個から見た死と葬送

2017年3月 6日 (月)

若者が町を出ていく・東日本大震災アーカイブ③―個から見た死と葬送(23)

2011年の大震災から6年。福島県の避難指示解除が進んでいるが、戻ったのは13.1%という。

朝日新聞2017年3月6日記事によると、

東京電力福島第一原発事故の発生で、福島県内の11市町村に出された国の避難指示。この春、4町村、約3.2万人に対する避難指示が解除される。避難を強いられた地域は6年前の約3割の面積にまで縮小する。ただ、帰還は進まず、自主避難した住民もおり、全国にはなお8万人近い避難者が暮らしている。(略)
ただ、すでに避難指示が解除された区域でも、実際に戻った住民の割合(帰還率)は平均で13・5%にとどまる。避難先の学校や職場に慣れ、新たな生活を選ぶ人が多いためだ。放射線への不安や、商店や病院が少ないなど生活の不便さに帰還を思いとどまる人も少なくない。


以下は、2012年1月に書いたものである。



若者が町を出て行く

若者が町を出て行く。

東日本大震災は終わったのではなく、今なお進行中の出来事だ。
「復興」が叫ばれるなか、町の未来を支えるはずだった、
20代、30代の若者層の県外流出が止まらない。

福島では、子どもを抱えた若い家族が放射性物質による健康被害を案じて町を出て行く。
妻子を避難させた仕事をもつ夫が家に単身残る例、子どもの健康への危険度に対する意見の相違から離婚する夫婦もいる。

岩手、宮城の被災地では、勤め先の工場が営業停止となり、失業保険も切れ、仕事を求めて町を去る若者が後を絶たない。

町には高齢者だけが取り残される。

大震災以前から、東北は人口流出傾向にあった地域だ。

大震災は、地域に残った者まで町に留まる選択を奪った。


大津波の到来を告げ回った消防団員が犠牲となった例は少なくない。
残った団員は遺体の収容、瓦礫撤去に追われた。
そこで残った者まで地域を去ることを余儀なくされている。


大津波は幾多の住民のいのちを奪った。
生き残った者とて、平穏な暮らしが瓦解した。


残る者、去る者、皆大きな傷を抱える。


大震災で喪われたいのちを弔う権利、余裕を遺族から奪っている。

暮らしを奪われた者は全国に散って行く。


長く続く、見えない傷が拡散。
「復興」という名で回復しないのは死者のいのちだけではない。

2017年3月 3日 (金)

妻を捜す 東日本大震災②―個から見た死と葬送(22)

妻を捜す

3月11日以降、私の胸のなかを風が吹きすさび、ときおり内部に奥が見えない空洞が広がり、心を揺さぶり続けている。

捜す。

東日本大震災発生直後は、毎日遺体安置所に通って、新しい遺体を確認して回るのが日課だった。
妻が見つかればと願い、でも妻ではなかったことにどこかで安堵していた。


4カ月経った今では、新しく収容される遺体は日に数体あるかないか。
多少類似している遺体を見せてもらうのだが、近づくのを拒むような圧迫するような臭いのバリアが立ち込めている。
鼻が殺がれ、目が窪み、遺体には生前の面影を偲べるものはない。

そこにも妻はいない。


妻をあの地獄から一刻も早く救い出して火葬してやりたい、と思うのだが、妻があのように腐乱した姿で現れるのも怖い。


私の心のうちでは、笑顔が弾け、どんな苦労も笑い飛ばす、めげない、健康そのものの妻の姿だけがある。


妻は、あの大津波に攫われ、太平洋の大海原に漂い、浄土に旅立った、と思いたい。
そして頼りない夫と子どもたちをいつも見守ってくれている、と思いたい。


遺体が発見されなければ、妻の死の事実を示すものがない。
申述書を書いて死亡届を出す、というのは手ずから妻を殺す行為にも思え、躊躇う。

今夜の食事当番は次男。
いつものように母の場所にも焼き魚を置いていた。

(
2011年7月 取材に基づく)

2017年3月 2日 (木)

東日本大震災①―個から見た死と葬送(21)

