個から見た死と葬送

2017年12月 7日 (木)

老化、自然死をどう考えるか―Q&A③

死について「おまえはどう考えるか?」と質されると、一般論の解説では済まない。
ここは素直に自分の考えを言わないといけない。

③老化、自然死をどう考えるか?-Q&A③



Q
医療の発展により長生きできることは良いことなのか。
「当然」と多くの人は答えますが、医療費の増大がこれからの子どもたちに負担になることを考えると、老化自然死をど
う考えますか?
(私の場合は老化とともに死を迎えたい)

 

A

ここで「老化」「自然死」について解説することはしません。

人のいのちは自分では左右できません。
そもそもベッドの上で死ぬかさえもわかりません。
どんな事態が自分を襲うかは予期の範囲を超えています。

昔の人は6070歳を「寿命をまっとうした」と考え、そこまで生きることを熱望しました。

今や8割以上の人がその理想を実現する社会になりました。
私も「古来稀なり」と言われた70歳を超えました。


私は先立った友人たちのことを考えると、すでに自分は「余りの人生」に入ったと自覚しています。
これ以上の長寿は望んでいません。
ですから病気になっても、生活の質を犠牲にした延命治療を拒否することを広言しています。


しかし、いつまでかはわかりませんが、今生かされていることは大切にして、死に急ぐことはしません。

私は大きな病はありませんが高血圧、うつ病等を抱えています。
必然的に投薬しており、医療費は使わせていただいています。
医療費を使うこと自体子世代へ負担をかけること、と頭では理解していますが、投薬を拒否するほど潔くはありません。


私は個室入院を希望しない、保険対象外の治療は選択しない、と自分では決めて、家族にも伝えています。
しかし、外出中に突然発症し、救急車で運ばれたら、望まなくとも何らかの救命処置が施されかねません。
そうなるかもしれません。

自分の終末は自然に任せようと思っています。
特に終末に臨んでの過度の栄養補給は拒否します。

従妹の終末期、栄養補給でブヨブヨし、見舞っては脚を摩っていました。
しかも腐敗しやすいですから。


在宅治療へのこだわりもありません。
家族の負担もありますから、かねあいで無理はしない、という考えです。

多少の希望はありますが、家族を拘束することは意図しません。
自分の終末期がどんなか自体がわからないのですから。

2017年11月30日 (木)

自身の樹木葬や宇宙葬への考えは?-Q&A②

前回に続きます。
http://romagray.cocolog-nifty.com/himonya/2017/11/post-b397.html#_ga=2.243146891.848299424.1512040010-979389886.1507963435


②自身の樹木葬や宇宙葬への考えは?

 

Q

 長く葬送という事に向き合ってきて、自身の樹木葬、宇宙葬等の現代の葬儀に対する考えを聞いてみたいと思いました。

 

A
私は90年代の初期より、初期の跡継ぎ不要の永代供養墓の概念作成、日本最初の樹木葬墓地の理念作り約款作成に関与してきました。
散骨の合意形成にも関わりました。

どんな人も埋蔵を拒否されることなく、自分の想いが生かせるような選択肢を葬送の世界に築きたいと思ったからです。
無論、私一人でしたことではなく、いろんな考えの人たちと共にやってきたことです。
その端緒は築けたかな、と思っています。

墓も保持しているし、散骨場、樹木葬墓地、永代供養墓のいくつかは私の遺骨が埋蔵されることを歓迎してくれています。
但し、私自身にこだわりは一切ありません。

遺骨に対する想いは遺された者のものだからです。

反対するのは人の想いをもてあそんで商売することです。

宇宙葬には反対です。
人々の夢を利用して、ほんのわずかな骨片を安くない費用で商売としてやろうという意識がみえみえです。
私は「宇宙は私有物すべきでなくゴミで汚すな」と言っています。

葬送には理念が必要です。
理念が説得力あり方法が相当の節度あるものは許容します。

しかし理念なき商売目的だけのものには強く反対します。
葬送の世界にはまだ商売だけを目的としたおかしなものがたくさんあり、これは「葬送の自由」とは言いません。

「永代供養墓」という名の単なる遺骨処分場もあるし、「樹木葬」を名乗りながら平気で自然破壊をする者もいます。

2017年11月26日 (日)

自身はどのような葬儀を家族に託すのか?―Q&A①

葬送について講演した後、寄せられる質問があり、後日にそれについて回答する場合がある。
全体の動きを解説するのがほとんどであるが、質問は私自身を直接問うものが多い。

2017年春に「日本人の葬儀観と死別」と題して行った講演後に寄せられた質問(質問は多かったが主催者より求められたもの)4つについて、その質問と回答を順次紹介する。

