震災

2017年10月 1日 (日)

葬制と遺体処理―遺体論②

葬制と遺体処理―遺体論②

 

①葬制

 

人が亡くなると葬儀が行われる。

ここで言う「葬儀」とは狭義のものではなく、人の死亡以降のプロセス全体を言う。

この葬儀の執り行い方を「葬制」(あるいは喪制)と言う。

この葬制は民族により地域により宗教によりさまざまではある。

さまざまではあるし、時代により変化もしてきている。


「葬制」とはそれぞれの民族、さらにいうならば地域社会(これも現在は解体の危機にあり、それゆえコンセンサスが急激に失われているのだが)における文化と言える。

 

②死の判定

 

近代以前、つまり近代医学が発達する前は、しばしば「宗教者が死の判定を行った」と記録されている。

これは日本のみならず欧米においてでもある。

「死」という事実は、戦場、災害とか,いかんしがたい場合を除いて、「誰かによって」認定される必要があった。

そこで認定されることによって、死は公認され、葬の過程に進むことが可能となった。

 

近代以降には、つまり近代医学が確立することにより、「死は医師により判定されるもの」となった。

 

その後、人工呼吸器ができる前までは、心臓死によって死は判定されたが、人工呼吸器ができることによって脳死状態になっても心臓が動き続けるという、「脳死」と「心臓死」の乖離が生じ、脳死者からの臓器移植が可能となった。

 

各国とも心臓死について特に定めることがないが、脳死については法律でその判定法を定めているところが多い。

 

近親者はその死を看取る。

 

③遺体処理

 

遺体を土葬(埋葬)、火葬、風葬、天葬(鳥葬)等して葬ること。

「葬法」と言う。


日本では、2015年の火葬率は99.986%(死胎を除く。土葬は総死亡約130万のうちわずか185に過ぎない)となっている。
火葬率は、1960年代のバチカン公会議でローマ・カトリックが火葬容認に転じて以降、欧米でも火葬率が急上昇している。

また、中国、韓国では国策として火葬を促進している。

そうしたなかにあっても日本の火葬率は統計上100%で、世界一である。

 

④文化・宗教的処理

 

葬式等を行い、死者と別れの時をもち、死者を送別すること。

 

⑤社会的処理

 

死を社会的に告知し、除籍等の事務処理を行うこと。

 

⑥心理的処理

 

近親者の死はしばしば近親者に死別の悲嘆(グリーフgrief)をもたらす。

それはそれぞれ固有のものである。

 

近親者自らなすグリーフワーク(喪の作業)を大切にしたり、この近親者に対して心のケアを行ったり、死者を追悼するための行事(法事等)を営むこと。

 

ここで注意することは近親者自身のなす喪の仕事grief workが大切なのであり、支援careは、その環境をよりよく用意する、近親者のなす喪の仕事grief workを邪魔しないことである。

 

このことは、人間が身体的存在だけではなしに、精神的な存在でもあり、社会的な存在でもあることを示している。

また、人間が関係する人間関係において、その相手に悲嘆(グリーフ)をもたらす、関係存在でもあることを示している。

 

ある人は「人間が死ぬと単に肉体の死という物理的な死だけでは終わらない。文化的な死、社会的な死としてもあるのである。」と述べている。

つまりはそれが「人間が死ぬと葬儀をする」という意味である。

肉体が死ぬという物理的な死があるだけならば、遺体処理は残るにしても、葬儀は必要ない。

 

葬制の中の遺体処理にしても、単に物理的に死体を処理するのではない。

葬制全体の位置づけの中に、葬制という脈絡の中に置かれていると言うことができる。

 


「死」の概念

 

ここで簡単に「死」の概念をまとめておく。

 

①いのちがなくなること

 

古代日本人は「身体から霊魂が遊離してしまうこと」と理解した。

 

現代の死は医師が判定。
医学的死とは全細胞死ではなく、「有機的全体としての個体として生命活動がやんだと判断されること」を言う。

 

従来の心臓死のほか、脳死がある。

改正・臓器移植法が2010年7月17日施行され、「本人が生前拒否意思を表明していないケースでは、縁者がいないケースまたは遺族がいても遺族がこれを書面により承諾するときに脳死判定、臓器移植を行うことができる」とされた。

15歳以上という年齢制限もなくなった。

 

尊厳死・延命治療の中止については、本人の意思、家族の意思の確認が求められる。

 

病気や事故等でいのちにかかわる状態で本人が意思表示できない時に備え、a.治療方法、b.栄養補給方法、c.心停止の際の心肺蘇生の希望の有無等を「事前指定書(LMD レット・ミー・ディサイドlet me decide 医療の自己決定)」に記入し、かかりつけ医師と代理人が署名する。

カナダで80年代に創唱され、日本での運動は1994年から始まっている。

 

遺体処理の種類


「遺体処理」とは、土葬、火葬、風葬、水葬などのことである。

遺体処理が必要なのは、死後の身体は腐敗するからである。

 

腐敗する遺体をそのままにしておくことはできないので、何らかの遺体処理が必要になる。

 

遺体処理の方法を「葬法」と言う。

古代エジプトにおいては王等の権力者の際にはミイラ化が行われた。

 

南北戦争以降、エンバーミングが行われることで、腐敗の進行をほぼ停止させることが可能となったが、レーニン、毛沢東、金日成といった特定の政治的権威者以外は、永久保存されていない。


一般には、エンバーミングしたとはいえ、しかるべき葬儀が行われた後には埋葬または火葬されている。


日本ではあまりの長期にわたる遺体の保全は、技術的に可能であっても、国民の宗教感情がそれを認めるところにはきていない。

 

したがって死体遺棄罪(刑法190条)の嫌疑を避けるためにもIFSAでは、四十九日という葬送習俗を参考に、50日規定を設けている。


ここで、主な葬法を解説しておこう。


①土葬


法律的には「埋葬」と言われる土葬は、古来より世界各国で行われている遺体処理の最も一般的な方法である。

 

土を掘り、そこに遺体を埋める。遺体を布で包んだり、棺に入れることが多い。


②火葬


遺体を火で焼く処理を言う。

 

古来から行われているが、人工的に遺体を解体する方法なので、必ずしも一般化はされなかった。

イスラム教を信じる人たちは今なお火葬を忌避している。


日本では,火葬は仏教の伝来と軌を一にして普及し(考古学的には5世紀に既に火葬の痕跡が発見されている)、近世に浄土真宗系門徒の多い北陸地方等で普及した。

また江戸や大阪といった大都市においても普及した。

 

しかし、本格的な普及は、明治末期、政府が当時のコレラの大流行を受け、公衆衛生上の理由により促進してからである。


1960
年に日本では火葬率が6割を超え、現在(2015年)では統計上100%という世界一の火葬先進国である。


60
年代のバチカン公会議でカトリックが火葬を容認したことも影響し、世界的にも普及の兆しがあり、その意味では火葬は近代的な葬法と言うことができる。

 


東日本大震災の仮埋葬

 

2011年の311東日本大震災において、遺体の公衆衛生上の処置として2年間を期限として宮城県で約2千体の仮埋葬が行われた。

(2年というのは骨化して安定すると考えられた期間である。)

しかし、東京都が火葬を受け入れる等の火葬可能環境が生まれると、遺族等が仮埋葬された柩の掘り起こし行動をとり、やむなく行政は仮埋葬された遺体を201111月までにそのほとんどを掘り起こし、火葬した。

