エンバーミング

2017年9月20日 (水)

死学ー遺体の位置づけと取り扱う者の倫理②

死学thanatology,death study

―遺体の位置づけと取り扱う者の倫理
http://romagray.cocolog-nifty.com/himonya/2017/09/post-098c.html#_ga=2.178381540.1927935313.1505885956-429877542.1505885828

の第2回


死学
thanatology,death study

―遺体の位置づけと取り扱う者の倫理②


1.死学とは何か?
(続き)

 

1)日本における現状

 

国際葬儀連盟(FIAT-IFTA)では「葬祭業者」をサナトロジストthanatologistと呼称している。
「サナトロジーthanatology」は「死に関する学問、研究」という意味だが、ここでは誇り高く「死の専門家」と宣言している。
なお、全米葬祭業者協会(NFDA)では自らを「フューネラルディレクターfuneral director」と称している。


日本における「葬祭業」というのは明治時代からあるが、最初は、その多くは葬具提供や葬列の人夫手配等であった。
葬祭業界というのが成立するのは戦後のこと。最初、葬祭業は「遺体を扱う」のであるから厚生省(当時)に関係した。
それを「葬祭業は死体取り扱い業ではなくサービス業である」と主張して葬祭業は通産省(当時)と関係することを求めた。


おそらく当時の通産省では葬祭業をどう位置づけたらいいのか悩ましい時代が戦後長く続いたのだと思う。
葬祭業の大会等に招かれた通産省(現・経済産業省)の担当課長は、「葬祭業は人生最後の儀礼に係わる尊いお仕事です」と決まって挨拶したものだ。


業界の内部には「儀礼産業」あるいは「儀礼文化事業」という主張を掲げる人もいる。

業界の人には、死に係わる仕事からくる社会的な偏見、差別があったために「人生儀礼」「儀礼文化」に係わるとすることで誇りをもちたい、ということがあったように思う。

近年はホテルや航空会社で働く人と同様に「ホスピタリティ産業」であると理解する企業も多くなった。
死者の尊厳を守り、死別して悲嘆に陥っている遺族を支援する「究極のサービス業」である、と主張する人々もいる。


2011
8月経済産業省がライフエンディング・ステージに関する報告書をまとめ、それに寄与する葬祭業のあり方を提言した。

これによると、葬祭業は生活者のライフエンディングに関わる医療者、介護者、あるいは死後の事務処理を行う会計士、行政書士、弁護士等とネットワークを組み、連携すること、「生活者の視点に立った葬祭サービス業」の構築を行うことが要請されている。
そこにおいては消費者契約法、景品表示法、個人情報保護法を守り、超高齢社会における本人あるいは家族、近親者への精神的かつ実務的支援を専門家として提供するサービス、という位置づけである。


葬祭サービス業が他のサービス業とは異なるのは、個々の、固有の遺体の尊厳を守り、その家族、近親者等に寄り添った支援、情報提供であり、宗教者や地域社会と協働し、その信仰や習慣を尊重する態度であろう。
これまでの葬祭業が社会的に位置づけられることが少なかったのは、社会を覆っていた死への穢れ意識であった。
それを打破するのは遺体、家族への偏見なき対応である。

 「生と死を考える会」の創始者にして「死生学」という呼称を最初に提起したA・デーケン(上智大学名誉教授、1932~)は、1985年を「死生学元年」と名づけた。死について語ることが社会的に公認され(始めた)年ということである。

そのきっかけとなったのが癌患者への病名告知の是非、延命治療の是非というターミナルケア(終末期医療)の問題からである。
続いて死別した遺族の悲嘆(グリーフ)の問題に拡がっていった。

死や葬送が市民権を得るようになったのは95年以降のこと。
奇しくもエンバーミングが日本に導入されたのは1988年のことであった。
でも、死に対する偏見・差別は今もなお社会に残っていて、これとの闘いはまだ始まったばかりとも言える。

