社会

2017年3月26日 (日)

公取「葬儀取引実態調査報告書」公表―葬祭業の実態、課題が明らかに①下請法違反

公正取引委員会は(2017年)3月22日報道発表資料を公表した。

「(平成29年3月22日)ブライダルの取引に関する実態調査報告書」
http://www.jftc.go.jp/houdou/pressrelease/h29/mar/170322_1.html
「(平成29年3月22日)葬儀の取引に関する実態調査報告書」
http://www.jftc.go.jp/houdou/pressrelease/h29/mar/170322_2.html

この2つの報告書が同日に発表されたのは偶然ではない。この同一調査をブライダル業、葬儀業に分けて報告書として作成したものだからである。

「葬儀業とブライダル業を併せて営んでいる事業者も存在することから,葬儀業又はブライダル業を営んでいると思われる事業者を対象として調査票3,500通を送付するとともに,当該事業者のうち葬儀業又はブライダル業を営んでいると回答した事業者(以下,それぞれ,「葬儀業者」,「ブライダル業者」という。)から報告のあった取引先納入 業者を対象として調査票7,000通を送付し,書面調査を実施した。 」

加えて「書面調査における回答者を含め,ブライダル業者4名及び納入業者24名を対象にヒアリングを実施した」(ブライダル業調査)、「書面調査における回答者を含め,葬儀業者4名及び納入業者33名並びに関係事業者団体1名を対象にヒアリングを実施した」(葬儀業調査)とある。

この調査目的は
「公正取引委員会は,独占禁止法上の優越的地位の濫用規制及び下請法に基づき,納入業者に不当に不利益を与える行為に対し厳正に対処するとともに,違反行為の未然防止に係る取組を行っている。また,この未然防止の取組の一環として,公正取委員会は,優越的地位の濫用規制上又は下請法上問題となり得る事例が見受けられる取引分野について, 取引の実態を把握するための調査を実施している。」
とある。

その動機となったのが「葬儀の分野においては,平成28年に冠婚葬祭業者に対して下請法に基づく勧告が行われるなど,これまでも,優越的地位の濫用規制上又は下請法上問題となる行為がみられてきたところである」として報告書が事例をあげているのは「(平成28年6月14日)株式会社日本セレモニーに対する勧告等について」である。
http://www.jftc.go.jp/houdou/pressrelease/h28/jun/160614_1.html

本件は「ア 結婚式の施行に係るビデオの制作 イ 冠婚葬祭式の施行に係る司会進行,美容着付け,音響操作等の実施を個人である事業者又は資本金の額が5千万円以下の法人である事業者」に対して
「ア 本件下請事業者の給付の内容と直接関係ないにもかかわらず,本件下請事業者に対し,前記(1)の下請取引に係る交渉等を行っている冠婚葬祭式場の支配人又は発注担当者から,おせち料理,ディナーショーチケット等の物品(以下「おせち料理等」という。)の購入を要請し,あらかじめ従業員又は冠婚葬祭式場等ごとに定めていた販売目標数量に達していない場合には再度要請するなどして,購入要請を行っていた。
イ 本件下請事業者(144名)は,前記アの要請を受け入れて,おせち料理等を購入した(総額3302万1500円)
なお「本件下請事業者は,おせち料理等の購入に当たって,日本セレモニーの指定する金融機関口座に購入代金を振り込むための振込手数料を負担していた」
とされる件。

公取は、同社の行為が下請法第4条第1項第6号の規定に違反するものとして、同社に以下の勧告を出した。

「本件下請事業者が購入したおせち料理等の購入金額から当該おせち料理等の飲食物に係る仕入原価相当額を控除した金額及びおせち料理等の購入に当たって本件下請事業者が負担した振込手数料を速やかに支払うこと。」
「取締役会の決議により確認すること。
ア 前記2(2)の行為が下請法第4条第1項第6号の規定に違反するものであること。
イ 今後,下請事業者の給付の内容を均質にし又はその改善を図るため必要がある場合その他正当な理由がある場合を除き,下請事業者に対し,自己の指定する物を強制して購入させ,又は役務を強制して利用させないこと。」
参照:株式会社日本セレモニーに対する勧告等について
http://www.jftc.go.jp/houdou/pressrelease/h28/jun/160614_1.files/160614.pdf

ブライダル業者において優先的地位濫用規制上問題となる取引状況

「(平成29年3月22日)ブライダルの取引に関する実態調査報告書」でブライダル業を営むと回答のあった255業者、ブライダル業者と取引があるとの納入業者の回答数 1,157を対象。
※数は取引数(%は取引数/回答のあった納入業者の総数)

①商品・サービスの購入・利用の要請 278(24.0%)
②金銭・物品の提供の要請 194(16.8%)
③採算確保が困難な取引(買いたたき) 142(12.3%)
④発注内容の変更(受領拒否を含む。) 94(8.1%)
⑤やり直し 77(6.7%)
⑥従業員等の派遣の要請 77(6.7%)
⑦返品 43(5.1%)
⑧発注内容以外の作業等 56(4.8%)
⑨代金の減額 28(2.4%)
⑩代金の支払遅延 22(1.9%)
合計(上記行為が1つ以上見られた取引数) 435(37.6%)

納入業者から,ブライダル業者から優越的地位の濫用規制上問題となり得る行為を1つ以上受け たと回答のあった取引は37.6%(435取引)。
資本金区分から下請法の適用対象となり得るのは,435取引のうち,90取引。

注:資本金区分とは公取「下請法の概要」によると以下のとおり。

(1)物品の製造・修理委託及び政令で定める情報成果物・役務提供委託を行う場合

(1)物品の製造・修理委託及び政令で定める情報成果物・役務提供委託を行う場合の模式図

(2)情報成果物作成・役務提供委託を行う場合((1)の情報成果物・役務提供委託を除く。)

(2)情報成果物作成・役務提供委託を行う場合((1)の情報成果物・役務提供委託を除く。)の模式図

この実態調査を受けて公取は「本調査の結果,ブライダルに関する一部の取引において,ブライダル業者に よる優越的地位の濫用規制上又は下請法上問題となり得る行為が行われてい る状況が認められた」と結論づけた。