 

このことは、もはや日本では「懇ろな葬り」とは火葬のことである、という認識が徹底されていることを示した。


近代以降でも明治三陸地震、昭和三陸地震では大きな墓穴を掘り、個人の識別なく集団埋葬が行われ、大正時代の関東大震災では大きな穴に遺体を投げ込み、野焼きされた。


今回の仮埋葬は一部納体袋のままであったが、多くは納棺したうえで、個人識別を明らかにして仮埋葬された。

2年後の掘り起しを想定したからである。

今回はほとんどの柩が掘り起こされたが、木棺は火葬を前提として軽く、燃えやすく、ベニヤを貼り合わせたもの(フラッシュ棺)であったために1メートル以上の土の圧力で潰れ、横も湿気に弱く乱雑な状態となった。

1カ月後とはいえ、遺体はすでに一部白骨化が進み、首と胴体等が分離し、納体袋、棺内は体液、血液の漏出、それに雨水が加わり、引き上げる前に体液、血液を排出し、臭いを消すため、石灰を撒き、土を埋め戻した。

遺体が毛布にくるまった状態の場合、毛布を剥ぐと皮膚が剥がれた状態となった。

 

7~8月の夏の掘り起こし作業は臭いも酷く作業員には難儀となった。
作業を請け負った建設業者等は作業の継続を拒否し、その後は葬祭業者が引き受けた。


掘り返され、引き上げられた遺体は新しい納体袋に入れ、新しい棺に納め、蓋にはテープを貼った。

火葬場で予め家族に火葬時刻を示し、入炉前に家族は遺体を改めることなくお別れした。

 

一部ではあるが、掘り起こし作業を遠目で確認した遺族もいた。

また、まれではあるが(主に子の父)が掘り起こされた遺体を、本人であることを自ら希望して確認した例もある。


仮埋葬は当初は自衛隊の手で行われたが、厚労省生活衛生課は今でも一部に土葬が残る三重県、和歌山県の土葬事例を参考にした。

今回は年を期限とした一時的埋葬であったにもかかわらず、掘り起こされることを前提としない事例を参考にしたため、穴は深く掘られた。
これが仮埋葬後の掘り起こしを苦渋に満ちたものにした一因である。

例外があった。


女川では、仮埋葬を自衛隊が行わなかった。

 それが幸いした。
厚労省生活衛生課の考えた処理法とは無関係に行われた。

住民は仮埋葬を「火葬場再開までの一時的処理」と理解した。
土は浅く掘り、むしろ棺の上を土で覆う、という程度にした。


女川では火葬場への通路を確保し、火葬が再開されると、棺の上の土を払い、住民が連携し、棺を小型トラックに乗せ、火葬場に運んだ。

遺体の腐敗は進んだものの、棺は保たれた。


③風葬


死体の骨化、解体を自然に任せる方法である。

日本では、内陸地では人里離れた山(霊山とその地ではされていた)の麓などを墓地と定め、そこに死体を置いてきたり、また、海岸地方では海岸の洞窟に死体を運び込んだ。


そして動植物が他の動植物の遺骸がそうであるように、動植物、バクテリアが食し、自然に解体し還るようにさせた。


「自然葬」というなら、風葬こそが自然葬であった。

古来から中世にかけて、風葬は土葬と並ぶ一般的な葬法であった。

日本人の歴史を考えるならば、最も長期的に行われた遺体処理は風葬であったことを覚えておいていい。

 
土葬は近世以降(室町時代末期の戦国時代以降)に一般的になった葬法である。

 

火葬は歴史は古いとはいえ、一般化したのは明治末期以降で、6割という大勢を決したのは戦後のことである。

 

そういう意味では火葬は近代の葬法である。


④水葬


海に遺体をそのまま沈める葬法である。

 

今でも航海中に死んだ場合には水葬が船員法で認められている。
といっても実施はきわめて例外的である。

かつては漁村では漁師などの葬法として行われたところもある。

 

この他にチベットの天葬(鳥葬)などいくつかの葬法がある。


二次葬


火葬が行われる場合、一次葬が火葬、焼骨を墓地や納骨堂に納めたり、散骨することが二次葬になる。


かつて沖縄等で遺体を甕に入れて骨化するのを待ったのが風葬の一種で一次葬、骨化した後、それを洗い骨甕(骨壷)に入れて納骨するのが二次葬。

 

ヨーロッパでも最初土葬にし、骨化したものを改めて火葬したりして遺骨を墓に納める二次葬が少なくない。

 

 

 

2017年3月12日 (日)

遺族の肖像・東日本大震災アーカイブ⑥

◎遺族の肖像―311の被災者

 

「記憶がゴチャゴチャ」している被災者

 

女川町から転出した人たちだけではなく、残った人たちもさまざまな転変をよぎなくされた。

ほとんどが犠牲者と何らかの関係があった人たちである。
精神的に大きな打撃を受けたことに加えて環境の大きな変化を受けた。
それがそれぞれにさまざまな変化を強いた。

「復興」といっても、それは女川町の人々を大震災以前に戻すことではない。

家族、親族、隣人、知人の喪失、暮らしの環境の激変…これらは戻ることはない事実である。
喪失、激変の現実を抱えたままであるが、これからの生活を成り立たせる仕組みを準備すること、大震災後の復興とはこのような限界をもったものである。
しかしこれとて遅々として進まない。

被災地の人たちが語る言葉、目線で大震災を見てみよう。


大震災は、予期しない衝撃であった。
予期しない速さで、予期しない大きな規模で、災害が自分たちに襲来し、悲鳴、泣き叫ぶ声、周りの人と手を取り合って高台に逃げた。
逃げ遅れ、多くの人が大津波に呑みこまれた。


家族も家も街も自然もその前に投げ出され、そして気がつくと凄まじい荒廃が目前にあった。
それが瞬時に起こった。
自分も周囲も大きく変貌していた。そして電気も水道も食料も寝る場所もなく、そして家族もいない。


被災地以外ではテレビの実況で仙台空港に押し寄せる大津波、気仙沼が夜を通じて燃えていたことが伝えられたが、被災地では電気が途絶し、こうした惨状を伝える情報が入手できない。
情報孤絶に陥っていた。


暗い、寒い夜が明け、降る雪の中、高台から街を見ると、そこには見たこともない光景があった。
街は破壊され尽くされていた。


その日以降、被災者の人々は生きてきた。
見通せない不安、自分たちの置かれた現実が何かもわからない。
そうした心的、物的な混乱を抱えて生活してきた。


ある時は必死で、ある時は呆然として、ある時は滂沱の涙を流し、ある時は自分を鞭打ち、ある時は投げやりになり、ある時は肩を寄せ合い、ある時は時が流れるままに生きてきた。


それらの日々を「記憶」として整理しようとしても困難である。

 

1年続いた葬式

 

 鈴木さんは葬儀社を営む。
犠牲者の葬儀は大震災の翌月の4月になって始まり、翌年の一周忌までほぼ1年かけて行われた。

 

鈴木さんは妻と13年前に死別している。
妻の実家は仕出し屋を営んでいたが、妻の母と仕出し屋を後継した妻の兄(
55)が大津波で生命を喪った。
鈴木さんは妻の実家の家族の葬式を大震災から9カ月後の
12月に行った。

 

