さまざまな分野で孤立を強いた。
死も例外ではない。


経産省報告書発表以降、錦の御旗にするように、銀行やら保険会社まで、さまざまな人たちが「終活」に乱入してきた。
口あたりはいいが、生活者当人の真の利益なぞ考えていないのではないか、と思われるものがたくさんあることが心配である

(報告)「葬送ジャーナリスト塚本勝の終活探訪記」の第6回に取り上げられた。

https://seniorguide.jp/column/tsukamoto/1142171.html


このブログも長いが、こちらのインタビューも長い。

2018年9月 8日 (土)

「いのち」を考える―生死のつながりの中で

『ソナエ』に2016年末から当時の赤堀編集長との縁で連載記事をもたせていただいた。
2年のお付き合いであった。
現在発売中の同誌の記事をもって連載終了となる。

「終活」をうたう一般の人向けの発言、というのは私としては得意ではない。
実践的に行政や市民団体との関係で係わることはあったし、それは終末期の問題から死後事務まで幅広く学んできた者の責任であると思っていた。
事実、当初は終末期医療、介護、葬儀、墓、遺言や財産相続、死後事務が独立しており、相互に知識を共有することはなかった。
行政の研究会に参加しても、全体を理解している者はほとんどいなかった。

松島如戒さんがもやいの碑を立ち上げ、会員の要望からその前の葬儀等の死後事務を扱うりすシステムを立ち上げ、その後会員の要望から単身者の入院保証等の生前支援にまで関係するようになった。
業界としての事業分野は異なっても、一人の人生を考えると一連のものである。

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年以上前であるが、ある終末期医療の研究会から「葬儀の話を聞かせてほしい」と講演の要請があった。
その要請の基になったのが看護師さんたちの「死亡退院した後の遺体、ご家族の様子を知りたい」という関心であった。

看護師さんたちは患者とその家族に接し、看護業務を行っている。
死亡退院したから終わりとは割り切れない想いを抱いている看護師さんが少なくない。
中には、病院から有給休暇をとって葬儀に参列している看護師さんもいるという。

但し、私に講演依頼するのに反対した人たちがいたという。それは医師たちであった。
「尊厳ある死」を迎えさせるために熱心な医師も、関心はそこまでで、死者、遺族となった家族についてはいささかも関心を示さなかったという。
時代も変わったから、今では「遺族外来」を始めた大西秀樹医師(埼玉医大)の例も現れたから、大きく変化しているのだろう。
幸い、看護師さんたちの声が大きく、私は講演することになったし、講演後に相次いで質問にきたのは看護師さんたちであった。

ターミナルケアにおいては、WHO(世界保健機構)も、患者のケアに加えて家族のケアの大切さを唱えている。
医療機関では、そこまでの支援は現実的に困難なようだが、心を砕いている看護師たちは確実にいる。

最近では、実践的に葬送から介護に足を伸ばした吉川美津子さん、医療の現場から葬送の現場まで幅広く取材研究している小谷みどりさん、防衛問題のプロでありながら終末期医療、葬送の現場を、丁寧に取材を積み重ねている毎日の瀧野隆浩記者のような優秀な人たちが出てきている。
私は今や彼らに学ぶ立場にいる。

場違いな『ソナエ』に私が書いたものを順次紹介するが、最初は最終原稿から。

編集部にしてもそうだったろうが、私にも毎回場違い感があった。
そこで「最終原稿」は少々気負ったものになった。

 

「いのち」を考える―「迷惑をかけたくない」は不遜

 

人間は誰でも死ぬ。それは個体での話。


人類という観点でいえば新陳代謝を繰り返し、人類の未来に生命をつなげている。
そうであれば死は必然であるし、生命の継承にとって必要である。


ある仏教の宗派では、死亡すると「還本国」という。
大きな生命の源に還っていく。
けっして無になるのではない。


人間の大きな生命体は、個体である人の膨大な生死(しょうじ)の積み重ねで繋がれている。
そこで生きた人間個々が小さかろうが、中くらいであろうが、大きかろうが、それぞれが文書化されようがしまいが確かな歴史を刻んでいる。


人間の生は長くて115年、明治期までは平均寿命は40年台。
かつては乳幼児の死亡率が高かったから、この世で言葉をもつ前に喪われた生命もおびただしくあった。


近世以前、有力者、学問や芸術で何ごとかをなした者は歴史文書に刻まれたが、多くの名もなき民衆個々の生の痕跡はほとんどが埋もれたままだ。


それなりに恋があり、新しい生命の誕生を喜び、家族や仲間のつながりで充足した時間があったろう。
またきょうのパンを得るための苦労、飢饉、戦に徴兵され、子の病にとまどい、心配し、多くの生き別れがあった。
感染症は猛威をふるい、災害にも弱く、個々の生命は軽々と奪われた。
そうした悲喜の中でいのちは繋がれ、今もある。