(この項続く)

 

 

2017年9月19日 (火)

死学 ―遺体の位置づけと取り扱う者の倫理①―遺体に対する考察

遺体に関する考察

 

「遺体」についてはこれまで何回か書いている。

しかし、ブログではまとまった形では掲載していない。そこでこの地味だが逃れられないテーマについて、さまざまな形で書いたものを再編して掲載する。
SNSという特性の同時性とはかけ離れたものであるが、ご理解いただきたい。
しばらく続くが、関心のある方は目をとおしていただけると幸いである。

 

葬儀を論ずる場合に「遺体」は外せない。
しかし、過去に仏教会との関係で葬儀について書き、その中で遺体について書いたら、「残酷過ぎる」ということで、その箇所がカットをよぎなくされたことがあった。


葬儀は死を受けとめる作業であり、プロセスである。遺体の現実を見ずして葬儀を語れるか、と憤慨したが、それまで散々と意見の違いで摩擦が生じていたので、やむなくカットした、という苦い思い出がある。

 

最初は

死学thanatology,death study

―遺体の位置づけと取り扱う者の倫理」
IFSA『遺体衛生保全概論』所収)
を3回に分けて掲載する。

 

死学thanatology,death study

―遺体の位置づけと取り扱う者の倫理①

 

1.死学とは何か?

 

はじめに

 

本論は遺体を取り扱うエンバーマーにとっての遺体の取り扱いに関する倫理について書くことを本旨としている。
但し、エンバーミングは別名で「葬儀科学funeral science」とも称されるように、大きくは死学thanatology,death studyに位置づけられるべきものとしてある。


ところが死学とは、欧米においても日本(多くは「死生学」という用語において)においても内容は確定しているものではない。

人の死は個の死だけではなく、近親者(血縁に限定せず親しい関係を結んだ者、という意味で用いるが)等との関係において起こる出来事である。その意味では医療という範囲を超えていく。


近年においては、1995年に生じた117阪神・淡路大震災、2011年に生じた3・11東日本大震災において数千人、数万人というレベルでの大量死が起こっており、そこで死者および近親者への取り扱い、支援が問題となっている。
それはあくまで個々の死でありながら社会としてどう対応するかが問われる問題としてある。


考えてみるならば、人間が経験してきた歴史には、常に(と表現していいほど)、日常に発生する個々の死に加えて、感染症、自然災害、近代においては戦争により大量死が繰り返されてきた。

乳幼児の死は、戦後日本でようやく抑制することに成功したが、アフリカ、アジア等の第三世界においては今もなお大きな問題としてある。貧困、公衆衛生が人間社会にとって大きな問題となっている。

死学は、死を接点とする、そもそも諸側面から問われる問題を、それがしばしば当該分野では単独に、あるいは孤立的に捉えられがちなテーマを、学問分野だけにもにとらわれず、多様な視点から照射して、個々の患者本人とその周囲の近親者に対して、原点を探りつつ、自由で人間的な死、自由で人間的な弔いを支援するとともに、死に対して向き合っていける社会の実現に寄与することを目的としたものである。

死学の最初に関心を呼んだのは終末期医療terminal care)の分野で人間的な死に方を実現するための患者への支援、ケアの場面であった。

近代医療が治療cureを優先し、患者の人間的な生き方を無視しがちな状態に警鐘を鳴らし、cureだけではなくcareも充分に配慮すべきとの主張を行った。
今の日本では大方のコンセンサスとなっているこうした終末期医療は、死学がもたらした大きな成果である。

同時に災害、戦争、事故、犯罪の被害者である近親者の問題にも関心が向けられてきた。

こうしたことに遭遇して死亡した人の近親者だけではなく、がん等の病気の患者に対する近親者の看護、また近親者の死に面した遺族に対する支援、ケアも課題となっている。WHO(世界保健機構)がホスピスの課題として患者本人へのケアだけではなく、その家族のケアも重要と指摘したのは最近のことである。
しかし、この家族へのケアの状況は医療機関では重要なことと認識されていながら、具体的に取り組んでいる事例はまだ少ない。


