葬送の歴史

2017年10月14日 (土)

民俗、習俗にとっての遺体ー遺体論④

「遺体論」は今回をもって最終回とする。



民俗、習俗において「遺体」とはどういう存在だったのか?―遺体論④

 

 

はじめに

古来、日本人は遺体をどうとらえていたのであろうか?
ここで葬儀習俗に残るものを手掛かりに述べるが、そういう形に定着するまで時代変遷があったはずである。

たとえば民衆が地域共同体を確立する以前はどうであったか?
都市での民衆の死体が路傍や川のほとりに棄てられていたという光景が伝えられるが、そこで民衆は人の死、そして遺体をどういう目で見ていたのだろうか?
単純に棄てられる例もあったろうが、その状況にあって、その時代の民衆は割り切ることのできない感情を抱えていたのではないか?

たとえば第二次大戦下、大陸で敗戦直後の状況で逃げまどう中で、死亡した老人や子たちの遺体を処理するために穴を掘り設けた場所に家族の遺体を置いてきた人々の心情はどうであったのか。
その時そうせざるを得なかった、遺体を火葬にして遺骨を持ち帰る時間的にも精神的にも余裕を奪われていた人たちが、その後どういう想いを抱えてきたのか。
今、私たちはその体験者の想いを記録、書かれたもので知ることができる。


戦友の死について、放置してきた人の記録もある。
あるいは家族はもとより関係者不在の中で死亡した人、名前を全く知られることなかった遺体が多くあった。

また、家族がどのように死んだのか、まったく情報がなかった人も少なくない。
名前も知られなかった遺体、飛び散った遺体が数多くあった、ということと、近親者の死についてまったく情報がなく、思いめぐらした人たちが数多くいた、ということは、同数ではなかったにせよ、裏表の面がある。

70年以上も前の昔の話」と言われるが、私が生まれた直前から遡ること20年間の短期間に起こった
ことである。

 歴史で言えば近現代史の話である。

私は東北人であるから、昭和の前期にあった東北大飢饉のことも想起せざるを得ない。
残って飢えた人たちだけではなく、そこにいられず逃げ出し、ある者たちは売られて関東各地に出てきた。
そこで名もなく死んでいった者たちがいた。

想像を絶する話であるが、1930年以降に生じたことは、まだその一端を記録で読むことができる。
ただ死者たちの肉声はないが。

古代の「棄葬」についても記録の多少はあるが、それについて民衆がどう考えていたか、おそらく立場によってもさまざまであろう、個々の想いを知ることは困難である。

私たちは「知らないことが多い」という地点から出発せざるを得ない。
そして今の私たちが死者たちに抱く想いが単純であり得ないように、私たちとは異なる点が多いだろうが、過去においてもけっして単純であったはずはないだろう。

ネアンダール人の3万年前以上前の墓であった北イラクのシャニダール遺跡から死者を弔い葬った跡と思える花粉が発見された。
これは死者を弔い葬る人類最古の証として注目され、私も大興奮した。
今も信じたい気持ちは強い。
(もっともその後の研究では、花粉は動物が持ち込んだ可能性も否定できないようで「明らかな証拠」とは言えないようだが)

だが、これだけは言える。
シャニダール遺跡が最古かどうかは別にして、少なくとも1万年以上前から人類は死者を葬る時に何らかの弔いの儀礼を伴ってきたことがある、ということ。
おそらく弔われないで葬られ、放置され、棄てられたことも多かったと思うが。

日本人の死についての習俗は、5千年前、数万年の話ではない。
もっと後代の話である。
それでも今から見れば充分に古い話であり、しかし、時代を経過し、その過程では変容もしたであろう、伝えられてきた話である。
そのことを前提として、その一端を見ていこう。

葬儀習俗と遺体

 

1)魂よびと湯灌

 

人が死亡したと思われると「魂よび(魂よばい)」と言われる動作が民俗では見られる。
死者の枕元であったり、屋根に上がってであったり、井戸に向かって、といろいろであるが、その人の名を呼ぶ。


死とは、魂(霊)が肉体から遊離することであると信じられていたため、魂に呼びかけ、再び肉体に戻り、再生することを願って行われた。

その後再生儀礼が、死の事実確認儀礼へと意味を変えていく。


これは最近の話であるが、例えば80年代までは病院の死の臨床現場ではよく行われたことであるが、危篤に陥ると医師は家族を病室から追い出し、患者の上に乗り心臓マッサージを試みる。
それは時にはあばら骨が折れるほどでもあった。
しばらくその行為を行った後、家族を病室に招き入れ、汗をかいたまま「手を尽くしましたが、残念ですがご臨終です」と宣告する風景はよく見られたものである。
この臨終時の心臓マッサージは再生を装った死の事実確認儀礼となっていたのである。


この魂よびの習俗から理解されることは、遺体とは魂が遊離して残された身体、つまり亡骸である。


では遺体は魂の抜けたものという理解が徹底していたかというと必ずしもそうではない。


現代の「湯灌」は古い習俗というより、在宅高齢者の入浴サービスから転じたものである。
これと異なり、かつては、
納棺するに先立って、身近な人の手で湯灌をすることが行われた。
これは死者の霊魂の浄化を願って行われたとされる。
したがって必ずしも霊魂が完全に遊離した状態に遺体があると理解されてもいなかったようである。
(実用的には、座棺が主だった時代にあって、死後硬直した死体を納棺する際、死後硬直を解くのに湯灌は役立ったといわれる。)

 

2)位牌と遺体

 

神葬祭(神道による葬儀)では、遷霊祭(せんれいさい。みたまうつし)を大事にする。
通夜に行われる儀式であるが、死者の御霊(みたま)を遺体から霊代(たましろ)である霊璽(れいじ)に移す儀式である。


霊代は、中国では儒教で用いられ、その影響を受けて仏教の位牌は誕生した。真宗では用いない。
位牌に死者の霊が宿っていると信じられ、葬儀では位牌が祭壇の中央に飾られたり、葬列や出棺の際には喪主が位牌をもったりして、極めて大事にされる。


死は、肉体から霊魂が遊離した状態であると信じられ、その霊魂を祭るのが葬儀であるから、位牌が中心になる。
ちなみに遺影が使用されて以降は遺影がむしろ中心的に扱われる傾向にある。
死者の面影という認識で霊魂観が弱くなっていることを反映している。


アメリカ等では、葬儀は遺体との別れが中心になっているのに対し、日本では、少なくとも論理的には位牌、つまり霊魂が中心になっているのが特徴的である。

 

3)儀式における遺体の位置

 

日本においても、葬儀では位牌がどちらかといえば中心になってはいるが、通夜などにおいては遺体が中心を占めている。

これは通夜(今は通夜は葬儀の逮夜、前日という理解が主流だが、かつては死亡直後の夜から葬儀前夜までが通夜であった)が生と死の境界線上にあるからである。
通夜の間は、必ずしも霊魂が肉体から完全に遊離していないという認識からであろう。
通夜では、身近な者が遺体を中心にして死者との最後の宴会を行った。


戦後の高度経済成長期以降の葬儀式・告別式となると、遺影写真の一般化もあって事情は変化する。

今、葬儀で遺体の納められた柩は祭壇の前面に置かれる。
かつては、といっても葬列の時代から祭壇の時代に移って以降であるが、異なる。

遺体が腐敗を開始するという事情もあったろうが、それによる腐臭を近くに感じないようにと、70年代までは遺体は祭壇の後ろに置かれることが多かった。
経緯としては、葬列が告別式に変わり、告別式の装飾壇である祭壇の上部に輿を模した宮型が置かれたので、宮型の後部に柩が置かれた。宮型は「棺前(かんまえ)」と呼ばれたこともあった。
しかし、実際には臭いからできるだけ遠ざけるという意味合いもあったのではないか。
江戸時代の図絵を見ると、寺院に運ばれた遺体()は寺院の内陣には置かれず、外陣に置かれた。


だが、葬列は明らかに遺体()が中心である。

遺体に対しては愛着と忌避の複雑な感情があったことがわかる。


ちなみに80年代(早いところでは70年代)以降は遺体(柩)は、祭壇の前に置かれることが多くなったが、これはドライアイスの使用が一般化したことと、自宅葬で運び出しに便利という理由だからである。

寺葬で柩が内陣に置かれなかったのは、葬列が到着するのを受けて本尊を背に引導を渡したと説明されることがある。
だが、それは理屈で、ケガレ意識から寺も逃れられなかったことを示すように思われる。

2000
年以降、寺葬に積極的な僧侶は、寺の荘厳(しょうごん)を用いて祭壇の仮設なしに内陣で葬儀を執り行うケースもある。

 

 

死穢意識-民俗としての「遺体」

 

1)死と穢れ

 

日本の葬式において遺体が愛着されながらも、むしろ見た目においては忌避されることが多いように映るのは、「死は穢れである」という意識の所産であると言えよう。


死が恐怖の対象として理解されるのは日本特有のことではない。
高齢者の死が4分の3以上の時代になり、死は生の完成、終結という考え方も現れるようになった。
しかし、これは戦後の80年代以降のことである。
高度医療が進み、社会的に安定する以前は「死は生を奪うもの」という考え方が強かった。


