エンバーミング

2018年7月 6日 (金)

遺体は公衆衛生上安全か?

遺体は公衆衛生上安全か?

 

遺体のすべてが公衆衛生上リスクが高いわけではない。
だが、同様に言えることは「リスクが高い遺体もある」ということだ。
問題は、多くの場合、その判別がないままに遺体は病院から搬出されていることだ。

「病院が死亡退院を許すのは、公衆衛生上の危険がない、と判断しているからだ」
というのは事実に即さないきれいごと。
「病院が死亡後、死後のケア(死後の処置)をしているので、公衆衛生上は安全である」
というのはほとんど妄言に近い神話。
この神話を信じる医療関係者、葬祭関係者が案外多いのに驚く。
医療関係者、特に医師、は死亡判定後についてほとんど関心を示さない人が多いのは極めて残念なことだ。

神話の怖さはリスク対処をしないことにある。
適正なリスク対処をすればいたずらに怖がる必要はない。

 

したがって、遺体に敬意を払い、尊厳を確保すると同時に、取扱で注意すべきものは、感染症等からのリスクへの対処である。

 

①病理解剖500例の分析

 

森吉臣(獨協医科大学教授【当時、現名誉教授】。専門:病理学)は

遺体を扱う立場にある者(葬儀関係者、医療従事者など)は、多くの遺体が病原菌に汚染されており、不注意に扱うと感染を受ける可能性があること、また、公衆衛生上も周囲環境を汚染する危険性があることを認識する必要がある。しかし、だからといってむやみに恐れる必要はまったくなく、病原体や感染症に対する知識を修得し、予防法、消毒法を身につけて正しく対処すれば危険性はなくなる

と、説く。


森は、獨協医科大学越谷病院において行われた病理解剖500例を分析し、その結果を以下のように述べた。


500例の解剖例中、感染症が認められたのは、全体の65.2%の326例であった。感染症が認められなかったのは、残りの174例で、34.8%であった。特にここで注意すべきことは、感染性の高い肝炎ウイルス感染症や結核症が比較的上位を占めていることである。肝炎ウイルス感染症が35例、結核症が18例、また重症感染症である敗血症が19例で、合計72例である。これは500例の解剖症例中14.4%に相当する。


遺体内の細菌の増殖は経過時間によって飛躍的に増加する。
それは一般的な菌である大腸菌を尿10ml102乗個入れて実験すると24時間経過後に107乗個まで増殖した。
遺体は死亡後の経過時間に比例してリスクは高まる
(以上、森吉臣「遺体と公衆衛生」、『遺体衛生保全の基礎』所収に基づく)


病院等の医療施設での死後の処置は、死亡直後に行われることが多く、死亡後2時間以内がほとんどである。
いわゆる「死体現象」が発生している事例の割合は低い。
また、死後の処置は、死後硬直が顕著になる2時間前までに行うことが原則となっている。


死後の処置によって「死体現象」をなくする、止める効果はまったくない。

「死体現象」の進行を止めるにはエンバーミングを処置する以外の方法はない。
(しかし、病院で死亡直後にエンバーミングが処置されている例は今はない。)


「死体現象」の進行を考えると、「遺体管理」ということで最も重要になるのは、遺体が家族に渡され、葬祭事業者に管理を委ねられる以降が最も重要になる。

 

②開示されない感染症情報

 

感染症については、感染症法による一類、二類、三類および指定感染症は厳しく管理されていて告知も義務づけられている。

だがそれ以外の場合、感染症を主な死因とする死亡以外は、たとえ感染症を保持していても、死亡診断書、死体検案書に記載されない。

病院と懇意な場合は医師が把握している限りの感染症についての情報は葬祭事業者に注意する旨が伝えられることがあるが、多くの場合には個人情報保護を理由に開示されない


また、主な死因でない場合には、医師は遺体が保持している感染症のすべてについて把握していないケースも多い。

先の病理解剖結果は30日以上経過して判明することが多く、その結果は遺族にも葬祭事業者にも開示されないことが多い。
また、開示されてもすでに葬儀は終わり、火葬され、焼骨ななっている。

したがって死亡後に看護師等の医療関係者、介護関係者、葬祭事業者が遺体を取り扱う場合、危険な感染症を保持していることを前提にスタンダードプリコーション(標準予防策)に基づいて患者のみならず遺体も取り扱う必要がある

 

スタンダードプリコーション

どの患者(遺体)も感染症の有無に関係なく感染症を保持しているという前提で、手洗いの励行、うがいの励行、環境の清掃を行う。
また、血液・体液・分泌物・嘔吐物・排泄物などを扱うときは、手袋を着用するとともに、これらが飛び散る可能性のある場合に備えて、マスクやエプロン・ガウンの着用。
また使用器具等は滅菌、消毒する。

 

院内感染の流行から、スタンダードプリコーションは、厚労相においては看護師教育内容基準等には採用され、また高齢者の介護施設でも危険認知と対策強化がなされている。
だが、より危険度が高まる葬祭事業者への指導は弱い

推測するに、医療施設、介護施設においては集団感染発生の危険度が高く、集団発生が生じると社会問題化することがあるのだろう。
遺体の場合、病院や施設外に出た場合、発生源のリスクは同等以上だが個別化されるため、施設、場所が厚労相の管轄を離れるため責任が問われないことによるのだろう。