大きな種としての生命を考えると同時に、私は固有の個の生死にこだわる。
それを「名もない」と切り捨てたら、今の私たちはない。


誰でもが死ぬ。
ならばせめていい死に方をしたい、と考えるのも当然だ。
戦後、終末期医療は格段に進歩した。
「死に方が選べる」と期待する気持ちもわかる。

だが他方で、依然として「選べない死」が跋扈し、依然多数派である事実は押さえておいたほうがいい。

突然の死は、その人の未来だけではなく、家族がその人とありたいと思った未来をも奪う。


「人生90年」時代、という超高齢社会に突入した。
最期まで元気でありたい、という願望は痛いほどわかる。
だが、それは一握りの人にしか許されない。

今まで他人の世話もしたろう。
だが、多くの人から世話されて生きてきたのも事実だ。
私個人も他人、家族に「迷惑をかけっぱなし」で今がある。

気持ちはわからないでもないが、「迷惑をかけたくない」と思うのは不遜である。


死亡する前でも多くの支えが必要だし、死亡したら、いくら計画や準備をしても、納棺も火葬も、墓への納骨あるいは散骨も自分ではできない。
人が生きるということ自体たいへんだが、死後にも膨大な事務処理が残される。

2018年8月31日 (金)

「暴力」とは何か?

今朝(2018831日)の朝日新聞朝刊スポーツ欄の「視点」(パワハラ疑惑 体操協会が第三者調査へ 「反暴力」揺るがすな)は、何とも言えぬ不快感を感じさせるものであった。
https://digital.asahi.com/articles/DA3S13658205.html?iref=pc_ss_date
そこには「暴力」についての本質的考察を欠いた、「優等生的な常識」「上からの説教」だけがあったように感じたからだ。

日本体操協会が、指導中の暴力を理由に速見佑斗コーチを無期限の登録抹消処分としたことに対し、指導を受けていた宮川紗江が処分の見直しと、同協会幹部からパワーハラスメントを受けたことを訴えている問題で、同協会はパワハラについて第三者委員会の調査に委ねることにした。新たな展開となったが、コーチの暴力の是非はパワハラとは分けて考える必要がある。

 スポーツ指導における暴力は、それを受けた側がどう感じるかにかかわらず許されない。」
という言葉から始まる。

体罰の問題性について
指導上の暴力は、された選手だけでなく、その様子を見せられる周辺の選手をも傷つける。2011年、愛知・刈谷工高野球部の2年生が自殺した経緯を調べた愛知県の第三者調査委員会は「部内で体罰を見聞きしたことなどでうつ病を発症し、自殺の一因となった」という報告書をまとめた。
と指摘する。
これは正当である。
過去のスポーツ界において「指導」と称した「体罰」が横行し、多くの生徒を傷つけたことは事実だし、スポーツ、体育の世界で、それがまだ払拭されていないし、早急に改善すべきはその通りである。


しかし、
「速見コーチが選手をたたいたり、髪を引っ張ったりする行為が繰り返しあった事実を、同協会が第三者の訴えから本人に確認し、処分をしたことは極めて正しく、反暴力の立脚点として揺るがせない。処分の重さが適切か、宮川へのパワハラがあったかどうかは別問題だ。

 幸い、宮川自身、暴力を受けたことを認め、「暴力は認められない」と考えを改めている。
 2012年に大阪・桜宮高男子バスケットボール部の主将が顧問の暴力などを理由に自殺して以降、暴力的指導の根絶に向けてスポーツ界は努力している。それを後戻りさせる論議は避けなければならない。」
とする結論には違和感がある。

問題は「体罰」だけではない。
それだけが優先されるべきではない。

 同時に、指導者の選手のえこひいき、正当性を欠く指導の強制等も同様に、あるいはもっと広く蔓延し、多くの生徒を傷つけてきた事実も早急に改善されなければならず、どちらが先に、という問題ではない。
 そういう意味で具志堅副会長(日本体操協会)が「体質改善」ということを言ったのは正当性がある。

「視点」を書いた記者への私のいらだちは、「暴力」について、「身体的暴力」に偏し、「心理的暴力」の問題性について、どこか鈍感なところが感じられるからだ。
また、暴力案件についても体操協会の調査と宮川選手の発言には差があり、第三者委員会の調査が必要なのに、体操協会の調査をそのまま受け入れていることだ。

「暴力」という言葉は、人間の長い歴史の中で語られ続けてきたが、実は未成熟な言葉で、必ずしも社会的な合意を充分に得ていない。
一般には「乱暴な力。無法な力」と辞書的には解されているが、近年はもう少し幅をもって理解されるようになっている。
例えばウイキペディアでは
暴力(ぼうりょく)とは他者の身体財産などに対する物理的な破壊力をいう。ただし、心理的虐待モラルハラスメントなどの精神的暴力も暴力と認知されるようになりつつある。」
と書いている。