女川(だけではなく東北地方)の葬式は、葬儀に先立つ火葬、つまり骨葬である。
葬式は、他の地域同様に、通夜、葬儀、法要が通常はセットになって営まれる。
だが大震災の犠牲者の葬式は通夜と法要抜きで葬儀式のみが行われた。


あるお寺では、1日に6~7件の葬儀が行われたこともある。
時間、日程上、通夜、法要とセットで行うことが事実上困難であった。


犠牲者の葬式では各家族が経済的理由も含めさまざまな事情をもつ中、「世間体」を気にしないよう葬儀は平等に、また葬儀に参列する者も親族を喪った人が多い中「お互いさま」という言葉があるように、香典ナシ、お礼ナシ、法事ナシが暗黙のうちに了解されて行われた。

 

 町役場職員の震災直後

 

 ここで一つの家族(親族)の体験を紹介しよう。


これは被災地では奇異な例ではない。
しばしば見られる事例の一つである。
また、体験を語ろうにも家族が全滅して体験として語れない家族(親族)もある。
ある家では祖父母、夫婦、子ども全員が生命を喪った。
これもまた被災地では珍しいことではない。


阿部聡さん(29)は、震災当日は職場である女川町役場で勤務していた。


地震があり、職員が3人1組になって町民の避難誘導にあたっていた。
最初は女川第二小学校グランドを避難場所とした。
小学校は女川町の北西部にあり高台にあった。


当日は雪が降り寒かった。
「寒いから校庭にテントを張ろうか」と話していたところ、突然メキメキという音がした。
下を見ると見られるはずがない濁流があり土ぼこりくさい臭いがする。


ここにいては危ないというので町民をもっと高い総合体育館へ誘導した。


水は上の中学校に行く坂の手前まできていた。
役場庁舎の屋上には取り残された職員の姿があった。


小学生も中学生も総合体育館に避難していた。


大津波に巻き込まれながら、よじ登り、総合体育館まで辿り着いた人がいた。
しかし、水を吐き出す力がなく、低体温で死亡した。


その晩、ラジオでは「荒浜に200体の遺体」と伝えていたが、下に降りることができない。
2日間、山の上で過ごすことになった。


といっても聡さんは町役場の職員。
一避難民でいることは許されなかった。

11日夜から聡さんは避難所となった総合体育館の係となって動くことになった。
総合体育館に避難した人は約500名。
町の職員といっても何ができるわけではない。
寝具も食料もない。
しかしあちこちから苦情や要求が飛び込んでくる。


避難してきた人たちも皆ショックを受けている。
寒さ、不安を抱えてやり場のない怒り、イライラ等のさまざまな感情が充満している。
役場職員ということであたられ、翻弄された。

12日にはわずかな食料が投下され入ってきたものの避難者全員に渡る数がなければ配給できない。
「平等」でなければ食料にありつけない人たちの不満が爆発するからだ。

 

聡さんは総合体育館の廊下、ステージとわずかな空間を見つけてベッドにした。


3日目になって移動が可能となった。
4日目からはヘリコプターの誘導を務める。

その後は山の上に乗り捨てられた父親のトラックから合羽を取り出し、それを着て捜索、遺体収拾にあたった。

 

聡さんは3・11から約1年間の記憶が明確でない。
時間関係もゴチャゴチャしている。
疲労から鬱状態になった。
最初は病院から睡眠薬をもらって何とか仕事をしていたが、二年後についにリタイアをよぎなくされた。

 

行方不明―実感のない死の継続

 

聡さんは両親と弟、妹の5人家族。妹・昌子さんはいとこの佐藤輝昭さん(35)の家族と一緒に輝昭さんの姉夫婦を頼りに一時神奈川県に避難した。


輝昭さんは聖花園の従業員。
幼い子供を抱える輝昭さん一家は福島原発の放射能の不安もあり、また地元では何もなく食料のめども立たなかったからだ。


輝昭さんは父・佐藤義信さん、母・良子さんの両親を津波で喪った。
母・良子さんもまた聖花園の従業員であった。


輝昭さん一家が一時神奈川に避難した住宅に、聡さんとその母・幸子さん(
55)、幸子さんの兄の高橋洋さん(58)、そして鈴木通永さんのねぐらとなった。
洋さんは妻と長女を喪った。

 

聡さんの父・幸子さんの夫・阿部誠一さん(当時54歳)については最初安心していた。

というのは山の上にトラックがあったからだ。
そこに避難したのだろう、と考えていたが、総合体育館にもどこにも顔を見せない。
2日目の夜になっても現れない。
仕事道具のトラックを真っ先に避難させて、また下に降りていき、そのまま行方不明になった。

 

幸子さんは小学校の近くにあった給食センターに勤務していた。
そこで震災、大津波に遭遇。
給食センターは高台にあったので無事だった。
聡さんとは当日に会い、互いに無事を確認していた。
幸子さんは寒い中、自分の車の中で寝た。

 

2日目の夜、夫のトラックに行ってみた。
夫は頑強で死ぬわけがないと思っていたが、トラックのドアは鍵がかかっておらず、人気がなかった。
「あ~いないんだ」と思って泣いた。
ただ、まだどこか実感がなかった。

 

食料が入ってくるようになると給食センターは総合体育館にいる避難者の食事作りに追われる。
避難所生活をしている人に「給食室にいてあんたたちだけが食べてんだろう」と言われ、妬まれ、心が傷ついた。

 

幸子さんが、肉親の死に直面したのは幸子さんの母の遺体が発見された時が最初であった。
いるはずの病院にいないと聞いて不安だった。
遺体が発見されたと聞いても否定する想いが強く、なかなか受け容れられない。
しかも父も行方不明のまま。

 

3日目以降に自衛隊も女川町に入り、人手も足りたことを確認すると、4日目に給食センターを休職した。

母の遺体が発見され、夫も父も行方不明、姉・良子さんとその夫・義信さん夫婦(輝昭さんの両親)も行方不明。
「避難して生きた人たちの食事を作っている場合ではないだろう」と言うのがその時の心境だ。
6日目に輝昭さん一家が神奈川県に一時避難するのに娘を預け、輝昭さんの住宅で約2か月生活することになった。

 

聡さん・幸子さん親子、幸子さんの姉の息子である輝昭さんの近親者があまりに多く大震災の犠牲になった。

 

遺体で最初に発見されたのが幸子さんの母・ミヨコさん、聡さん、輝昭さんの祖母である。
近所の人に「遺体安置所にいるよ」と知らされた。

 

2番目に遺体で発見されたのが聡さんの父方の祖父・阿部鶴吉さん。
3番目に遺体で発見されたのが幸子さんの義姉、洋さんの妻・たか子さん。
輝昭さんの父・義信さんが遺体で発見されたのが4番目で1カ月後であった。

 

輝昭さんの母で幸子さんの姉、佐藤良子さん、聡さんと輝昭さんのいとこ、洋さんの長女・祥子さん、聡さんの父で幸子さんの夫・誠一さん、幸子さんの父で、聡さん、輝昭さんの祖父・鶴吉さんが行方不明のまま。
鶴吉さんは足が悪く逃げきれなかった。

 

4人が遺体で発見されて、⒋人が行方不明のまま。

 

聡さんは遺体捜索活動を続けながら、最初は「父は生きているかも」という想いを捨てきれなかった。
それが「いつ」というかは定かでないのだが、次第に諦める心境になっていった。