葬祭事業者が組合等を通じて自衛策として研修をしているが不充分である。
葬祭ディレクター技能審査のテキストでは遺体取扱時のスタンダードプリコーションの内容を示し、必要性を説いているが、葬祭事業者における実態としては、このリスクに対応する熱心度で事業者格差が大きい。
(ちゃんと対策している葬祭事業者もいれば、まったく無関心な葬祭事業者もいる。葬祭事業者の選択は、見積金額が高いか安いか、だけではなく、こうした対処をきちんとしている事業者であるかも見分けることが重要になる。これが「葬祭サービスの質」の一つだ。「お金がすべて」かのように考える消費者も愚かであるし、「葬祭サービスの質」を説明しないで、「低価格のみ」を宣伝する葬祭事業者はおかしいのだ。)

2018年3月28日 (水)

死者・遺体の尊厳を守るー葬祭サービスとは何か?②

■葬儀はだれのためにあるか?

 

「葬祭サービス」の目的は、葬儀等を十全に支援することにある。

そして葬儀等の目的を集約するならば、死者を弔い、送る(別れる)ことである。

 

これは一義的には死者の尊厳を守り弔うことであり、これを死者の近親者が充分に行えるように、近親者の想いに配慮して行うことである。

 

葬儀の葬祭事業者への発注は死者の近親者から行われるため、葬祭事業者にとっての顧客は発注する近親者であり、近親者のために葬儀を行う、と考えがちである。

それは一概には誤りとは言えない。

しかし単純すぎる。

 

そもそも死者が発生しなければ葬儀はない。

その死者を弔い、葬るために葬儀はあるのだから、葬儀の最大の主人公は死者である。

 

葬儀は誰のために行われるか、「死者のため」か「近親者のため」か、の二者択一を迫られるならば、その解答は「死者のため」である。

葬儀において「死者のため」が貫徹されなければ、結局は「近親者のため」にもならない。

 

仮に近親者が死者をいい加減にし、自分たちの満足のために葬儀を行なおうとするならば、葬祭従事者は近親者の意に反しても「死者の尊厳は私が守る」と心に覚悟するのでなければ葬祭サービスは成立しない。

 

■「遺体管理」は重要な責務

 

近年の通夜の場では、柩に近寄らず、遠巻きにしている近親者が少なくない。

「葬儀」ではなく「遺体処理」の場になっているのでは、と危惧する例が少なくない。

 

何も呼び名が「葬儀」とつくから死者の弔いを大事にしていて、「直葬」だから遺体処理だというほど単純ではない。

 

経済格差も大きいし、それぞれの家族の状況、事情、さらには死に至った状況も個々では異なる。

葬儀の外見だけでは判断できない。

それぞれの個々の固有の事情を見なければわからない。

 

90年代後期から主潮流となった「葬儀の個人化」は、外見では判断できない時代に入ったということである。

 

昔から葬儀が急がれるのは「遺体は腐敗する」からである。

遺体の腐敗が進み、死者の尊厳が失われることへの怖れが葬儀を急がせる。

 

死の状況にもよるが、一般的に言うならば、死亡後2~3日で葬儀を終了するのは、近親者の心情、心理を考えると「別れの時間」が不足している。

3日よりも4日、5日がいい。

少なくとも慌ただしいと近親者が思うことは避けるべきである。

 

問題は遺体を必要な期間管理できるかということである。

エンバーミングを処置するのでなければ遺体の安全な保全には自ずと限界がある。

葬祭従事者の大きな役割の一つが「遺体の管理」である。

 

だがこの任務の重要性に対する葬祭事業者の認識は未だに充分ではない。

正確に言うならば、充分な認識をもっている人、ほとんど認識していない人、その中間にある人が混在している。

 

2016(平成28)年の人口動態統計によるならば、死亡数は1,307,748人。

病院等死75.8%(2000年比▲4.3)、老人施設死6.9%(同+5)、自宅死13.0%(同▲0.9)、その他2.1%(同▲0.7)である。

 

16年前の2000年(死亡数961,653人)と比べると老人施設死が増えて、病院等死が減少している。

老人施設死が増加しているのは老人施設入居者増だけが理由ではなく、かつては老人入居者が危篤になると病院に搬送されて病院で死亡していたケースが多かったのが、病院に搬送して治療の見込みがない場合には、そのまま施設で看取るという考えをする施設が増加したことが多い。

 

1951(昭和26)年には病院等死11.6%、自宅死82.5%であったから大きく変わった。

 

病院等死が2割を超えたのは経済成長が著しくなった1959(昭和34)年。

病院等死が過半数を超えたのが1977(昭和52)年。

この時期を前後に葬祭事業者が大きく増加した。

それゆえ死後の遺体に対する処置は病院がするもの、という観念をもつ葬祭事業者が多い。

 

しかし、病院等での死後の処置は「遺体の管理」という観点で見ればはなはだ不充分なものである。

 

■遺体の変化、感染症 

 

遺体の死後変化は死後1時間内外から発生する。

外見的に死後硬直が出る等明らかになるのは主として病院等から出て以降である。

また病院では死後硬直が進む以前に死後の処置を済ませようとする。

 

だから看護師等は遺体の死後変化については無知に等しく、その対処は充分ではない。

病院における死後の処置はとりあえずの処置に過ぎない。

 