葬祭業者において 優越的地位の濫用規制上問題となり得る行為がみられた取引の状況(行為類型別)

「(平成29年3月22日)葬儀の取引に関する実態調査報告書」で明らかにされた問題ある取引状況(葬儀業を営むと回答のあった696業者、葬儀業者と取引があるとの納入業者の回答数 1,451)
※数は取引数(%は取引数/回答のあった納入業者の総数)

①商品・サービスの購入・利用の要請 216(14.9%)
②採算確保が困難な取引(買いたたき) 166(11.4%)
③金銭・物品の提供の要請131(9.0%)
④発注内容の変更(受領拒否を含む。) 110(7.6%)
⑤返品 71(6.4%)
⑥発注内容以外の作業等 74(5.1%)
⑦従業員等の派遣の要請 67(4.6%)
⑧やり直し 60(4.1%)
⑨代金の支払遅延 35(2.4%)
⑩代金の減額 28(1.9%)
合計(上記行為が1つ以上見られた取引数) 434(29.9%)

納入業者から,葬儀業者から優越的地位の濫用規制上問題となり得る行為を1つ以上受けたと回 答のあった取引は29.9%(434取引)。 資本金区分から下請法の適用対象となり得るのは,434取引のうち,101取引。

【納入業者からの具体的回答事例】
① 商品・サービスの購入・利用の要請 イベントのチケットやおせち料理の購入,互助会への入会など,様々な要請がある。葬儀業者側では 取引先の納入業者の購入実績や入会実績を記録しており,実績が少ないと取引を減らされるため,不 要なものでも要請に応じるしかない。
② 採算確保が困難な取引(買いたたき) 葬儀業者が消費者向け価格として設定した価格の75パーセントを納入価格とする契約で取引を始め たのだが,一方的に消費者向け価格として設定した価格の45パーセントにまで下げられてしまった。当 該葬儀業者に対する売上高は,当社の年間総売上高の半分以上を占めており,今後の取引を考えると 仕方なく受け入れている。
③ 金銭・物品の提供の要請 葬儀業者が主催するイベントにおけるゲームの景品として,数万円分のフラワーアレンジメントの提供 の要請がある。イベントにフラワーアレンジメントを提供しても直接当社の売上げにつながることはない。 無償のため,当社にとって負担になるが,今後の取引を考えると要請に応じざるを得ない。
④ 返品 通夜・告別式の後,返礼用の海苔の一部を,自宅への弔問客用にということで,施主の自宅に届ける ことがある。遅い場合,3か月以上も経ってから届けた返礼用の海苔が葬儀業者を通じて返品されるこ とがある。返品された返礼用の海苔は風味が落ち贈答用としては使用できず,処分するしかないが,葬 儀業者は代金を支払ってくれない。
⑤ 発注内容以外の作業等 当社が仕出料理を葬儀場に届けた際や食器を引き取りに行った際,当社に関係するゴミだけでなく, 葬儀業者のゴミの処分までさせられる。この業界では,葬儀業者のゴミを仕出料理業者が処分すること が半ば当たり前のようになってしまっており,あまり疑問を持っていなかったが,よくよく考えるとおかしな 話である。ただ,他の仕出料理業者も同様のことを行っているため,取引継続のことを考えると当社の みがやらないということはできない。

仕出料理,花,返礼品・ギフトの取引において優越的地位の濫用規制上問題となり得る行為がみられた取引の割合が30%を超えており,他の取引内容に比べ高くなっていた。

下請とのブライダル、葬儀取引において問題があるのはかねてより指摘されてきたことである。
指摘された問題点は今始まったことではない。
過去から続く闇の部分が改めて問われた。
しかし、改善は迫られていると言えよう。
総じて葬儀業よりもブライダル業に問題が多い。
また、いずれにしても2005年段階よりは改善されている。
よりいっそう速度をはやめた改善が求めれている。
この課題の一掃は葬儀業、互助会に今突きつけられている。

 



2017年2月14日 (火)

子どもの貧困

子どもの貧困は日本の未来を決する問題だけではなく、子ども一人ひとりの人権に関する問題だと思う。

3keysによれば
http://3keys.jp/state/

OECDによると2005年の日本の子どもの貧困率は14.3%となっており、約6人に1人が貧困状態と言われています(2009年の厚生労働省調査によるとは15.7%)。
子どもの貧困とは、等価可処分所得の中央値の50%以下の所得で暮らす相対的貧困の17歳以下の子どもの存在及び生活状況を言い、一般的な水準の半分にも満たない水準で暮らしている子どもたちがどれだけいるのかということを指しています。

つまり社会がますます豊かになり、一般的な水準が上がっていくのに対して、その水準から落ちこぼれてしまっている子どもたちが、実に6人に1人の割合がいるということになります。
このような日本における貧困率は下図のようにOECD平均値を超えており、世界水準でみたら高い水準であることがわかります。

さらに母子世帯においては、66%が貧困となっており、地域のつながりの希薄化や離婚・核家族化等による支え合いの減少が貧困に強く結びついていることや、ひとり親家庭等に対しての社会保障が十分に追いついていない現状も窺えます。

そして

子どもたちは生まれた環境の経済的状況や、余裕等によってこれからの社会を生き抜いていく上で必要とされているあらゆる力が身につけられなくなってしまっているのが現状です。

さらにそのような力が身につかないことによって自分自身を責めたり、自信や意欲をもなくしていく、意欲や希望の格差にもつながりかねません。

日本では児童憲章によってすべての子どもたちに以下の権利があると定められていますが、実態としては環境によってそれが十分に保障されていないのです。

と指摘する。

親の責任に帰すこともできない。さらには次世代にも問題は引き継がれるリスクが高い。

これらの問題は何世代かにわたって引き継がれてきた根深い問題であり、それに対して社会に十分がサポートがないという社会の在り方の問題として考えていかなければいけません。親が生活保護を受給していた場合、その子どもが母親になった場合に生活保護を受ける確率は一般の約10倍近く、貧困率も3倍程度になります。その他でも親の離婚歴や、親からのDV歴等が、貧困状況に影響している


貧困の連鎖は深刻な問題である。

朝日新聞特集「子どもと貧困」では次のように報じている。
http://digital.asahi.com/articles/ASJBD638ZJBDPTIL022.html