喪の作業grief workに対する関心は高まっているが、これの障害になっているのは家族の態様や社会のあり方である。こうして死を排除してきた近代の社会も問われることとなった。

今日terminal care 、あるいはgrief careと呼ばれるものの起源は、欧米では宗教者による病者やその家族へのパストラルケアpastoral careにある。ホスピスの起源が修道院に求められるように。

患者やその家族、あるいは災害等の被災者の家族への傷みpain,今、特定の宗教に偏してではなく,スピリチュアルspirichual、つまり根源的問いとして語られている。
死に瀕した人、あるいは死別した人の傷みが深いことをspirichual painspirichual careは語る。だが、これは中世社会が経験したように論理を超えるゆえ危険性があることも心得ている必要がある。


私たちが求められているのは病気の人、被害に遭った人、そしてその人たちの死に向かうプロセスにおいて抱く傷みと看取りと死別後に抱く家族の傷みに対して、まるでその人のことがわかるように説くことではない。
常に謙虚に固有の傷みとして受け止め、理解しようとする態度である。死者への尊敬、遺族への配慮はささやかな佇まいであり、日本語で呼ぶ「遺体衛生保全」embalmingは彼らに捧げるささやかな一つの環境なのだと思う。

 

2017年1月11日 (水)

安易に「孤独死」「孤立死」と言うな!―「弔い」としての葬式(2)

安易に「孤独死」「孤立死」と言うな!
死者(遺体)の尊厳と「遺体のリアルな認識」

 


死者(遺体)の尊厳を守る―というのは、死者(遺体)を美しく保つことだけを意味しません。
腐敗した遺体であろうと尊厳をもって扱うということです。


※東日本大震災では葬祭業者がこの問題に直面した。
そして死者の尊厳を守るべく正面から相対し、自らの責務を尽くした。
このことはあまり報道されなかったが、きちんと記憶されるべきだと思う。


火葬と埋葬―東日本大震災の仮埋葬

http://www.sogi.co.jp/sub/zuiso/skar.htm
東日本大震災 遺体搬送、埋葬・火葬
http://romagray.cocolog-nifty.com/himonya/2011/03/post-fe36.html
奥州平泉の「大文字」。現地に空元気を送るな!
 http://romagray.cocolog-nifty.com/himonya/2011/08/post-a4a8.html
中秋の名月

http://romagray.cocolog-nifty.com/himonya/2011/09/post-112a.html

また、
その死者が生前どんな評価を世間、社会から受けていようと、その弔いにおいては差別することなく、人格としては等しく尊重して扱うことを意味します。


最近心配することは人間の身体は死ぬとどうなるか、ということへのリアルな認識の欠如です。


病院で死に、すぐに斎場(葬儀会館)に運ばれ、冷蔵庫に保管され、通夜・葬儀、そして火葬となると、意識していないと、遺体に対面せずに葬式を終えることすらあります。


冷蔵庫で保管されれば安全と思いがちですが、腐敗の進行が緩やかになるだけで、腐敗が止まるわけではありません。

人間も他の動物と同じく、死亡すれば腐敗を開始するのは自然なことです。
魚も2週間も冷蔵庫に入れっぱなしにすれば腐ります。

 

