葬送の歴史

2017年3月 1日 (水)

葬祭仏教の誕生―葬祭仏教の史的展開①

戒名、布施の問題を取り上げてきたが、そもそも歴史的に「葬祭仏教」とはどう展開されたかについて数回に分けて書く。


葬祭仏教の誕生


■「葬式仏教」の誕生

 

すぐれて「日本教」とでもいうべき「生活仏教」の形成に大きく影響を与えたのが「葬式仏教」であった。

寺は室町時代後期の「近世」の誕生と共に民衆、地域社会に入り込む。
仏教は
6世紀に日本に紹介されたとはいえ、近世以前は、基本は貴族、そして武家のための宗教であり、民衆の宗教ではなかった。
葬祭仏教化することによって仏教は民衆社会に土着し、外来仏教であることをやめたのである。

江戸時代中期に至り、キリシタン禁制を名目としての民衆管理、行政下におくために宗門改め、いわゆる寺請制度が定められ、寺と民衆との関係では檀家制度となった。
幕府・藩は、行政的には民衆を支配したが、それだけでは足りず、宗教の力、具体的には民衆化した仏教寺院の力を必要としたのである。

これにより仏教は国教となり、明治維新によって廃されるまでそのシステムは継続した。


明治維新により行政的位置づけを失ったからといって、檀家制度がなくなったわけではなかった。
法制的な位置づけは失ったものの、民衆との関係では生き続けたのである。
そこには仏教がすでに「外来宗教」ではなく、「生活仏教」として民衆の中に内在化していたことを示す。


この内在化にとってもっとも影響を与えたのが、仏教思想というよりは、葬祭との関係であった。

 

民俗学者の宮田登は『霊魂と旅のフォークロア』(吉川弘文館)で、近世以前の日本仏教の葬送儀礼における役割を「タマシズメ」、つまり死者の霊魂があの世に移行するのを守る「ある意味で呪術的な機能」にあったと考える。

 

 (死によって)肉体を離れた霊魂がさまようと、この世に災いをもたらす恐れがあると考えられていたことは、前にも述べた。日本仏教は、この人びとの原初的な恐れの感情に応え、霊魂を落ち着かせる儀礼を行ったのである。

 近世に檀家制度が定着する以前、民衆の葬送に携わったのは、「聖」と呼ばれる、特定の宗派に属さない民間の宗教者たちであった。彼らは、行き倒れの死体を埋め、死者の霊魂が鎮まるように念仏を唱えながら諸国を回った。(略)

 葬儀などで読まれる念仏やお経の意味は、おそらく民衆には理解されず、霊魂をあの世に送るための、一種の呪文と考えられていたであろう。また戒名も、言霊、つまり言葉や文字のもつ不思議な力によって霊を鎮めるという役割をはたすものであったと考えられる。

 日本仏教の各宗派は庶民の習俗を取り入れて定着していったが、宗派性の濃い浄土真宗は、もっぱら伝統的な慣習を忌避する傾向があった。

 

中世においても、光明真言や土砂加持という密教的要素が取り入れられ、葬送儀礼で尊重されたのは、死者の滅罪のためもあったろうが、死の穢れ、および伝染を防御するための呪術的機能が求められたからなのかもしれない。
それに浄土教の阿弥陀信仰、浄土思想が貴族の葬送儀礼で大きな影響力をもったが、これと民衆との関係は全てが解明されているわけではない。
(この項続く)

2016年12月19日 (月)

輿や葬列の写真を見たことがありますか? 樹木葬や大震災の遺体安置所の写真も

YouTube「びきまえ」404回更新
これからは若い人たちの時代だと思う。
ここにいる人たちも含め、優秀な40代が育っている。
先日会った2人の葬儀にのめり込んでいる連中とか。
託すべき人間は育っている。


彼らにどうつなげていくか、それが課題なのだと思う。
さて昨年のことであるが、東京都行政書士会の会報『Puente』vol.16
「特集 少子高齢社会の‘別れ‘を考える~日本人の死生観は変わったか~」
を取り上げていて、そこに寄稿した。

