仏教と葬儀

2018年7月 2日 (月)

海洋民族の記憶の古層―『海へ還るー海洋散骨の手引き』を読む①

太田宏人さんとの縁で、村田ますみさんから彼の遺稿が収録された本を出す準備をされていると教えていただいた。

 

(注)太田宏人さんについては
ペルーとの関係を含めてわかる晃輝和尚の
https://ameblo.jp/seiryo-koki/entry-12377528763.html

asunohaさん(僧侶)の

http://taka.hasunoha-blog.info/shinsai6year/

私が書いた太田さんの訃報

http://romagray.cocolog-nifty.com/himonya/2018/05/post-134c.html

私が書いた太田さんの葬儀の報告

http://romagray.cocolog-nifty.com/himonya/2018/05/post-10c5.html

 

村田ますみ編『海へ還るー海洋散骨の手引き』(啓文社書房)

である。

アマゾンで予約したが、それに先行して、贈呈いただいた。感謝!

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この本はいろいろな意味で学ぶところが多かった。
海洋散骨について論じる場合に、避けて通れない必読書であろう。
とても丁寧に作られている。

本書については追々書いていき、感想も書かせていただくが、まずは太田さんの遺稿について触れたい。
全体の1割、20ページ足らずであるが、この小論、太田さんらしいキラリと光るものがある。

太田宏人さんは第2章「宗教面から見た海洋散骨」について書いている。

海洋散骨(海上散骨)について、日本の既存の伝統宗教からは、懐疑的な声が聞こえます。しかしながら、この国には「海へ還る」「海で眠る」という伝統があったことは事実です。

 

そして太田さんは「海洋民族の記憶の古層」を指摘する。
太田さんが展開するように、「人種的にも、文化的にも、日本人のルーツは多様」であり、「いくつもの他界観」をもっている。


その一つが「山上他界」「海上他界」である。

四方を海で囲まれた島々から成る日本列島。

長い海岸線に囲まれ、島の多くは山岳地帯。

平野部に後に都市が建設されるが、私たちがかつて住んだ地域は、背後が山で海岸線に沿った集落か、山間にあって河川の傍の集落であるかが多い。

山間部では死者は近くの霊山の麓から「浄土」へ還っていくと考えられた。
海岸線では海岸の洞窟から死者は海の彼方にある「浄土」へ還っていくと考えられた。

宗教学者である山折哲雄が日本の地理から生まれた日本人の浄土観を描いている。
これが近世以前の日本人の「古層」の他界観であった。

 

太田さんは、「補陀落渡海(ふだらくとかい)」を紹介する。

 

仏教の浄土といえば、阿弥陀如来の住む西方浄土が有名です。もうひとつ、観音菩薩が住む、あるいは降り立つ山「補陀落」または「補陀落山」という浄土が、南の海上はるか彼方にあるとされました。

 

私は、太田さんが海上他界に着目したことに彼の豊かな宗教観を反映していると見る。

太田さんの小論は「仏式海洋散骨」はどうあったらいいか、について実践的に書くのであるが、その背後には彼の禅僧としての供養へのこだわりがある。

 

仏教が海の上での散骨そのものについて反対する根拠は、私は希薄だと思っています。散骨に反対する僧侶は、墓制度や、供養の場所として大切な機能をもつ墓の存在と相容れないためと考えているようです。しかし、墓制度そのものは明治以降も常に変化を続けています。また、散骨を選ぶ確たる理由がある場合、やみくもに反対するのは衆生救済、衆生の抜苦与楽(苦しみを抜き安楽を与えること、慈悲)を旨とする大乗仏教の実践者として、どうなのでしょうか。

 

僧侶に対して批判して傍観者になるのではなく、供養をしてほしいと願う人がいれば、参加して供養すべきではないか、と勧めている(もっと穏便にだが)。
そして極めて実践的に仏式の海洋散骨での法事のあり方を提示している。

 

どこでも苦あるところには馳せ参じた。

供養することに生命を削り、一介の聖(ひじり)たろうとした太田さんの姿がここでも見ることができるように思う。

 