おそらくこう規定するのがいいのだろう。
「暴力とは、他の人間あるいは集団(の一部)が、何らかの行動、言葉、態度、物理的な力を発揮する、あるいは発揮しないことによって、その人間の人権をおかす、おかそうとする、またはおかしかねない事態を招くことをいう」

言葉による虐待、差別、不当な無視・放置や偏見もそうである。もとより武力もそうである。
どれがより酷いか、より優先されるべきかは、常識的に定まる性質のものではない。

極端な事例であるが、親の殺害において、それ以前の親から子への精神的虐待への反発があるものもある。
暴力は状況によって個別に異なる。
暴力には一方的に加害者と被害者に峻別できないケースもある。

広い意味で「暴力」を言うならば、私にも社会、集団、家族に対して加害者である面があり、あるいは加害者になる可能性がある。
暴力は、誰もが無縁ではないのだ。

「視点」の記者を好意的に見るならば、宮川選手の記者会見によってパワハラ問題が大きくなり、パワハラも問題だが、コーチの体罰事案が忘れ去られるのではないか、という危機感があったのかもしれない。
しかし、この記事からは残念ながら、それはうかがえない。

記事から感じるのは、身体的暴力と心理的暴力を区分けする暴力に対する偏見である。
さらに言うならば、自らを暴力と無縁の第三者としてしまう、断罪する側に身をおく、おこがましさである。
週刊誌やテレビに見え隠れする偽善性がここにもうかがえる。

「暴力」かどうか、当事者にはよく見えない。
自分や自分の属する集団には甘くなりがちだからである。
だから「第三者委員会」のようなものが必要なのだ。

以上は、私が記事に感じた違和感を文章にしたものであり、あくまで私の感想に過ぎない。
反論を期待したい。

2018年7月 2日 (月)

海洋民族の記憶の古層―『海へ還るー海洋散骨の手引き』を読む①

太田宏人さんとの縁で、村田ますみさんから彼の遺稿が収録された本を出す準備をされていると教えていただいた。

 

(注)太田宏人さんについては
ペルーとの関係を含めてわかる晃輝和尚の
https://ameblo.jp/seiryo-koki/entry-12377528763.html

asunohaさん(僧侶)の

http://taka.hasunoha-blog.info/shinsai6year/

私が書いた太田さんの訃報

http://romagray.cocolog-nifty.com/himonya/2018/05/post-134c.html

私が書いた太田さんの葬儀の報告

http://romagray.cocolog-nifty.com/himonya/2018/05/post-10c5.html

 

村田ますみ編『海へ還るー海洋散骨の手引き』(啓文社書房)

である。

アマゾンで予約したが、それに先行して、贈呈いただいた。感謝!

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この本はいろいろな意味で学ぶところが多かった。
海洋散骨について論じる場合に、避けて通れない必読書であろう。
とても丁寧に作られている。

本書については追々書いていき、感想も書かせていただくが、まずは太田さんの遺稿について触れたい。
全体の1割、20ページ足らずであるが、この小論、太田さんらしいキラリと光るものがある。

太田宏人さんは第2章「宗教面から見た海洋散骨」について書いている。

海洋散骨(海上散骨)について、日本の既存の伝統宗教からは、懐疑的な声が聞こえます。しかしながら、この国には「海へ還る」「海で眠る」という伝統があったことは事実です。

 

そして太田さんは「海洋民族の記憶の古層」を指摘する。
太田さんが展開するように、「人種的にも、文化的にも、日本人のルーツは多様」であり、「いくつもの他界観」をもっている。


その一つが「山上他界」「海上他界」である。

四方を海で囲まれた島々から成る日本列島。

長い海岸線に囲まれ、島の多くは山岳地帯。

平野部に後に都市が建設されるが、私たちがかつて住んだ地域は、背後が山で海岸線に沿った集落か、山間にあって河川の傍の集落であるかが多い。

山間部では死者は近くの霊山の麓から「浄土」へ還っていくと考えられた。
海岸線では海岸の洞窟から死者は海の彼方にある「浄土」へ還っていくと考えられた。

宗教学者である山折哲雄が日本の地理から生まれた日本人の浄土観を描いている。
これが近世以前の日本人の「古層」の他界観であった。

 

太田さんは、「補陀落渡海(ふだらくとかい)」を紹介する。

 

仏教の浄土といえば、阿弥陀如来の住む西方浄土が有名です。もうひとつ、観音菩薩が住む、あるいは降り立つ山「補陀落」または「補陀落山」という浄土が、南の海上はるか彼方にあるとされました。