 

幸子さんも夫に対し「また下に降りていくなんてばかだな」と思っていた。

 

3人に共通するのは、近親者が死ぬということがどういうことかわからない、ということだ。
行方不明の場合には遺体もない。
死別の悲しみの実感がわからないまま、ということだ。

 

死亡届の提出と葬式

 

6月に法務省が家族申述書の提出により行方不明の人の死亡届の提出を認め、受理することになった。


書類作成がたいへんだったことは記憶しているが細部は記憶にない。
死亡届を出し、受理されると弔慰金がもらえる、行方不明のままでは弔慰金が出ないというので多くの人が出した。
3人もまた同じだった。

 

行方不明の人たちの葬式は死亡届の提出・受理の後、順次行われた。
だが3人には葬式の記憶が定かではない。

 

「震災の日と葬式を出した日が離れているので、あまりよく記憶していない」

 

と語る幸子さん。

 

行方不明の人の葬式には遺骨がない。

 

鈴木さんがその様子を説明してくれた。

 

「ご遺体、ご遺骨がないので、故人の生きた証しとなるもの、それすら流失して無い場合、自宅があったところの土を甕(かめ)に入れて、写真があれば写真と位牌でもって葬式をした」

 

行方不明の人の葬儀については、あちこちで家族の話を聞いた。

 

「親戚の手前もあるから葬式を出した」

 

「葬式を出さなくてはならないという感じが周囲からひしひしと伝わってきた」


葬式を家族の主体的意思でした、というのとは違っていた。
だから葬式に実感がもてないでいたように思われる。

 

幸子さんは葬式を出した日について言う。

 

「確か暑かったと思う」

 

輝昭さんは震災直後を振り返る。

 

「震災当日から4日目くらいまでのことを、当時は『短い』と思ったのですが、今になってみると、とてつもなく長い時間だったな、と思う」

 

ペットボトル飲料は貴重品。
水は子どもたちに飲ませ、自分の水分は酒だった、と言う。

 

おそらく酒なしであの混乱と不安な日々を過ごすことが難しかったのだろう。

 

死者、行方不明の人たちも、あの日に何が起こったのかよくわからなかったのだろう。
そして遺った人も何が起こったのか、それが現実なのか、よくわからないでいるのだろう。

 

多くの人たちが被災地を去ったのは、仕事を求めてのことが多いだろう。
だが、土地にいることに耐え難い想いを抱いて去った人たちもいるのではないか。

 

輝昭さんは震災直後に約2カ月地元から離れた。
聡さんは2年後に役場を辞めた。
幸子さんは母の遺体発見を機に給食センターを休職して辞めた。
遺った者も安穏ではなかった。

 

そして今3人は葬儀社に勤務し、遺族が死者を送るサポートをしている。

(雑誌SOGI通巻149号。2015年)

2017年3月11日 (土)

女川町の場合・東日本大震災アーカイブ⑤

本日は東日本大震災発生から6年目。


■巨大地震発生と大津波の襲来


国土地理院がその後発表したところによれば、東日本大震災は、

 

・国内観測史上最大のモーメントマグニチュード9・0。

・断層の大きさは長さ450㎞、幅200㎞。

・最大すべり量約30m。

・破壊継続時間約170秒(3分弱)

・牡鹿半島にある観測地点では上下変動は約1・2m沈下、水平変動は太平洋沖に約5・3m移動。


であった。

地震発生当時、女川町役場では、町議会の最中であった。
地鳴りがするような巨大地震であった。
その巨大地震に驚愕して間もなくの2030分後に大津波が女川に襲来した。

役場では、大津波が4階まで達した。
議員も職員もてんでに避難梯子で屋上に待避した。

引き潮では町中がまるで湾内であるかのように、水が自在に、土煙を上げて、建物や車を巻き込み回った。
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翌日の空中から町を映した情景には、電車の車両がバラバラになって住宅や道路の上に寝そべっている様子が写されている。
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これが現実に3月
11日に女川町で起こった様である。

 

■まるで戦場


聖花園は女川町の葬儀社。経営者は鈴木通永さん(51)。

大津波は鈴木さんの周囲にも被災者を生んだ。
従業員1名、ほかの従業員の家族にも行方不明者が出た。
死別した妻の実家でも犠牲者が出た。

12日は夜明けとともに従業員や家族の安否確認で瓦礫の山を登っては越え、雪の山道を登り、寸断され、道なき道を歩いた。

瓦礫の間にはそこかしこに遺体が埋もれていた。
だがどうすることもできない。

鈴木さんは夕方、従業員に「今はそれぞれの生き残った家族を守ってやってくれ」と話した。

 

まるで戦場だった。
水も食料も通信手段もない。
町は孤立した。
災害本部となるべき
女川町役場も使用できなくなった。


震災の翌々日、仮の役場が開所したその朝、鈴木さんは仮役場を訪ね、町長や役場職員と協議。
話は多数の遺体のことになった。
1社で対応できる数ではない。
また、鈴木さんのところで今動けるのは鈴木さん1人だけ。


鈴木さんは役場職員に「ここに常駐していいか」と訊いた。
町として異存はなかった。
「ぜひ、いてくれ」という回答。
鈴木さんはそれ以降、町の職員と一体となって行動することになった。


道路もなかった。
地元業者のもとに残った重機で主要な道路は何とか車1台は通れるようにした。
といっても女川と石巻間は冠水と地盤沈下で道路は寸断されていた。

 

遺体収容~安置

 

3日目、ようやくある程度道路が通れるようになったところで、鈴木さんは町職員約10人、消防団とで遺体収容を開始。

安置所は陸上競技場内の建物。
自衛隊が入るまでとりあえずできることから協力して行った。
安置所には遺体の発見地、特徴を書いた紙を張り出した。


町の外部とは連絡が取れない。
情報もない。
遺体は続々と運びこまれる。

衛生面が心配だった。
鈴木さんは何としてでも気温が上がる季節以前に火葬し、遺骨にして家族のもとに帰してあげたい、と焦る思いであった。

町民は着の身着のまま、お金はポケットにある財布のみ。
食料もない。
冷え込み、寒さの中眠れず、疲労困憊状態となった。


鈴木さんは2代にわたり葬祭業をこの町でしてきた。
町の人たちには贔屓にしてもらった。
「町民からお金なんかもらえるか!」と思った。
終わったら廃業してもいい、最後のおつとめになってもいい。
残ったトラックと自分ひとり。ガソリンがいつまでもつかという不安。
でも自分のできることを町の仲間と一緒にやろう、と思った。


拾った戸板に遺体を乗せ、トラックで戦場の町を陸上競技場観覧席の下に設けられた安置所まで運んだ。

生まれ育った町、あまりに多くの友人を喪った。
トラックを運転しながら、鈴木さんはひとり大声で泣いた。


5日目、遺族による身元確認、警察による検案活動が始まった。

安置所から電気自動車で2体ずつ倉庫に運び、検案後、隣りのテントを張った場所に安置、警察が納体袋に入れ納棺した。

棺が不足して納体袋のまま安置された遺体も多い。
警察は遺体の特徴を書いた紙を貼り出した。
人口1万人の町なので顔見知りも多く、それが身元確認を早めた。

 

仮埋葬~火葬

 