 

 

2018年6月26日 (火)

葬儀の風景は一変したが 個々の生死の現実を突きつける―中外日報コラム④最終回

中外日報に4回にわたりコラムを掲載した。
今回は最終回。

1回は、
「孤独死」「無縁墓」 価値観伴った不当な言葉―中外日報コラム①

 http://romagray.cocolog-nifty.com/himonya/2018/06/post-5ece.html#_ga=2.10109173.1943673036.1528352822-775014334.1512971023

2回は、超高齢社会 「死」の観念、大きく変化中外日報コラム
http://romagray.cocolog-nifty.com/himonya/2018/06/post-ac5c.html

3回は都市化・過疎化と葬儀、墓—中外日報コラム③

http://romagray.cocolog-nifty.com/himonya/2018/06/post-ad89.html

 

葬儀の風景は一変したが 個々の生死の現実を突きつける

 

■葬送の変化の20

 

「葬送が変化した」と言われて20年が経過。
葬送が明確に「個人化」へ舵を切ったのが1995年。
阪神・淡路大震災が発生し、6千人を超える大量死を生んだ年であった。


1990
年前後から跡継ぎ不要の永代供養墓(合葬墓)散骨が話題となり、1999年には樹木葬が誕生。
今や「送骨」も現れた。


葬儀では1995年に「家族葬」という言葉が誕生。
2000
年には葬儀式を伴わない「直葬」が話題を集めた。

宮型霊柩車は姿を消し、葬儀は自宅から斎場(葬儀会館)へ場所を移動。

1990年頃は会葬者300人という葬儀もごく一般的であったが、今や3060人程度が最も多い。

 

■仏教各派の葬送儀礼に変化が見られない

 

こうして何もかも変化したように思えるが、仏教各派の葬儀儀礼の次第にはあまり変化が見られない。

禅宗のみならず各宗派の次第を見ると、「葬列」が行われていた時代痕跡を多くが残している。

しかし、おそらくほとんどの僧侶は葬列を知ることはない。

 

中には遺体安置から始まり、柩を前に読経し、棺を閉じて出棺し、葬列を組み、火葬の火を点火するまで、かつての葬儀プロセスが1時間の中に再現されているものがある。

おそらく葬儀の進行に合わせ、都度行われてきたものなのだろう。


しかし、今、かつての葬儀進行への知識も想像力も欠いたまま、「正しい儀礼」を踏襲している。

 

■儀式に現場感覚が失われている

 

儀式が本来もっていた具体性、現場感覚が失われてはいないか。葬儀は、固有の死に直面し、死者を葬り弔うという遺族や死者の仲間たちの悔恨、絶望、悲嘆等の心情の揺れのプロセスを背景としたものであったはずである。

 

例えば、引導の松明は火葬の点火の名残。

今導師は、その生々しい緊張感を保持して引導しているだろうか。

 

死者個々に向き合って行われただろうことを示すのが引導文、歎徳文、諷誦文と言われるもの。

定型文中の名を入れ替えただけのものになってはいないか。

 

■死、葬儀は、どこまでも個々の生死の現実を突きつける

 

「葬儀式は大切だ」と多くの僧侶は言うが、自分たちが営む儀礼にどこまで自覚的だろうか。

 

通夜と葬儀の意味の違いも知らず、遺族が式としての通夜を省くと「儀礼軽視」と難ずる。

そのくせ意味不明な「式中初七日」は簡単に受け入れる。

 

死、葬儀は、どこまでも個々の生死の現実を突きつける。

その場に立ち竦み悩む僧侶にこそ期待したい。



(補足)小型化は全国で起こっているが、東京では20人以下が多いという。
家族5人程度といったのも普通に見られるようだ。

個人化した今、人数が問題ではない。
それぞれで考え方、事情も異なるからだ。
問題は弔いの実質を持っているかだろう。

過去の高度経済成長期の葬儀、多数の会葬者を集めて行われたが、社会儀礼に偏し、弔いの実質が伴わない葬儀が少なくなかった。

中高年の僧侶と話していると、今の葬儀の変化を嘆いているが、それは高度経済成長期の葬儀に比べて、というのが多い。
ちょっとおかしい。

社会の背景も異なる。

しかし、過去のありようへの反省がなくては、今を批判するのはおかしいだろう。

2018年6月23日 (土)