かつては高齢化と死は今のように直結しておらず、高齢での死はむしろ珍しいもの、幸せなものと認識されていた。
高齢になったから死ぬのではなく、突然の災害、病気によって絶たれる生が多かった。

戦前は日本に限らず、死亡者数全体において高齢者の死者が占める割合は3割未満であったろうと思われる(昭和初期は80歳以上での死は全体の3~5%)。
乳幼児の死亡率が高いということがあったにしても、若くての死が珍しいことではなかったといえる。

(注1:
死の高齢化 昭和初期の80歳以上の死亡者の全死亡者に対する割合は3~5%である、と記した。近年だけ見ても、これは顕著に割合が増加している。1990年:38.7%、1995年:42.0%、2000年:43.8%、2005年:48.6%、2010年:55.4%、2015年:61.3%。最新の2016年は62.4%で、男性は51.7%、女性は73.8%となっている。人口動態統計を加工。)
(注2:
寿命中位数 生命表上で、出生者のうちちょうど半数が生存すると期待される年数を寿命中位数という。1955年:男性69.79年、女性74.19年、1965年:男性72.00年、女性77.04年、1975年:男性75.31年、女性80.17年、1985年:男性78.06年、女性83.38年、1995年:男性79.49年、女性85.73年、2005年:男性81.56年、女性88.34年、201583.76年、女性89.79年。完全生命表(5年ごと発表)による。毎年発表される簡易生命表によると2016年:男性83.98年、女性89.97年となっている。平均寿命より約3年長くなっている。
平均余命(平均寿命)の推移を見ると、1891(明治24)-1898(明治31)年:男性42.8年、女性44.3年、1947(昭和22)年:男性50.06年、女性53.96年、1955(昭和30)年:男性63.60年、女性67.75年、1975(昭和50)年:男性71.73年、女性76.89年、1995(平成7)年:男性76.38年、女性82.85年、2015年男性80.75年、女性86.99年となっており、戦前までは人生4050年であり、高齢化とは戦後の現象であることがわかる。1955年以降に人生6070年、1975年以降に人生7080年、2015年以降は人生8090年時代に突入している。)


日本においては、死の恐怖を「死霊が取り憑く」と表現した。
それゆえ死霊に取り憑かれないために浄めが考えられた。

だが、こうした強烈な表現の背景には、死そのものの恐怖と同時に死体が腐敗して変貌する恐怖もあった。
遺体に対する忌避の感情は、腐敗に根ざすところも強く影響した。

 

2)死は伝染する

 

遺体に触ると「穢れに染まって死霊が取り憑く」と理解され、また死者の出た家のかまどとは別火で食事をしたというのは、死はうつる、伝染するものと理解されたことからきている。


おそらく当時は明確には自覚されていなかっただろうが、感染症(かつて「伝染病」、古くは「疫病(えきびょう)」と言われた)に対する恐怖心があったのだろう。
感染症の蔓延を根拠として死一般が伝染するものという観念を生み出したものと思える。
死穢に染まることを今から見れば異常なほど嫌ったし、また遺体処理に携わる者(火葬従事者、墓堀、柩の担ぎ手)を差別した。

「忌中(きちゅう)」とは死後49日間と言われるが、死穢(しえ)が浄化されない間は死者の家の者は社会から隔離し、これを「忌み」といった。

 

3)遺体は変貌する

 

死そのものに対する恐怖心は、死体の腐敗による変貌の様(さま)により、より強化されたようである。
死によって体温は低下し、死斑(しはん)が出て、全身に広がり、死体は硬直していく。
腐敗が始まると異臭を放ち、肉体は解体を始めていく。


第三者にとってこうした遺体の変貌する様は忌避すべき対象となる。
と同時に家族にとってもこの変貌は精神的に辛いものであった。
それは愛する母であり、父であり、夫であり、子供であるものが、次第に生前の様子を失い、尊厳を失い、まさに死霊に取り憑かれたとしか表現のしようがないものに変わっていくのである。


こうした死体の変貌に対する恐れが、死者に対する愛着がありながらも葬式を早く、慌ただしく出すことを促した。


火葬により、白骨化した様(さま)が成仏の徴と理解されたのは、白骨化によりもはや恐怖の変貌を見なくてすむということで、浄化されたと理解されたためであろう。

 

4)死穢への対抗手段

 

死穢(しえ)に対抗するためにさまざまな手段が講じられた。
死穢に染まったと思われる者を隔離することもその1つである。

「浄め」と言われているのは、死穢からの浄化を意味していた。

 

①塩、水による浄め

 

今、会葬御礼のはがきに浄め塩が同封されることが多いが、これは70年代に葬祭業者が考案したものである。
そもそもは火葬場からの帰りに家に入る前に、家族に身体の要所に塩をふりかけてもらってから家の内に入ったものである。

古くから海水、塩、水は穢れへの対抗手段として考えられた。
死穢に染まったとされる者は海水を浴びたり、水を浴びたりした。

これは現代的に解釈するならば、洗浄し、消毒しているのであり、塩や水がこれに効果があると信じられた。
正しい知識とは言えないが、昔の人の公衆衛生意識の反映である。。

 

②酒食による浄め

 

例えば、土葬時の墓を掘る役目の人には大いに酒食を振舞ったとされる。
酒は恐怖心を薄れさせ、食事をたくさん食べることにより健康で死霊を撥ねつけると信じられたからなのだろう。
酒や食事が死穢への対抗手段として有効なものと考えられていたようである。

 

今日の葬儀の習俗にも死穢観念の残滓(ざんし)があり、浄めも残存している。
しかし、時代状況が変わったために、切実さは姿を消して、形式として残っているだけである。

形式として、言葉として残っているところに死穢観念の根強さを見て取ることもできるかもしれない。

現代において、習俗の模倣による継続を再検討すべきことも確かであろう。
死穢観念は、かつての若くての死、疫病等への恐怖という死に対するリアルな認識に根ざしたものであった。
それ故に、今では根拠のない死穢観念を追放することは正当であるが、死に対するリアルな認識を放棄してはならないと思う。

 

遺体を巡る遺族の心理

 

1)アンビバレントな感情

 

遺体に対する遺族の感情は複雑である。


死んで遺体となっても、霊魂は分離したと言われても、なお愛する肉親であるという感情から抜け出すことができない。
一方で生前とは容貌が変化した遺体があり、恐怖感もある。


こうした矛盾した2つの感情にとらわれるのが遺体である。
愛惜と恐怖のアンビバレント(両義的)な感情にとらわれるのが遺体という存在である。


第三者が遺体を見る感情と愛する者が見る感情とでは大きく異なる。


冬に掛け布団1枚だけであれば「寒くないか」と思い、ドライアイスで凍らされると「かわいそうに」と思う。
死者に向かって生前と同じように語りかける。
遺体とは愛する者にとっては完全な死者ではなく、いまだ生き続けている家族でもある。


1988
年に日本に導入されたエンバーミングは、こうした遺体へのアンビバレントな感情から解放し、心ゆくまで死者と触れ合いながら時間を共有して別れる機会を提供する。
そのことによってより人間的な関係感情と共に死の事実を受け入れることがより可能となる。

もちろんこれは死生観に関する問題もある。
朽ちる遺体を見て死の事実を認識することもあるだろう。
だからどういう形で死者と別れたいか、というのはそれぞれが自由意思で選択されるべきものである。

 

2)火葬を巡る心理

 

火葬を境にして遺族の心情は大きく変化すると言われる。
火葬までが長引くことによって不安になり、また火葬がいざ行われようとすると動揺する。
火葬が終わるとこの不安と動揺が諦めを伴い鎮静化される。


拾骨(骨上げ。ちなみに火葬場で「収骨」と表記されることがほとんどだが、意味的には「拾う」のであって(骨壺に)「収める」ではない。何とかならないだろうか?役所が右倣えでやっているものを変えるのは絶望的だが)の際に近親者の緊張感が緩むことはしばしば見られる。

火葬の日取りが決まらないと遺体の変貌に対する恐怖心、不安な気持ちが強くなる。
火葬が行われようとすると、愛する家族が喪われるという恐怖感、淋しさによって支配される。

いざ火葬が終われば、恐怖心はなくなるが、もう会うことができないという諦めに心が支配される。
身体へのこだわりがなくなるので、死者への思いは精神化される。 


この状態を指して「遺族の気持ちが落ち着いた」と言うことがあるが、具体的に執着する対象である遺体がなくなって、緊迫感から解放される。
そして悲しみが深く心の底に沈殿している状態に近くなるようである。


したがって悲しみがなくなるわけではない。
事実、火葬後5日くらいすると死別が傷みとなって近親者の心を襲う事例は少なくない。

 

3)解体と尊厳

 

遺族あるいは死者と身近な人にとって、その人の死を容認することは避けたいという心情がある。
もちろん近親者だからといっていつまでも拘泥(こうでい)するとは限らない。
死者との心の交流がいかほどであったかなどによってここには温度差のようなものがある。