 

私は、太田さんが海上他界に着目したことに彼の豊かな宗教観を反映していると見る。

太田さんの小論は「仏式海洋散骨」はどうあったらいいか、について実践的に書くのであるが、その背後には彼の禅僧としての供養へのこだわりがある。

 

仏教が海の上での散骨そのものについて反対する根拠は、私は希薄だと思っています。散骨に反対する僧侶は、墓制度や、供養の場所として大切な機能をもつ墓の存在と相容れないためと考えているようです。しかし、墓制度そのものは明治以降も常に変化を続けています。また、散骨を選ぶ確たる理由がある場合、やみくもに反対するのは衆生救済、衆生の抜苦与楽(苦しみを抜き安楽を与えること、慈悲)を旨とする大乗仏教の実践者として、どうなのでしょうか。

 

僧侶に対して批判して傍観者になるのではなく、供養をしてほしいと願う人がいれば、参加して供養すべきではないか、と勧めている(もっと穏便にだが)。
そして極めて実践的に仏式の海洋散骨での法事のあり方を提示している。

 

どこでも苦あるところには馳せ参じた。

供養することに生命を削り、一介の聖(ひじり)たろうとした太田さんの姿がここでも見ることができるように思う。

 



 

 

2018年6月26日 (火)

葬儀の風景は一変したが 個々の生死の現実を突きつける―中外日報コラム④最終回

中外日報に4回にわたりコラムを掲載した。
今回は最終回。

1回は、
「孤独死」「無縁墓」 価値観伴った不当な言葉―中外日報コラム①

 http://romagray.cocolog-nifty.com/himonya/2018/06/post-5ece.html#_ga=2.10109173.1943673036.1528352822-775014334.1512971023

2回は、超高齢社会 「死」の観念、大きく変化中外日報コラム
http://romagray.cocolog-nifty.com/himonya/2018/06/post-ac5c.html

3回は都市化・過疎化と葬儀、墓—中外日報コラム③

http://romagray.cocolog-nifty.com/himonya/2018/06/post-ad89.html

 

葬儀の風景は一変したが 個々の生死の現実を突きつける

 

■葬送の変化の20

 

「葬送が変化した」と言われて20年が経過。
葬送が明確に「個人化」へ舵を切ったのが1995年。
阪神・淡路大震災が発生し、6千人を超える大量死を生んだ年であった。


1990
年前後から跡継ぎ不要の永代供養墓(合葬墓)散骨が話題となり、1999年には樹木葬が誕生。
今や「送骨」も現れた。


葬儀では1995年に「家族葬」という言葉が誕生。
2000
年には葬儀式を伴わない「直葬」が話題を集めた。

宮型霊柩車は姿を消し、葬儀は自宅から斎場(葬儀会館)へ場所を移動。

1990年頃は会葬者300人という葬儀もごく一般的であったが、今や3060人程度が最も多い。

 

■仏教各派の葬送儀礼に変化が見られない

 

こうして何もかも変化したように思えるが、仏教各派の葬儀儀礼の次第にはあまり変化が見られない。

禅宗のみならず各宗派の次第を見ると、「葬列」が行われていた時代痕跡を多くが残している。

しかし、おそらくほとんどの僧侶は葬列を知ることはない。

 

中には遺体安置から始まり、柩を前に読経し、棺を閉じて出棺し、葬列を組み、火葬の火を点火するまで、かつての葬儀プロセスが1時間の中に再現されているものがある。

おそらく葬儀の進行に合わせ、都度行われてきたものなのだろう。


しかし、今、かつての葬儀進行への知識も想像力も欠いたまま、「正しい儀礼」を踏襲している。

 

■儀式に現場感覚が失われている

 

儀式が本来もっていた具体性、現場感覚が失われてはいないか。葬儀は、固有の死に直面し、死者を葬り弔うという遺族や死者の仲間たちの悔恨、絶望、悲嘆等の心情の揺れのプロセスを背景としたものであったはずである。

 

例えば、引導の松明は火葬の点火の名残。

今導師は、その生々しい緊張感を保持して引導しているだろうか。

 

死者個々に向き合って行われただろうことを示すのが引導文、歎徳文、諷誦文と言われるもの。

定型文中の名を入れ替えただけのものになってはいないか。

 

■死、葬儀は、どこまでも個々の生死の現実を突きつける

 

「葬儀式は大切だ」と多くの僧侶は言うが、自分たちが営む儀礼にどこまで自覚的だろうか。

 

通夜と葬儀の意味の違いも知らず、遺族が式としての通夜を省くと「儀礼軽視」と難ずる。

そのくせ意味不明な「式中初七日」は簡単に受け入れる。

 