これが東京行政書士会のホームページからダウンロードして読める。
私が書いたのは第2部に掲載されている。
テーマは、いつもの「変わりゆく葬送事情」

そこに意図的に写真をたくさん掲載した。
構成とともにどんな写真があるかを示す。

1.葬送の「今」
 ここに新潟。妙光寺の安穏廟の写真、散骨の写真、樹木葬(一関)の写真、寺の納骨堂の位牌堂の写真、を掲載。
2.東日本大震災の心的打撃
 遺体安置所の写真
3.東日本大震災と「仮埋葬」
 仮埋葬地の写真、仮埋葬掘り起し作業の写真
4.火葬と感染症
 煙突のある火葬場の写真
5.「家墓(イエハカ)」の誕生
 首都圏の洋型墓地の写真
6.葬儀の個人化、小型化
 明治期の葬列図絵、白木輿・大正時代の葬列・火葬場ビム号の写真
歴史を知る、ということでは参考になる写真だろうと思う。
(文章も読んでほしいが。)
東日本大震災では約2万人という犠牲者が出た。
テレビ、新聞でほとんど紹介されなかったのが遺体安置所。
1枚だが載せておいた。

他にりすシステムや国立歴史民俗博物館の記事もあり、読むことができる。

2016年12月10日 (土)

日本人の死生観と神葬祭ー揺れ動く日本人の死生観 第3回

揺れ動く日本人の死生観

変わる葬送

 
本稿のもとになっているのは2010(平成22)年に神社神道の『月刊若木』に寄稿したものであるため、神道者を意識している。

3回に分けて掲載する。

第1回 葬送は戦後二度目の転換期、高度経済成長が招いたもの

第2回 バブル崩壊以後の個人化、超高齢社会の到来

第3回 日本人の死生観と神葬祭

※再掲載にあたり、データは基本的に当時のまま、とした。

今回は第3回(最終回)。


日本人の死生観と神葬祭

 

仏教の葬祭仏教化が庶民化のカギになったが、これは中世末期から近世初頭の戦国時代にあたる。
それまで貴族・武士の宗教であったのが僧侶が教団の意思とは異なり地方に放たれ、定住して、「民衆もまた成仏する、浄土へ往生する」と説いたことによる。

その仏教の民衆化の力を江戸幕府が利用し、寺請制度で利用した。
仏教の檀信徒向け葬法は僧侶とする儀礼を援用し、戒名を与え仏弟子にしてあの世へ送るという禅宗の葬法を基本とした。


この江戸幕府の、神職すら寺の檀家となり、檀那寺での葬儀の強制に対し、儒学者、国学者、神職が反発し、神葬祭を志向し、近世末期(1785)に吉田家からの免許状を条件に神職とその嫡子に限り神葬祭を行うことが許可された。
それ以前は水戸藩で日本古来の葬法は儒礼に近いものがあるとして朱子の「家礼」をアレンジする形で神葬祭が始まった。

実際に神葬祭の形式が誕生するのは幕末。
それが集大成されたのが教部省『葬祭略式』(明治5年)。
この同じ年に明治政府が「自葬禁止」の布告を出し、一般の人まで自由に神葬祭ができるようになった。
しかし明治15年に内務省が官幣社、国幣社の宮司の神葬祭関与を禁止し、府県社以下の神職のみの関与を認めたので、すべての神職に神葬祭関与が認められたのは戦後のことである。

江戸時代に神葬祭運動が生じたのは、仏教葬が僧侶の得度式を模したので、「なぜ神々に仕えた神職まで出家しなければならないのか」と反発したことによる。

神社神道とは、「神々とその建物や森などを守ってきた共同体の信仰」ということで、聖書、教会を中心としたキリスト教や仏典、教団を中心とした仏教などの宗教とは異なる独自性をもっている。

神社の信仰とは自然の中で生活を繰り返してきた人たちの信仰で、自然の中で生活してきた人たちが、自然の人智を超えた美しさや畏さを知り、そこに神を実感し、自然の神気に触れて浄化されたいという人間の感情、信仰心を本質としている、とまとめることができようか。

神葬祭は「仏教以前の日本人の固有の葬法」で、「これこそが日本人本来の葬法」という理解がある。


古代においては食い別れのような食事、死者に対し馳走して別れるという儀式があったらしい。
太古から死者を葬るのには葬列が組まれたらしい、ということが『古事記』や『常陸風土記』等により推測される。

 