同じ遺族であっても、一方はいつまでもその死を認めたがらず、悲しみにくれていて、他方ではあっさりとその死を認めている人もいる。
あるいは友人などが遺族以上のこだわりを見せる場合もある(悲嘆の代行)。

また、遺族の感情はそのまま表面化するわけではない。
悲嘆を押し殺して感情の安定ぶりを装うこともある。


通夜や出棺に際して、親しい弔問者に故人と対面させることがある。
「眠っているようようで、おだやかでしょう」と対面を勧めることもあるが、長期の入院などによる死後の変化により容貌が著しく変貌している場合には、遺族はこれを拒否したり、避けたがる傾向がある。


対面を拒否したり、避けるときには、遺族には故人の尊厳を守ろうとする意識が働いている。
故人の容貌の変化、悪化は、愛する者の解体であり、それは遺族および身近な人にとっては、自らの精神的危機にもなる。
遺体への執着と遺体の解体の危機は、精神的に極めて不安な状況作り出している。



以上、「遺体論」を終える。
別に論じているものがあるのだが、公表してからまた掲載したいと思う。
長い間、退屈な議論に付き合ってくれた方々に感謝する。
おそらく拙い議論ゆえであろうが、「遺体論」には近づきにくい雰囲気があるのだろう。
今まで書いたものでは格段に読まれなかったものの一つとなった。
ま、書くべきものを書く、というスタンスはこれからも同じである。

 

2017年10月 9日 (月)

弔われない遺体、近親者にとっての遺体―遺体論③

弔われない遺体

 

①行旅死亡人(身元不明の死者)

 

1899(明治32)年にできて1986(昭和61)年に改正された法律に「行旅病人及行旅死亡人取扱法」がある。

この法律の第1条に「行旅死亡人と称するは行旅中死亡し引取者なき者をいう」とあり、具体的には「住所、居所もしくは氏名知れずかつ引取者なき死亡人は行旅死亡人とみなす」と定められている。

7条には「行旅死亡人あるときはその所在地市町村はその状況相貌遺留物件その他本人の認識に必要なる事項を記録したる後その死体の埋葬または火葬をなすべし」とある。

 

行旅死亡人は、死亡地の市区町村により官報に記載される。
遺体は腐敗するので身元が判明するまで保全できないので、公費によって(約20万円)火葬され、骨壺として遺留物と共に各役所の責任で一定期間保管される。

 

官報記載例をあげておこう。

 

「名前本籍・住所・氏名不詳年齢6070歳位性別男性身長167cm身体的特徴体格中肉着衣灰色トレーナー長袖ハイネックシャツ黒色ズボン黒長靴所持品現金3,110円在中の小銭入れ上記の者は、平成2×年6月●日午後零時●分頃、●●市の●●川河口から北へ500メートルの●●湾で発見され、死亡年月日・死因は不詳。身元不明のため火葬に付し、遺骨は保管してあります。心当たりの方は、当市生活福祉課まで申し出てください。」

 

「名前 本籍・住所・氏名不詳 年齢 5060歳位 性別 男性 身長 175センチメートル 身体的特徴 やせ型、短髪白髪混じり 着衣 none 所持品 カバン(黒色) ポーチ(黒色) 財布(2つ折り、黒色) 現金60円 腕時計 電気髭剃り 果物ナイフ 眼鏡 はさみ

上記の者は、平成2×年●月●日午前9時●分、●●市●●公園●番●号●立●●公園内●●東方付近樹木で縊死しているところを発見されました。遺体は火葬に付し、遺骨は保管してあります。お心当たりの方は当市生活福祉課までお申し出ください。」

 

これで身元が判明するというのも無理があるだろうが、行方不明となった家族を必死に捜そうとすれば類似ケースがあるかもしれない。

 

なお、行旅死亡人についての全国統計はない。

東京都で年間約100人程度、全国でも約1000人程度であるというのが2010年のNHKの調査でわかった。

 

②引き取り手のない遺体

 

その他身元は判明しても引き取り手のいない遺体がNHKの調査(20101月)によると約3万1千人。

身元判明し縁者を見つけても甥や姪というケースが少くなく、「縁者」というだけで、実際は「他人」に等しく、遺体の引き取りを拒否するケースが多いという。

 

NHK調査によると、縁者が親子、きょうだい関係にある場合は引き取られる率が高く、引き取られる率が低かったのが叔父、叔母―甥、姪の関係にあった場合、という。
但し近年は親子関係も危うくなっている。
中高年の一人暮らし世帯には離婚した者も少なくない。
離婚して妻方に引き取られて年月の長い子が一人暮らしの父の死にあたって遺体の引き取りを拒否する例も少なくない。


人口動態総覧(2016年)によると
離婚は216,798組で結婚の620,531組に対して34.9%になることから推定されるように、一度結婚しても離婚経験する者は3割以上はいると思われる。
2016
年については、全離婚組数のうち、結婚5年未満が31.4%、510年が20.5%、以下年数が増えるにしたがって割合は低下し、1015年が13.6%、1520年が10.6%、2025年が7.8%となっている。結婚25年以上でも9.6%いることから結婚年数に関係なく離婚の危機はある。
離婚は子がいない場合が41.9%と多いが、別に言えば半数以上に子がいる。
離婚者の年代を多い順に並べると(全離婚者の内訳)、男性では3033.1%と最も多く、4028.8%、2015.8%、5013.6%、606.3%、701.9%、80歳以上0.4%、100.4%、女性は順に3035.3%、4027.3%、2021.9%、509.7%、603.7%、701.1%、100.7%、80以上0.2%
80以上が少ないのは配偶者の生存率の低下、10代が少ないのは結婚数が少ないことからきている。
20
代、30代と子どもが小さいうちに離婚し、以後単身という人も多い。
離婚は妻方から言い出すケースが圧倒的に多いと言われる。


三世代同居世帯が急速に減少し、単身世帯が各年代で増加した結果、血縁にかぎらず人間関係をもちにくい人が増えている。
全国の死亡者総数は1,307,748人(2016年人口動態統計確定)であった。
おそらく引き取り手のない遺体数は、この4.5%、年間約6万体はいるのではないか。


死亡者総数の1割以上は引き取り手のいない人や、引き取り手がいても、弔いの想い不在のまま、事務的に火葬の手続きでお終いというケースだろう、と私は推定している。

これについて「人は生きたように死ぬ。本人の自己責任」と言う者が絶たない。
しかし、その人の生のプロセスがどうであれ、すべての死者、遺体の尊厳は保持されるべきである。

今後、こうした弔われることのない遺体が増加すると予測している。

引き取り手のない遺体のその後


引き取り手のない遺体は(市区町村によって対応は異なるが)、親族調査、親族交渉が面倒、かつ遺体保全の問題があり、市区町村の福祉事務所等ではとりあえず公費(約20万円)で火葬までし、骨壺にして5年程度保管し、引き取り手がいない時は市町村墓地または好意で協力してくれる墓地の合葬墓に埋蔵される。
また費用は本人の遺産を精査し、残金がある時はそこから弁済し、残りは国庫に収められる。

相続人がいる時は、遺体を引き取らず、相続だけするというケースはなくはないだろうが、そう多くはないだろう。
相続するなら公費はそこから弁済される。

横須賀市エンディング・プラン・サポート事業
2016
年開始。ひとり暮らしで身寄りがなく生活にゆとりがない高齢の市民の葬儀・納骨・死亡届出人・リビングウィルという終活課題を生前契約という形でサポート。これは本人の生前意思を生かすという意味で有用だが、一人暮らしの人の死で発生するトラブルを事前に解決しておこうという自治体にとっては自衛策という面もあろう。公費使用を抑制できるし、作業は生前契約先の葬祭事業者が行い、福祉事務所の関与は少なくなる。今後各自治体に拡がるだろう。但し、横須賀市が献体斡旋にまで乗り出すのは行き過ぎと思うが。

 

「遺体」について考察するとき、こうした「弔われることのない遺体」の存在について理解しておく必要があると思う。

 

 

「遺族」とは誰のことか?―縮小する「家族」観

 

死者と親しい者、愛着をもっている者にとっての遺体とはどういう存在なのだろうか。

血縁関係の遺族は、家族が解体していく中で、死者にこだわらない、つまり死を特別な出来事と見ないケースも増えている。

「家族」を私は二親等以内の血族、配偶者と見做している。
生まれた時の家族、つまり両親(一親等)、きょうだい(兄弟姉妹)は二親等、それに祖父母(両親のそれぞれの親)。
結婚後の家族、配偶者、子ども(一親等)、孫(二親等)。
この2つを合わせて死者本人の家族という。

だが、これが変化しているようだ。
二親等から一親等への縮小が見られるのだ。

葬儀は本来、死者本人の関係性で見ていかなければならない。
喪主が子となる時(配偶者はいても高齢)、子は案外と親の歴史、交友関係を知らない。
別居であるとなおさらである。
すると喪主の立場では、本人のきょうだいは三親等の「おじ」、「おば」になって家族ではない親戚になってしまう。
私は個人的には「いとこ」すら「家族」同様に思う人間だが、これは稀らしい。
どうも本人のきょうだいは、結婚後は家族でなくなることが多いらしい。

