グリーフ

2017年3月12日 (日)

遺族の肖像・東日本大震災アーカイブ⑥

◎遺族の肖像―311の被災者

 

「記憶がゴチャゴチャ」している被災者

 

女川町から転出した人たちだけではなく、残った人たちもさまざまな転変をよぎなくされた。

ほとんどが犠牲者と何らかの関係があった人たちである。
精神的に大きな打撃を受けたことに加えて環境の大きな変化を受けた。
それがそれぞれにさまざまな変化を強いた。

「復興」といっても、それは女川町の人々を大震災以前に戻すことではない。

家族、親族、隣人、知人の喪失、暮らしの環境の激変…これらは戻ることはない事実である。
喪失、激変の現実を抱えたままであるが、これからの生活を成り立たせる仕組みを準備すること、大震災後の復興とはこのような限界をもったものである。
しかしこれとて遅々として進まない。

被災地の人たちが語る言葉、目線で大震災を見てみよう。


大震災は、予期しない衝撃であった。
予期しない速さで、予期しない大きな規模で、災害が自分たちに襲来し、悲鳴、泣き叫ぶ声、周りの人と手を取り合って高台に逃げた。
逃げ遅れ、多くの人が大津波に呑みこまれた。


家族も家も街も自然もその前に投げ出され、そして気がつくと凄まじい荒廃が目前にあった。
それが瞬時に起こった。
自分も周囲も大きく変貌していた。そして電気も水道も食料も寝る場所もなく、そして家族もいない。


被災地以外ではテレビの実況で仙台空港に押し寄せる大津波、気仙沼が夜を通じて燃えていたことが伝えられたが、被災地では電気が途絶し、こうした惨状を伝える情報が入手できない。
情報孤絶に陥っていた。


暗い、寒い夜が明け、降る雪の中、高台から街を見ると、そこには見たこともない光景があった。
街は破壊され尽くされていた。


その日以降、被災者の人々は生きてきた。
見通せない不安、自分たちの置かれた現実が何かもわからない。
そうした心的、物的な混乱を抱えて生活してきた。


ある時は必死で、ある時は呆然として、ある時は滂沱の涙を流し、ある時は自分を鞭打ち、ある時は投げやりになり、ある時は肩を寄せ合い、ある時は時が流れるままに生きてきた。


それらの日々を「記憶」として整理しようとしても困難である。

 

1年続いた葬式

 

 鈴木さんは葬儀社を営む。
犠牲者の葬儀は大震災の翌月の4月になって始まり、翌年の一周忌までほぼ1年かけて行われた。

 

鈴木さんは妻と13年前に死別している。
妻の実家は仕出し屋を営んでいたが、妻の母と仕出し屋を後継した妻の兄(
55)が大津波で生命を喪った。
鈴木さんは妻の実家の家族の葬式を大震災から9カ月後の
12月に行った。

 

女川(だけではなく東北地方)の葬式は、葬儀に先立つ火葬、つまり骨葬である。
葬式は、他の地域同様に、通夜、葬儀、法要が通常はセットになって営まれる。
だが大震災の犠牲者の葬式は通夜と法要抜きで葬儀式のみが行われた。


あるお寺では、1日に6~7件の葬儀が行われたこともある。
時間、日程上、通夜、法要とセットで行うことが事実上困難であった。


犠牲者の葬式では各家族が経済的理由も含めさまざまな事情をもつ中、「世間体」を気にしないよう葬儀は平等に、また葬儀に参列する者も親族を喪った人が多い中「お互いさま」という言葉があるように、香典ナシ、お礼ナシ、法事ナシが暗黙のうちに了解されて行われた。

 

 町役場職員の震災直後

 

 ここで一つの家族(親族)の体験を紹介しよう。


これは被災地では奇異な例ではない。
しばしば見られる事例の一つである。
また、体験を語ろうにも家族が全滅して体験として語れない家族(親族)もある。
ある家では祖父母、夫婦、子ども全員が生命を喪った。
これもまた被災地では珍しいことではない。


阿部聡さん(29)は、震災当日は職場である女川町役場で勤務していた。


地震があり、職員が3人1組になって町民の避難誘導にあたっていた。
最初は女川第二小学校グランドを避難場所とした。
小学校は女川町の北西部にあり高台にあった。


当日は雪が降り寒かった。
「寒いから校庭にテントを張ろうか」と話していたところ、突然メキメキという音がした。
下を見ると見られるはずがない濁流があり土ぼこりくさい臭いがする。