困窮世帯の高校中退率が高いと貧困が連鎖しやすいとして、国は「子どもの貧困対策大綱」などで中退防止を掲げる。

 文部科学省厚生労働省によると、2014年度の高校中退者数は5万3391人で中退率は1・5%。生活保護世帯の中退者数は2323人で中退率4・5%。全世帯平均の3倍だ。

 20代への国の調査結果(12年)を労働政策研究・研修機構が分析したところ、失業率は高卒6・1%に対し高校中退者は14・6%。正社員の割合は高卒44・3%に対し、中退者は21・6%だった。
困窮世帯の高校中退率が高いと貧困が連鎖しやすいとして、国は「子どもの貧困対策大綱」などで中退防止を掲げる。

 文部科学省厚生労働省によると、2014年度の高校中退者数は5万3391人で中退率は1・5%。生活保護世帯の中退者数は2323人で中退率4・5%。全世帯平均の3倍だ。

 20代への国の調査結果(12年)を労働政策研究・研修機構が分析したところ、失業率は高卒6・1%に対し高校中退者は14・6%。正社員の割合は高卒44・3%に対し、中退者は21・6%だった。

記事では、慶応大の中室牧子准教授の話を紹介している。

高校中退で十分な技術や知識が身につかなければ、リーマン・ショックのような予期せぬ事態でリストラなどの困難に陥りやすい。高卒や大卒者との生涯収入の差も出てくる。家庭を持っても、生活が不安定で子どもの教育にお金をかけられず貧困の連鎖が起きうる。問題を放置することの社会的コストは大きい。

NHKスペシャル2月12日放映「見えない貧困~未来を奪われる子どもたち~」
http://www6.nhk.or.jp/special/detail/index.html?aid=20170212
はかつて「無縁社会」に取り組んだスタッフたちの継続的取り組みによる労作であった。

6人に1人の子どもが相対的貧困状態に置かれている日本。そ
の対策は喫緊の課題とされながら有効な手立てを打てていない。
そうした中、東京、大阪などの自治体や国が初めて大規模調査を実施。
世帯収入だけでは見えない貧困の実態を可視化し、対策につなげようとしている。
調査から貧困を見えにくくしていた要因も浮かび上がりつつある。
1つ目は、ファストファッションや格安スマホなど物質的な豊かさによって粉飾されること。
2つ目は高校生のアルバイトなど子ども達が家計の支え手になっていること。
3つ目は、本人が貧困を隠すために、教師や周囲の大人が気づきにくいことだ。
こうした状況を放置すれば、将来の社会的損失は40兆円に上るという試算もある。
進学率の低迷、生活保護や社会保障費の増加など、社会全体のリスクとして捉えるべきと専門家も指摘している。
相対的貧困に直面する子どもたちの実態ルポとデータ解析で可視化し、専門家の提言も交え、「見えない貧困」を克服する道筋を明らかにしていく。


「将来の社会的損失は40兆円」という数字にも驚かされるが、そうした規模で子どもの人権が侵害され、侵害されるリスクを抱えていることには真剣に向き合う必要があると思う。

2017年2月13日 (月)

超高齢者には「終活」の準備は無理だ では?

『月刊エルダリープレス シニアライフ版』2017年3月号に

「‘ヘルプ信号‘早急に 周囲の支援受け生活継続」という記事が掲載された。
Photo_2


この原稿は「終活」といっても実際に準備しているのはわずか、という状況を踏まえてのものである。


以下、元原稿

困ったら早くヘルプ信号を出す。子や行政に甘えていい

――「終活」がブームになったのはいつからですか?

「終活」という言葉は、2009年「週刊朝日」による造語です。2012年にユーキャン新語・流行語のトップテンに選ばれ、あっという間に市民権を得ました。
――どうして火がついたのでしょうか?

 かつては「人生60年」と言われて生活設計もそれが前提になっていた。ところが今は男性が80年、女性が90年と超高齢社会になり、社会にひずみが出てきました。「長寿」そのものはいいことです。しかし、それを支える基盤が社会にも家族にもなくなりました。長くなった20~30年の生活設計ができない、という問題に直面することになりました。
――その一つは経済不安?

 今の高齢者で最も多いのは夫婦2人世帯。戦後は核家族ですから子どもが育って独立していくと夫婦だけの世帯になる。今の高齢者は優しいですから、できるだけ子どもに迷惑をかけないで、夫婦だけでやっていこうとする。例えば夫が70歳で死亡する。残された妻は自分が残りどれだけ生きるかわからない。10年なのか、20年なのか、30年なのかわからない。どれだけのお金があったら充分かめどが立たない。かつては高齢者ほど資産があって裕福でしたが、格差が広がり、今の80代より下はむしろ資産をもたない貧しい高齢者が多くなっています。「長寿」といっても80代以降は急激に認知症が増えるし、大病して身体の自由が失われる危険は高まる。「要介護」になるリスクが高まります。「高齢者の単独世帯も約25%。「おひとりさまの死」も他人事ではない。

――「老老介護」も増えていますね。

夫婦ともに75歳を超えて、配偶者が要介護になると、残った者も高齢ですから体力的に大変です。共倒れの危険もある。今は「認認介護」という言葉も出てきました。夫婦共に認知症。こうなると生活が成り立たなくなります。

――死後の不安もあります。

 配偶者の死ということは精神的にも大きな問題ですから、残った人が葬式の手配やら、死後のさまざまな事務処理など自分だけでは充分にやれるわけがありません。

 私は、自力での生活が困難になったら、周囲に「ヘルプ信号」をできるだけ早く出すように、と言っています。子どもや行政に遠慮せず出す。自分たちだけでやろうとするな、と言っています。周囲も、より注意深く配慮する必要があります。

 




「elderlypress201703.docx」をダウンロード

2017年1月31日 (火)

へぇ、多死社会ってもうかる社会なんだ!?