女川町の火葬場は破壊を免れた。
しかし燃料がなく、火葬場に通じる道路も瓦礫の山。
燃料の入る見込みもなく、復旧の見通しは立たない。

遺体を何日安置しておけばいいのか見当もつかない。
残酷な話ではあるが、遺体は腐敗を免れない。
公衆衛生上の危惧は大きい。

町では話し合い、「仮埋葬」が選択された。

仮埋葬の用地取得、搬入方法を検討。

この頃には県の手配で木棺は入手できた。

県警の役割、町の人間による運び出し、墓地は地元の建設業者が造成…小さなコミュニティなので何でも皆で話し合い、町役場の課長の判断ですぐ実行に移した。


女川町では、他の「2年間程度の仮埋葬で土葬地域を参考にし、深く掘り埋葬」とは異なる方法が選択された。


「仮埋葬は、火葬場が復旧するまでの、あくまでも一時的な処置」
と考えていたので、墓地は穴を深く掘って柩を埋葬するのではなく、柩の上から土を盛る形にした。


火葬場が復旧したのは5月。

建設業者が掘り出し、土を払って棺覆いを掛け、鈴木らがトラックで運び、1日8体火葬した。


仮埋葬時に、家族は一緒に、親戚を近くに、と気遣った。
家族・親戚の火葬はできるだけ同じ日に行い、遺骨にして遺族に引き渡した。

約2カ月で柩の掘り起こしと火葬を終えた。計約400体。

(雑誌SOGI通巻149号。2015年)

2017年3月 9日 (木)

身元不明者の慰霊祭・東日本大震災アーカイブ④

身元不明者の慰霊祭
一昨日の7日、仙台の葬儀社・清月記の西村恒吉さんからメールをもらった。


今日(注・201737日)石巻仏教会による東日本大震災身元不明遺体慰霊祭が行われました。今年からは火葬場近くに新設された納骨堂前でのご供養となりました。僧侶20数名と、市職員5名の参列でした。

 

私たちは震災の翌年から、いつものメンバーでこの慰霊祭の準備をお手伝いしており、年々、減少する数は少なくなっていたのですが、昨年は34名のご遺骨で、今年は33名だとの事です。

1年間で1人しか身元が判明しなかったことになります。

これ以降、ご遺骨の身元が判明する可能性は低いのかもしれません。

 

安置されたご遺骨の中には「東火」と書かれたものも多く、これは当時、一旦東京都の博善社様で火葬を受け入れて頂いた方々だったと思い返しました。東京へお柩を送り出す手伝いもしましたが、今日までずっと身元不明という扱いになってしまっていることに胸が痛みました。

http://www.jiji.com/jc/article?k=2017030700989&g=eqa



2011年当時の私が書いたものには次のようにある。
東日本大震災の津波被災者について最初仮埋葬が行われ、その後掘り起し火葬が行われた。その過酷な作業が現地の葬儀社が担ったということは記憶され続けていい。

 

当時の報道を見ると、
市の火葬場は通常1日9体の火葬を
20体まで拡大したが追いつかないので仮埋葬(土葬。当時は「土葬」と表現されていた)用の墓地を市内3カ所に整備すると報じられている。

3月
22日に第1回の仮埋葬を行ったのは東松島市。


仮埋葬は自衛隊が行った。
しかし、自衛隊を
他の任務に振り替えるというので3月末日までとし、民間委託の方針になった。


石巻市の仮埋葬を請け負ったのは清月記。

清月記は仙台が本社であるが、石巻市に2カ所の会館を保有して営業展開していた。
最初は宮葬協組に依頼があったが、石巻の組合員と相談したが困難と回答。
清月記が単独で請け負うことになった。
以下は西村恒吉(仙台市。清月記)の報告による。

清月記が仮埋葬に着手したのは4月4日。
以降4月
24日まで276体行った。


当初は1000体の予定だったが、4月から東京都で火葬を引き受け、東京への搬出作業が開始されており、火葬事情の好転から中止となった。
その後宮城県内の火葬事情も好転。

石巻市は清月記に仮埋葬した柩の掘り返しての火葬を要請。
清月記は5月7日から8月
17日まで掘り起こし火葬を行った。


掘り起こしは8月
15日に終了。
計672体。
8月
17日に最後の火葬が石巻斎場で遺族立ち会いのもと行われた。
合計665体であった。


石巻市から依頼を受けての仮埋葬とその後の掘り起こし火葬を担った西村によれば、掘り起こしの最初は,4月
15日。

遺族が親戚に頼んで重機を手配し、掘り起こすので、仙台まで搬送し、安置してほしいという依頼に立ち会ったことだ。

その必死な様子が、口や鼻からあふれ出る血液や体液を拭い、可能なかぎり清めてから改めて納棺する、という過酷な作業を、遺体の尊厳を守りながら行う仕事を促した。

 

今回の震災に直面し、最初は寒い雪降る中、最後は夏の暑い中を海中から破断され一部白骨化した状態で収容された遺体の納棺、安置、搬送、火葬という仕事を、多くの葬祭従事者たちが逃げず、礼をもって行ったことは、ここ石巻においてもまったく同様であった。

 

2017年3月 6日 (月)

若者が町を出ていく・東日本大震災アーカイブ③―個から見た死と葬送(23)

2011年の大震災から6年。福島県の避難指示解除が進んでいるが、戻ったのは13.1%という。

朝日新聞2017年3月6日記事によると、

東京電力福島第一原発事故の発生で、福島県内の11市町村に出された国の避難指示。この春、4町村、約3.2万人に対する避難指示が解除される。避難を強いられた地域は6年前の約3割の面積にまで縮小する。ただ、帰還は進まず、自主避難した住民もおり、全国にはなお8万人近い避難者が暮らしている。(略)
ただ、すでに避難指示が解除された区域でも、実際に戻った住民の割合(帰還率)は平均で13・5%にとどまる。避難先の学校や職場に慣れ、新たな生活を選ぶ人が多いためだ。放射線への不安や、商店や病院が少ないなど生活の不便さに帰還を思いとどまる人も少なくない。


以下は、2012年1月に書いたものである。



若者が町を出て行く

若者が町を出て行く。

東日本大震災は終わったのではなく、今なお進行中の出来事だ。
「復興」が叫ばれるなか、町の未来を支えるはずだった、
20代、30代の若者層の県外流出が止まらない。

福島では、子どもを抱えた若い家族が放射性物質による健康被害を案じて町を出て行く。
妻子を避難させた仕事をもつ夫が家に単身残る例、子どもの健康への危険度に対する意見の相違から離婚する夫婦もいる。

岩手、宮城の被災地では、勤め先の工場が営業停止となり、失業保険も切れ、仕事を求めて町を去る若者が後を絶たない。

町には高齢者だけが取り残される。

大震災以前から、東北は人口流出傾向にあった地域だ。

大震災は、地域に残った者まで町に留まる選択を奪った。


大津波の到来を告げ回った消防団員が犠牲となった例は少なくない。
残った団員は遺体の収容、瓦礫撤去に追われた。
そこで残った者まで地域を去ることを余儀なくされている。


大津波は幾多の住民のいのちを奪った。
生き残った者とて、平穏な暮らしが瓦解した。


残る者、去る者、皆大きな傷を抱える。


大震災で喪われたいのちを弔う権利、余裕を遺族から奪っている。

暮らしを奪われた者は全国に散って行く。


長く続く、見えない傷が拡散。
「復興」という名で回復しないのは死者のいのちだけではない。

2017年3月 3日 (金)