葬式などではこのところの違和が現れるのだ。
本人のきょうだいは自分の家族のことだから親身に心配する。
しかし喪主らにとっては「無関係な親戚が口を出す」となる。

これは子どもだけではない。
本人の配偶者も、場合によっては本人すら、「本人のきょうだい」を「家族」の範疇とはしない例が結構見られる。
「遺族」という言葉がもつイメージが変化してきているのだ。

そこで血縁以外の関係も含めた概念として「近親者」という言葉を用いてみる。
実際にその死者と近い関係にあった人、という意味である。
事実、血縁以上に、あるいは血縁同様に、本人と親しい者がいる。
そして、今流行の「家族葬」で排除されがちなのが、こうした「近親者」なのだ。

死は一人称だけのものではない


WHOの提言として終末期医療において、「本人」に続いて「家族」への配慮が出てきて以降、変化が見られる。

2013年に施行された死因・身元調査法(警察等が取り扱う死体の死因又は身元の調査等に関する法律)では、
第二条 警察官は、死体の取扱いに当たっては、礼意を失わないように注意しなければならない。

とこれまでの死体取扱規則の文面を踏襲し、かつ、

第三条 警察官は、死体の取扱いに当たっては、遺族等の心身の状況、その置かれている環境等について適切な配慮をしなければならない。
と定めた。


人の死は本人だけの問題ではない。
それは近親者にとってのものでもあるのだ。


その近親者にとっては、死亡直後の段階では、既に息をしなくなった、死んでしまった、魂の抜けてしまったものであったと言われたにしても、その死後の身体には愛着がある。
特別な感情の対象である。
これは人間としてきわめて自然な感情である。
割り切る者もいるが、割り切れない想いを抱く者は少なくない。
むしろ依然として多数派であろう。

「故人」という言葉で割り切れない、まだ人格をもった、半分生きた存在と見ていることが多い。

遺体は、近親者にとって「故人」という他者にはなり切れていない存在である。
それ故にそれを送別するには充分な可能な限り納得できるだけの身体をもった死者との心の対話が必要とされる。
といっても納得できるとは限らないのだが、それでも死者との別れを行うことが重要であることに変わりがない。

そうであっても多くの人にとって「死」は「自分の死」つまり第一人称の死を本義と理解する人が多いらしい。
どうも近年の「終活ブーム」は「死」の理解への誤解をも促進しているらしい。

確かに自分の遺体は自分ではどうしようもない。
誰かに頼まなくてはいけない。
だが自分だけでできないのはそれだけではない。
人間は好き嫌いに関係なく、人との関係において生きている。
そして死んだ時、本人の想いを超えて、周囲の人に及ぼすのだ。
それは長寿の死の場合、時には安堵感かもしれないが、けっしてどうでもいい感情ではない。
私は身近に90歳を超えた近親者を3人送ったが、それはどうでもよいこと、厄介なことではけっしてなかった。
遺された私にとっても、実に大切な時間だったし、大切ななすべきことであった。


「死」を「自分の死」に偏して見ることは「葬式」への意識調査に明確に表れる。

朝日新聞の
(be between 読者とつくる)自分の葬式は必要ですか?
http://digital.asahi.com/articles/DA3S13111191.html

「自分の葬式はいらない。そう考える人は56%にのぼった。その理由は、お金、しがらみなど様々だ。」
という。

 

死とは無論、本人にとっても一大事である。
しかし遺される者、二人称の人間にとっても一大事なのだ。
何も「普通の葬式」をすることにこだわることはない。
すでに高度経済成長期~バブル期までの1955199年までに風靡した葬儀観は常識でもなんでもなくなった。
あの日本人の歴史としてはほんの短い時期に流行した「見せる葬儀」の時代は終わったのだ。
「普通の葬式」といっても今やさまざまである。
しかし、人の死を弔い、送るという本義は今こそ回復、獲得しなければないのではないか。


近年の傾向として、
死、葬式について、いわれなき偏見、穢れ意識は減少したが、死、遺体に対する無感覚も増加している
ように思うのだ。

「死」は人の死である。
きわめて人間的な出来事なのだ。
これに対する感性を失ったら、人間はほんとうに大切なものを失うことになる。

古来、日本では、通夜までは死者を生者と見なして取り扱った。
これは死について近親者の認識には時間的差異があることを長い時代の知恵として学んだからである。

私は死亡判定から通夜までを「生と死の境界線にある」と表現している。

 

近親者は、その死者をある種の断念をして葬るのである。
この時、古来多くの地域、民族において、その葬りはその人たちが信ずる宗教の手を借りて葬ってきた。

土葬にしても、例えばキリスト教徒(カトリック)は、終末の日の身体の蘇りを信じ、例えば仏教徒は火葬による白骨化をもって成仏の<徴(しるし)とし、風葬では死者の魂が山の頂にある浄土に昇ると信じられ、というように。
死後の行き先に対するさまざまな信仰に裏打ちされて葬法が選択されてきた。

それ故、葬式を行って遺体処理をする、あるいは、葬式全体の中に遺体処置を位置づけたのである。


遺体処理を行うための道すがら人々が葬列をして見送る、というのは世界各地で見られる風習である。
そこには遺体処理が汚物処理の如きものとは明確に区別されて、死者に対する愛惜と敬意の思いを見てとることができる。

 

2017年10月 1日 (日)

葬制と遺体処理―遺体論②

葬制と遺体処理―遺体論②

 

①葬制

 

人が亡くなると葬儀が行われる。

ここで言う「葬儀」とは狭義のものではなく、人の死亡以降のプロセス全体を言う。

この葬儀の執り行い方を「葬制」(あるいは喪制)と言う。

この葬制は民族により地域により宗教によりさまざまではある。

さまざまではあるし、時代により変化もしてきている。


「葬制」とはそれぞれの民族、さらにいうならば地域社会(これも現在は解体の危機にあり、それゆえコンセンサスが急激に失われているのだが)における文化と言える。

 

②死の判定

 

近代以前、つまり近代医学が発達する前は、しばしば「宗教者が死の判定を行った」と記録されている。

これは日本のみならず欧米においてでもある。

「死」という事実は、戦場、災害とか,いかんしがたい場合を除いて、「誰かによって」認定される必要があった。

そこで認定されることによって、死は公認され、葬の過程に進むことが可能となった。

 

近代以降には、つまり近代医学が確立することにより、「死は医師により判定されるもの」となった。

 

その後、人工呼吸器ができる前までは、心臓死によって死は判定されたが、人工呼吸器ができることによって脳死状態になっても心臓が動き続けるという、「脳死」と「心臓死」の乖離が生じ、脳死者からの臓器移植が可能となった。

 

各国とも心臓死について特に定めることがないが、脳死については法律でその判定法を定めているところが多い。

 

近親者はその死を看取る。

 

③遺体処理

 

遺体を土葬(埋葬)、火葬、風葬、天葬(鳥葬)等して葬ること。

「葬法」と言う。


日本では、2015年の火葬率は99.986%(死胎を除く。土葬は総死亡約130万のうちわずか185に過ぎない)となっている。
火葬率は、1960年代のバチカン公会議でローマ・カトリックが火葬容認に転じて以降、欧米でも火葬率が急上昇している。

また、中国、韓国では国策として火葬を促進している。

そうしたなかにあっても日本の火葬率は統計上100%で、世界一である。

 

④文化・宗教的処理

 

葬式等を行い、死者と別れの時をもち、死者を送別すること。

 

⑤社会的処理

 

死を社会的に告知し、除籍等の事務処理を行うこと。

 

⑥心理的処理

 

近親者の死はしばしば近親者に死別の悲嘆(グリーフgrief)をもたらす。

それはそれぞれ固有のものである。

 

近親者自らなすグリーフワーク(喪の作業)を大切にしたり、この近親者に対して心のケアを行ったり、死者を追悼するための行事(法事等)を営むこと。

 

ここで注意することは近親者自身のなす喪の仕事grief workが大切なのであり、支援careは、その環境をよりよく用意する、近親者のなす喪の仕事grief workを邪魔しないことである。

 

このことは、人間が身体的存在だけではなしに、精神的な存在でもあり、社会的な存在でもあることを示している。

また、人間が関係する人間関係において、その相手に悲嘆(グリーフ)をもたらす、関係存在でもあることを示している。

 

ある人は「人間が死ぬと単に肉体の死という物理的な死だけでは終わらない。文化的な死、社会的な死としてもあるのである。」と述べている。

つまりはそれが「人間が死ぬと葬儀をする」という意味である。

肉体が死ぬという物理的な死があるだけならば、遺体処理は残るにしても、葬儀は必要ない。

 

葬制の中の遺体処理にしても、単に物理的に死体を処理するのではない。

葬制全体の位置づけの中に、葬制という脈絡の中に置かれていると言うことができる。

 


「死」の概念

 

ここで簡単に「死」の概念をまとめておく。

 

①いのちがなくなること

 

古代日本人は「身体から霊魂が遊離してしまうこと」と理解した。

 