では遺体の変化に直面する葬祭従事者が充分に認識しているか、と言えば残念ながらそうではない。

葬祭従事者も死後変化については正確な認識に乏しく、公衆衛生的配慮も不充分である。

せいぜいドライアイスをあてるだけで遺体は管理不在の下におかれる。

 

遺体の変化は病気、死因、環境によって大きく異なり個体差が大きい。

また日々変化するので細かな観察が欠かせない。

遺体の管理に心砕く事業者はいるが、それは少数派に留まっている。

 

※遺体の変容については

http://romagray.cocolog-nifty.com/himonya/2017/09/post-b3b3.html

 

 

「遺体処置」といえば納棺、湯灌を外注化するところが多い。

一般により丁寧な作業が行われているが、腐敗進行という観点で見るとおよそ効果がない処置である。

 

葬儀の祭壇設営、式の進行は専門分野であるが、遺体の管理は専門外であると認識している葬祭従事者があまりに多過ぎる。
これでは「丁寧で高品質な葬祭サービスを提供している」とは言えない。

 

葬祭従事者は、自分がわからないものだから病院等での専門職である看護師による死後の処置を過剰に信頼し、映画『おくりびと』が人気になれば納棺・湯灌の遺体処置業者に丸投げするケースが少なくない。
極端に言えば遺体の顔も状態にも無関心な葬祭事業者があまりに多過ぎる。

遺体を遠巻きにするのは近親者だけではなく、葬祭従事者も同様である。

 

遺体を詳細に観察している葬祭従事者は理解していることだが、顔面に浮腫等が発生し、近親者が会葬者に遺体との面会を嫌がる事例は1015%程度あるし、身体に至っては5割以上に見られる。臭気も無視できない。

 

また遺体は公衆衛生的にも安全とは言えない。

感染症でも特に危険な一類・二類、三類および指定感染症については厳しく管理され告知も義務づけられている。

だがそれ以外の場合、感染症を主な死因とする死亡の場合以外は死亡診断書・死体検案書に記載されない。

多くの場合、個人情報であることを理由に開示されない。

また医師が遺体の保持している感染症のすべてを把握していないケースが多い。

 

それゆえ葬祭従事者が遺体を扱う際には、危険な感染症を保持していることを前提としたスタンダードプリコーション(標準予防策)に基づいて遺体を取り扱う必要がある。

 

遺体に接する近親者、葬祭従事者への公衆衛生的配慮にもっと関心を払う必要がある。

 

■死者の尊厳を守るということ

 

死者の尊厳ということは、生前の死者の功績や名声に無関係に、また葬儀費用の高にも無関係に誰にも等しく認められるべき権利である。

いのちの尊厳に欠かせない、葬送に従事する者にとって最も重視されるべき理念である。

近親者から遺体を預かり、葬儀が完了するまで葬祭事業者が遺体の管理の責任を負っていることの重要性は極めて大きい。

 

死者の尊厳を守る意味では、東日本大震災の教訓から、葬祭従事者の誰もが、公衆衛生に配慮した遺体対応ができるようになっていることが社会的責任としてある。

 

エンバーミングは現在年間4万体に処置されている。

死亡数に対して約3%である。

2000年に2万体を越し、この時が約1.7%であったから処置件数は倍に、割合も1.8倍近く増加している。

でも、事業者、施設、技術者が少なく、まだまだ選択肢になりえていない地域が多い。

 

※エンバーミングについては

http://www.embalming.jp/

 

浮腫の激しい遺体、事故遺体、病気でひどく変容した遺体、海外等に居住してすぐ帰れない近親者、子どもも高齢者も安心して死者と対面できること等を考慮すれば、エンバーミングの処置率は全体の30%程度には可能になるのが望ましい。

事業利益の向上のためではなく、遺体の尊厳、ゆとりある別れの実現のため、エンバーミングは積極的に検討されていいと思う。

 

エンバーマーの養成機関

https://www.humanceremony.ac.jp/subject/embalming/

 

2017年9月20日 (水)

死学ー遺体の位置づけと取り扱う者の倫理②

死学thanatology,death study

―遺体の位置づけと取り扱う者の倫理
http://romagray.cocolog-nifty.com/himonya/2017/09/post-098c.html#_ga=2.178381540.1927935313.1505885956-429877542.1505885828

の第2回


死学
thanatology,death study

―遺体の位置づけと取り扱う者の倫理②


1.死学とは何か?
(続き)

 

1)日本における現状

 

国際葬儀連盟(FIAT-IFTA)では「葬祭業者」をサナトロジストthanatologistと呼称している。
「サナトロジーthanatology」は「死に関する学問、研究」という意味だが、ここでは誇り高く「死の専門家」と宣言している。
なお、全米葬祭業者協会(NFDA)では自らを「フューネラルディレクターfuneral director」と称している。


日本における「葬祭業」というのは明治時代からあるが、最初は、その多くは葬具提供や葬列の人夫手配等であった。
葬祭業界というのが成立するのは戦後のこと。最初、葬祭業は「遺体を扱う」のであるから厚生省(当時)に関係した。
それを「葬祭業は死体取り扱い業ではなくサービス業である」と主張して葬祭業は通産省(当時)と関係することを求めた。