いまは通勤時間がないから、朝日新聞の朝刊をゆっくり読み、ネットで毎日等各新聞や各媒体に目を通す。

朝日新聞朝刊
福島第一2号機、原子炉直下に黒い塊 事故の溶解燃料か
http://www.asahi.com/articles/ASK1Z4D49K1ZULBJ005.html
には福島原発問題の先行きの見えない闇を感じる。

あまり関心がなく素通りしてしまいがちな
日経新聞1月30日
大和、中田副社長の社長昇格を発表 日比野社長は会長に
   
http://www.nikkei.com/article/DGXLASFL30HPP_Q7A130C1000000/
これを朝日新聞1月31日朝刊では
メガバンク系攻勢、「独立系」は正念場 大和証券グループ本社社長に中田氏
http://digital.asahi.com/articles/DA3S12773100.html
と報じている。
その中にこう書いてあった。

中田氏は、法人部門の経験が長く、現在は個人営業部門のトップ。高齢化が進む中、相続資産などの運用のニーズをつかむため営業を強化する。「年間50兆と言われる大相続時代。主戦場は国内だ」という。

資産0の人間はほんとうに疎(うと)かった!

「終活」でも遺産相続がなぜ活況なのか?
行政書士、司法書士、弁護士が遺言、相続を手に「終活」にかくも熱心に群がるのか?

底辺しか見ていないと、

相続が争族になるのは金持ちだけではない。

という問題だけしか見ていなかった。

「格差社会」という現実は見てきたつもりだった。
かつて社会で相対的に「富裕」と言われた高齢者世代が貧困化に向かっている。
そこでさまざまな問題が出ている。
若年者の貧困化も進んでいる。
子どもの貧困化も大きな問題だ。

しかし、金持っている奴はこんなにいるんだ!

調査をしていた時、信託銀行は既に富裕層を握っていて、いわゆる大衆の信託にはリスクが大きい、効率的でないと冷たい視線でいたことを思い起こす。
超高齢社会を迎えた日本。
「一握り」に過ぎない富裕層の資産はべらぼーなんだ!

彼らにとって

「多死社会」というのは儲かる社会のことなのだ!

葬祭業界なんて、これに比べればかわいいものだ。
せいぜいが1兆5千億円の総市場。

小型化傾向が進み、売上単価は顕著に低くなり(事業者に差があるが)、死亡者数が増加しても総売上の減少傾向がとまらない。
あげく件数は増加しているから手間がかかるので従業員は増えている。
しかし正社員は増えず、非正規ばかりが増える。
しかも低賃金化が進む。
葬祭企業でブラック企業問題が騒がれるのも時間の問題だ。

横道につい逸れた。

資産がこれだけ多く、一方で貧困化が言われているのに、しかも増加傾向にある!

同記事に

各社の力量を測る「預かり資産」をみると、2016年9月時点で野村は99兆円、大和は49兆円、SMBC日興は45兆円。この3年間の増減率をみると、野村は9%増、SMBC日興は22%増三菱UFJは16%増、みずほは5%増。大和はそれよりも低い3%増にとどまった。

そうか、と考え日経やらを検索してみると、
各社預かり資産を増やし、運用益を上げようと必死だ。

「終活」に群がっているのは「心優しい」人間、企業ばかりではないのだ。
(もとより心優しい人間も企業もいる!)

しかし、心優しくない彼らは、これから深刻化する多くの貧困化なんて関心ではないのだ。
「持っている」人間の取り合いなのだ。

多死社会というのは資産の奪い合いが激烈化する市場でもあるということだ。

これが「終活」の裏にうごめく一つの現実か、と思うと、ゾッとする。

2017年1月25日 (水)

子連れ無理心中―個から見た死と葬送(16)

子連れ無理心中

こういうニュースがいちばん怖い。
しかも記事はいつも中途半端だ。
そこに至った経緯を想像しようとしても何も見えてこない。


でもそのニュース記事を書いた当の記者にもそれ以上は書けなかったのだろう。
警察が発表した以上の情報はないのだろう。

おそらくそれを探ったならば、1日はもとより数日でも済まないだろう。
半年あってもその真実はわからないだろう。
また、仮にわかったとしても、それを明らかにすることは死者に対してどうなのだろう。
多くの者が傷つくだろう。
しかし、そこにはもしかしたら、第三者としてではなく、明らかにすべきものがあるかもしれない。
記者は自問するだろう。

見出しが扇情的であるのは、
「自分が書かなくとも他社は書く。ならば書くしかない」
と言い訳のようにも感じる。


事柄が痛切なのに、報じるほうは中途半端な姿勢で日常感覚の意識を出ていないかのように見える。

でも新聞を広げた者には、その見出し以上のものが入ってきて、しばし呆然とする。

何故か知る由もないし、知って何かができるわけではない。
いや、何かをしたらものすごい冒涜になるかもしれない。


ときどき

「子どもが病弱なことをこぼしていた」
「仲良く公園で遊んでいた」
などの説明が記事に付されることがあるが、わからないことは同じだ。

いっそ記事にしないでくれと呻く。
だが、その次には別のページをくっている自分がいる。


そんな日は一日憂鬱である。

しかし、それが家族であったら、憂鬱だけで済むはずがない。

何か自分の血が酷く冷たい感じがした。



2017年1月24日 (火)

戒名問題の視点―戒名、布施問題の多角的アプローチ③

「戒名」に関する問題

戒名についての社会的関心の一つは、「戒名料」に係わる問題である。
 
これは生活者の関心である。
近年は僧侶派遣のネット事業等が「戒名料の定額化」を打ち出し、仏教会がこれに反発するという構図になっている。

これはそのまま仏教寺院の財政基盤に関する問題である。

「戒名料とは言わない」というのが仏教会および各教団の立場である。
そもそも「戒名料」と言われるようになったことが問題なのであり、これが戦後の高度経済成長以降の主に都市における「社会的」問題の一つである。

かつてこの議論があった時、大阪の僧侶が「それは東京の問題だ」と言った。
訊いたら「院号料はある」と言う。
私は「その院号料と東京の戒名料は同質の問題だ」と指摘したことがあった。

もう一つは、「戒名」が歴史的に保持してきた階級性の問題である。
そこから派生した「差別戒名」の問題である。
過去において被差別部落民に対して被差別部落民であることを示す戒名をつけたことに対する糾弾とこうした歴史に対する寺院の反省の問題である。