現代の死は医師が判定。
医学的死とは全細胞死ではなく、「有機的全体としての個体として生命活動がやんだと判断されること」を言う。

 

従来の心臓死のほか、脳死がある。

改正・臓器移植法が2010年7月17日施行され、「本人が生前拒否意思を表明していないケースでは、縁者がいないケースまたは遺族がいても遺族がこれを書面により承諾するときに脳死判定、臓器移植を行うことができる」とされた。

15歳以上という年齢制限もなくなった。

 

尊厳死・延命治療の中止については、本人の意思、家族の意思の確認が求められる。

 

病気や事故等でいのちにかかわる状態で本人が意思表示できない時に備え、a.治療方法、b.栄養補給方法、c.心停止の際の心肺蘇生の希望の有無等を「事前指定書(LMD レット・ミー・ディサイドlet me decide 医療の自己決定)」に記入し、かかりつけ医師と代理人が署名する。

カナダで80年代に創唱され、日本での運動は1994年から始まっている。

 

遺体処理の種類


「遺体処理」とは、土葬、火葬、風葬、水葬などのことである。

遺体処理が必要なのは、死後の身体は腐敗するからである。

 

腐敗する遺体をそのままにしておくことはできないので、何らかの遺体処理が必要になる。

 

遺体処理の方法を「葬法」と言う。

古代エジプトにおいては王等の権力者の際にはミイラ化が行われた。

 

南北戦争以降、エンバーミングが行われることで、腐敗の進行をほぼ停止させることが可能となったが、レーニン、毛沢東、金日成といった特定の政治的権威者以外は、永久保存されていない。


一般には、エンバーミングしたとはいえ、しかるべき葬儀が行われた後には埋葬または火葬されている。


日本ではあまりの長期にわたる遺体の保全は、技術的に可能であっても、国民の宗教感情がそれを認めるところにはきていない。

 

したがって死体遺棄罪(刑法190条)の嫌疑を避けるためにもIFSAでは、四十九日という葬送習俗を参考に、50日規定を設けている。


ここで、主な葬法を解説しておこう。


①土葬


法律的には「埋葬」と言われる土葬は、古来より世界各国で行われている遺体処理の最も一般的な方法である。

 

土を掘り、そこに遺体を埋める。遺体を布で包んだり、棺に入れることが多い。


②火葬


遺体を火で焼く処理を言う。

 

古来から行われているが、人工的に遺体を解体する方法なので、必ずしも一般化はされなかった。

イスラム教を信じる人たちは今なお火葬を忌避している。


日本では,火葬は仏教の伝来と軌を一にして普及し(考古学的には5世紀に既に火葬の痕跡が発見されている)、近世に浄土真宗系門徒の多い北陸地方等で普及した。

また江戸や大阪といった大都市においても普及した。

 

しかし、本格的な普及は、明治末期、政府が当時のコレラの大流行を受け、公衆衛生上の理由により促進してからである。


1960
年に日本では火葬率が6割を超え、現在(2015年)では統計上100%という世界一の火葬先進国である。


60
年代のバチカン公会議でカトリックが火葬を容認したことも影響し、世界的にも普及の兆しがあり、その意味では火葬は近代的な葬法と言うことができる。

 


東日本大震災の仮埋葬

 

2011年の311東日本大震災において、遺体の公衆衛生上の処置として2年間を期限として宮城県で約2千体の仮埋葬が行われた。

(2年というのは骨化して安定すると考えられた期間である。)

しかし、東京都が火葬を受け入れる等の火葬可能環境が生まれると、遺族等が仮埋葬された柩の掘り起こし行動をとり、やむなく行政は仮埋葬された遺体を201111月までにそのほとんどを掘り起こし、火葬した。

 

このことは、もはや日本では「懇ろな葬り」とは火葬のことである、という認識が徹底されていることを示した。


近代以降でも明治三陸地震、昭和三陸地震では大きな墓穴を掘り、個人の識別なく集団埋葬が行われ、大正時代の関東大震災では大きな穴に遺体を投げ込み、野焼きされた。


今回の仮埋葬は一部納体袋のままであったが、多くは納棺したうえで、個人識別を明らかにして仮埋葬された。

2年後の掘り起しを想定したからである。

今回はほとんどの柩が掘り起こされたが、木棺は火葬を前提として軽く、燃えやすく、ベニヤを貼り合わせたもの(フラッシュ棺)であったために1メートル以上の土の圧力で潰れ、横も湿気に弱く乱雑な状態となった。

1カ月後とはいえ、遺体はすでに一部白骨化が進み、首と胴体等が分離し、納体袋、棺内は体液、血液の漏出、それに雨水が加わり、引き上げる前に体液、血液を排出し、臭いを消すため、石灰を撒き、土を埋め戻した。

遺体が毛布にくるまった状態の場合、毛布を剥ぐと皮膚が剥がれた状態となった。

 

7~8月の夏の掘り起こし作業は臭いも酷く作業員には難儀となった。
作業を請け負った建設業者等は作業の継続を拒否し、その後は葬祭業者が引き受けた。


掘り返され、引き上げられた遺体は新しい納体袋に入れ、新しい棺に納め、蓋にはテープを貼った。

火葬場で予め家族に火葬時刻を示し、入炉前に家族は遺体を改めることなくお別れした。

 

一部ではあるが、掘り起こし作業を遠目で確認した遺族もいた。

また、まれではあるが(主に子の父)が掘り起こされた遺体を、本人であることを自ら希望して確認した例もある。


仮埋葬は当初は自衛隊の手で行われたが、厚労省生活衛生課は今でも一部に土葬が残る三重県、和歌山県の土葬事例を参考にした。

今回は年を期限とした一時的埋葬であったにもかかわらず、掘り起こされることを前提としない事例を参考にしたため、穴は深く掘られた。
これが仮埋葬後の掘り起こしを苦渋に満ちたものにした一因である。

例外があった。


女川では、仮埋葬を自衛隊が行わなかった。

 それが幸いした。
厚労省生活衛生課の考えた処理法とは無関係に行われた。

住民は仮埋葬を「火葬場再開までの一時的処理」と理解した。
土は浅く掘り、むしろ棺の上を土で覆う、という程度にした。


女川では火葬場への通路を確保し、火葬が再開されると、棺の上の土を払い、住民が連携し、棺を小型トラックに乗せ、火葬場に運んだ。

遺体の腐敗は進んだものの、棺は保たれた。


③風葬


死体の骨化、解体を自然に任せる方法である。

日本では、内陸地では人里離れた山(霊山とその地ではされていた)の麓などを墓地と定め、そこに死体を置いてきたり、また、海岸地方では海岸の洞窟に死体を運び込んだ。


そして動植物が他の動植物の遺骸がそうであるように、動植物、バクテリアが食し、自然に解体し還るようにさせた。


「自然葬」というなら、風葬こそが自然葬であった。

古来から中世にかけて、風葬は土葬と並ぶ一般的な葬法であった。

日本人の歴史を考えるならば、最も長期的に行われた遺体処理は風葬であったことを覚えておいていい。

 
土葬は近世以降(室町時代末期の戦国時代以降)に一般的になった葬法である。

 

火葬は歴史は古いとはいえ、一般化したのは明治末期以降で、6割という大勢を決したのは戦後のことである。

 

そういう意味では火葬は近代の葬法である。


④水葬


海に遺体をそのまま沈める葬法である。

 

今でも航海中に死んだ場合には水葬が船員法で認められている。
といっても実施はきわめて例外的である。

かつては漁村では漁師などの葬法として行われたところもある。

 

この他にチベットの天葬(鳥葬)などいくつかの葬法がある。


二次葬


火葬が行われる場合、一次葬が火葬、焼骨を墓地や納骨堂に納めたり、散骨することが二次葬になる。


かつて沖縄等で遺体を甕に入れて骨化するのを待ったのが風葬の一種で一次葬、骨化した後、それを洗い骨甕(骨壷)に入れて納骨するのが二次葬。

 

ヨーロッパでも最初土葬にし、骨化したものを改めて火葬したりして遺骨を墓に納める二次葬が少なくない。

 

 

 

2017年3月 1日 (水)

葬祭仏教の誕生―葬祭仏教の史的展開①

戒名、布施の問題を取り上げてきたが、そもそも歴史的に「葬祭仏教」とはどう展開されたかについて数回に分けて書く。


葬祭仏教の誕生


■「葬式仏教」の誕生

 

すぐれて「日本教」とでもいうべき「生活仏教」の形成に大きく影響を与えたのが「葬式仏教」であった。

寺は室町時代後期の「近世」の誕生と共に民衆、地域社会に入り込む。
仏教は
6世紀に日本に紹介されたとはいえ、近世以前は、基本は貴族、そして武家のための宗教であり、民衆の宗教ではなかった。
葬祭仏教化することによって仏教は民衆社会に土着し、外来仏教であることをやめたのである。

江戸時代中期に至り、キリシタン禁制を名目としての民衆管理、行政下におくために宗門改め、いわゆる寺請制度が定められ、寺と民衆との関係では檀家制度となった。
幕府・藩は、行政的には民衆を支配したが、それだけでは足りず、宗教の力、具体的には民衆化した仏教寺院の力を必要としたのである。