おそらく当時の通産省では葬祭業をどう位置づけたらいいのか悩ましい時代が戦後長く続いたのだと思う。
葬祭業の大会等に招かれた通産省(現・経済産業省)の担当課長は、「葬祭業は人生最後の儀礼に係わる尊いお仕事です」と決まって挨拶したものだ。


業界の内部には「儀礼産業」あるいは「儀礼文化事業」という主張を掲げる人もいる。

業界の人には、死に係わる仕事からくる社会的な偏見、差別があったために「人生儀礼」「儀礼文化」に係わるとすることで誇りをもちたい、ということがあったように思う。

近年はホテルや航空会社で働く人と同様に「ホスピタリティ産業」であると理解する企業も多くなった。
死者の尊厳を守り、死別して悲嘆に陥っている遺族を支援する「究極のサービス業」である、と主張する人々もいる。


2011
8月経済産業省がライフエンディング・ステージに関する報告書をまとめ、それに寄与する葬祭業のあり方を提言した。

これによると、葬祭業は生活者のライフエンディングに関わる医療者、介護者、あるいは死後の事務処理を行う会計士、行政書士、弁護士等とネットワークを組み、連携すること、「生活者の視点に立った葬祭サービス業」の構築を行うことが要請されている。
そこにおいては消費者契約法、景品表示法、個人情報保護法を守り、超高齢社会における本人あるいは家族、近親者への精神的かつ実務的支援を専門家として提供するサービス、という位置づけである。


葬祭サービス業が他のサービス業とは異なるのは、個々の、固有の遺体の尊厳を守り、その家族、近親者等に寄り添った支援、情報提供であり、宗教者や地域社会と協働し、その信仰や習慣を尊重する態度であろう。
これまでの葬祭業が社会的に位置づけられることが少なかったのは、社会を覆っていた死への穢れ意識であった。
それを打破するのは遺体、家族への偏見なき対応である。

 「生と死を考える会」の創始者にして「死生学」という呼称を最初に提起したA・デーケン(上智大学名誉教授、1932~)は、1985年を「死生学元年」と名づけた。死について語ることが社会的に公認され(始めた)年ということである。

そのきっかけとなったのが癌患者への病名告知の是非、延命治療の是非というターミナルケア(終末期医療)の問題からである。
続いて死別した遺族の悲嘆(グリーフ)の問題に拡がっていった。

死や葬送が市民権を得るようになったのは95年以降のこと。
奇しくもエンバーミングが日本に導入されたのは1988年のことであった。
でも、死に対する偏見・差別は今もなお社会に残っていて、これとの闘いはまだ始まったばかりとも言える。

(この項続く)

 

 

2017年9月19日 (火)

死学 ―遺体の位置づけと取り扱う者の倫理①―遺体に対する考察

遺体に関する考察

 

「遺体」についてはこれまで何回か書いている。

しかし、ブログではまとまった形では掲載していない。そこでこの地味だが逃れられないテーマについて、さまざまな形で書いたものを再編して掲載する。
SNSという特性の同時性とはかけ離れたものであるが、ご理解いただきたい。
しばらく続くが、関心のある方は目をとおしていただけると幸いである。

 

葬儀を論ずる場合に「遺体」は外せない。
しかし、過去に仏教会との関係で葬儀について書き、その中で遺体について書いたら、「残酷過ぎる」ということで、その箇所がカットをよぎなくされたことがあった。


葬儀は死を受けとめる作業であり、プロセスである。遺体の現実を見ずして葬儀を語れるか、と憤慨したが、それまで散々と意見の違いで摩擦が生じていたので、やむなくカットした、という苦い思い出がある。

 

最初は

死学thanatology,death study

―遺体の位置づけと取り扱う者の倫理」
IFSA『遺体衛生保全概論』所収)
を3回に分けて掲載する。

 

死学thanatology,death study

―遺体の位置づけと取り扱う者の倫理①

 

1.死学とは何か?

 

はじめに

 

本論は遺体を取り扱うエンバーマーにとっての遺体の取り扱いに関する倫理について書くことを本旨としている。
但し、エンバーミングは別名で「葬儀科学funeral science」とも称されるように、大きくは死学thanatology,death studyに位置づけられるべきものとしてある。


ところが死学とは、欧米においても日本(多くは「死生学」という用語において)においても内容は確定しているものではない。

人の死は個の死だけではなく、近親者(血縁に限定せず親しい関係を結んだ者、という意味で用いるが)等との関係において起こる出来事である。その意味では医療という範囲を超えていく。


近年においては、1995年に生じた117阪神・淡路大震災、2011年に生じた3・11東日本大震災において数千人、数万人というレベルでの大量死が起こっており、そこで死者および近親者への取り扱い、支援が問題となっている。
それはあくまで個々の死でありながら社会としてどう対応するかが問われる問題としてある。


考えてみるならば、人間が経験してきた歴史には、常に(と表現していいほど)、日常に発生する個々の死に加えて、感染症、自然災害、近代においては戦争により大量死が繰り返されてきた。

乳幼児の死は、戦後日本でようやく抑制することに成功したが、アフリカ、アジア等の第三世界においては今もなお大きな問題としてある。貧困、公衆衛生が人間社会にとって大きな問題となっている。