死、葬儀は、どこまでも個々の生死の現実を突きつける。

その場に立ち竦み悩む僧侶にこそ期待したい。



(補足)小型化は全国で起こっているが、東京では20人以下が多いという。
家族5人程度といったのも普通に見られるようだ。

個人化した今、人数が問題ではない。
それぞれで考え方、事情も異なるからだ。
問題は弔いの実質を持っているかだろう。

過去の高度経済成長期の葬儀、多数の会葬者を集めて行われたが、社会儀礼に偏し、弔いの実質が伴わない葬儀が少なくなかった。

中高年の僧侶と話していると、今の葬儀の変化を嘆いているが、それは高度経済成長期の葬儀に比べて、というのが多い。
ちょっとおかしい。

社会の背景も異なる。

しかし、過去のありようへの反省がなくては、今を批判するのはおかしいだろう。

2018年6月23日 (土)

都市化・過疎化と葬儀、墓ー中外日報コラム③

中外日報に4回にわたりコラムを掲載した。

1回は
「孤独死」「無縁墓」 価値観伴った不当な言葉―中外日報コラム①

http://romagray.cocolog-nifty.com/himonya/2018/06/post-5ece.html#_ga=2.10109173.1943673036.1528352822-775014334.1512971023

2回は超高齢社会 「死」の観念、大きく変化中外日報コラム
http://romagray.cocolog-nifty.com/himonya/2018/06/post-ac5c.html

そして、今回は3回目。
ちなみに中外日報では「
人口、地方から都市へ 墓じまいより放置墓深刻」と編集部がタイトルを付けた。

■都市化・過疎化と葬儀、墓

 

1950(昭和25)年時の日本の人口は郡部が8割、市部が2割。それが戦後高度経済成長で1955(昭和30)年に始まる戦後高度経済成長以降、人口大移動が発生。今や郡部2割、市部8割と逆転している
戦後日本はこれだけ大きな変化をしたのだ。
地域共同体が中心だった社会が個人化した。
多くのものが変化したし、人の死も葬送もまた大きく変化した。

 

人口分布が大きく変化したのに寺の分布は江戸時代より大きく変わっていない。

過疎地の寺院が残った高齢檀信徒の手では維持できなくなり、消滅が相次ぐのは社会の趨勢ではある。

 

問題の一つは、都市化した住民が大量の宗教的浮動層を生んだこと。

地方寺院と都市寺院を結ぶという点では教団はネットワークとしてまったくといっていいほど機能しなかった。
住民を送り出す側の地方寺院は、都市寺院に檀信徒を奪われるのを嫌って紹介しなかった。

(補記)もとより寺院だけに宗教的浮動層の大量発生の責を負わせることは不当である。
都市住民の足元が浮遊し、家族は核家族を中心とし、将来の単身化を生んだ。
テレビが普及し、情報が溢れる。
都市はたくさんの興味あるもので満ちていた。
経済的には総中流を生み、大量消費社会となる。
しかし、1990年代以降、個は孤に変じ、今や大格差社会となる。
宗教は懐かしさの対象であって、観光として魅力をもつが、人間の生死にあまり交差しない。
それこそ盆、彼岸、葬儀、法事でのみ頭を過(よぎ)るのだが、過らない人もまた多い。


都市寺院は、都市化の恩恵を受け、地方出身の住民の葬儀・法事で泡銭を獲得し、地方寺院の疲弊化と反対に富裕化。
だが、その住民を取り込み檀信徒化することには失敗した。
葬儀に対し、頼まれ仕事という意識で、死者、遺族に責任をもって取り組もうとする寺があまりに少数に留まった。

(補記)都市住民、特に地方から都市に来た新住民はそれなりの悩み、問題を抱えていたのだが、それに対応したのは創価学会、立正佼成会、霊友会等の新宗教。
既成宗教は軒並み新住民の取り込みに失敗する。


その間隙を今ネット企業が僧侶派遣事業で攻める。
派遣要員となったのは地方、都市を問わず寺院格差により食えなくなった僧侶たち、2世僧侶たちだ。

都市寺院は、僧侶派遣を自分たちに入ってくるはずの収入を横取りするものとして敵対視。
だが、葬儀だけを頼む宗教的浮動層からは、都市寺院僧侶の「やってやる」とばかりの尊大さが人気を低くし、「お客様サービス」として評価を受ける派遣僧侶がむしろ相対的に高く評価される傾向にある。

(補記)僧侶個人の資質により大きく異なる。
今は、若い僧侶を中心に、身を低くして接する、誠実な僧侶が増えていることは確かだ。
しかし、総じて大きな名門寺院の僧侶ほど、偉そうな顔して、自分たちが上席に座るのは当然、敬語で話しかけられて当たり前、と思っているのが多い、と思うのは偏見だろうか?
自分に能力がないのを知っているから、上から目線でしか接しようとしないのか?