これにより仏教は国教となり、明治維新によって廃されるまでそのシステムは継続した。


明治維新により行政的位置づけを失ったからといって、檀家制度がなくなったわけではなかった。
法制的な位置づけは失ったものの、民衆との関係では生き続けたのである。
そこには仏教がすでに「外来宗教」ではなく、「生活仏教」として民衆の中に内在化していたことを示す。


この内在化にとってもっとも影響を与えたのが、仏教思想というよりは、葬祭との関係であった。

 

民俗学者の宮田登は『霊魂と旅のフォークロア』(吉川弘文館)で、近世以前の日本仏教の葬送儀礼における役割を「タマシズメ」、つまり死者の霊魂があの世に移行するのを守る「ある意味で呪術的な機能」にあったと考える。

 

 (死によって)肉体を離れた霊魂がさまようと、この世に災いをもたらす恐れがあると考えられていたことは、前にも述べた。日本仏教は、この人びとの原初的な恐れの感情に応え、霊魂を落ち着かせる儀礼を行ったのである。

 近世に檀家制度が定着する以前、民衆の葬送に携わったのは、「聖」と呼ばれる、特定の宗派に属さない民間の宗教者たちであった。彼らは、行き倒れの死体を埋め、死者の霊魂が鎮まるように念仏を唱えながら諸国を回った。(略)

 葬儀などで読まれる念仏やお経の意味は、おそらく民衆には理解されず、霊魂をあの世に送るための、一種の呪文と考えられていたであろう。また戒名も、言霊、つまり言葉や文字のもつ不思議な力によって霊を鎮めるという役割をはたすものであったと考えられる。

 日本仏教の各宗派は庶民の習俗を取り入れて定着していったが、宗派性の濃い浄土真宗は、もっぱら伝統的な慣習を忌避する傾向があった。

 

中世においても、光明真言や土砂加持という密教的要素が取り入れられ、葬送儀礼で尊重されたのは、死者の滅罪のためもあったろうが、死の穢れ、および伝染を防御するための呪術的機能が求められたからなのかもしれない。
それに浄土教の阿弥陀信仰、浄土思想が貴族の葬送儀礼で大きな影響力をもったが、これと民衆との関係は全てが解明されているわけではない。
(この項続く)

2016年12月19日 (月)

輿や葬列の写真を見たことがありますか? 樹木葬や大震災の遺体安置所の写真も

YouTube「びきまえ」404回更新
これからは若い人たちの時代だと思う。
ここにいる人たちも含め、優秀な40代が育っている。
先日会った2人の葬儀にのめり込んでいる連中とか。
託すべき人間は育っている。


彼らにどうつなげていくか、それが課題なのだと思う。
さて昨年のことであるが、東京都行政書士会の会報『Puente』vol.16
「特集 少子高齢社会の‘別れ‘を考える~日本人の死生観は変わったか~」
を取り上げていて、そこに寄稿した。

これが東京行政書士会のホームページからダウンロードして読める。
私が書いたのは第2部に掲載されている。
テーマは、いつもの「変わりゆく葬送事情」

そこに意図的に写真をたくさん掲載した。
構成とともにどんな写真があるかを示す。

1.葬送の「今」
 ここに新潟。妙光寺の安穏廟の写真、散骨の写真、樹木葬(一関)の写真、寺の納骨堂の位牌堂の写真、を掲載。
2.東日本大震災の心的打撃
 遺体安置所の写真
3.東日本大震災と「仮埋葬」
 仮埋葬地の写真、仮埋葬掘り起し作業の写真
4.火葬と感染症
 煙突のある火葬場の写真
5.「家墓(イエハカ)」の誕生
 首都圏の洋型墓地の写真
6.葬儀の個人化、小型化
 明治期の葬列図絵、白木輿・大正時代の葬列・火葬場ビム号の写真
歴史を知る、ということでは参考になる写真だろうと思う。
(文章も読んでほしいが。)
東日本大震災では約2万人という犠牲者が出た。
テレビ、新聞でほとんど紹介されなかったのが遺体安置所。
1枚だが載せておいた。

他にりすシステムや国立歴史民俗博物館の記事もあり、読むことができる。

2016年12月10日 (土)

日本人の死生観と神葬祭ー揺れ動く日本人の死生観 第3回

揺れ動く日本人の死生観

変わる葬送

 
本稿のもとになっているのは2010(平成22)年に神社神道の『月刊若木』に寄稿したものであるため、神道者を意識している。

3回に分けて掲載する。

第1回 葬送は戦後二度目の転換期、高度経済成長が招いたもの

第2回 バブル崩壊以後の個人化、超高齢社会の到来

第3回 日本人の死生観と神葬祭

※再掲載にあたり、データは基本的に当時のまま、とした。

今回は第3回(最終回)。


日本人の死生観と神葬祭

 

仏教の葬祭仏教化が庶民化のカギになったが、これは中世末期から近世初頭の戦国時代にあたる。
それまで貴族・武士の宗教であったのが僧侶が教団の意思とは異なり地方に放たれ、定住して、「民衆もまた成仏する、浄土へ往生する」と説いたことによる。

その仏教の民衆化の力を江戸幕府が利用し、寺請制度で利用した。
仏教の檀信徒向け葬法は僧侶とする儀礼を援用し、戒名を与え仏弟子にしてあの世へ送るという禅宗の葬法を基本とした。


この江戸幕府の、神職すら寺の檀家となり、檀那寺での葬儀の強制に対し、儒学者、国学者、神職が反発し、神葬祭を志向し、近世末期(1785)に吉田家からの免許状を条件に神職とその嫡子に限り神葬祭を行うことが許可された。
それ以前は水戸藩で日本古来の葬法は儒礼に近いものがあるとして朱子の「家礼」をアレンジする形で神葬祭が始まった。

実際に神葬祭の形式が誕生するのは幕末。
それが集大成されたのが教部省『葬祭略式』(明治5年)。
この同じ年に明治政府が「自葬禁止」の布告を出し、一般の人まで自由に神葬祭ができるようになった。
しかし明治15年に内務省が官幣社、国幣社の宮司の神葬祭関与を禁止し、府県社以下の神職のみの関与を認めたので、すべての神職に神葬祭関与が認められたのは戦後のことである。

江戸時代に神葬祭運動が生じたのは、仏教葬が僧侶の得度式を模したので、「なぜ神々に仕えた神職まで出家しなければならないのか」と反発したことによる。

神社神道とは、「神々とその建物や森などを守ってきた共同体の信仰」ということで、聖書、教会を中心としたキリスト教や仏典、教団を中心とした仏教などの宗教とは異なる独自性をもっている。

神社の信仰とは自然の中で生活を繰り返してきた人たちの信仰で、自然の中で生活してきた人たちが、自然の人智を超えた美しさや畏さを知り、そこに神を実感し、自然の神気に触れて浄化されたいという人間の感情、信仰心を本質としている、とまとめることができようか。

神葬祭は「仏教以前の日本人の固有の葬法」で、「これこそが日本人本来の葬法」という理解がある。


古代においては食い別れのような食事、死者に対し馳走して別れるという儀式があったらしい。
太古から死者を葬るのには葬列が組まれたらしい、ということが『古事記』や『常陸風土記』等により推測される。

 

柳田國男が『先祖の話』で書いているように、日本人の死後観は西方浄土のような遠くに行くのではなく、霊は永久に国土に留まっている、と考えられるので、亡くなっても生前と同じように食事を出して仕える。
蘇生しなければ、死者の世界に完全に入るとして野辺の送りをして葬る。
御霊(みたま)は生きてわれわれの生活の周辺や山にいて、いつでも交流できる。したがって生前と同じように御霊に仕える。


「神より出でて神に入るなり」という言葉があるように、死者の御霊は「土に還る」、大自然に還る。

 したがって、死者を亡き人を生前と同じように送り、また、いつでも還っていただく。御霊は、死後も子孫が繁栄し、子孫の手厚い祭りを受けられる、という日本人が安心立命できる境地が神葬祭の死生観といえよう。


こうした死生観は実は日本仏教文化に生きている。
彼岸、お盆、仏壇という習俗を見れば、死者は近くにいる、という観念を共通に保持している。

 

2006(平成18)年の紅白歌合戦で歌われ大ヒットした「千の風になって」は作者不詳だがアメリカ人の手になる、という説が有力である。

新井満の訳詩は


私のお墓の前で泣かないでください

そこに私はいません
眠ってなんかいません
千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹きわたっています


で始まる。
途中の「千の風になって」が詩、歌のタイトルとなっている。

原詩は詩の冒頭の「DO NOT STAND AT MY GRAVE AND WEEP」が通称となっている。


この歌が大流行したことは、家族や恋人など身近な人の悲しみを多くの人が抱え続けているという事実である。


日本人が春秋の彼岸、お盆、仏壇、法事を大切にしてきたし、いまもしているということは、死者を追悼し、覚えるということが、いかに私たちの心性に強いかということを示している。

仏教の、というより日本人の死生観に強いのは「無常観」であり、これは今回の東日本大震災でも見直された。(この項終わり)