ここにいては危ないというので町民をもっと高い総合体育館へ誘導した。


水は上の中学校に行く坂の手前まできていた。
役場庁舎の屋上には取り残された職員の姿があった。


小学生も中学生も総合体育館に避難していた。


大津波に巻き込まれながら、よじ登り、総合体育館まで辿り着いた人がいた。
しかし、水を吐き出す力がなく、低体温で死亡した。


その晩、ラジオでは「荒浜に200体の遺体」と伝えていたが、下に降りることができない。
2日間、山の上で過ごすことになった。


といっても聡さんは町役場の職員。
一避難民でいることは許されなかった。

11日夜から聡さんは避難所となった総合体育館の係となって動くことになった。
総合体育館に避難した人は約500名。
町の職員といっても何ができるわけではない。
寝具も食料もない。
しかしあちこちから苦情や要求が飛び込んでくる。


避難してきた人たちも皆ショックを受けている。
寒さ、不安を抱えてやり場のない怒り、イライラ等のさまざまな感情が充満している。
役場職員ということであたられ、翻弄された。

12日にはわずかな食料が投下され入ってきたものの避難者全員に渡る数がなければ配給できない。
「平等」でなければ食料にありつけない人たちの不満が爆発するからだ。

 

聡さんは総合体育館の廊下、ステージとわずかな空間を見つけてベッドにした。


3日目になって移動が可能となった。
4日目からはヘリコプターの誘導を務める。

その後は山の上に乗り捨てられた父親のトラックから合羽を取り出し、それを着て捜索、遺体収拾にあたった。

 

聡さんは3・11から約1年間の記憶が明確でない。
時間関係もゴチャゴチャしている。
疲労から鬱状態になった。
最初は病院から睡眠薬をもらって何とか仕事をしていたが、二年後についにリタイアをよぎなくされた。

 

行方不明―実感のない死の継続

 

聡さんは両親と弟、妹の5人家族。妹・昌子さんはいとこの佐藤輝昭さん(35)の家族と一緒に輝昭さんの姉夫婦を頼りに一時神奈川県に避難した。


輝昭さんは聖花園の従業員。
幼い子供を抱える輝昭さん一家は福島原発の放射能の不安もあり、また地元では何もなく食料のめども立たなかったからだ。


輝昭さんは父・佐藤義信さん、母・良子さんの両親を津波で喪った。
母・良子さんもまた聖花園の従業員であった。


輝昭さん一家が一時神奈川に避難した住宅に、聡さんとその母・幸子さん(
55)、幸子さんの兄の高橋洋さん(58)、そして鈴木通永さんのねぐらとなった。
洋さんは妻と長女を喪った。

 

聡さんの父・幸子さんの夫・阿部誠一さん(当時54歳)については最初安心していた。

というのは山の上にトラックがあったからだ。
そこに避難したのだろう、と考えていたが、総合体育館にもどこにも顔を見せない。
2日目の夜になっても現れない。
仕事道具のトラックを真っ先に避難させて、また下に降りていき、そのまま行方不明になった。

 

幸子さんは小学校の近くにあった給食センターに勤務していた。
そこで震災、大津波に遭遇。
給食センターは高台にあったので無事だった。
聡さんとは当日に会い、互いに無事を確認していた。
幸子さんは寒い中、自分の車の中で寝た。

 

2日目の夜、夫のトラックに行ってみた。
夫は頑強で死ぬわけがないと思っていたが、トラックのドアは鍵がかかっておらず、人気がなかった。
「あ~いないんだ」と思って泣いた。
ただ、まだどこか実感がなかった。

 

食料が入ってくるようになると給食センターは総合体育館にいる避難者の食事作りに追われる。
避難所生活をしている人に「給食室にいてあんたたちだけが食べてんだろう」と言われ、妬まれ、心が傷ついた。

 

幸子さんが、肉親の死に直面したのは幸子さんの母の遺体が発見された時が最初であった。
いるはずの病院にいないと聞いて不安だった。
遺体が発見されたと聞いても否定する想いが強く、なかなか受け容れられない。
しかも父も行方不明のまま。