無論、僧侶派遣事業は宗教収奪であり、正当性はない。
だがそれに対抗すべき寺院側にも宗教性が欠ける点が問題を深刻にしている。


今、NHKが若手のディレクターが中心になり「墓じまい」を煽る。
地方等の家墓を整理し、都市周辺の承継を必要としない永代供養墓(合葬墓、合同墓)へ改葬することだ。
90
年代は「お墓の引っ越し」と言われ、今は「墓じまい」

(補記)確かに住居を地方から都市に移し、もう地方に戻る意思がない者は多く、高齢になれば墓参も大変になる。
地方に親や親戚がいたときはともかく、帰っても実家もない、あっても地元に残る親戚とは疎遠。
子がない人も多い。
子がいても、その子に子がいない例は多い。
継承されるべき家(イエ)がない人は多い。
だが、墓は何とかしなくちゃいけない、と念慮しなくてはならない存在としてあるのか?

 

騒がれてはいるが、はたして「墓じまい」は増加しているのだろうか?

改葬数を見ると1998年7万件、20068.9万件、2014年8.4万件、最新の2016年は9.7万件。

確かに増加はしている。
だがもてはやすほどではない。


他方、確実に増加していると思われるのが地方郡部の放置墓。
2~3割に及ぶ。
墳墓総数を少なめに1千万基と推定、1割としても放置墓は100万基となる計算になる。

(補記)日本人は「先祖」を大切にする、と言われる。
先祖祭祀の事例は多い。

しかし、「墓」ということが大衆に定着してくるのは室町末期の戦国時代以降のこと。

江戸時代に入り、大名、旗本、上流武士、豪農、豪商といった守るべきものがある人たちは、生活の起源となった人を崇拝し、それを祀ることで家のアイデンティティを確保したであろう。

だが名もなき大衆はどうだったのか?
せいぜいが生を共にした両親、祖父母までであり、それは「祖先祭祀」というよりも「死者祭祀」ではなかったか?

一つの墓石に同じ家の死者の遺骨を納める「家墓」。
まず火葬でなければ同じ場所に納骨(法律的には「埋蔵」)できない。
火葬率が高かったのは江戸、大坂等の大都市、地方では浄土真宗の門徒の勢力が強かった北陸地域等。
1896
(明治29)年の調査で火葬率は3割以下(26.8%)であるから、一般的ではあり得ない。

 

江戸時代に一つの墓石に複数の遺骨が納められた事例はあるようだが、家族全員代々となると、よほどではないか。

私の母方の家は大名の家老職であった。
今でも寺の墓地の一角に代々の墓石が広く置かれているが、祖父母までは個人墓である。
叔父が「こんなことは続けられない」と家墓を造り、今では叔父と昨年死んだ叔母が一緒に入っている。

私の父方は関東の大名で「取り立て家老」というのだろうか、代々ではなく、家老になったこともある家であった。

参勤交代があるので、東京と地方に墓はあったようだ。
東京では宗派の異なる複数の墓があったらしい。
というのは、明治で陸軍の将軍になった曽祖父の巨大な墓(隣に妻の墓、一角に息子の墓)があり、私が管理しているのだが、大出世した曽祖父以前の墓の記録がないのだ。
曽祖父が新たに求めた寺は元々の檀那寺とは異なる。
大成功した曽祖父は、それ以前の父母、祖父母等の墓を捨てた。

私の双系は江戸期までは上流武士である。
しかし、そんなものだ。

 

火葬が急速に進捗するのは明治末期以降。
コレラが大流行し、伝染病予防法が制定され、明治政府は公衆衛生の観点で土葬から火葬へ舵を切った。
「家」が単位となったのは1898(明治31)年公布の明治民法が家制度を強調した影響が大きい。

といっても急に火葬率が増えたわけではない。
第二次大戦の直前、1940(昭和15)年に火葬率はようやく5割になった。
昭和の初期に「〇〇家」の墓は大流行するのだが、大都市や火葬が進んでいた地域でのこと。

戦後になり、国が融資制度を設け、地方自治体に火葬場建設を奨励した。
この結果、196063.1%、196571.8%、197079.2%、197586.5%、198091.1%、198594.5%、199097.1%、199598.3%、200099.1%、201099.9%、2015年には統計上100%の99.99%と火葬率は急上昇。
土葬はまれになった。

大人口移動で都市に来た人たちが、都市近郊に墓を求める「墓ブーム」が到来するのは1970年代のこと。
家族形態は戦後民法の基礎、世帯である核家族。
都市周辺は火葬がすでに一般的。
新しい墓地許可条件は「焼骨の埋蔵に限る」と条件づけられた。
時代は総中流。
墓石もブランド物が選ばれる。