柳田國男が『先祖の話』で書いているように、日本人の死後観は西方浄土のような遠くに行くのではなく、霊は永久に国土に留まっている、と考えられるので、亡くなっても生前と同じように食事を出して仕える。
蘇生しなければ、死者の世界に完全に入るとして野辺の送りをして葬る。
御霊(みたま)は生きてわれわれの生活の周辺や山にいて、いつでも交流できる。したがって生前と同じように御霊に仕える。


「神より出でて神に入るなり」という言葉があるように、死者の御霊は「土に還る」、大自然に還る。

 したがって、死者を亡き人を生前と同じように送り、また、いつでも還っていただく。御霊は、死後も子孫が繁栄し、子孫の手厚い祭りを受けられる、という日本人が安心立命できる境地が神葬祭の死生観といえよう。


こうした死生観は実は日本仏教文化に生きている。
彼岸、お盆、仏壇という習俗を見れば、死者は近くにいる、という観念を共通に保持している。

 

2006(平成18)年の紅白歌合戦で歌われ大ヒットした「千の風になって」は作者不詳だがアメリカ人の手になる、という説が有力である。

新井満の訳詩は


私のお墓の前で泣かないでください

そこに私はいません
眠ってなんかいません
千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹きわたっています


で始まる。
途中の「千の風になって」が詩、歌のタイトルとなっている。

原詩は詩の冒頭の「DO NOT STAND AT MY GRAVE AND WEEP」が通称となっている。


この歌が大流行したことは、家族や恋人など身近な人の悲しみを多くの人が抱え続けているという事実である。


日本人が春秋の彼岸、お盆、仏壇、法事を大切にしてきたし、いまもしているということは、死者を追悼し、覚えるということが、いかに私たちの心性に強いかということを示している。

仏教の、というより日本人の死生観に強いのは「無常観」であり、これは今回の東日本大震災でも見直された。(この項終わり)

2016年12月 9日 (金)

バブル崩壊以後の個人化、超高齢社会の到来-揺れ動く日本人の死生観第2回

YouTube「びきまえ」まだ続いています。
https://www.youtube.com/watch?v=ZkbjCg8XocY
402回「家族葬がはらんでいるもの 」あいかわらず滑舌悪いです。
 

揺れ動く日本人の死生観

変わる葬送

 
本稿のもとになっているのは2010(平成22)年に神社神道の『月刊若木』に寄稿したものであるため、神道者を意識している。

3回に分けて掲載する。

第1回 葬送は戦後二度目の転換期、高度経済成長が招いたもの

第2回 バブル崩壊以後の個人化、超高齢社会の到来

第3回 日本人の死生観と神葬祭

※再掲載にあたり、データは基本的に当時のまま、とした。

今回は第2回。
 

バブル崩壊以後の個人化

 

墓の変化が起こったのは平成の時代になった時期から。
「家(イエ)」を失い核家族となり、墓の承継の困難さが課題となったことによる。
イエは幻想であったとしても永続性を観念したものであり、墓や仏壇はその象徴としてあった(この観念の普及も実は昭和初期以降のもの)。
だが戦後民法に位置づけられた家族とは一代を本質としたものであった。
娘だけの世帯、子のない世帯、単身者、離婚の増加。
永続を前提とした家の枠外の人が増加した。
これに対し家墓システムは無力であった。

 

永代供養墓の先駆けの一つが京都の「女の碑」である。

戦時中に結婚適齢期を迎え、適齢の男性の多くを戦争で失い単身を余儀なくされた女性たちが、自分たちの墓を求めたものであった。

都市化、核家族墓ブームが招いたのは地方の放置された歯抜けの墓地であり、大都市周辺の墓地造成による自然破壊。

それへの反省と反発が散骨(自然葬)や樹木葬等の自然共生型の葬法を生み出し、人気を呼ぶところとなった。

 

葬式が自宅葬中心から自宅外へと出て行ったのは、自宅での死が少なくなり、病院等の施設に移った結果が招いたものである。

また地域共同体と個の違和感が招いたとも言える。

斎場(葬儀会館)葬は、自宅葬では地域の人が無遠慮に台所にも侵入し、自分も遺族であるのに、弔いに専念できず働くことから逃れられない遺族の女性たちが望んだ結果であった。