自身はどのような葬儀を家族に託するのか?―Q&A①


ご自身はどのような葬儀を家族に託しますか?」

 


基本は妻と2人の子に全てを託します。
といっても妻が先か私が先か、こればかりはわかりません。

家族が私のことをすべて知っているわけではないので、キーパーソンになる10人くらいの連絡先は書いておきます。


自分の死は決めることができません。
明日かも知れませんし、20年後であるかもわかりません。

状況によって葬儀のあり方は自ずと変わるでしょう。
それを全部予測して「こうしてほしい」と書くことは出来ません。


死別ということで大変なのは、死に逝く者より遺された者です。
姉との死別を体験してつくづく実感しました。

私の想いは日頃に家族によく伝えてあるので、どうするかは家族に安心して委ねたいと思うし、家族を先に送り出すという事態においては、家族の日頃の想いを尊重してしっかり送る責務があると思っています。


人間は遅かれ早かれ死にいく定めです。
死は点ではなく、人生という大きな流れの終点です。

後になる者は先に逝く者を送る責務がありますが、いずれは自分も送られる者です。
順番が先か後か、ということです。

そういう気持ちでこれまで家族の葬儀をしてきました。


死に方でその人間のすべてが定まるわけではありません。
今まで歩んできたこと、今歩んでいること、これから歩んでいくことの延長線に私の死があると理解しています。
ですから死だけに葬儀だけにこだわってはいません。


 

2017年5月19日 (金)

僕はあなたの息子でした―個から見た死と葬送(27)

これを書いたのは2年半ほど前のことである。
今も父の死は鮮明である。
遺骨の一部は今も私の引き出しに入れてある。


父は晩年、よく「危篤だ」と自分で電話をかけてきた。

兄には別な日に「危篤」になったようだ。
要は「顔を見せろ」ということだ。

行くと息子の顔をまじまじとみつめ、
「僕が死んだらどうするか言ってみろ」
と言うのだ。

自分の意思が息子に伝わっているか、確認をするのだ。

危篤になった時のことから始まり、葬式や納骨、そして自分の書斎の本の行く末まで、全部を、私が父からそれまで何度も聞かされたとおりに言うと、
「それで頼む」
と言った。

知り合いから電話があると、
「死んでから葬式に来てもらうより、今の生きているうちに会いに来てくれ」
と見舞いを催促する。

父はあらたまった席では「私」と言ったが、少し気楽な関係では自分のことを終生「僕」と言っていた。

その父が死んでから14年。
十三回忌は2年前にしなければいけなかった計算だ。
生きていれば百歳を超えている。

死後5年目あたりから、父のことは「懐かしく」感じるようになったが、いまだに父の思い出は明徴である。

父の葬儀でとり乱しながら、私は必死に父に語りかけていたものだった。

「私は、僕は、あなたの息子でした」
と。

その言葉は、14年後の今も、私の中では少しも色あせていない。

2017年5月 5日 (金)

生死の境界―個から見た死と葬送(26)

そこには痩せこけて、口を開け、固まるように寝ていた人がいた。

思わず引き返し、ドアの横にある名前を確認した。


間違いなかった。
そこに姉の名が書かれており、ベッドにも姉の名が書かれていた。


声をかけても反応しない。


1週間前に、間違って携帯を押し、姉につながった。
すでに5度目の入院をしていた姉だった。
力は弱かったものの受け答えはしっかりしていた。


先に姉を見舞った兄からの電話で、著しく衰弱し変貌していると聞かされてはいた。
だが、ここまで酷い変わりようとは思わなかった。


かろうじて呼吸する様が喉で確認できるが、まるで死後硬直の様に近い。


死ぬということは大変なことだ。


死の世界と生の世界とを行ったり来たりしているようだ。


朝から傍にいても、姉は何の反応も示さない。
夕方、諦めて帰ろうとして声をかけた。
目が開いた。
手が動き、声を発するが、「ア」とか「ン」とか唸るよう…
言葉にならない。
姉の目は確かに私の姿を追っているのだが。


しばらくすると、目は固く閉じられた。
姉は深い昏睡に再び入った。


これが生きている姉に会う最後の時間だろう、と思った。
ベッドの傍に立ったまま、骨と皮だけになった手、脚をさすり続けた。

2日後、姉は息をすることを止めた。

 

2017年4月26日 (水)

遠くなる母とその死―個から見た死と葬送(25)