都市化・過疎化と葬儀、墓ー中外日報コラム③

中外日報に4回にわたりコラムを掲載した。

1回は
「孤独死」「無縁墓」 価値観伴った不当な言葉―中外日報コラム①

http://romagray.cocolog-nifty.com/himonya/2018/06/post-5ece.html#_ga=2.10109173.1943673036.1528352822-775014334.1512971023

2回は超高齢社会 「死」の観念、大きく変化中外日報コラム
http://romagray.cocolog-nifty.com/himonya/2018/06/post-ac5c.html

そして、今回は3回目。
ちなみに中外日報では「
人口、地方から都市へ 墓じまいより放置墓深刻」と編集部がタイトルを付けた。

■都市化・過疎化と葬儀、墓

 

1950(昭和25)年時の日本の人口は郡部が8割、市部が2割。それが戦後高度経済成長で1955(昭和30)年に始まる戦後高度経済成長以降、人口大移動が発生。今や郡部2割、市部8割と逆転している
戦後日本はこれだけ大きな変化をしたのだ。
地域共同体が中心だった社会が個人化した。
多くのものが変化したし、人の死も葬送もまた大きく変化した。

 

人口分布が大きく変化したのに寺の分布は江戸時代より大きく変わっていない。

過疎地の寺院が残った高齢檀信徒の手では維持できなくなり、消滅が相次ぐのは社会の趨勢ではある。

 

問題の一つは、都市化した住民が大量の宗教的浮動層を生んだこと。

地方寺院と都市寺院を結ぶという点では教団はネットワークとしてまったくといっていいほど機能しなかった。
住民を送り出す側の地方寺院は、都市寺院に檀信徒を奪われるのを嫌って紹介しなかった。

(補記)もとより寺院だけに宗教的浮動層の大量発生の責を負わせることは不当である。
都市住民の足元が浮遊し、家族は核家族を中心とし、将来の単身化を生んだ。
テレビが普及し、情報が溢れる。
都市はたくさんの興味あるもので満ちていた。
経済的には総中流を生み、大量消費社会となる。
しかし、1990年代以降、個は孤に変じ、今や大格差社会となる。
宗教は懐かしさの対象であって、観光として魅力をもつが、人間の生死にあまり交差しない。
それこそ盆、彼岸、葬儀、法事でのみ頭を過(よぎ)るのだが、過らない人もまた多い。


都市寺院は、都市化の恩恵を受け、地方出身の住民の葬儀・法事で泡銭を獲得し、地方寺院の疲弊化と反対に富裕化。
だが、その住民を取り込み檀信徒化することには失敗した。
葬儀に対し、頼まれ仕事という意識で、死者、遺族に責任をもって取り組もうとする寺があまりに少数に留まった。

(補記)都市住民、特に地方から都市に来た新住民はそれなりの悩み、問題を抱えていたのだが、それに対応したのは創価学会、立正佼成会、霊友会等の新宗教。
既成宗教は軒並み新住民の取り込みに失敗する。


その間隙を今ネット企業が僧侶派遣事業で攻める。
派遣要員となったのは地方、都市を問わず寺院格差により食えなくなった僧侶たち、2世僧侶たちだ。

都市寺院は、僧侶派遣を自分たちに入ってくるはずの収入を横取りするものとして敵対視。
だが、葬儀だけを頼む宗教的浮動層からは、都市寺院僧侶の「やってやる」とばかりの尊大さが人気を低くし、「お客様サービス」として評価を受ける派遣僧侶がむしろ相対的に高く評価される傾向にある。

(補記)僧侶個人の資質により大きく異なる。
今は、若い僧侶を中心に、身を低くして接する、誠実な僧侶が増えていることは確かだ。
しかし、総じて大きな名門寺院の僧侶ほど、偉そうな顔して、自分たちが上席に座るのは当然、敬語で話しかけられて当たり前、と思っているのが多い、と思うのは偏見だろうか?
自分に能力がないのを知っているから、上から目線でしか接しようとしないのか?