今や大きな式場を中心としたものではなく、自宅替わりの小ぢんまりとした、式場より遺族控室が充実した斎場(葬儀会館)が求められている。

 

バブル崩壊から3~4年後、不況が生活に及んできたと感じられるとともに、葬式では大きな祭壇が評価を失い、それまでの社会儀礼色が強かったことに反発するように反社会儀礼とも言うべき近親者中心の小型葬が急増した。宮型霊柩車も急速に人気をなくした。

 

永六輔の『大往生』(岩波新書)が200万部を突破する大ベストセラーとなり「死が茶の間でも話題にされるようになった」と言われたのが1994(平成6)年のこと。葬式をしない火葬だけの「直葬」は、かつては経済的事情や特殊事情から余儀なく選択されたもの。

だが死のタブーが崩れ、葬式が近所の視野から隠れ、一般の人も選択するようになった。

 

「葬式をしない」ことだけが批判されるべきことではなく、この背後には家族の解体、企業共同体の崩壊による絆から逸れる者が増えた社会的現実を見なければならないだろう。

 

そもそも共通した死生観を戦後日本人はもっていなかったのではないか。

 

数字的に挙げるならば、平均会葬者数は2005(平成17)年の公正取引委員会調査ではバブル期の半減以下の132名になり、2011(平成23)年の経産省調査では114人となった。

但し全葬儀の67%が100人未満の葬儀であった。
1991(平成3)年には平均会葬者数が280名であったから、これに比すと半分以下の59%減となっている。

 

NHKの「無縁社会」(2010年)の調べでは、誰かも特定できない行旅死亡人が全国で年1千人、縁者はいるが引き取ることを拒否された死亡人が年3万1千人。

推定ではあるが引き取り手はいても死体処理的に火葬だけをされた死亡人は年10万人はいるだろう。

この数はますます増えている。
年間死亡者数の1割は弔う親族がいない、と思われる。

※「2015(平成27)年人口動態統計(確定数)の概況」(2016年12月5日公表)では出生1,005、677人、死亡1,290,444人…なので約12~13万人程度となると思われる。

 

 

超高齢社会の到来
 

 日本の高齢化の進捗は著しい。

 

「高齢化率」とは全人口に対する65歳以上人口の占める割合をいい、国連では高齢化率7%~14%を高齢化社会」とよび、高齢化率14%~21%を「高齢社会」と呼び、高齢化率21%以上を「超高齢社会」とよんでいる。

 

日本は1950(昭和25)年には高齢化率は5%未満であったが、1970(昭和45)年に7%を超えて「高齢化社会」に入り、1994(平成6)年には14%を超えて「高齢社会」となり、2011(平成23)年には23.3%で世界一の「超高齢社会」となっている。)

2013(平成25)年には4人に1人が高齢者に、2035(平成47)年には3人に1人が高齢者になると推定されている。

 

死亡者の年齢もかつては80歳を超えて亡くなった場合には、「天寿をまっとうした」などといわれた。
80歳以上で亡くなる人は昭和初期にはわずか3~5%程度であった。2010(平成22)年の人口動態調査では、全死亡者の55.5%が80歳以上で亡くなった人の率である。※2015年現在では6割を超えた。
今では90歳を超えても「天寿」とは言われなくなった。
増加した認知症や身体不随の高齢者を支えきれない家族が増え、社会も支えきれずにいる。
「大往生」とは大違いである。
 
昔であれば自宅で看取り、口から本人が自力では食せないことで自然に死期にあることを共有したが、病院では点滴による過剰な栄養補給がなされ人工的な延命さえ行われている。
根本的に「自然死」が問われる時代にきている。
 
人の死でこれほど宗教が無力だった時代はないだろう。
自然に抱かれて往還する霊魂観をもつのでもなく、かの世である浄土や成仏を確かにイメージできるわけでもない。
映画「おくりびと」ブームが意味したのは、身近な人の死が本来もつ人間的な意味、感情を手探りする想いがあることだろう。
宗教がその想いに寄り添えるか、それは簡単なことではないだろう。
 
 

 

2016年12月 7日 (水)