2011年の3月、東日本大震災について過去書いた原稿を少しずつ紹介する。

3.11

突然、激しく床が揺れた。

建物全体がゆっくり大きく横に揺れる。
慌てて本棚を支える。
本棚から本がドサドサと落ちる。
でもそれにかまっている余裕はなかった。


経験したことのない揺れにどうすることもできず、ただ「凄い!」「危ない!」と言うだけ。


交通機関は全て停止した。


しかし、その東京での私の驚きは、後に次第に判明する事態に比べるとたわいもない出来事であった。


宮城県の北部、岩手県と接する栗原市が震度7であるとテレビは伝えていた。


何時だったかわからない。
テレビを見ていた者が「ワーッ」と悲鳴をあげた。


テレビ画面では、水の大群が田畑や家を巻き込み、なぎ倒しながら侵食していくさまが映し出されていた。


何かとてつもないことが起こっていた。


夜、テレビでは水の上の倒壊した家屋が火に包まれている光景が映し出されていた。


「気仙沼が燃えています!」


空中から実況する記者が叫んでいた。


昔から知っている街が闇の中、燃えていた。


3月
11日、瞬時にして太平洋岸の東北一帯の人、家、街、村、暮らしが壊れ、喪われた。

翌日、東電の原子力発電所が爆発。人々は住みなれた町を追われた。

(2011年11月記)

2017年2月27日 (月)

三回忌―個から見た死と葬送(20)

三回忌


三回忌だという。

つい2カ月ほど前の出来事のような、はたまた夢の中の出来事であったかのような…。

現実感がまるでないのだ。
心を裂かれた傷みはまだ癒えることはない。

でも、癒える必要はないのだ、と思う。

この傷みこそあなたの残り香なのだから。

この傷みがなくなったら、あなたが私の手の届かない先に行ってしまったことになるから。

どうか、私の心を傷ませ続けてください。

「時間が解決してくれる。いや時間しか解決してくれない」
と人は言う。


それは何と残酷なことだろう。

時間よ、止まってほしい。
かろうじて心の傷みがあなたの不在を意識させてくれているのだから。

子どもは、ほんとうはあなたがいないと何にもできない私だと知っているので、心配してくれている。

まるで子どもが私の庇護者であるかのようだ。

あなたが私を看取ってくれるもの、と私は勝手に心で決めていた。

だから最期の枕辺であなたに遺す言葉まで決めていた。

しかし、それを伝える機会は永遠に失われた。


そしてあなたは別れの言葉も遺さずに逝ってしまった。


私の唯一の日課は朝線香の火をつけること。


2017年2月17日 (金)

親友の葬式―個から見た死と葬送(19)

親友の葬式

彼の葬式が行われる葬儀会館は駅からわかりやすい立地にあった。
冬から春に移行する時期。
コートはなくとも歩いて少し汗を感じるくらいだった。

式場に入る。
遺族席に行って挨拶する。


死者の配偶者が私が来たことに驚き、腰を上げる。
そして私が亡くなった彼の小学校以来の親友であることを周囲に教える。


「わざわざ、申し訳ありません…」


「いや、彼との約束だから。むしろもっと早く来るべきだったのですが」


「ちょっと顔を見てやってください。彼もSさんには会いたいでしょうから」


死後数日経っていたので、顔色は濃く沈み、筋張っていたが、面差しは穏やかだった。


「最後はずいぶん苦しんだのですが、亡くなると、すっと穏やかになって」


「奥さんが献身的に世話されましたからね。対面できてよかった。ありがとうございました」


そのうち式場は人が埋まり始めていた。
彼は高校教員を長くしていたから教え子や同僚とおぼしき人が
30代から80代まで来ていた。

あまり長く彼を独占しておくわけにはいかない。
彼のすっかり冷たくなった頭髪の生え際を撫で、別れを告げた。


彼とボランティア仲間だったという僧侶が導師となり式は進行した。
読経の声にも涙が被さっているように聞こえた。


教え子たちの弔辞は、彼のユーモラスな一面も紹介して座が和んだ。

皆彼を愛していたのだ、と強く思った。

彼を少し嫉妬している自分がいた。
私の葬式には彼は来てくれない。

2017年2月 7日 (火)