古いと思われる「家墓」が一般化したのは戦後、70年代、80年代のこと。
そこで言われた「家」はもはや明治民法下の「家(イエ)」ではなく「世帯」であった。

世帯単位であれば、継承が困難になるのは目に見えている。
今では一般世帯の3分の1(全世帯の4分の1)が一人世帯。
今後は継承を必ずしも前提としないシステムでなければ墓は行き詰る。

近年の東京、大阪に出現しているビル型「大納骨堂」「室内墓地(霊廟)」と称されるもの(墓地埋葬法上は「納骨堂」)。
墓参りに便利、無縁にならない、が売り。

でも、少し危険。
建物、骨壺を自動移送するシステム(倉庫システムの応用にすぎない)、いずれも将来はメンテナンスを必要とする。
納骨堂は「死者の安寧」の観点から維持されるべきである。
売ったお金の一部は常に基金として保全し、将来の用途に備える必要があるが、事業主体である寺院がどれだけ基金化しているだろうか?

すでにいくつか経営困難になり、事実上「売り」に出され、経営母体が変更している事例がある。
経営実態の公開は必要である。



沖縄 「慰霊の日」

戦後73年の「慰霊の日」を迎えた23日、県内各地で20万人を超える沖縄戦の犠牲者を追悼する催しが営まれ、不戦と恒久平和を誓う祈りに包まれた。

 沖縄戦最後の激戦地となった糸満市摩文仁の平和祈念公園内にある「平和の礎」や、同市米須の「魂魄(こんぱく)の塔」には、朝早くから多くの戦争体験者や遺族、関係者らが訪れた。亡き家族や友人の思い出、凄惨な戦場の記憶を呼び覚まし目を潤ませながら鎮魂の祈りをささげる高齢者が子や孫らとともに線香や花を手向けた。悲惨な体験を後世に語り継ごうとする家族連れの様子もみられた。

 同公園では、午前11時50分から沖縄全戦没者追悼式(主催・県、県議会)が執り行われ、正午の時報に合わせて黙とうした。翁長雄志知事は平和宣言で、平和を希求する沖縄の心を発信。(沖縄タイムズ 2018623日)
http://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/271920

 

194541日の米軍上陸から623日の牛島司令官の自決に至る3か月間、沖縄戦では激しい壮絶、凄絶な地上戦が米軍との間に展開され、軍人以外にも多くの住民が犠牲となった。20万人以上が死亡したと記録されている。

戦後、沖縄は1972年まで米国統治下に置かれ、今なお米軍の専用施設の70.3%が沖縄に集中している。

琉球侵攻、沖縄戦、沖縄米軍基地…日本にいる者としては、犠牲、差別を沖縄に強いたし、今も強いていることを常に心しておくべきことであると思う。

2018年6月14日 (木)

藤井正雄先生のこと

宗教学者、大正大学名誉教授である藤井正雄先生(1934年生まれ)が69日にお亡くなりになった。83歳。

浄土宗僧侶(お父上は浄土宗門主、知恩院85世、増上寺84世の藤井實應師)。
仏教と民俗の関係についての研究の第一人者である。
「仏教の民俗化、民俗の仏教化」は名言。
1990
年以降は生命倫理に強い関心をもたれ、京大再生医学研究所倫理委員会委員、日本生命倫理学会会長も歴任された。
若い頃、当時気鋭だった学者仲間には奈良康明、佐々木宏幹、山折哲雄、伊藤唯真氏らがいる。

私の関心から言えば、先生は葬送と仏教の関係について、最初にトータルに教授してくださった方。
雑誌の顧問として多くの学者、宗教者をご紹介くださり、座談会への参加、連載のご執筆…と、四半世紀にわたりご指導、ご協力いただいた。

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雑誌『SOGI』創刊号(1991.1)に誌上特別講義を行ってくださったうちの冒頭の2ページ。
この時に私が取材し、記事をまとめたのを評価していただいて以降四半世紀以上お付き合いいただいた。


雑誌の編集には多くの方からご協力をいただいたが、その筆頭は藤井先生であった。

私が何がしか葬送と仏教について語れるのは藤井先生あってのこと。
ご自宅にもおうかがいしたし、先生が用事の途中で事務所に来られたことも多い。

主著は博士論文『祖先祭祀の儀礼構造と民俗』


1990
年の対談集『葬儀を考える』はとかく葬儀に対して理論的に斜に構えていた仏教界に、葬儀というテーマを提起した画期的な本である。
藤井正雄先生と伊藤唯真先生(当時:仏教大学教授、現:浄土宗門主)が1997年に編まれた『葬祭仏教 その歴史と現代的課題』は、浄土宗の立場からであったが、教義仏教と生活仏教に分立並行していた仏教界に寺という基盤に立って日本仏教を見直すことを促す最初期のものであった。