葬送は戦後二度目の転換期-揺れ動く日本人の死生観 第1回

私の書くものを知っている方にとっては「また同じことを書いている」と思われるだろう。

同じ人間が書くものだから基本的ラインは同じであることは了解いただきたい。
 但し、書くものによって少しずつ例証などが変わっている。その点に注目して読んでいただけると幸いである。

本稿のもとになっているのは2010(平成22)年に神社神道の『月刊若木』に寄稿したものであるため、神道者を意識している。

3回に分けて掲載する。

第1回 葬送は戦後二度目の転換期、高度経済成長が招いたもの

第2回 バブル崩壊以後の個人化、超高齢社会の到来

第3回 日本人の死生観と神葬祭

※再掲載にあたり、データは基本的に当時のまま、とした。

 

 

揺れ動く日本人の死生観 変わる葬送 第1回

①葬送は戦後二度目の転換期

 

日本の葬儀は太平洋戦争後に二度の大きな変化を経験している。
今、ちょうどその2回目の変化の途中にある。

最初は昭和30年代以降の高度経済成長期であり、第二は平成3年のバブル景気崩壊に始まる。
言うならば
日本経済の大転換期に葬送も合わせて大きな変化をしてきた
と言えよう。

 

高度経済成長期には祭壇の大型化に象徴される葬儀の社会儀礼偏重の肥大化、大都市周辺での核家族用の事業型墓地の開発が進んだ。


バブル崩壊に伴い、「家族葬」に象徴される葬式の小型化、個人化、自宅葬中心から斎場(葬儀会館)葬へと変化した。

墓では跡継ぎを必要としない永代供養墓(合葬墓、合葬式墓地)、散骨(自然葬)、樹木葬と多様化が一挙に進んだ

 

②高度経済成長が招いたもの

 

戦争および戦争直後に、国民のほとんどが近親者の死を体験しながら、満足な弔いができなかったという大きな悔いを残していた
経済的に復興した後、その悔しさを取り返すように、人並みの葬送を求めるあまりに、肥大化、奢侈化を招いた

という不幸が高度経済成長期にはあるように思う。

しかしこの時期、急激な都市化が進み、戦争直後は郡部人口が8割、都市部人口が2割であった日本の人口構成が逆転し、都市部人口が多くなり、今日の地方の疲弊、過疎化を生む源となった。
日本は経済成長と引き換えに地域共同体の繋がり、血縁を中心とした「家」の紐帯を失う方向へ舵を切ったのである。


「葬儀・告別式」は、戦前の大都市部では既に出現しているが、全国に普及したのはこの時期である。
各地に残っていた死者を親族、地域の人が葬列を組んで送る野辺送りが姿を消して告別式に代わり、葬列の代わりに宮型霊柩車が走り、告別式の装飾壇として大きな祭壇が葬儀場に置かれた。

葬式を出す家の前に家紋が入った提灯、墓石に家紋が彫られるのは、華族や士族でもないかぎり一般の庶民が使うようになったのは昭和30年代以降のことである

 

葬式の会葬者の増加は、大型祭壇とともに弔いの立派さと錯覚された。

その結果、バブル期の最後には、故人を知る会葬者はわずか3割であり、生前の故人を知らない会葬者が7割を占めるという奇異な現象を招いた。

つまり悲しみを共有しない人が大多数で、悲しみを抱えた遺族が、自身の弔いを横に置いて、第三者の会葬者に失礼がないように気苦労するという、葬式本来の意味から外れた方向に向かったのである。

 

仏教の戒名(法名)、院号問題が起こるのもこの時期である。

戦後の農地解放により大土地所有者であった仏教寺院が、戦後の占領軍による財源を失い、やはり大土地所有者であった檀家総代等の有力支援者が経済的に没落して、困窮の底にあった。
高度経済成長を迎え、その仏教寺院が、経済の民主化に基づく庶民の院号要求という前に金銭の取引による院号売買という禁じ手に手を出したことによる

庶民は大きな祭壇だけではなく、死後名の立派さも求めたのである

 

確かにこの時代、日本は経済的に大成功した。

GNP世界第2位の経済大国となり、戦前からの課題であった庶民の経済的困窮を乗り越えたかに見えた。

医療も発達し、乳幼児の死亡率も大幅に減少し、長寿化を達成した。

しかし、失ったものも少なくない。

 