死学は、死を接点とする、そもそも諸側面から問われる問題を、それがしばしば当該分野では単独に、あるいは孤立的に捉えられがちなテーマを、学問分野だけにもにとらわれず、多様な視点から照射して、個々の患者本人とその周囲の近親者に対して、原点を探りつつ、自由で人間的な死、自由で人間的な弔いを支援するとともに、死に対して向き合っていける社会の実現に寄与することを目的としたものである。

死学の最初に関心を呼んだのは終末期医療terminal care)の分野で人間的な死に方を実現するための患者への支援、ケアの場面であった。

近代医療が治療cureを優先し、患者の人間的な生き方を無視しがちな状態に警鐘を鳴らし、cureだけではなくcareも充分に配慮すべきとの主張を行った。
今の日本では大方のコンセンサスとなっているこうした終末期医療は、死学がもたらした大きな成果である。

同時に災害、戦争、事故、犯罪の被害者である近親者の問題にも関心が向けられてきた。

こうしたことに遭遇して死亡した人の近親者だけではなく、がん等の病気の患者に対する近親者の看護、また近親者の死に面した遺族に対する支援、ケアも課題となっている。WHO(世界保健機構)がホスピスの課題として患者本人へのケアだけではなく、その家族のケアも重要と指摘したのは最近のことである。
しかし、この家族へのケアの状況は医療機関では重要なことと認識されていながら、具体的に取り組んでいる事例はまだ少ない。


喪の作業grief workに対する関心は高まっているが、これの障害になっているのは家族の態様や社会のあり方である。こうして死を排除してきた近代の社会も問われることとなった。

今日terminal care 、あるいはgrief careと呼ばれるものの起源は、欧米では宗教者による病者やその家族へのパストラルケアpastoral careにある。ホスピスの起源が修道院に求められるように。

患者やその家族、あるいは災害等の被災者の家族への傷みpain,今、特定の宗教に偏してではなく,スピリチュアルspirichual、つまり根源的問いとして語られている。
死に瀕した人、あるいは死別した人の傷みが深いことをspirichual painspirichual careは語る。だが、これは中世社会が経験したように論理を超えるゆえ危険性があることも心得ている必要がある。


私たちが求められているのは病気の人、被害に遭った人、そしてその人たちの死に向かうプロセスにおいて抱く傷みと看取りと死別後に抱く家族の傷みに対して、まるでその人のことがわかるように説くことではない。
常に謙虚に固有の傷みとして受け止め、理解しようとする態度である。死者への尊敬、遺族への配慮はささやかな佇まいであり、日本語で呼ぶ「遺体衛生保全」embalmingは彼らに捧げるささやかな一つの環境なのだと思う。

 

2017年1月11日 (水)

安易に「孤独死」「孤立死」と言うな!―「弔い」としての葬式(2)

安易に「孤独死」「孤立死」と言うな!
死者(遺体)の尊厳と「遺体のリアルな認識」

 


死者(遺体)の尊厳を守る―というのは、死者(遺体)を美しく保つことだけを意味しません。
腐敗した遺体であろうと尊厳をもって扱うということです。


※東日本大震災では葬祭業者がこの問題に直面した。
そして死者の尊厳を守るべく正面から相対し、自らの責務を尽くした。
このことはあまり報道されなかったが、きちんと記憶されるべきだと思う。


火葬と埋葬―東日本大震災の仮埋葬

http://www.sogi.co.jp/sub/zuiso/skar.htm
東日本大震災 遺体搬送、埋葬・火葬
http://romagray.cocolog-nifty.com/himonya/2011/03/post-fe36.html
奥州平泉の「大文字」。現地に空元気を送るな!
 http://romagray.cocolog-nifty.com/himonya/2011/08/post-a4a8.html
中秋の名月

http://romagray.cocolog-nifty.com/himonya/2011/09/post-112a.html

また、
その死者が生前どんな評価を世間、社会から受けていようと、その弔いにおいては差別することなく、人格としては等しく尊重して扱うことを意味します。


最近心配することは人間の身体は死ぬとどうなるか、ということへのリアルな認識の欠如です。


病院で死に、すぐに斎場(葬儀会館)に運ばれ、冷蔵庫に保管され、通夜・葬儀、そして火葬となると、意識していないと、遺体に対面せずに葬式を終えることすらあります。


冷蔵庫で保管されれば安全と思いがちですが、腐敗の進行が緩やかになるだけで、腐敗が止まるわけではありません。

人間も他の動物と同じく、死亡すれば腐敗を開始するのは自然なことです。
魚も2週間も冷蔵庫に入れっぱなしにすれば腐ります。

 

※腐敗の問題を解決するためにはエンバーミングしかない。
エンバーミングはIFSAでは「遺体衛生保全」と訳されているが、腐敗を防止するのみならず、公衆衛生的にも安全にする。
日本ではIFSA(一般社団法人日本遺体衛生保全協会)が自主基準のもとに実施している。
「遺体保全」と称してエンバーミングもどきも行われているので注意が必要だ。
エンバーミングの処置を施した場合、約2週間程度は安全に保全される。
海外移送等で2週間以上の保全を必要な場合にはそれなりに対処する。
事故遺体、長期闘病でやつれた遺体の修復も行うが、状態によって限度があるのはもちろんのこと。
費用は処置内容によっても異なるが、1体12~20万円程度。平均15万円。
IFSAの自主基準作成等に私は責任をもっている。

http://www.embalming.jp/embalming/


1995
年の阪神・淡路大震災で仮設住宅に入居した人が、周囲に気づかれることなく死に、その遺体が死後相当経過した後に発見される事例が出て「孤独死」として注目を浴びました。
最近では遺体発見が遅れたのは、死者が社会から孤立していた結果の死として「孤立死」と呼ばれることもあります。
東日本大震災でも仮設住居内で死後相当程度経過して遺体が発見された事例があるとの報道がされました。