2016年12月 9日 (金)

バブル崩壊以後の個人化、超高齢社会の到来-揺れ動く日本人の死生観第2回

YouTube「びきまえ」まだ続いています。
https://www.youtube.com/watch?v=ZkbjCg8XocY
402回「家族葬がはらんでいるもの 」あいかわらず滑舌悪いです。
 

揺れ動く日本人の死生観

変わる葬送

 
本稿のもとになっているのは2010(平成22)年に神社神道の『月刊若木』に寄稿したものであるため、神道者を意識している。

3回に分けて掲載する。

第1回 葬送は戦後二度目の転換期、高度経済成長が招いたもの

第2回 バブル崩壊以後の個人化、超高齢社会の到来

第3回 日本人の死生観と神葬祭

※再掲載にあたり、データは基本的に当時のまま、とした。

今回は第2回。
 

バブル崩壊以後の個人化

 

墓の変化が起こったのは平成の時代になった時期から。
「家(イエ)」を失い核家族となり、墓の承継の困難さが課題となったことによる。
イエは幻想であったとしても永続性を観念したものであり、墓や仏壇はその象徴としてあった(この観念の普及も実は昭和初期以降のもの)。
だが戦後民法に位置づけられた家族とは一代を本質としたものであった。
娘だけの世帯、子のない世帯、単身者、離婚の増加。
永続を前提とした家の枠外の人が増加した。
これに対し家墓システムは無力であった。

 

永代供養墓の先駆けの一つが京都の「女の碑」である。

戦時中に結婚適齢期を迎え、適齢の男性の多くを戦争で失い単身を余儀なくされた女性たちが、自分たちの墓を求めたものであった。

都市化、核家族墓ブームが招いたのは地方の放置された歯抜けの墓地であり、大都市周辺の墓地造成による自然破壊。

それへの反省と反発が散骨(自然葬)や樹木葬等の自然共生型の葬法を生み出し、人気を呼ぶところとなった。

 

葬式が自宅葬中心から自宅外へと出て行ったのは、自宅での死が少なくなり、病院等の施設に移った結果が招いたものである。

また地域共同体と個の違和感が招いたとも言える。

斎場(葬儀会館)葬は、自宅葬では地域の人が無遠慮に台所にも侵入し、自分も遺族であるのに、弔いに専念できず働くことから逃れられない遺族の女性たちが望んだ結果であった。

今や大きな式場を中心としたものではなく、自宅替わりの小ぢんまりとした、式場より遺族控室が充実した斎場(葬儀会館)が求められている。

 

バブル崩壊から3~4年後、不況が生活に及んできたと感じられるとともに、葬式では大きな祭壇が評価を失い、それまでの社会儀礼色が強かったことに反発するように反社会儀礼とも言うべき近親者中心の小型葬が急増した。宮型霊柩車も急速に人気をなくした。

 

永六輔の『大往生』(岩波新書)が200万部を突破する大ベストセラーとなり「死が茶の間でも話題にされるようになった」と言われたのが1994(平成6)年のこと。葬式をしない火葬だけの「直葬」は、かつては経済的事情や特殊事情から余儀なく選択されたもの。

だが死のタブーが崩れ、葬式が近所の視野から隠れ、一般の人も選択するようになった。

 

「葬式をしない」ことだけが批判されるべきことではなく、この背後には家族の解体、企業共同体の崩壊による絆から逸れる者が増えた社会的現実を見なければならないだろう。

 

そもそも共通した死生観を戦後日本人はもっていなかったのではないか。

 

数字的に挙げるならば、平均会葬者数は2005(平成17)年の公正取引委員会調査ではバブル期の半減以下の132名になり、2011(平成23)年の経産省調査では114人となった。

但し全葬儀の67%が100人未満の葬儀であった。
1991(平成3)年には平均会葬者数が280名であったから、これに比すと半分以下の59%減となっている。

 

NHKの「無縁社会」(2010年)の調べでは、誰かも特定できない行旅死亡人が全国で年1千人、縁者はいるが引き取ることを拒否された死亡人が年3万1千人。

推定ではあるが引き取り手はいても死体処理的に火葬だけをされた死亡人は年10万人はいるだろう。

この数はますます増えている。
年間死亡者数の1割は弔う親族がいない、と思われる。

※「2015(平成27)年人口動態統計(確定数)の概況」(2016年12月5日公表)では出生1,005、677人、死亡1,290,444人…なので約12~13万人程度となると思われる。

 

 

超高齢社会の到来
 

 日本の高齢化の進捗は著しい。

 

「高齢化率」とは全人口に対する65歳以上人口の占める割合をいい、国連では高齢化率7%~14%を高齢化社会」とよび、高齢化率14%~21%を「高齢社会」と呼び、高齢化率21%以上を「超高齢社会」とよんでいる。

 

日本は1950(昭和25)年には高齢化率は5%未満であったが、1970(昭和45)年に7%を超えて「高齢化社会」に入り、1994(平成6)年には14%を超えて「高齢社会」となり、2011(平成23)年には23.3%で世界一の「超高齢社会」となっている。)

2013(平成25)年には4人に1人が高齢者に、2035(平成47)年には3人に1人が高齢者になると推定されている。

 

死亡者の年齢もかつては80歳を超えて亡くなった場合には、「天寿をまっとうした」などといわれた。
80歳以上で亡くなる人は昭和初期にはわずか3~5%程度であった。2010(平成22)年の人口動態調査では、全死亡者の55.5%が80歳以上で亡くなった人の率である。※2015年現在では6割を超えた。
今では90歳を超えても「天寿」とは言われなくなった。
増加した認知症や身体不随の高齢者を支えきれない家族が増え、社会も支えきれずにいる。
「大往生」とは大違いである。
 
昔であれば自宅で看取り、口から本人が自力では食せないことで自然に死期にあることを共有したが、病院では点滴による過剰な栄養補給がなされ人工的な延命さえ行われている。
根本的に「自然死」が問われる時代にきている。
 
人の死でこれほど宗教が無力だった時代はないだろう。
自然に抱かれて往還する霊魂観をもつのでもなく、かの世である浄土や成仏を確かにイメージできるわけでもない。
映画「おくりびと」ブームが意味したのは、身近な人の死が本来もつ人間的な意味、感情を手探りする想いがあることだろう。
宗教がその想いに寄り添えるか、それは簡単なことではないだろう。
 
 

 

2016年12月 7日 (水)

葬送は戦後二度目の転換期-揺れ動く日本人の死生観 第1回

私の書くものを知っている方にとっては「また同じことを書いている」と思われるだろう。

同じ人間が書くものだから基本的ラインは同じであることは了解いただきたい。
 但し、書くものによって少しずつ例証などが変わっている。その点に注目して読んでいただけると幸いである。

本稿のもとになっているのは2010(平成22)年に神社神道の『月刊若木』に寄稿したものであるため、神道者を意識している。

3回に分けて掲載する。

第1回 葬送は戦後二度目の転換期、高度経済成長が招いたもの

第2回 バブル崩壊以後の個人化、超高齢社会の到来

第3回 日本人の死生観と神葬祭

※再掲載にあたり、データは基本的に当時のまま、とした。

 

 

揺れ動く日本人の死生観 変わる葬送 第1回

①葬送は戦後二度目の転換期

 

日本の葬儀は太平洋戦争後に二度の大きな変化を経験している。
今、ちょうどその2回目の変化の途中にある。

最初は昭和30年代以降の高度経済成長期であり、第二は平成3年のバブル景気崩壊に始まる。
言うならば
日本経済の大転換期に葬送も合わせて大きな変化をしてきた
と言えよう。

 

高度経済成長期には祭壇の大型化に象徴される葬儀の社会儀礼偏重の肥大化、大都市周辺での核家族用の事業型墓地の開発が進んだ。


バブル崩壊に伴い、「家族葬」に象徴される葬式の小型化、個人化、自宅葬中心から斎場(葬儀会館)葬へと変化した。

墓では跡継ぎを必要としない永代供養墓(合葬墓、合葬式墓地)、散骨(自然葬)、樹木葬と多様化が一挙に進んだ

 

②高度経済成長が招いたもの

 

戦争および戦争直後に、国民のほとんどが近親者の死を体験しながら、満足な弔いができなかったという大きな悔いを残していた
経済的に復興した後、その悔しさを取り返すように、人並みの葬送を求めるあまりに、肥大化、奢侈化を招いた

という不幸が高度経済成長期にはあるように思う。

しかしこの時期、急激な都市化が進み、戦争直後は郡部人口が8割、都市部人口が2割であった日本の人口構成が逆転し、都市部人口が多くなり、今日の地方の疲弊、過疎化を生む源となった。
日本は経済成長と引き換えに地域共同体の繋がり、血縁を中心とした「家」の紐帯を失う方向へ舵を切ったのである。


「葬儀・告別式」は、戦前の大都市部では既に出現しているが、全国に普及したのはこの時期である。
各地に残っていた死者を親族、地域の人が葬列を組んで送る野辺送りが姿を消して告別式に代わり、葬列の代わりに宮型霊柩車が走り、告別式の装飾壇として大きな祭壇が葬儀場に置かれた。