失ったものは自然と人間の調和であり、人間の暮らしを通した絆、連帯であり、死を見ないようにしたいのちの生に偏した考え方が主流となったことである。(続)

2015年11月 2日 (月)

戦後の葬送の変化の概略―その2

メモの続き

≪個人化する葬送≫

85
年以降、ターミナルケアの問題が顕在化します。延命治療中心への問題提起で、れは現在ではインフォームドコンセントが当然視されるまでになりました。

 90年代に入って大きな変化はバブル景気が破綻し、墓需要が急速に低下し、不になったことです。

 戦後世代が葬送の中心位置を占め、旧来の慣習がとおりにくくなったこと、高齢者が「迷惑をかけたくない」意識が一般化したことです。

この背景にはより核
族化が進展し、高齢者の夫婦だけ世帯、単独世帯の増加があります。

 社会現象的には95年の阪神・淡路大震災以降、単独世帯での単独死(孤独死、立死と言われるもの、但し価値観が入った言葉なので使いたくない) が珍しものではなくなりました。

 家族地域社会を背景にした葬儀は、家族の解体、地域社会の弱化を背景に個人化、小型化への方向に進み、2000年以降はこれが主流になりました。

 死の生活離れに呼応するように80年代後半から進んだ斎場(葬儀会館)競争が化し、自宅での葬儀が一般的であったのに2000年以降は斎場(葬 儀会館)で葬儀が7割以上と現在では中心になっています。

 昭和天皇の葬儀で洋型霊柩車が使用されたのを契機に宮型離れが急速に進み、では宮型霊柩車は1割程度にまで減少しました。

 葬儀の祭壇では宮型の輿が主流でしたが、急速に生花祭壇が中心になっています。

 経済的には2008年のリーマンショックと経済格差の広がりが葬送の変化を後押しました。

 葬儀をしない「直葬(ちょくそう)」も全国平均で2割弱を占めるようになりました。

 ネット起業の「安さ」競争の結果、安いだけで期待するサービスを受けられなかったという不も顕在化しています。

 墓については戦後の家族の変化、非継承性が大きく変化を促しました。

 85年に比叡山で永代供養墓、久遠墓が出ましたが、特に当時は話題になりませんでした

 80年代末から90年代初頭にかけて継承を必要としない永代供養墓(例、新潟の光寺、京都の女の碑の会、東京巣鴨のもやいの碑)が話題を集めるようになました。

 91年には葬送の自由をすすめる会が相模灘で散骨(自然葬)を実施しました。

99年には岩手県で樹木葬が開始されました。

 今や亜流も含めてさまざまな形態が出てきています。

墓についての選択では、7割が既存の墓地とする回答はこのところ変化ありまんが、新規の3割に変化が見られます。

 その3分の1は従来の墓ではない、永代供養墓(合葬墓)、散骨、樹木葬を選んいます。

 死者に対する意識も変化しました。

 昭和初期には80歳以上の死者が全体の死者に対する割合が5%未満でしたから、80歳以上の死者の葬儀は長寿を祝するようなお祝い的に派手に行わ れました。

 現在では80歳以上の死者は全体の死者の約6割を占めます。
高齢者の死ほどひっそり、小さく行われます。

 死者を弔うのが家族、血縁者とは限らなくなっています。

 その家族の死者に対する心情が2分化しています。
要するにより親密化する傾向と反対に疎ましいものとする二極分化です。

 過去の葬送習慣、慣習は地域が継承しましたが、今では地域慣習は薄まり、また70年代以降は葬祭業者に委託するものへと変化てきたので、慣習の継承者がむしろ葬祭業者になっています。

 今では死や葬送については「知らない」「わからない」が、高齢者を含めて一的になっています。

 ※新しい葬送形態の一つに「宇宙葬」を挙げる人がいる。「宇宙葬」は、宇宙へのロマン感情を利用して宇宙にゴミとして撒くが如き(実際には大気圏突入時にも燃え尽きるというが)の高額ビジネスに過ぎず、葬送とはおよそ反する行為ということで私は最初から反対している。これを報じるマスコミも事業の宣伝に加担している。1グラムで45万円、7グラムで135万円というばかげた金額だ。宇宙葬について古くは「サンデー毎日」にコメントを求められ、反対意見として掲載されたが、一昨年に毎日新聞から執拗にコメントを求められ、「そもそもマスコミがつまらない1事業の宣伝に加担すべきでない。反対意見でもいいか」と念を押した上で発言した。コメント内容も確認し、「記事にする以上、反対意見として掲載する」と記者が明言したが、何の断りもなくカットされた。夕刊一面で、新しいニュースでもなんでもないのに大きく報道された。以後何の断りも弁明も連絡もない。記者として不誠実だろう。おもしろそうであるというだけで、反対意見があることは切り捨て、報道して読者を煽る。「報道の自由」「報道の中立性」が聞いて呆れる。