単独世帯に住む人が血縁、地縁、社縁、あるいは友人関係という縁から孤立していたから発見が遅れた「無縁者の死」であるとも言われます。


だが、こうした単独死の事例を「無縁者の死」と決めつけ、死者を人間関係が希薄で孤独、あるいは周囲から孤立していたと一律に断ずるのはいかがなものでしょうか。


実際、遺体の発見が遅れた場合、腐敗が進行し、遺体は融解し、体液や血液が漏出し、腐敗臭がきつく、住居も相当にクリーニングしないと再度の利用が困難となります。

長期間でなく死後数日以内でも夏や入浴中の死であれば腐敗は進みます。


遺体は腐敗する、という至極当たり前の事実がセンセーショナルにとらえられてはいないでしょうか。


15
年の国民生活基礎調査では単独世帯は26.8
%を占めています。
現代社会は単独死のリスクを抱えているのです。
しかし死後の形状だけでもって、第三者が「無縁死」「孤独死」「孤立死」などの安易な論評をすることで、遺された家族の悲痛が増すことになってはいけないと思います。


※遺品整理業の方が「孤独死」「孤立死」という言葉を生み、また、その作業を「特殊清掃」と言う人がいる。
事情は確かにはわからないのだから「単独死」でいいではないか。
鵜飼秀徳『無葬社会』では「孤独死」と安易に用いていたので、週刊現代の書評で私は「単独死」と言い換えた。また同書では遺品整理業者が「特殊清掃」と言っているのを何の問題意識もなく、そのまま「特殊清掃」と書いているのは違和感があった。
「人の死」を論ずる以上、こうした問題については細心でなければならない。
こういう無神経な言葉が一般化して一人歩きしていることを憂う。

腐敗が長期におよんだ場合の作業は大変であることは確かだろう。だが「特殊」と名づけることが適切であろうか?
そう呼ぶ「態度」に疑問をもつ。


孤独死、孤立死の用語はこれでいいのか?

http://romagray.cocolog-nifty.com/himonya/2012/11/post.html

死者はものを言いません。
しかしその生死には常に固有の物語があります。
それを知ったがごとく、死者やその家族を論評することは、死者の尊厳への不当な介入ではないでしょうか。

2012年7月 8日 (日)

エンバーミングの教科書を刊行

このところ会う人に「最近ブログの更新がないですね」とよく言われる。
1月からの仕事の重なり、遅れが持ち越している。
このブログでも「3月はお休みします」と書いたが、4月には改善するのではないか、と願望していたのだが、いっこうに改善されないままでここまできた。

自分ではそれなりに着々と仕事をあげているつもりなのだが、3月末に仕上げる作業が7月に入っても上がらない。これはさすが7月中にけりをつけたいと思っている。
4月には書き上げる予定の本の原稿は着手すらしていない。
弁解するなら1月から6~7回の徹夜をした、ということは、徹夜をするのは大体最終段階なので、同じ回数以上のものを仕上げている、ということである。

前にも言ったと記憶しているが「老化」現象である。
以前は、これくらいの日数があればあがったものが、平均して時間が倍かかるようになっている。
予定を入れる段階では、以前の処理能力で計算しているものだから、遅れ、重なり、さらに遅れるという負のスパイラルに完璧に入っている。

私が例年抱えている課題について詳細は書けないが、3月から作業が始まり、7月いっぱいまでかかる。これが地方行脚を伴うため、梅雨と夏にかかり、これで体力を消耗する。自分一人の都合で左右できないので、これはいやがおうでもしなければならない。
このところ止めていたパソコン持参の旅がまた復活するはめになった。

抱えていた仕事の一つ、『遺体衛生保全(エンバーミング)概論』が7月下旬に発行される。これはIFSA(日本遺体衛生保全協会)が刊行するもので、若いエンバーマーが中心になって作成した。

私も「死学と遺体論」という少し長いのを書いていて、巻末付録の大部になる「法規集」を編んだ。若い人たちに編集はすっかりまかせていたが、最後の段階で入らざるを得なくなった。
B5判で約450ページになる化け物のような本になった。これは入稿を済ませ、印刷・製本の段階。7月20日には納品予定。

この本も6月下旬に出版記念会が予定されていて、告知も済んでいたのだが、ミスのない本にしようと1か月出版記念会を延ばしてもらった。特別な事故がないかぎり、7月23日の出版記念会には間に合う。
この本、エンバーマーのための教科書として作成しているが、葬祭に携わる人にも大いに有用である。死体変容についても、遺体の公衆衛生についても詳述されている。

20,000円もする本だが、少部数発行でしかも大部なので勘弁いただきたい。「これからエンバーミングをめざす人のために」と執筆はほとんどがボランティアで行われたので、。原価で譲るとなると4万円くらいになる。
販売はIFSA事務局でも私の事務所(表現文化社)でも扱う。7月30日頃から申し込みを受け付ける。