 

3日目以降に自衛隊も女川町に入り、人手も足りたことを確認すると、4日目に給食センターを休職した。

母の遺体が発見され、夫も父も行方不明、姉・良子さんとその夫・義信さん夫婦(輝昭さんの両親)も行方不明。
「避難して生きた人たちの食事を作っている場合ではないだろう」と言うのがその時の心境だ。
6日目に輝昭さん一家が神奈川県に一時避難するのに娘を預け、輝昭さんの住宅で約2か月生活することになった。

 

聡さん・幸子さん親子、幸子さんの姉の息子である輝昭さんの近親者があまりに多く大震災の犠牲になった。

 

遺体で最初に発見されたのが幸子さんの母・ミヨコさん、聡さん、輝昭さんの祖母である。
近所の人に「遺体安置所にいるよ」と知らされた。

 

2番目に遺体で発見されたのが聡さんの父方の祖父・阿部鶴吉さん。
3番目に遺体で発見されたのが幸子さんの義姉、洋さんの妻・たか子さん。
輝昭さんの父・義信さんが遺体で発見されたのが4番目で1カ月後であった。

 

輝昭さんの母で幸子さんの姉、佐藤良子さん、聡さんと輝昭さんのいとこ、洋さんの長女・祥子さん、聡さんの父で幸子さんの夫・誠一さん、幸子さんの父で、聡さん、輝昭さんの祖父・鶴吉さんが行方不明のまま。
鶴吉さんは足が悪く逃げきれなかった。

 

4人が遺体で発見されて、⒋人が行方不明のまま。

 

聡さんは遺体捜索活動を続けながら、最初は「父は生きているかも」という想いを捨てきれなかった。
それが「いつ」というかは定かでないのだが、次第に諦める心境になっていった。

 

幸子さんも夫に対し「また下に降りていくなんてばかだな」と思っていた。

 

3人に共通するのは、近親者が死ぬということがどういうことかわからない、ということだ。
行方不明の場合には遺体もない。
死別の悲しみの実感がわからないまま、ということだ。

 

死亡届の提出と葬式

 

6月に法務省が家族申述書の提出により行方不明の人の死亡届の提出を認め、受理することになった。


書類作成がたいへんだったことは記憶しているが細部は記憶にない。
死亡届を出し、受理されると弔慰金がもらえる、行方不明のままでは弔慰金が出ないというので多くの人が出した。
3人もまた同じだった。

 

行方不明の人たちの葬式は死亡届の提出・受理の後、順次行われた。
だが3人には葬式の記憶が定かではない。

 

「震災の日と葬式を出した日が離れているので、あまりよく記憶していない」

 

と語る幸子さん。

 

行方不明の人の葬式には遺骨がない。

 

鈴木さんがその様子を説明してくれた。

 

「ご遺体、ご遺骨がないので、故人の生きた証しとなるもの、それすら流失して無い場合、自宅があったところの土を甕(かめ)に入れて、写真があれば写真と位牌でもって葬式をした」

 

行方不明の人の葬儀については、あちこちで家族の話を聞いた。

 

「親戚の手前もあるから葬式を出した」

 

「葬式を出さなくてはならないという感じが周囲からひしひしと伝わってきた」


葬式を家族の主体的意思でした、というのとは違っていた。
だから葬式に実感がもてないでいたように思われる。

 

幸子さんは葬式を出した日について言う。

 

「確か暑かったと思う」

 

輝昭さんは震災直後を振り返る。

 

「震災当日から4日目くらいまでのことを、当時は『短い』と思ったのですが、今になってみると、とてつもなく長い時間だったな、と思う」

 

ペットボトル飲料は貴重品。
水は子どもたちに飲ませ、自分の水分は酒だった、と言う。

 

おそらく酒なしであの混乱と不安な日々を過ごすことが難しかったのだろう。

 

死者、行方不明の人たちも、あの日に何が起こったのかよくわからなかったのだろう。
そして遺った人も何が起こったのか、それが現実なのか、よくわからないでいるのだろう。

 

多くの人たちが被災地を去ったのは、仕事を求めてのことが多いだろう。
だが、土地にいることに耐え難い想いを抱いて去った人たちもいるのではないか。

 