妻を捜す 東日本大震災②―個から見た死と葬送(22)

妻を捜す

3月11日以降、私の胸のなかを風が吹きすさび、ときおり内部に奥が見えない空洞が広がり、心を揺さぶり続けている。

捜す。

東日本大震災発生直後は、毎日遺体安置所に通って、新しい遺体を確認して回るのが日課だった。
妻が見つかればと願い、でも妻ではなかったことにどこかで安堵していた。


4カ月経った今では、新しく収容される遺体は日に数体あるかないか。
多少類似している遺体を見せてもらうのだが、近づくのを拒むような圧迫するような臭いのバリアが立ち込めている。
鼻が殺がれ、目が窪み、遺体には生前の面影を偲べるものはない。

そこにも妻はいない。


妻をあの地獄から一刻も早く救い出して火葬してやりたい、と思うのだが、妻があのように腐乱した姿で現れるのも怖い。


私の心のうちでは、笑顔が弾け、どんな苦労も笑い飛ばす、めげない、健康そのものの妻の姿だけがある。


妻は、あの大津波に攫われ、太平洋の大海原に漂い、浄土に旅立った、と思いたい。
そして頼りない夫と子どもたちをいつも見守ってくれている、と思いたい。


遺体が発見されなければ、妻の死の事実を示すものがない。
申述書を書いて死亡届を出す、というのは手ずから妻を殺す行為にも思え、躊躇う。

今夜の食事当番は次男。
いつものように母の場所にも焼き魚を置いていた。

(
2011年7月 取材に基づく)

2017年3月 2日 (木)

東日本大震災①―個から見た死と葬送(21)

2011年の3月、東日本大震災について過去書いた原稿を少しずつ紹介する。

3.11

突然、激しく床が揺れた。

建物全体がゆっくり大きく横に揺れる。
慌てて本棚を支える。
本棚から本がドサドサと落ちる。
でもそれにかまっている余裕はなかった。


経験したことのない揺れにどうすることもできず、ただ「凄い!」「危ない!」と言うだけ。


交通機関は全て停止した。


しかし、その東京での私の驚きは、後に次第に判明する事態に比べるとたわいもない出来事であった。


宮城県の北部、岩手県と接する栗原市が震度7であるとテレビは伝えていた。


何時だったかわからない。
テレビを見ていた者が「ワーッ」と悲鳴をあげた。


テレビ画面では、水の大群が田畑や家を巻き込み、なぎ倒しながら侵食していくさまが映し出されていた。


何かとてつもないことが起こっていた。


夜、テレビでは水の上の倒壊した家屋が火に包まれている光景が映し出されていた。


「気仙沼が燃えています!」


空中から実況する記者が叫んでいた。


昔から知っている街が闇の中、燃えていた。


3月
11日、瞬時にして太平洋岸の東北一帯の人、家、街、村、暮らしが壊れ、喪われた。

翌日、東電の原子力発電所が爆発。人々は住みなれた町を追われた。

(2011年11月記)

2017年1月11日 (水)

安易に「孤独死」「孤立死」と言うな!―「弔い」としての葬式(2)

安易に「孤独死」「孤立死」と言うな!
死者(遺体)の尊厳と「遺体のリアルな認識」

 


死者(遺体)の尊厳を守る―というのは、死者(遺体)を美しく保つことだけを意味しません。
腐敗した遺体であろうと尊厳をもって扱うということです。


※東日本大震災では葬祭業者がこの問題に直面した。
そして死者の尊厳を守るべく正面から相対し、自らの責務を尽くした。
このことはあまり報道されなかったが、きちんと記憶されるべきだと思う。


火葬と埋葬―東日本大震災の仮埋葬

http://www.sogi.co.jp/sub/zuiso/skar.htm
東日本大震災 遺体搬送、埋葬・火葬
http://romagray.cocolog-nifty.com/himonya/2011/03/post-fe36.html
奥州平泉の「大文字」。現地に空元気を送るな!
 http://romagray.cocolog-nifty.com/himonya/2011/08/post-a4a8.html
中秋の名月

http://romagray.cocolog-nifty.com/himonya/2011/09/post-112a.html

また、
その死者が生前どんな評価を世間、社会から受けていようと、その弔いにおいては差別することなく、人格としては等しく尊重して扱うことを意味します。


最近心配することは人間の身体は死ぬとどうなるか、ということへのリアルな認識の欠如です。


病院で死に、すぐに斎場(葬儀会館)に運ばれ、冷蔵庫に保管され、通夜・葬儀、そして火葬となると、意識していないと、遺体に対面せずに葬式を終えることすらあります。


冷蔵庫で保管されれば安全と思いがちですが、腐敗の進行が緩やかになるだけで、腐敗が止まるわけではありません。

人間も他の動物と同じく、死亡すれば腐敗を開始するのは自然なことです。
魚も2週間も冷蔵庫に入れっぱなしにすれば腐ります。

 

※腐敗の問題を解決するためにはエンバーミングしかない。
エンバーミングはIFSAでは「遺体衛生保全」と訳されているが、腐敗を防止するのみならず、公衆衛生的にも安全にする。
日本ではIFSA(一般社団法人日本遺体衛生保全協会)が自主基準のもとに実施している。
「遺体保全」と称してエンバーミングもどきも行われているので注意が必要だ。
エンバーミングの処置を施した場合、約2週間程度は安全に保全される。
海外移送等で2週間以上の保全を必要な場合にはそれなりに対処する。
事故遺体、長期闘病でやつれた遺体の修復も行うが、状態によって限度があるのはもちろんのこと。
費用は処置内容によっても異なるが、1体12~20万円程度。平均15万円。
IFSAの自主基準作成等に私は責任をもっている。

http://www.embalming.jp/embalming/


1995
年の阪神・淡路大震災で仮設住宅に入居した人が、周囲に気づかれることなく死に、その遺体が死後相当経過した後に発見される事例が出て「孤独死」として注目を浴びました。
最近では遺体発見が遅れたのは、死者が社会から孤立していた結果の死として「孤立死」と呼ばれることもあります。
東日本大震災でも仮設住居内で死後相当程度経過して遺体が発見された事例があるとの報道がされました。

単独世帯に住む人が血縁、地縁、社縁、あるいは友人関係という縁から孤立していたから発見が遅れた「無縁者の死」であるとも言われます。


だが、こうした単独死の事例を「無縁者の死」と決めつけ、死者を人間関係が希薄で孤独、あるいは周囲から孤立していたと一律に断ずるのはいかがなものでしょうか。


実際、遺体の発見が遅れた場合、腐敗が進行し、遺体は融解し、体液や血液が漏出し、腐敗臭がきつく、住居も相当にクリーニングしないと再度の利用が困難となります。

長期間でなく死後数日以内でも夏や入浴中の死であれば腐敗は進みます。


遺体は腐敗する、という至極当たり前の事実がセンセーショナルにとらえられてはいないでしょうか。


15
年の国民生活基礎調査では単独世帯は26.8
%を占めています。
現代社会は単独死のリスクを抱えているのです。
しかし死後の形状だけでもって、第三者が「無縁死」「孤独死」「孤立死」などの安易な論評をすることで、遺された家族の悲痛が増すことになってはいけないと思います。