無論、僧侶派遣事業は宗教収奪であり、正当性はない。
だがそれに対抗すべき寺院側にも宗教性が欠ける点が問題を深刻にしている。


今、NHKが若手のディレクターが中心になり「墓じまい」を煽る。
地方等の家墓を整理し、都市周辺の承継を必要としない永代供養墓(合葬墓、合同墓)へ改葬することだ。
90
年代は「お墓の引っ越し」と言われ、今は「墓じまい」

(補記)確かに住居を地方から都市に移し、もう地方に戻る意思がない者は多く、高齢になれば墓参も大変になる。
地方に親や親戚がいたときはともかく、帰っても実家もない、あっても地元に残る親戚とは疎遠。
子がない人も多い。
子がいても、その子に子がいない例は多い。
継承されるべき家(イエ)がない人は多い。
だが、墓は何とかしなくちゃいけない、と念慮しなくてはならない存在としてあるのか?

 

騒がれてはいるが、はたして「墓じまい」は増加しているのだろうか?

改葬数を見ると1998年7万件、20068.9万件、2014年8.4万件、最新の2016年は9.7万件。

確かに増加はしている。
だがもてはやすほどではない。


他方、確実に増加していると思われるのが地方郡部の放置墓。
2~3割に及ぶ。
墳墓総数を少なめに1千万基と推定、1割としても放置墓は100万基となる計算になる。

(補記)日本人は「先祖」を大切にする、と言われる。
先祖祭祀の事例は多い。

しかし、「墓」ということが大衆に定着してくるのは室町末期の戦国時代以降のこと。

江戸時代に入り、大名、旗本、上流武士、豪農、豪商といった守るべきものがある人たちは、生活の起源となった人を崇拝し、それを祀ることで家のアイデンティティを確保したであろう。

だが名もなき大衆はどうだったのか?
せいぜいが生を共にした両親、祖父母までであり、それは「祖先祭祀」というよりも「死者祭祀」ではなかったか?

一つの墓石に同じ家の死者の遺骨を納める「家墓」。
まず火葬でなければ同じ場所に納骨(法律的には「埋蔵」)できない。
火葬率が高かったのは江戸、大坂等の大都市、地方では浄土真宗の門徒の勢力が強かった北陸地域等。
1896
(明治29)年の調査で火葬率は3割以下(26.8%)であるから、一般的ではあり得ない。

 

江戸時代に一つの墓石に複数の遺骨が納められた事例はあるようだが、家族全員代々となると、よほどではないか。

私の母方の家は大名の家老職であった。
今でも寺の墓地の一角に代々の墓石が広く置かれているが、祖父母までは個人墓である。
叔父が「こんなことは続けられない」と家墓を造り、今では叔父と昨年死んだ叔母が一緒に入っている。

私の父方は関東の大名で「取り立て家老」というのだろうか、代々ではなく、家老になったこともある家であった。

参勤交代があるので、東京と地方に墓はあったようだ。
東京では宗派の異なる複数の墓があったらしい。
というのは、明治で陸軍の将軍になった曽祖父の巨大な墓(隣に妻の墓、一角に息子の墓)があり、私が管理しているのだが、大出世した曽祖父以前の墓の記録がないのだ。
曽祖父が新たに求めた寺は元々の檀那寺とは異なる。
大成功した曽祖父は、それ以前の父母、祖父母等の墓を捨てた。

私の双系は江戸期までは上流武士である。
しかし、そんなものだ。

 

火葬が急速に進捗するのは明治末期以降。
コレラが大流行し、伝染病予防法が制定され、明治政府は公衆衛生の観点で土葬から火葬へ舵を切った。
「家」が単位となったのは1898(明治31)年公布の明治民法が家制度を強調した影響が大きい。