「戒名」「法名」「法号」の基礎理解

以下、共通理解のための基礎的解説をする。
宗派によっても理解は異なる。

元々インド仏教には戒名はなく、仏教が中国に伝わった以降に生まれたものである。

「戒名」とは、仏教教団に入り戒律を守ることを誓った者に与えられる名前のこと。
本来は戒を授けられ出家した僧にのみ与えられるものだった。
つまりは「出家名」である。


出家しない在家の檀信徒も授戒会に加わって戒を受けることにより、仏法に帰依した者として戒名を与えられるようになった。
これは出家者以外の葬儀をどうするか、で課題となったものである。


日本の仏教の在家葬儀の原型となったのが禅宗の葬儀法である。
禅宗が中国で儒教の影響を受けて葬儀法を確立した。

禅宗では、出家者に対する葬儀法「尊宿喪儀法」と修行途中の僧侶に対する「亡僧喪儀法」があった。
後者の「亡僧喪儀法」を、出家ではない者、つまり「在家喪儀法」に援用した。

修行途中であり、正式に僧ではなかったので、急いで戒を授け、僧とし、あの世に送り出した。
これと同様に僧でない在家の者も戒を授け、剃髪し、僧の如きにし、あの世に送り出した。
江戸時代には男性のみならず女性も剃髪された例があったようだ。

これは民衆の葬儀法が課題となることで生まれたものである。
江戸時代以降、寺檀制度が確立する中で、亡くなった人に授戒して戒名を与えることが一般的となった。

本来戒名は、生前に入信して与えられるべきものだが、死者の場合でも生きている者として扱い、できるだけ早く授戒させようと、しばしば枕経や通夜に授戒が行われた。


これは「没後作僧(もつごさそう、ぼつごさそう)」と言い、亡くなった人を仏の弟子にして浄土に送るということを表す。
文字どおり「死没後に僧となす」ことを意味する。

授戒は引導と共に葬儀儀礼の中心をなすものとして位置づけられている。

「没後作僧」については、「生前、入信に際して授かるのが本来であるが、その縁がなかった者も死後といえども切り捨てるのではないという仏の大慈悲が存在する」と説明するものもある。

もっとも日本の葬儀では、葬式以前の通夜までは「生と死の中間」つまり「死者を生きているものと見做して」取り扱ったので、通夜までの間に行うのは生きている者と見做して行ったことを意味した。


近年、「戒名料」が問題とされたこともあり、多くの教団では、できるだけ生前に授戒会などに出て戒名を得ておくことを勧めている。


浄土真宗は在家道で教義にも戒律や授戒はなく、「聞法者」という意味をこめて「法名」と言う。
仏法に帰依した者が授かる名前で、「帰敬式」(「おかみぞり」「おこうぞり」とも言う)を受けていただくものとされている。


日蓮宗は「法華経に帰依することが持戒にまさる」ということで、あるいは「経(法華経)を受け持つことが戒を持つこと」という考えから葬儀式に授戒という作法はない。
「信仰に入った証」ということで「法号」が与えられる。

「入信の証」であるならば、本来は生前に与えられるものだが、亡くなった後に授与されることが多く、また生前に与えられていても死後改めて授与し直されることが多い。
特に「院号」等の修飾語が付けられるのは一般的に死後である。


修飾語の問題

戒名(法名)は、基本的には法号の2字である。
平易に表現すれば出家名であり、仏弟子としての名前である。

これに付加された院号、道号、位号は修飾語である。
だが、この修飾語が問題である。

過去において、どんな修飾語を付加するかという基準が、寺院への貢献度と社会的功績におかれた。

「死後追贈の褒章のようなものだ」というのは的を射ている。

寺院への貢献度は、寺院の建立や修繕に貢献したとか、檀家総代として尽力したとか、篤信な信者であったとか寺院または信仰を基準にしたものだから、ここでは問わない。

問題は社会的功績である。

大名だから、武士だから、庄屋であったから、という階級社会の上の立場という理由だけではなく、下の立場の階級付けまでがされたことによる。
この道具として戒名が用いられたことが問題となる。

※今戒名の修飾語の最高位として「院殿号」が位置付けられていることが多いが、これは足利尊氏が最初と言われる。以降、武家が天下を取ったことで、大名家やその上位家臣、旗本に陰殿号が授与されることが多くなったことから来ている。

戒名が檀信徒への褒章としてだけでなく、人の社会的階層づけに利用され、ひいては差別の固定化を招いたことが、仏教寺院の体質、それを許した日本社会の問題として批判される。

「差別戒名」問題

戦後、寺院は宗団全体で差別戒名の調査を行い、その付け直し作業を行った。

※曹洞宗では
曹洞宗がこのような取り組みを始めたのは、1979(昭和54)年の「第3回世界宗教者平和会議差別発言」(注1)に対する人権の確立を願う人びとや運動団体などによる糾弾・学習がきっかけでした。

1981(昭和56)年1月の第1回糾弾会から5回におよぶ一連の糾弾・学習の中で、「差別戒名」の問題、「差別戒名」のつけ方や「差別儀礼」のやり方などが書いてあった「差別図書」の問題(注2)、寺院住職が引き起こした「身元調査差別事件」が提起されました。
そして、曹洞宗としてこれらの問題が実際に存在することを確認、「差別戒名を改正する」「差別図書を回収する」「身元調査に加担しない」ことに取り組むことを社会に約束をしました。この3点の取り組み課題は現在でも、曹洞宗の人権確立へ向けた取り組みの大きな柱です。
(注1) 「第3回世界宗教者平和会議差別発言」
1979(昭和54)年、アメリカのプリンストンで開催された、第3回世界宗教者平和会議(WCRPⅢ)において、当時の全日本仏教会理事長・曹洞宗宗務総長が、再三にわたり「日本に部落問題はない」「百年ほど前にあったことで今はない」「部落問題を理由にしてさわぐ一部の人がいるだけ」などの差別発言を繰り返し、WCRPⅢの報告書から部落問題についての言及部分を削除させてしまった差別事件です。
その後、5回にわたり確認糾弾会が行われ、「差別戒名」「差別図書」の存在、「身元調査」に加担した事実などが指摘された、個人の差別発言のみならず、曹洞宗がこれまで抱えてきた差別体質や、歴史・社会状況への認識・疎さの現れであったのです。