長過ぎる不在―個から見た死と葬送(18)

基本としてここに描いたものはフィクションである。
私の周辺で生じたものが多く含まれているが、当事者の心象に投影して描いている。

長過ぎる不在

先日、後輩の息子が死亡し、葬儀に出かけた。
職場で倒れ、入院。
10日後に息を引き取ったという。

遺族の顔を見ると、15年前の私とそっくり。
目はときおり上げるが誰も見ていない。
宙を彷徨っている。

私は15年経たが、息子の不在から卒業できていない。


5年後に部屋の模様替えをしてみたが、かえって居心地が悪くなった。

息子の帽子を2つ取り出して玄関にかけてみた。
ときおり触ってみるのだが、心は冷え冷えとするばかりだ。


でも帽子はもう動かせない。


運動靴も1足だけ玄関に置いたままだ。
それは新品で、ついに足を通されなかったままだ。


娘はもうすっかり成人したが、毎朝出勤前に
「お兄ちゃん、行ってきます」
と仏壇にチーンと鉦を鳴らして出かける。


何か辛いことがあると、一人仏壇に向かって小声で言いつけている。

娘の心には兄は居ついたようだ。

私の心にはまだ居つかない。

でも卒業できないのは私だけではない。

息子の祖母である義母がそうだ。

「私が歳をとっても生きているのはお兄ちゃんに悪い気がする。代わってあげたかった」
と悔やむ。

わが家では息子の死以来、誕生日は禁句となっている。


家族が揃っているときは会話も普通に飛び交うのだが、夜はいけない。
私たち夫婦だけになると、会話は時おり続かなくなる。
気がつくと二人で呆としている。


2017年1月26日 (木)

息が止まる時―個から見た死と葬送(17)

息が止まる時

生命の火がかすかに揺れている。

静かにろうそくの火が燃え尽きようとしているのだが、そこはかとなく保たれている。

見ているしかない。

新たにろうそくを足すでもない。

新たに何かをすることを本人が本能的に拒否しているように思えた。
最期の生きざまを見守るしかない。


何もできないことを最初は切なく思ったのだが、本人を見ているとそれとは違う。

本人は、その消えゆくさまを楽しんでいるかのようだ。
まるで遊戯をしているようだ。


閉じた目が開くことはなく、
静かに息をするのを辞めるのではないか、
ほぼそのようだ、
と思っていると、
何ごともなかったように目を開け、
たどたどしいが
「おはよう」
と言う。

同じような日が数日続いたある日、
23時に病院から
「血圧が低下して危険」
との報せが入った。

眼の周囲が昼間より、深く窪んでいるように見える。

明け方だった。
人目には焦っているように見えるのだが、本人は表情そのものを変えることなく、大きく下顎呼吸を繰り返した。
その後、大きくため息をつくようにし、息は止んだ。

後期高齢のだいぶ
手前にあるが、
「惜しい」
とは思わなかった。

「もう、充分だ」
と、私たちには思えた。
ようやく家に帰すことができる。

不思議な生き物である。
人間という奴は。

そのすべてのいのちが人間のはからいの世界から外れている。

それがあるときは魔物に攫われるように感じられるのだが。

そのいのちを左右することは誰にもできない。

宗教者にも医師にも家族にも本人にもできない。

「いのちは尽きるから尊い」のではない。
生も死も含めて、ここにあることが尊いのだと思う。


周囲を見ていて、
それ以外の選択肢はないのではないか、
と思ってしまうのだ。

2017年1月25日 (水)

子連れ無理心中―個から見た死と葬送(16)

子連れ無理心中

こういうニュースがいちばん怖い。
しかも記事はいつも中途半端だ。
そこに至った経緯を想像しようとしても何も見えてこない。


でもそのニュース記事を書いた当の記者にもそれ以上は書けなかったのだろう。
警察が発表した以上の情報はないのだろう。

おそらくそれを探ったならば、1日はもとより数日でも済まないだろう。
半年あってもその真実はわからないだろう。
また、仮にわかったとしても、それを明らかにすることは死者に対してどうなのだろう。
多くの者が傷つくだろう。
しかし、そこにはもしかしたら、第三者としてではなく、明らかにすべきものがあるかもしれない。
記者は自問するだろう。