といっても急に火葬率が増えたわけではない。
第二次大戦の直前、1940(昭和15)年に火葬率はようやく5割になった。
昭和の初期に「〇〇家」の墓は大流行するのだが、大都市や火葬が進んでいた地域でのこと。

戦後になり、国が融資制度を設け、地方自治体に火葬場建設を奨励した。
この結果、196063.1%、196571.8%、197079.2%、197586.5%、198091.1%、198594.5%、199097.1%、199598.3%、200099.1%、201099.9%、2015年には統計上100%の99.99%と火葬率は急上昇。
土葬はまれになった。

大人口移動で都市に来た人たちが、都市近郊に墓を求める「墓ブーム」が到来するのは1970年代のこと。
家族形態は戦後民法の基礎、世帯である核家族。
都市周辺は火葬がすでに一般的。
新しい墓地許可条件は「焼骨の埋蔵に限る」と条件づけられた。
時代は総中流。
墓石もブランド物が選ばれる。

古いと思われる「家墓」が一般化したのは戦後、70年代、80年代のこと。
そこで言われた「家」はもはや明治民法下の「家(イエ)」ではなく「世帯」であった。

世帯単位であれば、継承が困難になるのは目に見えている。
今では一般世帯の3分の1(全世帯の4分の1)が一人世帯。
今後は継承を必ずしも前提としないシステムでなければ墓は行き詰る。

近年の東京、大阪に出現しているビル型「大納骨堂」「室内墓地(霊廟)」と称されるもの(墓地埋葬法上は「納骨堂」)。
墓参りに便利、無縁にならない、が売り。

でも、少し危険。
建物、骨壺を自動移送するシステム(倉庫システムの応用にすぎない)、いずれも将来はメンテナンスを必要とする。
納骨堂は「死者の安寧」の観点から維持されるべきである。
売ったお金の一部は常に基金として保全し、将来の用途に備える必要があるが、事業主体である寺院がどれだけ基金化しているだろうか?

すでにいくつか経営困難になり、事実上「売り」に出され、経営母体が変更している事例がある。
経営実態の公開は必要である。



2018年6月14日 (木)

藤井正雄先生のこと

宗教学者、大正大学名誉教授である藤井正雄先生(1934年生まれ)が69日にお亡くなりになった。83歳。

浄土宗僧侶(お父上は浄土宗門主、知恩院85世、増上寺84世の藤井實應師)。
仏教と民俗の関係についての研究の第一人者である。
「仏教の民俗化、民俗の仏教化」は名言。
1990
年以降は生命倫理に強い関心をもたれ、京大再生医学研究所倫理委員会委員、日本生命倫理学会会長も歴任された。
若い頃、当時気鋭だった学者仲間には奈良康明、佐々木宏幹、山折哲雄、伊藤唯真氏らがいる。

私の関心から言えば、先生は葬送と仏教の関係について、最初にトータルに教授してくださった方。
雑誌の顧問として多くの学者、宗教者をご紹介くださり、座談会への参加、連載のご執筆…と、四半世紀にわたりご指導、ご協力いただいた。

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雑誌『SOGI』創刊号(1991.1)に誌上特別講義を行ってくださったうちの冒頭の2ページ。
この時に私が取材し、記事をまとめたのを評価していただいて以降四半世紀以上お付き合いいただいた。


雑誌の編集には多くの方からご協力をいただいたが、その筆頭は藤井先生であった。

私が何がしか葬送と仏教について語れるのは藤井先生あってのこと。
ご自宅にもおうかがいしたし、先生が用事の途中で事務所に来られたことも多い。

主著は博士論文『祖先祭祀の儀礼構造と民俗』


1990
年の対談集『葬儀を考える』はとかく葬儀に対して理論的に斜に構えていた仏教界に、葬儀というテーマを提起した画期的な本である。
藤井正雄先生と伊藤唯真先生(当時:仏教大学教授、現:浄土宗門主)が1997年に編まれた『葬祭仏教 その歴史と現代的課題』は、浄土宗の立場からであったが、教義仏教と生活仏教に分立並行していた仏教界に寺という基盤に立って日本仏教を見直すことを促す最初期のものであった。