※腐敗の問題を解決するためにはエンバーミングしかない。
エンバーミングはIFSAでは「遺体衛生保全」と訳されているが、腐敗を防止するのみならず、公衆衛生的にも安全にする。
日本ではIFSA(一般社団法人日本遺体衛生保全協会)が自主基準のもとに実施している。
「遺体保全」と称してエンバーミングもどきも行われているので注意が必要だ。
エンバーミングの処置を施した場合、約2週間程度は安全に保全される。
海外移送等で2週間以上の保全を必要な場合にはそれなりに対処する。
事故遺体、長期闘病でやつれた遺体の修復も行うが、状態によって限度があるのはもちろんのこと。
費用は処置内容によっても異なるが、1体12~20万円程度。平均15万円。
IFSAの自主基準作成等に私は責任をもっている。

http://www.embalming.jp/embalming/


1995
年の阪神・淡路大震災で仮設住宅に入居した人が、周囲に気づかれることなく死に、その遺体が死後相当経過した後に発見される事例が出て「孤独死」として注目を浴びました。
最近では遺体発見が遅れたのは、死者が社会から孤立していた結果の死として「孤立死」と呼ばれることもあります。
東日本大震災でも仮設住居内で死後相当程度経過して遺体が発見された事例があるとの報道がされました。

単独世帯に住む人が血縁、地縁、社縁、あるいは友人関係という縁から孤立していたから発見が遅れた「無縁者の死」であるとも言われます。


だが、こうした単独死の事例を「無縁者の死」と決めつけ、死者を人間関係が希薄で孤独、あるいは周囲から孤立していたと一律に断ずるのはいかがなものでしょうか。


実際、遺体の発見が遅れた場合、腐敗が進行し、遺体は融解し、体液や血液が漏出し、腐敗臭がきつく、住居も相当にクリーニングしないと再度の利用が困難となります。

長期間でなく死後数日以内でも夏や入浴中の死であれば腐敗は進みます。


遺体は腐敗する、という至極当たり前の事実がセンセーショナルにとらえられてはいないでしょうか。


15
年の国民生活基礎調査では単独世帯は26.8
%を占めています。
現代社会は単独死のリスクを抱えているのです。
しかし死後の形状だけでもって、第三者が「無縁死」「孤独死」「孤立死」などの安易な論評をすることで、遺された家族の悲痛が増すことになってはいけないと思います。


※遺品整理業の方が「孤独死」「孤立死」という言葉を生み、また、その作業を「特殊清掃」と言う人がいる。
事情は確かにはわからないのだから「単独死」でいいではないか。
鵜飼秀徳『無葬社会』では「孤独死」と安易に用いていたので、週刊現代の書評で私は「単独死」と言い換えた。また同書では遺品整理業者が「特殊清掃」と言っているのを何の問題意識もなく、そのまま「特殊清掃」と書いているのは違和感があった。
「人の死」を論ずる以上、こうした問題については細心でなければならない。
こういう無神経な言葉が一般化して一人歩きしていることを憂う。

腐敗が長期におよんだ場合の作業は大変であることは確かだろう。だが「特殊」と名づけることが適切であろうか?
そう呼ぶ「態度」に疑問をもつ。


孤独死、孤立死の用語はこれでいいのか?

http://romagray.cocolog-nifty.com/himonya/2012/11/post.html

死者はものを言いません。
しかしその生死には常に固有の物語があります。
それを知ったがごとく、死者やその家族を論評することは、死者の尊厳への不当な介入ではないでしょうか。

2012年7月 8日 (日)

エンバーミングの教科書を刊行

このところ会う人に「最近ブログの更新がないですね」とよく言われる。
1月からの仕事の重なり、遅れが持ち越している。
このブログでも「3月はお休みします」と書いたが、4月には改善するのではないか、と願望していたのだが、いっこうに改善されないままでここまできた。

自分ではそれなりに着々と仕事をあげているつもりなのだが、3月末に仕上げる作業が7月に入っても上がらない。これはさすが7月中にけりをつけたいと思っている。
4月には書き上げる予定の本の原稿は着手すらしていない。
弁解するなら1月から6~7回の徹夜をした、ということは、徹夜をするのは大体最終段階なので、同じ回数以上のものを仕上げている、ということである。