携帯電話が鳴った。
2215分。

「高倉和夫さんですね。林病院の看護師の及川と申します。お母様の芳子さんが危篤になられましたのでご連絡します」


すぐに病院に車を走らせた。


ひどく落ち着いている自分がいた。


母は4人部屋から個室に動かされていた。

「高倉さんですね。こちらへどうぞ」


病室では若い医師がモニターを見ていた。
というより私が来るのを待っていたかのようだ。
モニターの線はもうなだらかであった。


2255分、ご臨終です」


と医師は言い、立って私に頭を下げた。


母の手を握ってみたが、ダラーンとしていた。
もはや生体反応はない。


「よろしいですか?」


と、看護師が言い、頷くと点滴器具などを片づけ始めた。
作業は事務的に淡々と進んだ。


母は地下の霊安室に移された。

 

顔を寄せると臭いがする。
忙しい看護師が寝たきりで生じた褥瘡の手当てにまで手が回らなかったのだろう。

薄く化粧はしてくれた。
だが、身体の手当てまでは充分にいきとどいていない。

しかし、そのことで病院を責める気にはならなかった。
家ではとても世話ができなかったのだから、これを含めて自分の責任だと思った。

看護師が
「お決まりでなければ葬儀社を紹介しましょうか」
と、言ってくれたので頼んだ。


母が入院し、認知症になってから4年と3カ月が経っていた。


母はどんどん表情が
変化していった。
母親なのだが、母親から遠くなっていく。

寂しさ、仕方のなさ…自分の気持ちを何とも整理しかねない。
そのまま日が進み、母はさらにどんどん遠のいていった。

ついには息子の顔も認識しなくなった。

それには自分の気持ちが追いつかないでいた。

幼少期からずーっと愚鈍な自分をぐいぐいと引っ張ってくれた母だった。
母らしさが消えっていった。

「終わった」
という思いと、入院前の溌剌とした母の姿が頭の中で交錯して、ひたすら混乱するばかりだった。

母の死後の1週間のことはほぼ記憶にない。

葬儀会館へ移動。
母の遺体は安置され、納棺、通夜、葬儀、出棺、火葬、骨上げ…と進んだということはうっすら記憶している。
だが、そこで自分がどう感じたか、葬儀社の人、坊さん、会葬者の方、親戚にどう対応したのだろうか。
ぼんやりとした記憶でしかない。

今、母は自宅に戻り、小さな骨壺に収められ、元気だったまさに「母」の笑顔の写真の前に置かれている。


2017年4月20日 (木)

「葬式をするって!」―個から見た死と葬送(24)

「葬式をするって!」

兄が怒鳴った。


「どれだけ苦労したって言うんだ。これでやっとせいせいしたっていうのに」


兄が疲れた顔で言った。

兄の言うこともわからないではない。
この
10年、母は昔の穏やかな母ではなかった。

「お前たちは私を殺そうとしている」
と被害妄想にかかり、近づくだけで「怖いよ」と喚き、退く。

また、よく怒鳴った。

私たち兄妹はすっかり消耗してしまった。

「でも、この
10年の母さんは病気だったのよ、ほんとうの母さんではなかったのよ。せめてお葬式くらいやってやろうよ」
と私は必死に兄に頼んだ。

渋々であったが、やっと兄は頷いてくれた。


母の顔は穏やかさを取り戻し、静かだった。

10
年の喧騒がまるで嘘だったかのように。

お寺に連絡すると、住職はすぐに駆けつけてくれた。


「いい顔なさっている。ご家族もこの
10年たいへんでしたね。よく尽くされました」

住職の労いの言葉に、兄は泣き崩れて叫ぶように頼んだ。


「お願いします、お願いします…」

私も兄と一緒に頭を畳に押しつけていた。

幼い日、両手に私たち兄妹の手を握り微笑んでいた母の姿が脳裏に立ち上ってきた。


2017年3月 6日 (月)

若者が町を出ていく・東日本大震災アーカイブ③―個から見た死と葬送(23)

2011年の大震災から6年。福島県の避難指示解除が進んでいるが、戻ったのは13.1%という。

朝日新聞2017年3月6日記事によると、

東京電力福島第一原発事故の発生で、福島県内の11市町村に出された国の避難指示。この春、4町村、約3.2万人に対する避難指示が解除される。避難を強いられた地域は6年前の約3割の面積にまで縮小する。ただ、帰還は進まず、自主避難した住民もおり、全国にはなお8万人近い避難者が暮らしている。(略)
ただ、すでに避難指示が解除された区域でも、実際に戻った住民の割合(帰還率)は平均で13・5%にとどまる。避難先の学校や職場に慣れ、新たな生活を選ぶ人が多いためだ。放射線への不安や、商店や病院が少ないなど生活の不便さに帰還を思いとどまる人も少なくない。