貴重な辞典・事典も編集された。

『仏教儀礼辞典』『葬儀大事典』

遺骨、墓についても広く説明、問題提起した

『骨のフォークロワ』『お墓のすべてがわかる本』
は今読んでもおもしろい。
晩年も新しい動きには関心をもたれ、散骨、永代供養墓、樹木葬については直接お会いし、電話などでずいぶんと意見交換したものだ。

啓蒙書も多く出されているが
『仏事の基礎知識』は出色である。

訃報が入り、奥様とお話をさせていただいたが、5年前より病み、昨年秋以降は、自宅での看護が困難となり入院され、最期は心臓が弱くなられたとのこと。

通夜は61718時から
ご葬儀は61813時から
いずれも増上寺光摂殿講堂にて行われる。
供花等は下記にお問い合わせください。

㈱牧野総本店 電話03-3445-0506 FAX 03-3445-0508

以上、藤井正雄先生に心からなる感謝を表し、報告させていただきます。

 

2018年6月 2日 (土)

「孤独死」「無縁墓」は再考を―中外日報コラム①

 

仏教関係の新聞『中外日報』2018420日から518日まで4回にわたってコラムを掲載した。

これについては後で紹介するつもりであったが、予想よりも早く中外日報ホームページに1回目が掲載された。

「孤独死」「無縁墓」 価値観伴った不当な言葉

 www.chugainippoh.co.jp/rensai/zuisou-zuihitu/20180420.html

 

そこで慌てていったんアップしたが、少し注を入れよう、ということで再アップする。
以下が原文に注を加えたもの。


東京都監察医務院「世帯分類別異状死統計調査」によると、東京23区内で自宅死亡した単身世帯のうち死後2日目以降に発見された者は、2004年が2148人、08年2630人、12年が3257人、16年には3657人と増加している。

 

(注)死後2日目以降を再集計して得られた数。上記調査では当日発見された場合も含めて出している。

 

 

ここから推計するに、全国で死亡時に看取る人がいなかった「ひとり死」は年間約3万人となるだろう。

 

(注)「ひとり死」は小谷みどりさん命名。私は「単独死」と称していたが…

 

監察医務院は「孤独死」といい、人によっては「孤立死」というが、これは価値観をともなった用語で不当である。

 

「国民生活基礎調査」によるならば、16年は単独世帯が27%を占めた。若者から高齢者まで4人に1人以上が「ひとり暮らし」。

「ひとり暮らし」をよぎなくされる者もいれば選択する者もいる。「ひとり暮らし」の実態はさまざまである。

 

知人は「ひとり暮らし」の兄を毎月2回訪問していたが、その合間に兄は突然死。妹である知人は「孤独死」という言葉に深く傷ついた。

 

いずれにしろ生前を知らずして、結果として死亡時に看取る者がいなかった人を、死亡後に第三者が安易に「孤独死」「孤立死」と呼んでいいわけはない。

私は価値観なしの用語「単独死」「ひとり死」を用いる。

 

そう言えば「無縁墓」もいやな言葉である。

 

誰とて縁のない人はいない。
たまたま子がいなく墓の跡を継ぐ血縁者がいない、というだけのことである。

 

(注)墓地埋葬法施行規則第3条に「死亡者の縁故者がない墳墓又は納骨堂(以下「無縁墳墓等」という。)  

とある。
法令上の文言であるが、だからといって「いい」とする訳にはいかない。

 

 

16年の合計特殊出生率は1.44人、少子化傾向は続く。
生涯未婚率(50歳時の未婚率)は男性23%、女性14%(15年)と非婚化は進む。

離婚数は婚姻数の約3分の1。


結婚する、一生添い遂げる、子どもがいる、家族が一緒に住む、病者を看護する、高齢者や障がい者を介護する―のがあたりまえとは言えない時代となった。
「ひとり」という生き方をすべてが選択したわけではないが実態は多様で個別の事情はさまざまで異なる。