今、「終活」ブームがあります。
これはあまりプラスには考えていません。

もっとも死をないかのようにタブー視した戦後日本がいいわけではありません。
人の死は極めて人間的な出来事であり、これを直視することは極めて当然なことです。
私も、このブームにお墨付きを与える結果を招いた経産省「ライフエンディング・ステージ」第1回報告書(2010年)の作成には2晩徹夜する等深く関与しましたから、現在のブームの責任の一端を担っています。

しかし「終活」ブームの背景には、高齢者の不安感を必要以上に煽り、ビジネス化を図るという事業者の意図が透けて見えるような気がして、危惧しているからです。

 

 

 

2015年10月31日 (土)

戦後の葬送の変化の概略―その1

今の葬儀の変化について聞かれることが多い。
若い記者がきても、50代未満はバブル崩壊後の人たちである。
「高度経済成長期」といってもすでに歴史の話である。
今、個人化が進んでいる葬儀を当たり前として育った世代が中心になっている。
以下は問われて急いで書いたメモである。
2回に分けて掲載する。

葬送について、今は戦後第2の変革期の途上にあります。

墓については80年代末来の、葬儀については95年来の大きな革期にあります。
これは高齢者の世代交代、高齢化、家族解体、ターミナルケアとかさまざまな会変化に照応しています。
戦後では高度経済成長期、特に都市化を背景に葬送は大きな変化をしましたが、その論理が日本経済同様に変化を強いられています。

《第1の変革期 高度経済成長期の変化》

60年代~80年代の戦後第1期の変化は、

墓でいえば、都市化に伴い、大都市周辺に墓地需要が広がり、結果として家墓ならぬ核家族墓が主体となり、民営墓地が現れ、これを背景に墓石の高級化が主流となりました。

60年代以降火葬率が6割を超え、80年には9割超えしたことも大きな変化です。

葬儀では宮型霊柩車、祭壇の普及、会葬者数の増大、これらにより社会儀礼化進みました。

バブル期には個人の葬儀でも会葬者が300人前後というのが少なくない状態で、会葬者の7割が生前の故人を知らない人が占めるようになりました。

高度経済成長期の流行が画一的であったのと同様に墓も葬儀も画一化が進みました。

本来の喪服は遺族・親族の着用するもので、これは世界的にもそうなのですが、日本では黒を会葬者までが着用する「仏事の礼服化」が進行、浸透しま した。

死亡の場所は、1955年当時は78割が自宅で、つまり生活の中での死であったのが在では自宅での死が1213%、8割以上が病院等生活の場以外での死が一的になりました。

戦後、医療では高度化が進み、延命治療があたりまえのように行われました。

こうした時代状況について反発するように出てきたのが第2の変化です。

(続く)

 

2015年10月29日 (木)

家墓(イエハカ)の誕生史など

「墓(ハカ)」の問題が動き出したのは80年代の末。
戦後、旧民法に替わり新民法になり、「家(イエ)」制度が消えたのに、墓は家制度の残滓である慣習を引きづったままであった。
90年代には「うちは子どもが娘だけだから墓の跡継ぎがいない」と真面目に言っている人が多いのには驚き、呆れた。
しかし墓園業者、寺院の中にも真面目に言うのがいたのには腹が立った。

しかし、日本人の墓は高度経済成長期以降、実は既に大きく変質していた。
大都市近郊に民営墓地が増加したのは都市化により地方から都会に移動して、都市近郊に居を定めた核家族世帯であった。
彼らが非継承の核家族ながら「●●家」と刻した墓を、しかも家紋入りで、ブランド石で造っていった。
それまでは庶民でブランド石など使えなかったのだ。また、家紋が葬式や墓石に登場するようになったのは戦後の高度経済成長期以降なのだ。
皆「昔からそうだ」と騙されたのだ。あるいは見栄をはったのだ。