輝昭さんは震災直後に約2カ月地元から離れた。
聡さんは2年後に役場を辞めた。
幸子さんは母の遺体発見を機に給食センターを休職して辞めた。
遺った者も安穏ではなかった。

 

そして今3人は葬儀社に勤務し、遺族が死者を送るサポートをしている。

(雑誌SOGI通巻149号。2015年)

2017年3月 3日 (金)

妻を捜す 東日本大震災②―個から見た死と葬送(22)

妻を捜す

3月11日以降、私の胸のなかを風が吹きすさび、ときおり内部に奥が見えない空洞が広がり、心を揺さぶり続けている。

捜す。

東日本大震災発生直後は、毎日遺体安置所に通って、新しい遺体を確認して回るのが日課だった。
妻が見つかればと願い、でも妻ではなかったことにどこかで安堵していた。


4カ月経った今では、新しく収容される遺体は日に数体あるかないか。
多少類似している遺体を見せてもらうのだが、近づくのを拒むような圧迫するような臭いのバリアが立ち込めている。
鼻が殺がれ、目が窪み、遺体には生前の面影を偲べるものはない。

そこにも妻はいない。


妻をあの地獄から一刻も早く救い出して火葬してやりたい、と思うのだが、妻があのように腐乱した姿で現れるのも怖い。


私の心のうちでは、笑顔が弾け、どんな苦労も笑い飛ばす、めげない、健康そのものの妻の姿だけがある。


妻は、あの大津波に攫われ、太平洋の大海原に漂い、浄土に旅立った、と思いたい。
そして頼りない夫と子どもたちをいつも見守ってくれている、と思いたい。


遺体が発見されなければ、妻の死の事実を示すものがない。
申述書を書いて死亡届を出す、というのは手ずから妻を殺す行為にも思え、躊躇う。

今夜の食事当番は次男。
いつものように母の場所にも焼き魚を置いていた。

(
2011年7月 取材に基づく)

2017年2月27日 (月)

三回忌―個から見た死と葬送(20)

三回忌


三回忌だという。

つい2カ月ほど前の出来事のような、はたまた夢の中の出来事であったかのような…。

現実感がまるでないのだ。
心を裂かれた傷みはまだ癒えることはない。

でも、癒える必要はないのだ、と思う。

この傷みこそあなたの残り香なのだから。

この傷みがなくなったら、あなたが私の手の届かない先に行ってしまったことになるから。

どうか、私の心を傷ませ続けてください。

「時間が解決してくれる。いや時間しか解決してくれない」
と人は言う。


それは何と残酷なことだろう。

時間よ、止まってほしい。
かろうじて心の傷みがあなたの不在を意識させてくれているのだから。

子どもは、ほんとうはあなたがいないと何にもできない私だと知っているので、心配してくれている。

まるで子どもが私の庇護者であるかのようだ。

あなたが私を看取ってくれるもの、と私は勝手に心で決めていた。

だから最期の枕辺であなたに遺す言葉まで決めていた。

しかし、それを伝える機会は永遠に失われた。


そしてあなたは別れの言葉も遺さずに逝ってしまった。


私の唯一の日課は朝線香の火をつけること。


2017年1月12日 (木)

近親者の悲嘆への配慮―「弔い」としての葬式(3)

近親者の悲嘆への配慮

 

死者の近親者が死別により悲嘆を抱えるようになることは自然なことです。

それ自体病気ではありません。
人間が深い関係にある人間を喪失した時に起こる、極めて人間的な感情です。
それを埋めようとして行う近親者の作業を喪の作業(グリーフワーク)と言います。


死別の悲嘆(グリーフ)は泣き嘆くこともあれば、怒りになったり、他人への攻撃、情緒不安定、抑うつ等とさまざまな現れ方をします。
それぞれの関係によるものですから、実にさまざまです。
解放感、安堵もあるし、それだから薄情というわけではありません。

人の死は固有ですから、グリーフもまた固有でさまざまです。
こうであらねばならない、というものはありません。

注意すべきことは、睡眠障害、長期にわたる食欲不振。

周囲の人間が悲嘆や喪失に陥った人を支援すること(
grief and loss support, grief care)は特別なことではありません。
グリーフに陥った人の喪の作業(作業というより、辿る心理的・精神的あるいはそれが現れる身体症状の過程)がそれぞれなりに行えるよう配慮する、準備をすることです。
せめて周囲がそれを邪魔をしないことです。