自分が関係して言うのも何だが、これは日本の葬祭分野では記念碑的出版物となるであろう。

昨年6月に難産の結果『増補三訂 葬儀概論』を出版したが、この2つの本を送り出し、私としては葬祭関連の方々から受けた恩の一部をお返しできたかな、と思う。

葬送、エンバーミングについては、あいかわらずいい加減な言説が飛び交っているが、基本図書に目を通したうえで言ってほしいと思う。

7月末には私の個人史としては40年間胸がつかえるように思っていた出来事について、40年前(69~71)に私が書いた論考をまとめ、当時のまま復刻する本が出る。私が散逸したものもあり、編集した野田さんが探し蒐集した。
私としては、出すこと自体への躊躇いがあり、また、恥ずかしい失敗作もあるので復刻を躊躇ったが、企画した編集者の野田さんが「記録ですから」と熱心に言うので、あえて削らないで出すことにした。条件は一つ、発表順に掲載すること、であった。
2年間、この本を出すことに躊躇してきた。当時の仲間誰一人と相談しないで決めた。
今でも悪文だが当時は数倍も悪文である。だが誤字以外には手をつけず、巻末に現在の心境を書いた。
40年前のこととはいえ、歴史の批評に晒されることを回避してはならないだろう。当時、キリスト教界で「異端」とまで言われたものだ。当時のことを研究する人のため、何が故に異端と断じられたのか、一次史料を残しておくのもいいだろうという心境になった。
正式にタイトル、価格が決まった時にお知らせする。

一般に入手できるものとしては、
『大法輪』9月号(8月8日発売)の特集に書いている。(締切を過ぎて昨晩書き上げて編集部にメール添付で送った)
7月12日(木曜)夜、生放送でFM放送J-waveのジャム・ザ・ワールド20~21時台で20分くらいだろうが、東京都の新しい樹林型墓地(樹林型合葬埋蔵施設、小平霊園に作られた)のことなど話す予定。まだ内容について書いたものが送られてきていないのだから、あくまで「予定」でしかないが。

2011年10月 5日 (水)

学者は手を抜くな 松尾剛次『葬式仏教の誕生』

きょうは雨
あまり得意ではない。

日本中世史が専門で注目していた松尾剛次さん(山形大学教授)が本を出した。
『葬式仏教の誕生 中世の仏教革命』(平凡社新書)というタイトルだから買うじゃないですか。
しかし、この本は、学者はよほど調べなければ専門外のことを書くべきではない、という見本みたいな本である。

「現代」という問題意識、昨年ブームになり今や急激に廃れた島田裕巳さんの『葬式は、要らない』に対抗したつもりだろうか。島田さんの本が売れたのは時代のムードに合ったからであり、本の内容は素人丸出しの程度の低いものであった。それが「東大の宗教学者が書いた本」となった。

「葬式仏教の誕生」(私は「葬祭仏教」と中立的に用いて、揶揄的な「葬式仏教」という言葉は括弧付きでしか用いない。なお歴史的名著である圭室諦成大先生の名著のタイトルは『葬式仏教』(大法輪閣)であるが、圭室先生は「葬祭」と「葬式」をあまり意識せずに併用している)というタイトルに惹かれて読んだが、第1章の「現代の葬式事情」を読み、あまりの素人さに腹が立った。

今生きている時代のことにこうしたいいかげんなことしか書けない人間が中世について書いたことが信用できるのか、とさえ疑問に思った。学者が書くなら調べられることは調べて書け、と言いたい。
「学者」が書けばとかく信用する危ない世界(島田本も根拠の乏しいデータを使ったのだが、「学者が使用した」と根拠あるものにとらえられたのだが、松尾さんもその島田本のデータを引用している。根拠のないデータもこうしてすっかり公認されたものになる恐ろしさ)なのだ。気をつけて書くべし。
書くなら素人としての分野は素人としての謙虚さで書くべきだろう。
かねがね松尾氏の中世仏教研究に注目していた一人として至極残念である。

「千の風になって」は原詩は英語で、日本では新井満訳・作曲の歌でブームになったが、少なくとも原詩は松尾氏が言う「墓石と墓参り習俗を否定」することを目的に書かれたものではない。
僧侶たちが、「墓石と墓参り習俗を否定」する歌と心配したことは事実であるが。

火葬についても奇妙なことを言っている。
「火葬は、死体を火によって燃やすやり方である。都市化が進み、土葬にする土地が少なくなったことや、土葬にすると腐敗臭が出るなど、衛生上の問題もあって、現在、日本では火葬するのが原則である。」

日本において火葬は明治末期から推進されることになったが、6割を越すのは1960(昭和35)年のことで、この年が63.1%、1970年には79.2%、1980年には91.1%、と急激に火葬率が上昇、2010年以降は99.9%である。

明治後期からの推進は、コレラ等の感染症対策を契機としている。だから「衛生上の問題」とするのは正しいが、「土葬は腐敗臭」というのはいかにも見たかのような嘘である。
腐敗臭が外に漏れないよう深く埋葬したのが通例で、松尾氏が専門の中世では、行き倒れの死者が街にそのままに放置された事例もあったから腐敗臭はあったろうが。