葬式を出す家の前に家紋が入った提灯、墓石に家紋が彫られるのは、華族や士族でもないかぎり一般の庶民が使うようになったのは昭和30年代以降のことである

 

葬式の会葬者の増加は、大型祭壇とともに弔いの立派さと錯覚された。

その結果、バブル期の最後には、故人を知る会葬者はわずか3割であり、生前の故人を知らない会葬者が7割を占めるという奇異な現象を招いた。

つまり悲しみを共有しない人が大多数で、悲しみを抱えた遺族が、自身の弔いを横に置いて、第三者の会葬者に失礼がないように気苦労するという、葬式本来の意味から外れた方向に向かったのである。

 

仏教の戒名(法名)、院号問題が起こるのもこの時期である。

戦後の農地解放により大土地所有者であった仏教寺院が、戦後の占領軍による財源を失い、やはり大土地所有者であった檀家総代等の有力支援者が経済的に没落して、困窮の底にあった。
高度経済成長を迎え、その仏教寺院が、経済の民主化に基づく庶民の院号要求という前に金銭の取引による院号売買という禁じ手に手を出したことによる

庶民は大きな祭壇だけではなく、死後名の立派さも求めたのである

 

確かにこの時代、日本は経済的に大成功した。

GNP世界第2位の経済大国となり、戦前からの課題であった庶民の経済的困窮を乗り越えたかに見えた。

医療も発達し、乳幼児の死亡率も大幅に減少し、長寿化を達成した。

しかし、失ったものも少なくない。

 

失ったものは自然と人間の調和であり、人間の暮らしを通した絆、連帯であり、死を見ないようにしたいのちの生に偏した考え方が主流となったことである。(続)

2015年11月 2日 (月)

戦後の葬送の変化の概略―その2

メモの続き

≪個人化する葬送≫

85
年以降、ターミナルケアの問題が顕在化します。延命治療中心への問題提起で、れは現在ではインフォームドコンセントが当然視されるまでになりました。

 90年代に入って大きな変化はバブル景気が破綻し、墓需要が急速に低下し、不になったことです。

 戦後世代が葬送の中心位置を占め、旧来の慣習がとおりにくくなったこと、高齢者が「迷惑をかけたくない」意識が一般化したことです。

この背景にはより核
族化が進展し、高齢者の夫婦だけ世帯、単独世帯の増加があります。

 社会現象的には95年の阪神・淡路大震災以降、単独世帯での単独死(孤独死、立死と言われるもの、但し価値観が入った言葉なので使いたくない) が珍しものではなくなりました。

 家族地域社会を背景にした葬儀は、家族の解体、地域社会の弱化を背景に個人化、小型化への方向に進み、2000年以降はこれが主流になりました。

 死の生活離れに呼応するように80年代後半から進んだ斎場(葬儀会館)競争が化し、自宅での葬儀が一般的であったのに2000年以降は斎場(葬 儀会館)で葬儀が7割以上と現在では中心になっています。

 昭和天皇の葬儀で洋型霊柩車が使用されたのを契機に宮型離れが急速に進み、では宮型霊柩車は1割程度にまで減少しました。

 葬儀の祭壇では宮型の輿が主流でしたが、急速に生花祭壇が中心になっています。

 経済的には2008年のリーマンショックと経済格差の広がりが葬送の変化を後押しました。

 葬儀をしない「直葬(ちょくそう)」も全国平均で2割弱を占めるようになりました。

 ネット起業の「安さ」競争の結果、安いだけで期待するサービスを受けられなかったという不も顕在化しています。

 墓については戦後の家族の変化、非継承性が大きく変化を促しました。

 85年に比叡山で永代供養墓、久遠墓が出ましたが、特に当時は話題になりませんでした

 80年代末から90年代初頭にかけて継承を必要としない永代供養墓(例、新潟の光寺、京都の女の碑の会、東京巣鴨のもやいの碑)が話題を集めるようになました。

 91年には葬送の自由をすすめる会が相模灘で散骨(自然葬)を実施しました。

99年には岩手県で樹木葬が開始されました。

 今や亜流も含めてさまざまな形態が出てきています。

墓についての選択では、7割が既存の墓地とする回答はこのところ変化ありまんが、新規の3割に変化が見られます。

 その3分の1は従来の墓ではない、永代供養墓(合葬墓)、散骨、樹木葬を選んいます。

 死者に対する意識も変化しました。

 昭和初期には80歳以上の死者が全体の死者に対する割合が5%未満でしたから、80歳以上の死者の葬儀は長寿を祝するようなお祝い的に派手に行わ れました。

 現在では80歳以上の死者は全体の死者の約6割を占めます。
高齢者の死ほどひっそり、小さく行われます。

 死者を弔うのが家族、血縁者とは限らなくなっています。

 その家族の死者に対する心情が2分化しています。
要するにより親密化する傾向と反対に疎ましいものとする二極分化です。

 過去の葬送習慣、慣習は地域が継承しましたが、今では地域慣習は薄まり、また70年代以降は葬祭業者に委託するものへと変化てきたので、慣習の継承者がむしろ葬祭業者になっています。

 今では死や葬送については「知らない」「わからない」が、高齢者を含めて一的になっています。

 ※新しい葬送形態の一つに「宇宙葬」を挙げる人がいる。「宇宙葬」は、宇宙へのロマン感情を利用して宇宙にゴミとして撒くが如き(実際には大気圏突入時にも燃え尽きるというが)の高額ビジネスに過ぎず、葬送とはおよそ反する行為ということで私は最初から反対している。これを報じるマスコミも事業の宣伝に加担している。1グラムで45万円、7グラムで135万円というばかげた金額だ。宇宙葬について古くは「サンデー毎日」にコメントを求められ、反対意見として掲載されたが、一昨年に毎日新聞から執拗にコメントを求められ、「そもそもマスコミがつまらない1事業の宣伝に加担すべきでない。反対意見でもいいか」と念を押した上で発言した。コメント内容も確認し、「記事にする以上、反対意見として掲載する」と記者が明言したが、何の断りもなくカットされた。夕刊一面で、新しいニュースでもなんでもないのに大きく報道された。以後何の断りも弁明も連絡もない。記者として不誠実だろう。おもしろそうであるというだけで、反対意見があることは切り捨て、報道して読者を煽る。「報道の自由」「報道の中立性」が聞いて呆れる。

今、「終活」ブームがあります。
これはあまりプラスには考えていません。

もっとも死をないかのようにタブー視した戦後日本がいいわけではありません。
人の死は極めて人間的な出来事であり、これを直視することは極めて当然なことです。
私も、このブームにお墨付きを与える結果を招いた経産省「ライフエンディング・ステージ」第1回報告書(2010年)の作成には2晩徹夜する等深く関与しましたから、現在のブームの責任の一端を担っています。

しかし「終活」ブームの背景には、高齢者の不安感を必要以上に煽り、ビジネス化を図るという事業者の意図が透けて見えるような気がして、危惧しているからです。

 

 

 

2015年10月31日 (土)

戦後の葬送の変化の概略―その1

今の葬儀の変化について聞かれることが多い。
若い記者がきても、50代未満はバブル崩壊後の人たちである。
「高度経済成長期」といってもすでに歴史の話である。
今、個人化が進んでいる葬儀を当たり前として育った世代が中心になっている。
以下は問われて急いで書いたメモである。
2回に分けて掲載する。

葬送について、今は戦後第2の変革期の途上にあります。

墓については80年代末来の、葬儀については95年来の大きな革期にあります。
これは高齢者の世代交代、高齢化、家族解体、ターミナルケアとかさまざまな会変化に照応しています。
戦後では高度経済成長期、特に都市化を背景に葬送は大きな変化をしましたが、その論理が日本経済同様に変化を強いられています。

《第1の変革期 高度経済成長期の変化》

60年代~80年代の戦後第1期の変化は、

墓でいえば、都市化に伴い、大都市周辺に墓地需要が広がり、結果として家墓ならぬ核家族墓が主体となり、民営墓地が現れ、これを背景に墓石の高級化が主流となりました。

60年代以降火葬率が6割を超え、80年には9割超えしたことも大きな変化です。

葬儀では宮型霊柩車、祭壇の普及、会葬者数の増大、これらにより社会儀礼化進みました。

バブル期には個人の葬儀でも会葬者が300人前後というのが少なくない状態で、会葬者の7割が生前の故人を知らない人が占めるようになりました。

高度経済成長期の流行が画一的であったのと同様に墓も葬儀も画一化が進みました。

本来の喪服は遺族・親族の着用するもので、これは世界的にもそうなのですが、日本では黒を会葬者までが着用する「仏事の礼服化」が進行、浸透しま した。

死亡の場所は、1955年当時は78割が自宅で、つまり生活の中での死であったのが在では自宅での死が1213%、8割以上が病院等生活の場以外での死が一的になりました。

戦後、医療では高度化が進み、延命治療があたりまえのように行われました。

こうした時代状況について反発するように出てきたのが第2の変化です。

(続く)

 

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