見出しが扇情的であるのは、
「自分が書かなくとも他社は書く。ならば書くしかない」
と言い訳のようにも感じる。


事柄が痛切なのに、報じるほうは中途半端な姿勢で日常感覚の意識を出ていないかのように見える。

でも新聞を広げた者には、その見出し以上のものが入ってきて、しばし呆然とする。

何故か知る由もないし、知って何かができるわけではない。
いや、何かをしたらものすごい冒涜になるかもしれない。


ときどき

「子どもが病弱なことをこぼしていた」
「仲良く公園で遊んでいた」
などの説明が記事に付されることがあるが、わからないことは同じだ。

いっそ記事にしないでくれと呻く。
だが、その次には別のページをくっている自分がいる。


そんな日は一日憂鬱である。

しかし、それが家族であったら、憂鬱だけで済むはずがない。

何か自分の血が酷く冷たい感じがした。



2017年1月23日 (月)

待合室での会話―個から見た死と葬送(15)

私の通っていた「精神科」が別館から本館の4階のつきあたりに移動する際に「メンタルヘルス科」と名前も変わった。

外科や内科は人も充満しているし、けっこう騒々しい。
看護師や医師も駆けずり回っている。

だが「メンタルヘルス科」がある一角はいつも静かだ。


移動して変わったのは、診察室への呼び出しが名前で呼ばれず、受付番号がポンという音で待合室の画面に表示されるようになったことだ。


隣の、腕に包帯を巻いて待っている女性は、父親とおぼしき男性と一緒だった。


「3度目だからな…」
と父親がぼそっと言う。

娘は
「心配かけてごめんなさい」
と小声で謝る。
「でも気がついたらやっていたの…」


父親
「しかたないさ。死にたくて、死のうとするわけがない。俺も覚悟を決めた。付き合うさ。何回でも」



「自分がどうかしている、ということはわかっているんだけれど…」


私にも経験があるからわかる。
周囲がまったく見えなくなるのだ。
死という穴蔵に吸い込まれていく感じなのだ。

死ぬという覚悟も意思もそこにはなかった。


谷川を覗いていた時、偶然そこに立ち会った人に声をかけられなかったら…
おそらく私は「自殺者」になっていただろう。

2017年1月16日 (月)

死の授業―個から見た死と葬送(14)

死の授業


「健全な時代」と言うべきなのだろうか。



私たちの青春時代には、背中にベタッと死が張りついた感覚で生きていたものだ。

だが、目の前に座る学生たちの目には、珍しいことを見るような好奇心、あるいは理由もない怖れの感覚が支配しているように見えた。


そもそも授業内容に関心がなく、席に着くなり堂々と机の上に両手と頭を落として寝だす無関心な者もいる。


初めて耳にすることなのだろう。
死というのは年齢・性別・健康かどうかに関係なく突然侵入してくることがあること、
高齢者の終末期の状況、
人が死ぬと腐敗すること、
昔は乳幼児の死亡率が高かったこと、
単独死のこと…などなど、
ほとんど学生たちの日常会話の俎上にのることがありえない話題なのだろう。



澱んだ空気にたまらず、教壇の上から大声を出し
「聴く気のない者は出て行け」
「寝ている者、喋っている者は出て行け!」と叫ぶ。
すると学生たちは、教師が叱ることに驚き、姿勢を正す。

自分たちの常に反抗的だった時代と比べ、今の学生たちは何と温和なのだろう、と今度はこちらが驚く。



「デス・スタディ(死について学ぶ)」は、どこかで体験が交差しないと難しいのかもしれない。
「脳死」「セカンド・オピニオン」「死者との共食」など…

今は彼らには呪語に等しいかもしれない。
いつか「知る」時が来ると信じて、時間の最後まで授業をした。






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