誤解されるべきでないのは、グリーフケアが最も大切なことではなく、近親者らのグリーフワークが重要なのです。
主人公はあくまで当事者なのです。
グリーフケアは誰かの仕事であったり、それによって死者の近親者の悲嘆を劇的に改善するものではない、ということです。


好意的でしょうが、「癒してあげたい」という言葉をしばしば聞きます。
「力づけたい」という言葉も聞きます。
同じ目線に立たず、無意識に上から目線になりがちで、関係によっては力づけられることもありますが、「無理解」と反発を招き、更なる落ち込みを促進しかねません。「癒す」等の言葉は誤解をうみかねない表現です。
グリーフについては、「同情」と並び、しばしば用いるのを避けたほうがいい言葉の代表的なものです。

多くの場合、近親者の悲嘆の助けになるのはきょうだい等の家族や親しい友人です。
身近にいる人が最も有効な助け手になります。


もっとも身近な者に「裏切られた」と感じたり、不信になった時の傷は出口を失い内向化するリスクもあります。
そうした場合、まったく他人の方がいい場合もあります。

周囲からサポートを得られない人もいます。
そうした人に対して、本人が必要とするならば、その本人に必要なサポートを提供できる用意のある人が手の届くところにいる、と示すことは有効なことです。


近親者の喪の障害になるのは、しばしば葬儀慣習です。
親は子の火葬には立ち合ってはいけない、
納骨は四十九日までに終えなければならない等、
およそ根拠のない、当事者の気持ちに委ねるべきことが慣習にはあります。
そうした喪の作業の障害になる慣習を正していくだけでも近親者には益になります。

今、グリーフケアについて語られることが多くなりました。
これまで死別の悲嘆にあまりに無頓着な社会であった、ということもグリーフへの再認識を迫っているのでしょう。

しかし、グリーフケアは重要であるが、ささやかなものだという認識もまた必要ではないでしょうか。


私がどうしても好きになれない言葉に「傾聴」がある。
もともとカウンセリングの技法であることは理解している。
相手をまるごと理解しようとすることで押しつけではいけない、ということなのだろう。
それによって相手に理解してもらった、受け入れられたと思わせることなのだろう。
しかし、私には、しばしば「押しつけ」に感じるのだ。
「傾聴」活動した人も実際にはさまざまな障害にぶちあたり、それ以前の人間関係を築くのに苦労されたようだ。
「傾聴」は、どうも言葉が大げさで、自分を卑下することを強調しているようで、結果として押しつけになるようで好きにならない。
私はひねくれものだから、「土足で心中に乱入」「詐欺手法」とさえ思うのだ。
「自分はいい人」を押し付け感がある。
カウンセリングの技法として訓練することはいいが(それでも言葉は変えられないか!)、外に向かって「傾聴活動」と広言することはないだろう、と思うのだ。

人間と人間の係わりであるから、受け入れられ、確かにいい活動をしている人もいる。
「たくさんいる」と言ってもいいだろう。
それを否定するものではない。

しかし、内面に乱入するのではないか、と警戒して拒んだ人がたくさんいたことも事実だ。
「ボランティア」だけではいけなく、なぜ「傾聴ボランティア」でなくてはいけないのか?

私の感覚はつまらない誤解であればいいのだが、どうも不信感は拭いされていない。
私が「いい人」嫌い、「ひねくれもの」だからか。


スピリチュアルケアにも似た感覚がある。
スピリチュアリティは大切だが、ことさらスピリチュアリティが強調されると、何なのかな?と疑問、違和感がある。
もっと自然に全的に見られるといいのだが。
私にも過剰な部分があるから他人のことはあまり言えないのだが…

 

 

2017年1月10日 (火)

葬式の原点は何か?―「弔い」としての葬式(1)

葬式の原点は何か

葬送の変化を決定づけたのは2008年のリーマンショックです。
しかし、変化は今から20年前の1995年から始まっています。

お葬式は確かに表面的にはとても変化しています。
現在進行形で変化しています。

葬祭仏教の成立期である戦国時代のお葬式、
昼間に行われるようになった明治時代のお葬式、
祭壇が照明で煌めいたバブル景気時のお葬式、
それぞれ様相には変化があります。
しかし、原点、基本には変化がないように思います。