貴重な辞典・事典も編集された。

『仏教儀礼辞典』『葬儀大事典』

遺骨、墓についても広く説明、問題提起した

『骨のフォークロワ』『お墓のすべてがわかる本』
は今読んでもおもしろい。
晩年も新しい動きには関心をもたれ、散骨、永代供養墓、樹木葬については直接お会いし、電話などでずいぶんと意見交換したものだ。

啓蒙書も多く出されているが
『仏事の基礎知識』は出色である。

訃報が入り、奥様とお話をさせていただいたが、5年前より病み、昨年秋以降は、自宅での看護が困難となり入院され、最期は心臓が弱くなられたとのこと。

通夜は61718時から
ご葬儀は61813時から
いずれも増上寺光摂殿講堂にて行われる。
供花等は下記にお問い合わせください。

㈱牧野総本店 電話03-3445-0506 FAX 03-3445-0508

以上、藤井正雄先生に心からなる感謝を表し、報告させていただきます。

 

2018年6月 7日 (木)

超高齢社会 「死」の観念、大きく変化-中外日報コラム②

「孤独死」「無縁墓」は再考を―中外日報コラム①

http://romagray.cocolog-nifty.com/himonya/2018/06/post-5ece.html#_ga=2.10109173.1943673036.1528352822-775014334.1512971023

 

超高齢社会 「死」の観念、大きく変化―中外日報コラム②

「平成29年版高齢社会白書」によれば、2016年の日本の総人口1億2693万人に対し、65歳以上人口は3459万人となり、高齢化率は27・3%。
指標では21%以上は「超高齢社会」であり、日本では10年にすでに突入している。

 

問題は「現役世代」(15歳~64歳)の比率の低下である。
戦後高度経済成長期の初期である55年には1人の高齢者を11・2人で支えていたのが、15年には2・3人で支えるまでになった。

これでは年金その他社会保障が財政的にもたないと今「高齢者」の定義を70歳さらには75歳に引き上げる検討が開始されている。

 

「後期高齢者」の75歳以上人口は1691万人、総人口の13・3%だが、日本の将来推計人口(平成29年推計)」では、35年には2151万人、総人口の18・7%と推計されている。

 

「平成28年簡易生命表」によれば、生命表上で出生者のうちちょうど半数が生存すると期待される年数である「寿命中位数」は、1955年に男70年、女74年であったのが、2016年には男84年、女90年と著しく伸長し、「人生90年」時代に突入。

 といっても、すべてが長生きするわけではないのはもちろんのことだ。

 

「平均余命」は、55年には65歳時、男性12年、女14年だったのが、16年には男20年、女24年となった。
つまり、男性77歳、女性79歳だったのが、男性85歳、女性89歳に伸びたのである。

 

死の個人化と超高齢化により、「死」という観念が大きく変化している。

 

20年前頃から葬儀で「長寿をまっとうした」という言葉を耳にしなくなった。

かつては80歳以上で亡くなると「長寿」と言った。

昭和前期である1930年当時は、80歳以上で死亡した者の全死亡に対する割合は5%程度。

したがって80歳以上で亡くなる人は珍しく、その人たちの葬儀は、長寿にあやかろうとする人々が集まり、寿ぎ、祝うかのようだったという。

 

だが今は80歳以上での死亡者数の割合は6割を超え、あたりまえのもの。

90、100と長寿化するに従い、葬儀の会葬者は減る。

葬儀で悲しむ者がいないわけではないが少数化し、淡々と営まれる傾向にある。

ある僧侶は「今の葬儀では、遺族も、会葬者も、そして僧侶も緊張感に欠ける傾向にある」と語る。

 

超高齢化に反比例して、どうも「長生き」願望が低下しているように思える。

4060代の人たちと話すと、本音として「70代までの死」が願望されるようになっているように思えるのだ。

それは80を超すと認知症リスクが急激に高まる等、要介護期間が長期化している等の現実を目撃しているからだ。

【以下、追加】


80
代以上の人間にしても、死は選べないのだから、好き好んで長生きしているわけではない。

 

自分が70の大台を超えて思うのは、かねてから社会通念としてある「死が怖い」という実感がないのだ。

仲間は、少ないものの早いので10代、20代で死に、30代の後半からがんで死亡する者が増加してきた。

40代、がんで死亡した者は「なんでオレが死ななきゃならないのだ!」と最期まで怒り狂っていた。
60
代ですでにバスケットボールの仲間5人中3人が欠けた。

この世に残された者としては、いずれ自分が死ぬのはごく自明のこと、という想いだ。


「死が怖い、はあたりまえ」と言われるが、それ自体が、死に晒されて生きていた前時代までの産物かもしれない。

もとより年齢に無関係に死はいつでも介入する、という事実に変わりはないし、私はそれをいやというほど経験を強いられてきた。

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