寺はすべての人と縁を結ぶ存在だろう。
それであるならば、せめて寺から「孤独死」「無縁墓」という言葉を追放したいものだが…。

 

2018年3月27日 (火)

いくつかの報告―経王寺「ハスのカホリ」、毎日新聞「合葬墓」

経王寺

少し前の話だが、互井鑑章さんが住職の日蓮宗経王寺(東京都新宿区)の寺報『ハスのカホリ』2018年春号47号が送られてきた。


経王寺のホームページ
http://www.kyoouji.gr.jp/index.html
経王寺のFacebook

https://www.facebook.com/kyoouji/

 

ハスのカホリ』2018年春号47こに互井さんと私の対談「葬儀とお寺の未来」が掲載されている。

 

ハスのカホリ』表紙

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目次

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互井住職×碑文谷創

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合葬墓

毎日新聞2018322日夕刊「どうすれば安心」で合葬墓(永代供養墓)が取り上げられた。
契機は築地本願寺が合同墓を造ったことにある。

 

築地本願寺の合同墓

https://tsukijihongwanji-lounge.jp/top/goudoubo.html

 

毎日の記事は小松やしほ記者が取材して記事にした。
これに私と小谷みどりさんがコメントしている。

記事は

https://mainichi.jp/articles/20180322/dde/012/040/004000c

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2018年1月25日 (木)

聖たちの世界ー葬祭仏教の史的展開③

葬祭仏教の史的展開

1 葬祭仏教の誕生
http://romagray.cocolog-nifty.com/himonya/2017/03/post-2697.html

2 葬式仏教と葬祭仏教

http://romagray.cocolog-nifty.com/himonya/2018/01/post-c6ed.html

3 聖たちの世界(今回)

 

 

■仏教伝来

 

圭室の『葬式仏教』の本文の書き出しはこうである。

 

日本人の信仰基盤は自然崇拝であった。それは私たちを取りまく自然のなかで、自分たちに有益なものにたいする依頼、そして危険なものにたいする恐怖、という相対立する二つの感情の、率直な宗教的表現である。

 

圭室はこの先、古代からの神話、発掘成果をもとに辿るのだが、ここでは省略する。


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世紀に、日本古来の信仰があるなかで仏教が輸入されることになる。

 

仏教伝来当時の日本は、蘇我・物部二氏のあらそいに典型的に表現されているように、氏族檀権の時代であった。(略)当時の氏族首長は、現世利益的な貴族宗教を要求していた。かれらの求める現世利益の宗教とは、一体どんなものであったろうか。一口にいえば、息災延命と富貴栄達の要求を満足させてくれる宗教である。

仏教は、恩恵性の豊かな宗教で、インド・支那におけるながい歴史において、貴族の要求に対応する資質を充分に獲得していた。かくて仏教は、六世紀中葉に、日本の社会の要望にこたえて颯爽と登場した。

 

しかし、この仏教の受容は首長宗教としての限界、病気平癒、災害除去を「祈願される程度」であった。
そして聖徳太子が国力強化を企図して、宗教面においては「首長仏教を国家仏教に転換することを意図」した。
国家の積極的な保護により大化の改新(646年)以降、寺院が顕著に増加する。
国家仏教として奈良時代もっとも華やかだったのが華厳宗で743年の東大寺建設計画に至る。


平安時代、仏教は貴族の信仰を集め、貴族の喜捨により荘園領主化を進め、顕密諸教は、平安末期には貴族の財力をしのぐほどにまでなる。


また、この時代、本地垂迹説
(小学館『佛教大事典』によれば、「
本地より迹を垂れるの意。本地は根本の本体、迹は具体的な姿のこと。『法華経』の教説に由来し、宗義は、絶対・真実の仏が釈迦としてこの世に身を現わしたこと。転じて、諸仏・諸菩薩が衆生を救うためにそれぞれの風土・社会に応じて身を現わすこと、また、その現わした姿をいう。〈略〉一一世紀末ころには八幡神の本地は阿弥陀仏であるという説が成立し、以後、続々と各地の神社の本地仏が確定していく」
により、神即仏菩薩として神仏習合が進んだ。