変わっているのは死者を取り巻く環境です。
環境の変化に伴い、お葬式の形態も変化してきています。


原点、基本に関して言うならば、お葬式とは「人の死を受けとめる作業」全体を言います。


社会的に影響力の多い人の場合、関係する人は多数に及びますが、一般的に言うならば、
葬式とは、死者と関係の深い人、たとえば配偶者、親、子ども、きょうだいらの家族、親戚、友人、仕事等の仲間、その他関係を結んだ人が、その人の死に直面し、営む心理的、精神的、宗教的、事務的等の作業一切を言います。


※「葬式」を「通夜}(90年代以降「通夜式」なる語が現れた!)、「葬儀」という今では1時間内外で行われる儀礼部分を指して言われることがあるのは大いなる誤解である。こういう単純な見方では葬式全体を見ることができない。


その中でも欠かせないのは、


①死者(遺体)の尊厳を守る

②近親者の悲嘆への配慮


この2つに尽きると思います。


そのために死者を弔い、鄭重に遺体を葬る(火葬、土葬等で)作業をするのではないでしょうか。


家族の喪(も)の作業を考えることで重要なのは、
看取りを充分に行うことと、
死後の死者との別れに可能なかぎり時間を取ることです。


とはいっても看取りは家族が離散し、少数化している現在、できないこともあります。
死後もあちこちへの連絡やらで遺体と向き合う時間は案外取りにくいものです。

せめて
仏教で言えば枕経の時間、あるいは納棺、通夜、葬儀の前に、1時間でも、
他に干渉されないで向き合う時間を取ることは極めて重要です。
おそらくこの時間の過ごし方が最も重要なように思います。

2012年1月 2日 (月)

グリーフに関するお薦めサイトができた

2012年を迎えた。私の今年の年賀状の文面は以下のとおりである。

昨年2011年3月11日の東日本を襲った大惨事は、心を傷める出来事でした。現在も災中にあります。
新年にあたり皆様のご健康とご多幸をお祈りいたします。
   2012.1.1

次のニュースで知った。
朝日新聞のウェーブサイトasahi.com1月2日
http://www.asahi.com/national/update/1230/OSK2011123000

 2万人近い死者・行方不明者が出た東日本大震災を契機に、災害で大切な人を亡くして悲しみに暮れる人たちを支えようと、心療内科の医師や研究者らが12月、災害遺族の悲嘆(グリーフ)について考える全国ネットワークを立ち上げた。災害遺族への支援とともに、悲嘆の理解を深め、適切な対応を広めてゆく。

 「災害グリーフサポートプロジェクト」(事務局・国立精神・神経医療研究センター)。東日本大震災後、全国の専門家11人が世話人となり発足した。ホームページ(http://jdgs.jp/)を開設し、遺族、支援者、専門家に向けてそれぞれ情報を提供。被災地で悲嘆ケアに取り組んでいる団体と連携するほか、遺族と接する医師らへの講習会も開いてゆく方針という。

 プロジェクトのホームページなどによると、災害による死別は、突然訪れる▽多くの喪失が重なる▽遺体の損傷が激しい――といった傾向や特徴がある。加えて、遺族は避難生活や生活再建に追われて悲しみを口に出来ない場合も多く、悲嘆が長期間に及ぶ恐れがあるという。

このjdgsのホームページにはグリーフに関する基本的なことが含まれてあると言っていい。
石井さん、黒川さん…という知っている方々が参加しているというのも安心感につながる。
http://jdgs.jp/index.html

ホームページには
「 JDGSプロジェクト(Japan Disaster Grief Support Project)は、東日本大震災を機に、これまで日本国内で「悲嘆(グリーフ)」を専門に支援活動や研究を行ってきた者が集まり、災害時に遺された人たちを支援するためのプロジェクトとして誕生しました。」
とある。

傾聴ボランティアによる二次被害についても心配されているが、それについても丁寧に書かれている。

このホームページには基本的な知識が要領よくまとめられており、それだけ情報の共有が楽である。
専門家でなくとも読める。
この点がポイントである。

さらに詳しい情報へもアクセスできるようになっている。

グリーフについて、こうした信頼できるサイトができたことはとても喜ばしいことである。

2017年7月
            1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31          
フォト
無料ブログはココログ

仲間

ウェブページ