(注2) 「差別戒名」、「差別図書」
主に、江戸時代から昭和初期にかけて、被差別部落の檀信徒のみに「授与」された、一般の檀信徒と比較して「不当に差別され、おとしめられた戒名」を「差別戒名」と言い、曹洞宗寺院でもその事象が確認され、現在、改正の取り組みがなされております。
また、この「差別戒名」の付け方の手引書など、曹洞宗関係者が出した書籍について、差別的な記述等が確認された6種類を「差別図書」として回収を進めております。
http://www.sotozen-net.or.jp/activity/jinken/torikumi 

だが、差別戒名だけの問題ではない。
差別戒名の原因となった、戒名が人の階層化の道具であったことへまで及んでいる。

経済の民主化による「戒名料」問題

他方、「戒名料」は、戦後社会における寺院の民主化の問題であったという側面をもつ。

戦後、民主化が達成することにより、一般の檀家は、過去の身分によって戒名が階層化されて固定化されることを嫌い、戦後日本社会の実質的な規範である経済力によって新たに階層化することを望んだ。
それが民主的だと考えたのである。

寺院側にもそれを受け入れざるを得ない理由があった。
戦前の寺院経済を支えてきた大檀家の没落が相次いだ。
大農家が農地解放で没落し、大地主であった寺院そのものも農地解放により経済的基盤を失った。
寺院経済を支える新たな基盤作りに迫られていた。

一方で、都市化により、旧来の檀家ではない新たな都市住民が都市寺院に葬祭サービスを求めてくるようになった。
これらを取り込む基準は旧来の檀家としての貢献度や社会的立場以外のものでなければいけなかった。
それは戦後社会にあっての認められた基準である金銭を置いて他になかった。

「戒名料」という名称は、戒名の階層付けを新たに経済的な貢献度で行うという表明である。
経済の民主化が進み、都市化が進んだ高度経済成長期に「戒名料」が定着し、院号の乱発が行われるようになったのは、理由のあることなのである。

この後、80年代になると消費文化が成熟し、「消費者」という概念が定着してくる。
「安く良質のものを」という考え方は戒名料にも及んだ。

ところが戒名料には公認された社会的基準がなかった。
寺院側も、おおっぴらに戒名の基準が入手時の経済的貢献度とは表明しにくい。
苦々しく感じる寺院も少なくなかった。
寺院それぞれの対応の違いが、消費者には戒名料はブラックマーケットであると映った。

90年代に入ると社会的風潮も変化してくる。
特にバブル経済が崩壊して以降、価値観の変化が見られる。
褒章を求めない人が増えてきたのだ。
世俗化が進み、あの世への信仰が低下したこともこれに重なった。

戒名の院号信仰を支えたものは、死者の冥福を願う切なる心情があったことは事実である。
まさに欧州の宗教改革時代の免罪符に近い意味を戒名は負っていたのである。

だが、あの世信仰が希薄になることによって、その意味すら感じられなくなってきた。
この結果、これまでの戒名料批判に戒名不信が付け加わる事態となった。
これがジワジワと浸透していき、戒名料収入の低下を招き、将来的には寺院経済の基礎が揺るがされるのではないか、という不安が寺院を覆うようになっている。

一方、「戒名を買う」者には檀信徒として寺を支える意識が希薄で、「寺への寄附義務がない」ことが歓迎される風潮がある。
これが寺院側にとって悩ましい問題であり、僧侶派遣業者は「檀信徒にならない」ことをメリットとして宣伝している。

※現在の戒名に対する布施の定額化で、あたりまえのように「院号、居士大姉は別料金」になっているのはいかなる理由によるものか?
「ブランド」化になっていないか?

付加価値だから「高い」のだろうか?説得力をもって語られるのを聞いたおぼえがない。

戒名問題のこれから

教義的には既に今日の戒名問題を正当づけるものはないだろう。

僧となること、仏教徒たることを表明した徴、それ以上のものではない。
このことを教義的に意味づけることは可能であろうが、できるとしても法号に対してである。院号や位号などは歴史社会的に説明できるだけである。

対処としては仏弟子たることを表明し、あるいは授戒した人に対して、法号の2字(あるいは全て院号付きで)を授与するようにするだけである。
現状の没後作僧という死後授与を改めることも考えられる。

だが、問題はそれだけではない。

戦後に戒名問題が現在のような混迷を招いた原因が寺院経済の維持にあったのであるから、寺院経済の基礎をどこに求めるかを新たに考える必要がある。

戦前までの寺檀制度は寺院経済の基盤としてあった。
だが寺檀制度の基礎となる寺院と檀家の関係が葬祭サービスに偏ったものであったことがが一つの問題である。

寺院の活動が何であるかを明らかし、それが檀信徒に理解されて活動資金が支えられるという構造作りが課題となるだろう。

もう一つは、人の階層づけが戦前は階級社会、戦後は経済中心主義を無批判に基準にして行われたことへの検討であろう。
宗教は民衆に寄り添って力になる必要があるが、社会に埋没することではないだろう。
このことをきちんと考えないと、戒名問題そのものは解決しても、姿を変えて同じような問題が再発するであろう。

ことは寺院経済に絡まった問題であるから容易ではない。
できるだけ手をつけないでそっとしておきたいと考える僧侶が多いことは理解できる。

この問題は、仏教寺院の問題だけではない。
日本社会の縮図とも言うべき問題であるように思う。



2017年1月 6日 (金)

「終活」ブームのコンテキスト

記者さんから問い合わせがあったので、かつて雑誌に書いた記事を以下紹介する。
2年前くらいに書いた記事だが、今でも有効だろう。


「終活」は「就活」をもじって週刊朝日が名付けたことから言葉として流行した。
あまり好きな言葉ではない。


以下、が元の記事。

『SOGI』通信 No.69
「終活」という言葉は『週刊朝日』が2009年に連載した記事名「現代終活事情」が最初と言われる。
2010年6月に連載のまとめとして刊行された週刊朝日MOOK「2010終活マニュアル」のタイトルは『わたしの葬式 自分のお墓』となっているように「葬式」と「お墓」がメインテーマだった。