※遺品整理業の方が「孤独死」「孤立死」という言葉を生み、また、その作業を「特殊清掃」と言う人がいる。
事情は確かにはわからないのだから「単独死」でいいではないか。
鵜飼秀徳『無葬社会』では「孤独死」と安易に用いていたので、週刊現代の書評で私は「単独死」と言い換えた。また同書では遺品整理業者が「特殊清掃」と言っているのを何の問題意識もなく、そのまま「特殊清掃」と書いているのは違和感があった。
「人の死」を論ずる以上、こうした問題については細心でなければならない。
こういう無神経な言葉が一般化して一人歩きしていることを憂う。

腐敗が長期におよんだ場合の作業は大変であることは確かだろう。だが「特殊」と名づけることが適切であろうか?
そう呼ぶ「態度」に疑問をもつ。


孤独死、孤立死の用語はこれでいいのか?

http://romagray.cocolog-nifty.com/himonya/2012/11/post.html

死者はものを言いません。
しかしその生死には常に固有の物語があります。
それを知ったがごとく、死者やその家族を論評することは、死者の尊厳への不当な介入ではないでしょうか。

2013年8月28日 (水)

「死者」の記憶

死者の記憶に深く関係する「お盆」
東京では新暦の7月13~15日近辺を中心に営まれる。

最も多いのは月遅れの8月13~15日辺りに営まれる。
これは正月と並ぶ、一種「国民の夏休み」の感がある。

昔は当然、旧暦(陰暦)で営まれていたので、
今年の場合は8月の19~21日にあたる。
旧暦で営む地域もあるが少なくなった。

8月は戦没者だけではなく、さまざまな死者を想うことがことのほか多い月である。
今年も猛暑のなか、さまざまな催しが行われた。
現役の戦時体験者もめっきり少なくなった。

テレビで3・11東日本大震災の遺族のことを取り上げていた。
「遺族」という言葉は「死者を抱えて生きている人」のことを言う。
血縁関係では「遺族」という言葉がイコールにならないケースがいまではあまりに多くなった。
血縁でも意識の差はものすごく隔たり、相互理解が困難なケースが多い。

物理的に死んだ家族を心においても死亡させる必要はない。
死者を記憶する、ということは死者を想いのなかで抱えながら生きる、ということである。
ここで言う「死者」とは、抽象的な「死亡した人」ではなく、「かけがえのないそれぞれの死者」であり、そうでしかありえない。
それぞれがそれぞれの関係で死者と関係を取っていけばいいのであって、強制されるべきではない。

人生の最終局面では独りであっても、その人は終生そうであったわけではない。仮にそういう一生に見えても、それはその人の価値とは無関係である。
いずれにしても「かけがえのない」存在である。

3・11でも津波で死亡した人が、遺体が発見されるまでそれぞれいろいろな時間を費やした。その間の気持ち、不安は大きなものになる。
早くに発見された人の写真が最初は安置所に掲げられた。
だが2週間も過ぎるとそれは行われなくなった。
遺体の変貌が激しくなったからだ。
そうした遺体でも触れようとした家族は少なくない。
だが触ったところから髪が肌が剥け、断念するケースが多かった。

泥をはらい、顔を洗浄し、きれいに死化粧を施したケースもあった。しかし、それができたのは直後に発見された遺体だけで、しかも葬祭業者に安置所から引き取れた後、であった。
すべての安置所の遺体がそうであったわけではない。

しかし発見が遅れ、損傷や腐敗の進んだ遺体も葬祭業者はできる範囲で尊厳をもって扱った。
遺族の辛い、厳しい気持ちを受け取るように行った。
身元不明の遺体にも同じようにし、納棺した。

身元確認された遺体は火葬、宮城では一時期(といっても2,000体もが)仮埋葬された。

東北地方は「骨葬」地帯である。
骨葬とは葬儀に先だって火葬をする。葬式は遺体、柩を前にではなく、遺骨、骨箱を前に行うことである。

夜中に他県の火葬場で火葬した例も多い。柩を運ぶバン型車の後ろを自家用車に4~5人乗り込んで随走、火葬を見守り、骨を拾い、骨箱を抱えて朝方戻った。関西とは違い、拾骨はすべての骨を拾う。

それで終わりではなかった。
一段落すると周囲が葬式をするよう促す。
まだ家族の死を実感できなく、どうとらえていいかわからないでいる遺族に周囲が葬式を行うことを促した。
もちろん早い葬式を希望した遺族も多く、まだ多くの行方不明者がいる中での葬式に、多くの僧侶はとまどいながら、1日数件の葬式で忙しくした。

死者の受け止め方はさまざまである。気持ちも一様ではない。
だが周囲は早い区切りを希望するケースがしばしばある。
「早く葬式をして区切りをつけたほうがいい」と遺族の気持ちを配慮して言うのだが、それはしばしば遺族の気持ちとは異なった。
被災者の葬式はほぼ1年をかけて行われた。

現在でも100人を超える身元不明遺体(もう火葬されたので「遺骨」だが)、2,500人を超える行方不明者がいる。

行方不明者のほとんどが死亡届を出している。
今回特例の「家族申述」に基づくもので。
通常は医師が死亡を判定する。今回も全国から法医学者が動員され、死体検案の作業に従事した。
だが行方不明の場合は遺体がない。医師は判定しようがない。
今回は遺族にはつらい決断となった。
いわば家族自ら死亡を判定することになったからだ。
出してはひっこめ、ということを繰り返した人がいた。だから届出数が受理数を上回った。

死亡届を出すと葬式が待っている。
遺体も遺骨もないお葬式。当事者にとっては辛い作業であったろうと思う。
死亡届も早く出すよう急かされ、死亡届を出すと早く葬式をするよう急かされる。だから葬式への対応はさまざまであった。

そして葬式を出したとはいえ、遺体が発見された人も、ましてや行方不明のままの人の気持ちの中では終わっていないし、終わることはないだろうし、終わることがいいわけではない。
「区切りをつけて前を向いて生きる」ことができる人はいい、でも無理しないようにと願う。
家族の死者に、行方不明者にこだわる人には、それが当然のことであるから悲しみからの卒業を促す必要はない。

2年前、この暑い日照りの中で仮埋葬された遺体の掘り起こし、洗浄、再納棺がまだ行われていた。
その臭いも損傷も激しい遺体であるため、そこに近寄る遺族は少なかったが、それでも子どもの姿を確認したいと立ち会った家族がいたという話を現場にいた人から聞いた。
朽ちても子どもである。その現実からしか子どもと親の関係は再生されない、という想いだったのだろう。
それは特殊な人ではなく、どの遺族も頭をかすめたことだったろう。

せめて骨の1本でも、とあてどもなく行方不明の家族を捜し続ける人がいる。そうせざるを得ないのだろう。
そして探索作業を毎日できないことを悔いている。

3・11が過酷なのは約2万人の死者行方不明者を瞬時に生んだという事実もそうだが、その今でははかれない死者行方不明者の想い、そして、のこされた者たちの想いがそれぞれ重いことだ。
これを抜きにした「復興」はないだろう。

3・11では多くのボランティアがかけつけ今なお僧侶たち宗教者、大学が活動を続けている。
だが「善意」が空回りすることもある。バックグランドの違う人間が出会うのだ、そんなに簡単にいくわけがない。