「土地が少なくなった」のは江戸、大阪等の大都市では江戸時代からそうであり、今韓国や中国で火葬を推進している理由の一つは土地の有効利用にあることは確かである。だが、日本で高度経済の波に乗って推進された理由は少なくとも「土地の有効活用」はそれほど目的とされてはいない。「近代化」が旗振り役になった。

また、日本では、墓埋法では土葬も認められていて、現実的に火葬が進んでいるのは、せっかくお金を出して火葬場を作ったのに利用されないのは困るという各地方自治体が条例等で原則化しているので「法」レベルのことではない。

松尾氏が、おそらく筆が滑ったのであろうが、「存在論」の問題として「火葬をする人々は火から生まれ、火に帰ってゆくと考えているだろうし」と書くのは与太話以外の何ものでもない。

松尾氏はエンバーミングについて自信をもった解説をしている。それはそれほど間違ってはいない。でもこの情報どこから得たのであろうか。参考文献にはエンバーミングを論じたものはない。どこかの施設を見学したのであろうか。あるいはネットでIFSA(日本遺体衛生保全協会)のサイトから得た情報なのであろうか。ネットからの情報であれば、参考として書かなければならない。

また松尾氏は「現在、日本には五人の日本人エンバーマーがいるそうである」と書く。
「現在」という以上、調べればすぐわかるはずである。IFSAのサイトを見たのであればIFSAに問い合わせれば事務局では「2011年5月段階では」と教えることになっている。その手間も省いたのか。
私が書くものでは「○年○月現在」と断わったうえで最新のデータを出すし、私だから書けるのではなく、研究者の問い合わせに応じている。「5人」というのはいつのデータか。

少しだけ言っておくとIFSAでは日本人エンバーマーを養成しており、IFSA認定のエンバーマーは70人を超える。
「5人」に近い数は、「北米で資格をとった日本人」の数に近い。これは正確に把握しているわけではないが(日本で現在全てがエンバーマーとして仕事をしているわけではないので)7~8人である。

松尾氏は「エンバーミングは、もともと戦死者のための技術なので、事故などで破損した遺体も復元することが可能である」と書いている。いかにも自信たっぷりに。

「復元」は現在は「修復」と訳語を統一しているが(restorative art)そんなことはどうでもよく、修復には限界がある。爆破されて粉々になった遺体を修復するなどはいくらエンバーミングでも無理があるようだ(私自身はエンバーマーではないので)。
「戦死者の技術」というのは半分だけあたっている。
北米でエンバーミングが流行した契機となったのが南北戦争であるからだ。
当時の北米では土葬が中心であったので(今はすごい勢いで北米でも火葬が進み、州によっては5割を超えたところもあるので、現在は「土葬の国」とは言えなくなっている)、遠距離にある戦地から地元に戦死者を還す時に遺体の腐敗が進捗しないことを主たる目的としてエンバーミングが行われた。

「リンカーンもそれを勧めた一人」かどうかはわからないが、南北戦争に勝利したリンカーンが暗殺された後、エンバーミングが施され、その遺体が各地を回ったおり、その遺体を見たことでエンバーミングが人気となり普及する大きな契機になったらしい。

米合衆国ではfuneral law(葬儀に関する消費者保護のための法律とでも訳そうか)に葬祭業者は「エンバーミングは義務づけられている」と言ってはならない、とあるので、約9割程度の遺体にエンバーミングされてはいても、義務づけられているわけではない。

日本の米軍基地で朝鮮戦争、ベトナム戦争での戦死者がエンバーミングされたことは歴史的な事実であるが、しかし松尾氏が言う「地雷で死ぬと、体がバラバラなので、くっつける必要がある」からではない。こんなことができるはずがない。
なお現在では遺体の航空機による移送ではエンバーミングを施すことが航空機会社の常識みたいになっている。だから海外で死亡した日本人は遺体のまま帰国させようとすると、エンバーミングが施されている例が多い。

「学者が書いた」のは「信用」という付加価値があり、私のようなジャーナリストが書いたものは引用対象にすらならないのが、どうも学者さんの世界らしい。
しかし、死や葬送が少し話題になると歴史家、社会学者、民俗学者が、まるで素人なのにいかにも知っているかのように語ることが増えているのは困る。書くなら、きちんと調べろと言いたい。

最後にするが、松尾氏はこんなことも言っている。
「カトリックでは、最後の審判の復活に際し、死んだときの姿で復活すると考えられているため、火葬は禁止されている」と書く。
この本の発行は今年の8月である。
復活を「身体の復活」も含めるが、「死んだときの姿」と説明されたかは私は不明である。但し、日本のカトリックは明治時代から火葬が許容されていた。
カトリックで火葬禁止が解かれるのは1960年代のバチカン公会議で、以降は北米、欧州でも火葬が増加している。
もう40年前に変化したことをわからずに書くのは恥ずかしいではないか。

すぐ調べればわかる現代のことに対する理解がこんな程度でいいのだろうか。
期待して読んだが、本論は特に新しいことを言っているわけではない。
3・11後に出された本なので、それが油の乗った50代の学者がどう受け止め書くか、関心をもったが、こんな程度の現状認識から始まっているのだからがっかりである。
ジャーナリストで学者じゃない者でも歴史や何かを書くときにはできるだけ調べて書く。調べることを欠いた学者の不確実な本は、それを読んだまた素人の学者や学生が引用してそれを拡散する。
いやなこった。

松尾さんの反論を期待している。

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