以下は、2012年1月に書いたものである。



若者が町を出て行く

若者が町を出て行く。

東日本大震災は終わったのではなく、今なお進行中の出来事だ。
「復興」が叫ばれるなか、町の未来を支えるはずだった、
20代、30代の若者層の県外流出が止まらない。

福島では、子どもを抱えた若い家族が放射性物質による健康被害を案じて町を出て行く。
妻子を避難させた仕事をもつ夫が家に単身残る例、子どもの健康への危険度に対する意見の相違から離婚する夫婦もいる。

岩手、宮城の被災地では、勤め先の工場が営業停止となり、失業保険も切れ、仕事を求めて町を去る若者が後を絶たない。

町には高齢者だけが取り残される。

大震災以前から、東北は人口流出傾向にあった地域だ。

大震災は、地域に残った者まで町に留まる選択を奪った。


大津波の到来を告げ回った消防団員が犠牲となった例は少なくない。
残った団員は遺体の収容、瓦礫撤去に追われた。
そこで残った者まで地域を去ることを余儀なくされている。


大津波は幾多の住民のいのちを奪った。
生き残った者とて、平穏な暮らしが瓦解した。


残る者、去る者、皆大きな傷を抱える。


大震災で喪われたいのちを弔う権利、余裕を遺族から奪っている。

暮らしを奪われた者は全国に散って行く。


長く続く、見えない傷が拡散。
「復興」という名で回復しないのは死者のいのちだけではない。

2017年3月 3日 (金)

妻を捜す 東日本大震災②―個から見た死と葬送(22)

妻を捜す

3月11日以降、私の胸のなかを風が吹きすさび、ときおり内部に奥が見えない空洞が広がり、心を揺さぶり続けている。

捜す。

東日本大震災発生直後は、毎日遺体安置所に通って、新しい遺体を確認して回るのが日課だった。
妻が見つかればと願い、でも妻ではなかったことにどこかで安堵していた。


4カ月経った今では、新しく収容される遺体は日に数体あるかないか。
多少類似している遺体を見せてもらうのだが、近づくのを拒むような圧迫するような臭いのバリアが立ち込めている。
鼻が殺がれ、目が窪み、遺体には生前の面影を偲べるものはない。

そこにも妻はいない。


妻をあの地獄から一刻も早く救い出して火葬してやりたい、と思うのだが、妻があのように腐乱した姿で現れるのも怖い。


私の心のうちでは、笑顔が弾け、どんな苦労も笑い飛ばす、めげない、健康そのものの妻の姿だけがある。


妻は、あの大津波に攫われ、太平洋の大海原に漂い、浄土に旅立った、と思いたい。
そして頼りない夫と子どもたちをいつも見守ってくれている、と思いたい。


遺体が発見されなければ、妻の死の事実を示すものがない。
申述書を書いて死亡届を出す、というのは手ずから妻を殺す行為にも思え、躊躇う。

今夜の食事当番は次男。
いつものように母の場所にも焼き魚を置いていた。

(
2011年7月 取材に基づく)

2017年3月 2日 (木)

東日本大震災①―個から見た死と葬送(21)

2011年の3月、東日本大震災について過去書いた原稿を少しずつ紹介する。

3.11

突然、激しく床が揺れた。

建物全体がゆっくり大きく横に揺れる。
慌てて本棚を支える。
本棚から本がドサドサと落ちる。
でもそれにかまっている余裕はなかった。


経験したことのない揺れにどうすることもできず、ただ「凄い!」「危ない!」と言うだけ。


交通機関は全て停止した。


しかし、その東京での私の驚きは、後に次第に判明する事態に比べるとたわいもない出来事であった。


宮城県の北部、岩手県と接する栗原市が震度7であるとテレビは伝えていた。


何時だったかわからない。
テレビを見ていた者が「ワーッ」と悲鳴をあげた。


テレビ画面では、水の大群が田畑や家を巻き込み、なぎ倒しながら侵食していくさまが映し出されていた。


何かとてつもないことが起こっていた。


夜、テレビでは水の上の倒壊した家屋が火に包まれている光景が映し出されていた。


「気仙沼が燃えています!」


空中から実況する記者が叫んでいた。


昔から知っている街が闇の中、燃えていた。


3月
11日、瞬時にして太平洋岸の東北一帯の人、家、街、村、暮らしが壊れ、喪われた。

翌日、東電の原子力発電所が爆発。人々は住みなれた町を追われた。

(2011年11月記)

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