前にも言ったと記憶しているが「老化」現象である。
以前は、これくらいの日数があればあがったものが、平均して時間が倍かかるようになっている。
予定を入れる段階では、以前の処理能力で計算しているものだから、遅れ、重なり、さらに遅れるという負のスパイラルに完璧に入っている。

私が例年抱えている課題について詳細は書けないが、3月から作業が始まり、7月いっぱいまでかかる。これが地方行脚を伴うため、梅雨と夏にかかり、これで体力を消耗する。自分一人の都合で左右できないので、これはいやがおうでもしなければならない。
このところ止めていたパソコン持参の旅がまた復活するはめになった。

抱えていた仕事の一つ、『遺体衛生保全(エンバーミング)概論』が7月下旬に発行される。これはIFSA(日本遺体衛生保全協会)が刊行するもので、若いエンバーマーが中心になって作成した。

私も「死学と遺体論」という少し長いのを書いていて、巻末付録の大部になる「法規集」を編んだ。若い人たちに編集はすっかりまかせていたが、最後の段階で入らざるを得なくなった。
B5判で約450ページになる化け物のような本になった。これは入稿を済ませ、印刷・製本の段階。7月20日には納品予定。

この本も6月下旬に出版記念会が予定されていて、告知も済んでいたのだが、ミスのない本にしようと1か月出版記念会を延ばしてもらった。特別な事故がないかぎり、7月23日の出版記念会には間に合う。
この本、エンバーマーのための教科書として作成しているが、葬祭に携わる人にも大いに有用である。死体変容についても、遺体の公衆衛生についても詳述されている。

20,000円もする本だが、少部数発行でしかも大部なので勘弁いただきたい。「これからエンバーミングをめざす人のために」と執筆はほとんどがボランティアで行われたので、。原価で譲るとなると4万円くらいになる。
販売はIFSA事務局でも私の事務所(表現文化社)でも扱う。7月30日頃から申し込みを受け付ける。

自分が関係して言うのも何だが、これは日本の葬祭分野では記念碑的出版物となるであろう。

昨年6月に難産の結果『増補三訂 葬儀概論』を出版したが、この2つの本を送り出し、私としては葬祭関連の方々から受けた恩の一部をお返しできたかな、と思う。

葬送、エンバーミングについては、あいかわらずいい加減な言説が飛び交っているが、基本図書に目を通したうえで言ってほしいと思う。

7月末には私の個人史としては40年間胸がつかえるように思っていた出来事について、40年前(69~71)に私が書いた論考をまとめ、当時のまま復刻する本が出る。私が散逸したものもあり、編集した野田さんが探し蒐集した。
私としては、出すこと自体への躊躇いがあり、また、恥ずかしい失敗作もあるので復刻を躊躇ったが、企画した編集者の野田さんが「記録ですから」と熱心に言うので、あえて削らないで出すことにした。条件は一つ、発表順に掲載すること、であった。
2年間、この本を出すことに躊躇してきた。当時の仲間誰一人と相談しないで決めた。
今でも悪文だが当時は数倍も悪文である。だが誤字以外には手をつけず、巻末に現在の心境を書いた。
40年前のこととはいえ、歴史の批評に晒されることを回避してはならないだろう。当時、キリスト教界で「異端」とまで言われたものだ。当時のことを研究する人のため、何が故に異端と断じられたのか、一次史料を残しておくのもいいだろうという心境になった。
正式にタイトル、価格が決まった時にお知らせする。

一般に入手できるものとしては、
『大法輪』9月号(8月8日発売)の特集に書いている。(締切を過ぎて昨晩書き上げて編集部にメール添付で送った)
7月12日(木曜)夜、生放送でFM放送J-waveのジャム・ザ・ワールド20~21時台で20分くらいだろうが、東京都の新しい樹林型墓地(樹林型合葬埋蔵施設、小平霊園に作られた)のことなど話す予定。まだ内容について書いたものが送られてきていないのだから、あくまで「予定」でしかないが。

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