もともと武家等を除いて家紋はそれまでさほど重要性をもたなかった。
氏姓制度は大化の改新あたりに遡るらしいが、武士の氏が問題となるのは鎌倉時代以降で、明確になるのは江戸初期である。
戦国時代以降の混乱の中で、武家そのものが定着するのが徳川幕府成立以降である。
つまり「大名家」といっても農民出身の天下人秀吉の例を持ち出すまでもなく、室町前期に遡ることがほとんど不可能な者ばかりである。
(室町前期まで遡れるのは元総理の肥後細川家くらい、と言われるほど。それもせいぜい鎌倉期まで遡れるくらいだ。推して知るべし。)

平民の苗字は明治維新後の1875(明治8)年の「氏」制度に基づくものであり、そこで戸籍は姓と名をもつようになる。それ以降は姓はいわばファミリーネームである。
これが「家制度」として明確な位置付けをもつのは1896(明治29)年の旧民法(明治民法)以降のこと。
家墓というのは、庶民においてはこの旧民法の制定と1897(明治30)年の伝染病予防法制定に伴う火葬の推進による。

伝染病予防法制定の直接の契機となったのはコレラの大流行であった。

日本にコレラが入ってきたのは1822(文政5)年、徳川家斉の時代。1817年にインドで始まる世界規模の大流行が日本にも及んだ結果。
日本で第2回の大流行をしたのが1858(安政5)年、幕末で井伊直弼が大老に就任、日米和親条約が締結された年である。数万人以上が死亡。幕末の政情不安に少なからずの影響を与えたといわれる。
明治に入ってもコレラは大流行を繰り返し、1879(明治12)年以降は年に10万人以上の死者が出た年も数回ある。
伝染病予防法の直接の契機となったのが、1895(明治28)年の大流行。軍隊で集団発生し4万人が死亡。
これほど猛威をふるったコレラは、今の時代であるならばマスコミは大々的に報じ続けたであろう。
これが今でいう「感染症」である伝染病予防法を生み、火葬推進の引き金となった。

1つの墓石に家族が同時に収納されるのは土葬形態では困難である。火葬された遺骨となり複数の遺骨が1カ所に収納されることが可能となった。
当時は現在のような墓石の下に骨壺を収納するコンクリート製の収納所カロートはほとんどなく、墓石の下に砂利を撒いた上に骨を合葬するイメージである。

「カロート」というのは不思議なものである。おそらく戦後にどこかの墓石業者が考案して流行らせたものだと思うが、広辞苑にも「からひつ」語源説が紹介されているが、語源も定かではない。
現在でもカロートを設けていない墓地、地域がある。

よく「実家の墓に入りたいと思うが、次男や女なので入れない」と言う人がいる。
だが、これは戦前からの通説ではないだろう。
むしろ戦後になって家制度が崩れ、世帯単位になったことから加速された考えではないか。戦前の「家(イエ)」はもっと大きな単位で考えられていた。
墓なぞ皆で入ればいいのだ。今でも使用者が「いいよ」と言えば、親族は皆入れる。
もっとも寺の墓地であれば寺の了承は必要だが。それでも理解のある僧侶はこの間増えている。僧侶だって戦後教育を受けているし、絶縁するより甥でもなんでも墓を継いでくれる可能性が高い方が歓迎される、はずである。

火葬は現在は日本でほぼ100%。
しかし、日本の火葬率が6割を超えたのは戦後の1960(昭和35)年のこと、それから急速に伸びて1980(昭和55)年に91.1%と9割超え。
家墓が火葬を条件とするならば、家墓形態の一般化は戦後のことだと言ってもいいだろう。1900(明治33)年にはまだ火葬率は29.2%に過ぎなかったのだから。
もちろん大都市では江戸時代から火葬が一般化していたが、全国的視野で見ればゆっくりとした動きであった。

誰でも弔われ、葬られる権利があるのだ。
血縁直系にこだわる理由はない。血縁だって超えていい。
血縁にこだわらない永代供養墓や樹木葬は意外に多い。

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