また、「現地」といっても一様ではない。

人間というのは冷たいものである。
同じ「親戚」でも被災しなかった近くの親戚は、親戚が津波に呑み込まれても、どこか距離がある。
同じ市内でも被災地と内陸部では違いがある。
内陸部の人たちの震災の記憶は、ガソリンがなくなったこと、電気がしばらくこなかったことだ。
もっとも内陸部の地震の被害を受けた人の中には、沿岸部の惨状の前に自らの被害に口を閉ざしていた人もいた。

これだけマスコミで伝えられ、九州、関西からも多くの人が現地に駆け付けたが、関西や九州に行くと、震災への温度差はいやでも感じざるを得なかった。
「たいへんだったようだね」と言うのだが、どこか自分とは距離をもつ。
これは大阪、九州の人間が悪いのではなく、冷たいのではなく、どうしてもそういう距離感を免れない、と認識したほうがいい。

島根の豪雨被害の被災者に抱く想いが、どうしても低くなるのは当事者でない者の酷薄さである。
他人の死者へ酷薄でない者はいない。
あたかも自分はそうでないかのようにふるまうのは偽善である。

震災復興工事は景気回復の一要素と数えられた。
このことは、私の中では、戦後の朝鮮戦争特需で経済復興を嬉々としてなした戦後日本の姿と重なる。
日本人は勤勉だから復興できた、というのは一面に過ぎない。隣国の戦争が味方して儲けたのである。この事実を抜きに「三丁目の夕日」を甘く回顧するのは、どこか都合よく解釈しているように思える。

あの戦後の時代、台風による河川氾濫もあり、あるいは結核流行もあり、大きな負を抱えていた。
学校に弁当をもってこれない同級生もいたから、「給食」というのは「平等」という理念を共有するには特に優れた制度であると私は思っていた。

「死者の記憶」はこれまでは「祖先供養」という言葉で語られてきた内容と一部重なる。
かつて「先祖」というのは、今のような抽象的響ではなかった。
たとえば我が家でいえば西南戦争を初陣に陸軍少将まで上りつめた曾祖父のような(そのあと祖父の時代に没落するのだが)自分の家を何か誇りにするような(そうしたものがなければ立証不能な遠く源平時代の強者につながる家系だと妄想してでも立てた、明治期に家系図つくりが大流行した)存在を言ったのだろう。
だが、そうした先祖祭の中で、人々は常に身近な死者を想起していたのではなかろうか。

新盆(初盆)がとりわけ大切にされるのは死者の記憶と深く関係している。
昨年、今年の東北の祭や盆が3・11の被災者を深く弔うことに自ずと焦点があてられた。

そういえば盆踊りとは生者だけが踊るのではなく、一時帰還した死者も共に踊り狂うのだという。
子どもの時に感じた狂騒は、死者と死者への想いがすべて一体となった不思議なものであった。



2013年3月23日 (土)

三回忌 フクシマはまだ進行形

今朝(3月10日)の東京新聞

耐久性より増設優先 福島第一 急造タンク群 3年後破綻

には、東京電力福島第一原子力発電所事故が現在進行形であることを知らされる。

東京電力福島第一原発で、高濃度汚染水を処理した後の水をためるタンクが、増設のスピードを優先して溶接しなかったため耐久性が劣り、三年後には続々と大改修を迫られることが分かった。敷地内にタンクを増設する用地がなくなる時期とも重なる。処理水には除去が極めて難しい放射性物質も含まれ、このままでは、またも汚染水の海洋放出という事態を招きかねない。 (小野沢健太)

汚染の源の蓋が閉じられるどころかまだ開いている。そういうところに置かれている。

一昨日(3月8日)、全日本仏教会主催のシンポジウム
「放射能被害とは―福島第一原子力発電所事故による被ばくを考える」
に一応「報道」という札をぶら下げて行った。
パネラは、ドキュメンタリー映画「内部被ばくを生き抜く」を発表した映画監督の鎌仲ひとみさん、曹洞宗南相馬市同慶寺住職の田中徳雲さん、医師で岐阜環境医学研究所所長で内部被ばく問題に警鐘を鳴らし続けている松井英介さん。コーディネイトは全仏前事務総長で浄土宗総合研究所主任研究員の戸松義晴さん

西新宿の高層ビルで開催されたそのシンポジウムは早々に予約申し込みを締め切るほど関心を集めた。

パネラーが強調しているのは、今でも低線量放射能内部被ばくは進行中だということだ。
松井さんは、

「(放射線の)核種ごとに、結びやすい臓器、組織、細胞が違います。例えばヨウ素131は甲状腺に、セシウム137は筋肉や心臓に、ストロンチウム90は骨や歯の組織・細胞と結びつきやすいのです。しかも、セシウム137とストロンチウム90の物理的半減期はどちらも約30年ですが、セシウム137が平均3ヶ月ほどと比較的短い期間に排出されるのに対して、ストロンチウム90は一旦骨や歯に入り込むと何十年も出ていきません。骨の中には血球を作る骨髄がありますから、白血球やリンパ球のもとになる幹細胞が放射線(β線)によって、繰り返し傷つけられることになるのです。白血病などの原因です。」

と語る。

田中徳雲さんの言葉で印象に残ったのは

「区域に入るには名目が必要だが、『納骨』や『墓参』が名目では入れない。『春着を取りに行く』としてついでに納骨、墓参をすればいいというが『納骨』や『墓参』はついでではないだろう」

「避難したお年寄りが『どこで死んだらいいのか? 仮設住宅では死にたくない』と言っている」
「人が住まない住居はネズミやサルのすみかになって、簡単に戻れる状態ではない」

鎌仲さんは

「多くの母親が留まるべきか移住すべきか、子どもの未来のために苦しんでいる」
「低線量放射能内部被ばくは結果が出るのに15,20、30年先という長期的な不安にある」
「子どもの体内にどれだけあるか乳歯検査等をやらないといけない」

フクシマは容易に終わらない。20年以上前の1986年4月チェルノブイリ原発事故(旧ソ連当時、現ウクライナ)がまだ終わっていないように。

よく
「大津波では多くの死者が出たが、原発事故で死者は出ていない」
といわれる。
しかしこれは大きな過ちだと思う。
フクシマでは700人以上の方々が「震災関連死」ですでに亡くなっている。また放射能の被ばくを原因とする病人、死者が出てくるのはこれから先30年以上続く。

原発事故の影響は福島県だけに集中しているわけではない。
宮城、岩手、茨城、群馬、埼玉、千葉、東京、神奈川にも、調査が行われていないので明確ではないが確実に及んでいるだろう。
原発事故に起因する避難者は、会津地方等の県内避難も多いが、それこそ九州にいたるまで全国各地に散らばっている。
そして全国に「自由意思」で避難したとされる人には行政の援助の手も向けられていない。

故郷を追われた人、子どもの未来を憂えて県外避難を選択した人、避難にもさまざまな形があるが、強制的に指定された区域の人たちだけが犠牲者ではない。
「子どもを県外に」という人は、大きな不安を憂えて避難しているのであり、決定的な安全が保証されない現在、そののっぴきならない不安を生んだ東電は責任をもたなければならない。

福島原発以外でも原発立地となった地域は、過疎で寂れ困っているところに莫大な補助金、雇用機会という餌で入り込んだ。
これ自体が日本の高度経済成長期の負の遺産である。


以上は3月10日に書いたもので自分では更新してアップしたつもりであったが、「下書き」のまま保存されていたもので、アップする。

より以前の記事一覧

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