ちょうど2010年は島田裕巳『お葬式は、要らない』(幻冬舎新書)が刊行されてベストセラーになった年。
葬式や墓についての要、不要論が話題になった。
しかし、2011年3月11日に発生した東日本大震災が一気にそのブームを消し去った。現実の大量死を体験して、死者・行方不明者への想い、その家族の想いの痛切さ、リアルな死の衝撃の大きさを感じさせるものであったからだ。

そうした状況を背景に、東日本大震災の発生で発表が延期されていた経産省の「ライフエンディング・ステージ」に関する報告書が同年8月に発表された。
報告書では生前の「老」で抱える終末期医療、介護の問題から死後の葬式、さまざまな事務処理、遺族のケア、お墓、遺産相続まで続くステージについて、バラバラではなく一連のプロセスと考え、ネットワークを組んで消費者をサポートできるシステムづくりを提言した。

『週刊朝日』の葬式、墓中心の「終活」に異を唱えた一人がファイナンシャルプランナーの本田桂子さん。
中高年の遺言や相続の相談を手がけているなかで本田さんが提起したのが「老」の問題。
超高齢社会になった日本社会でのリスク、認知症、延命治療、老後の生活資金、財産分与…等を加えた「終活」を提起した。
本田桂子監修『終活ハンドブック』(PHP)が刊行されたのは、経産省の報告書発表と同年7月末のこと。
同年8月には「おひとりさま」問題に取り組んでいたフリーライターの中澤まゆみさん『おひとりさまの終活―自分らしい老後と最後の準備』(三省堂)が刊行された。

この公の報告書、民の本田さんらの提言にくらいついてきたのが司法書士、行政書士や保険関係の人たち。
「終活ブーム」を代表する終活カウンセラー協会は、2011年10月に第1回終活カウンセラー初級検定を実施。
『終活の教科書』(タツミムック)を2013年6月に刊行。
「終活」ブームは、ここ2年くらいに生じたブームである。

注視しておく必要があるのは、ここでの終活は「事業」である点。
そして終活事情についての講演会等が事業として展開されている点である。

そしてこの背景には戦後の大量のベビーブーマーが65歳以上の高齢者になりつつあることがある。こうした団塊の世代が「終活」や「エンディングノート」に関心を寄せてきた。

関心が高いことを証明したのが、2013年、「終活」をテーマとする季刊誌『ソナエ』(産経新聞社)を刊行、創刊号は約5万部を売り上げたこと。
「ペットの葬儀」や「おひとりさまの終活」を特集した第2号は創刊号を上回る勢い。

多くのデータが示すように、「関心がある」が3割程度はあるが、「実際に準備している」のは5%未満、という壁ははたして破られるのだろうか?

2016年12月31日 (土)

朝日「引き取り手のない遺骨」報じる

引き取られない遺骨が増えている。

今朝2016年3月31日の朝日新聞朝刊が大きく取り上げている。
私の推定では遺体の引き取り手のない遺体は約6万体に達しているのではないか?
 

2016年10月25日 (火)

「家族葬」における「家族」とは?

「脳死」が出て「心臓死」という言葉が流通するようになったと同じく、
「家族葬」が流行することで「一般葬」という言葉が使われるようになった。
しかし「一般葬」という言葉はあまり好きではない。
葬儀というのは本来死者や家族によって個別固有なはずなのに、と思うからだ。

大体「家族葬」という言葉はブレのある言葉だ。
出現した時はバブル期までの葬儀への反発から出てきた言葉だったように思う。
バブル期の末期には、普通の個人葬で200~300人の会葬者を集めた葬儀が珍しくなかった。
そして会葬者の7割程度を生前の死者を知らない人が占めた例が少なくなかった。
本人の関係者というより家族の会社関係者とか。
7割が死者本人を知らない人ということは、悲しんでいない第三者が7割ということだ。
家族はそうした人たちに失礼がないようにと葬儀では気を遣う。
本来は弔うことに専心すべき家族がだ。
家族の弔いは、葬儀が終わり、皆が去った後、仏壇、後飾り壇の前で始まる。
弔うべき人が弔うのが葬儀であるならば、弔うべき人の想いが活かされないのはもはや葬儀ではない。

何のための葬儀か、と不信感をもった家族が少なくなかった。
高度経済成長以降、葬儀は社会儀礼化が異常に進んだ。その結果が弔う人を疎外する葬儀を生んだ。
祭壇の大きさで葬儀の立派さが競われた。
死者を弔うことと祭壇の大きさなんかと比例すべきもないのに。

高度経済成長期~バブル期の「一般的な葬儀」というのは歴史的に見れば異常な葬儀だった。
社会儀礼というのは葬儀がもった一つの機能ではあったが、社会儀礼に偏した葬儀は異常であり、それは葬儀の本質を破壊するものであった。
今の葬儀の状態を見て「伝統儀礼の軽視」と批判する人が多い。
しかし、高度経済成長からバブル期の葬儀が決して褒められるようなものではなかった。
それこそが葬儀の本質の破壊行為であった。
散々破壊しておいて今になって「伝統儀礼の軽視」などというのはそもそもおかしい。

だからバブルが崩壊し、高齢化ということが大きく影響するようになると、「一般的な葬儀」がもっていた価値観が崩れた。
崩れた葬儀の受け皿となったのが「家族葬」である。
死者を弔うべき人が疎外された葬儀を本来の弔うべき人に戻そうという機運、というよりも、「だれのためかわからない葬儀は嫌だ」という、家族の葬儀で嫌な体験をした人々の想いが「家族葬」に向かった。
自分たちが「遺族」として嫌な想いをした葬儀を子どもたちに体験させたくないと思う人たちが「家族葬」志向に向かった、という面がある。
「家族葬」を支持した人が最も多いのは若い世代ではない。
若い世代はそもそも葬儀を体験していないから、体験しても隅に座っていただけなので肯定も否定も切実な感覚がない。
「家族葬」を支持したのは60代以上の家族の葬儀を体験した世代であった。

また環境も大きく変わった。
日本の葬儀を支えていたのは地域共同体であり、高度経済期以降はこれに企業が加わった。
地域共同体は弱くなり、もはや葬儀を差配する力をもたなくなった。
企業もバブル景気崩壊の痛手が大きく、従業員を支援する余力を失った。
いやがおうでも「個人化」を葬儀は強いられた。
共同体の規範も社会的常識も力を失った。
「一般的な葬儀」を要請する力は急速に衰えた。

もう一つは高齢化である。
よく出される例であるが、90歳の人が亡くなった時、本人の同世代の約半数は既に死亡しているか、生きていても要介護状態にあるとか出席が難しい人が多い。
同世代のきょうだいやいとこたちも同じである。
子どもももはや定年後であることが多い。子どもの義理で集まる人ももはやそれほど多くない。
地域社会でも付き合いが続くのはせいぜい80歳である。その世界でも隠退して10年を経つとその人をよく知る人も少ない。
ほっておいても葬儀であるからと集まる人は少数化せざるを得ない。
あえて「家族葬」と言わなくとも葬儀は小型化する。

「家族葬」は言葉自体がもつ難しさを抱えている。
もともと「家族葬」への傾斜は厳密な「家族葬」の概念規定に基づくものではない。
しかし「家族葬」と言うと、それを概念化する愚かな者が出てくる。

その大きなものが「家族葬」とは「家族だけでする葬儀」という誤解だ。
人を囲む関係は血縁だけとは限らない。
血縁者ほどあてにならないものはない、という人は多いはずだ。
家族が本人を最も支えている人である場合が多い一方、家族から疎外されている人も少なくない。
本人に最も親しい人を「近親者」と言うならば、それは「家族」には必ずしも限定できない。
本人にとっての「近親者」はその人によって異なる、数の範囲も異なる。
人の生き方、環境によって異なるのがあたりまえなのだ。
(※「近親者」という語の意味を少し変えてみた。)

私は一般の人に比べると血縁者に対する感情が強い人間らしい。
従妹の終末期にやきもきし、その葬儀も仕切った。
姉の死に対してもそうである。
しかし、これは今の「家族観」から言えば、いささか主流ではないらしい。
例えば親が死ぬ。
弔いの中心は子どもとなる。
その子にとって家族とは親と自分たち子どもであり、せいぜいその子(本人の孫)までが一般的らしい。
私に言わせれば、死者中心に考えると本人のきょうだいは立派な本人の家族であるはずだが、子にとってみれば単なる「親戚」と考えてしまう例が少なくないらしい。
実際に私の年上の知人の女性は、早く両親を亡くし親がわりだった姉の死を半年以上知らされないままだった。
姉の子を問い詰めると「母が家族葬を希望していたから」と応えたという。
本人の妹は「家族」ではなかったらしい。
その女性が悔しがっていたのは言うまでもない。

しかし他方、さまざまな意味で困窮しても親やきょうだいからの支援を得られない人も少なくない。
本人の家族からも孤立すれば、死亡し葬儀だからといって子は、本人のきょうだいだからという理由だけで「近親者」ではないのだから連絡すらしたくない想いになっても不思議ではない。

またこんな例もある。
老親だけが地方に残り、子は都市に出るという例は多い。
子は再び地元に戻る気がない。
老親の日常の仲間は地域の人である。
その老親が死亡すると葬儀で戻ってきた子どもたちは「葬儀は家族葬で」と言って、本人が付き合っていた親の仲間を締め出す。
子たちにとっては「親」といっても特別な存在ではない。特別な存在であったのは親の仲間たちである。
子も本人にとっては真の「近親者」ではなく、血縁ではない地域の仲間が本人にとっての「近親者」である例は少なくない。
「家族葬」という名で、本人にとっての真の「近親者」が疎外され、排除され、締め出される例は少なくない。

老人施設で終末を迎える高齢者は少なくない。
老人施設に入った人を面会する人がほとんどいないという事例は4分の1以上いる。
普段面会に来ない家族に「症状が悪化した」と職員が連絡しても、「危篤」と連絡しても来ない。
「死亡」したと連絡すると「そちら(施設)で葬儀をやってくれないのですか」とのたまう家族もいる。
死亡しても家族に弔われない人は意外と多い。

家族から切られた人もいれば、家族を切った人もいる。

葬儀を見て、家族が柩の側から離れようとしない家族がいる一方、柩に近づこうとしない家族もいる。

「家族」幻想を抱えた人は3分の2以上いるだろう。しかし、3分の1はそうではない。その人たちにとって「家族」は解体し、浮遊している。
生涯未婚率が高まり、結婚しても離婚する人が3分の1の時代である。
「家族」観が多様化するのは当然だし、そこに「規範」をもち出すとおかしくなるケースが多い。
そんな時代環境で「家族葬」が主流となるとさまざまな歪みもまた生じる。

実態としての「家族葬」はさまざまである。
家族数名から80人くらいを集める「家族葬」もある。
「家族葬」が主流となれば「家族葬でいいんだ」と便乗する者も出てくる。
死者である家族に愛情を抱いているわけでもないのに、安易な簡易な遺体処理を「家族葬」という名で営むものもある。

葬儀が多様化しているのに葬儀社では「家族葬」プランや「一般葬」プランが並ぶ。
なんでこうパターン化しなければいけないのか?
中には「直葬(火葬式)」プランまである。
人によって考え方が違うのに「これが家族葬です」と言う葬儀社がいるが、その無神経ぶりに腹が立つ。
そもそも「家族葬」志向は消費者の志向に業者が便乗したもので、業者が提唱、主導したものではない。

それぞれが異なるのだから、どんな葬儀をしようと、その形態だけで評価はできない。いいも悪いも言えない。

「直葬」だから単なる遺体処理ではなく、「一般葬」(繰り返すが嫌な言葉だ)なるものでも家族の想いとしては単なる遺体処理である事例が少なくない。

宗教儀礼を選択したからといってそこできちんとした弔いが行われているわけではない。
遺族は宗教儀礼中は退屈な時間を過ごし、死者も家族の想いも知らない雇われ僧侶が気のない経を唱えている光景はよく見る。
そんなのは弔いではない。
そこで行われているのは「宗教儀礼」という名の単なる虚飾に過ぎない。
所詮虚飾に過ぎないものに「安い」も「高い」もないし、「適正」「明朗」もない。
せめて遺族か宗教者かどちらかに死者を真剣に弔う気があるなら意味もあろうが。
またその間に「消費者のために」という顔を演じるブローカーが介在することがしばしばなのが腹が立つ。

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