これを政治的には台頭する武士勢力と王朝側のせめぎ合いとして見たのが日本中世史家・義江彰夫の『神仏習合』(岩波新書)である。


義江は、仏教伝来以降も基層信仰としての神祇信仰は社会底辺に根強く生き続け、王権と結びつき、普遍宗教としての仏教に見合うべく変容した。
キリスト教がヨーロッパで各地の基層宗教を吸収し、下に置いたのに比して、神祇信仰と仏教が開かれた結合、並存をした「神仏習合」を高く評価している。


また、この貴族層と結託した仏教を変えよう、そこから離れようとして遁世した聖(ひじり)たちの先駆者が9世紀の教信沙弥、10世紀の空也である。

 

■聖たちと浄土教

 

圭室は、遁世聖たちが限界をもっていることを指摘しながら、

真実の宗教をもとめる人々が聖となって、清貧の生活のなかで求道に精進する姿、それは日本仏教史において、もっともすがすがしいひとこまである。その中から鎌倉時代の新仏教である浄土宗・真宗・日蓮宗・禅宗などがめばえたのも当然のことと思われる


と述べている。


曹洞宗総合研究センターの竹内弘道は「日本仏教と葬祭の関わり」(曹洞宗総合研究センター編『葬祭―現代的意義と課題』所収)の中で、高野聖たちが全国を巡って高野山への納骨を呼びかけたこと、火葬に関与した私度僧(在野の僧)である「三昧聖」がいたことを指摘している。
10世紀の空也がその先駆けといわれる。


一方、浄土教の僧侶たちの中から臨終行儀、葬式を重視する恵心僧都源信(9421017)らの二十五三昧会が現われ、阿弥陀信仰、浄土信仰を盛んにし、浄土教を庶民化する契機となった。

 

■鎌倉新仏教と葬送儀礼

 

竹内は次のように述べる。

 

仏教的葬祭儀礼が広く民間へ普及したのは、鎌倉から南北朝・室町・戦国期にかけてですが、そのことに、鎌倉新仏教の祖師たちが創設した中世仏教教団が、大きく寄与したことは歴史的事実です。彼らが、日本の歴史社会に果たした大きな役割はここにあったといっても過言ではないでしょう。そして、そのことを可能にしたのは、こうした祖師たちの教団が、遁世教団としての性格を持っていたことと無縁ではありません。

鎌倉新仏教を創設した祖師たちと、葬祭儀礼を積極的に行ったその門流の人々とを、単純に同一視することはできません。しかし、前時代から葬儀をになってきた三昧聖や念仏僧、さらに陣僧のように戦乱の中で死者の供養にたずさわった僧や、「毛坊主」とよばれた半僧半俗の僧たちと、これら遁世教団は、体制外の仏教者として、共通した伝統のなかにあったことは重要です。彼らは、そのことによって平安時代以降次第に強まった「死穢」の観念を厭うことなく、民衆救済のための布教活動として積極的に葬祭にかかわっていくことができたのです。

もちろん、彼らは独自の信仰や理論によって「死穢」の観念から自由であったのであり、葬祭儀礼を執行するに当たっては、前時代からの滅罪や鎮魂にとどまらず、往生や成仏という新たな意義づけをもって、これを執り行ったことは見落としてはならない重要な要素です。

 

しかし、「鎌倉仏教」と言われるものが仏教の民衆化をなしたというのは短絡である。

鎌倉仏教と言われるものを担った僧たち、聖と言われ民衆の葬儀に係わった僧侶たちが共通に「遁世聖」という共通の存在であったこと。
また、仏教葬儀が平安時代にはもっぱら死者の滅罪や死者の霊の鎮魂ということに求められ、その呪力に期待されていたのが変わり、聖たちは、民衆の中へ入り、死者(死者の霊)の往生、成仏という死者(の霊)の行方を問題とし、弔ったということである。

 

2018年1月24日 (水)

葬式仏教と葬祭仏教ー葬祭仏教の史的展開②

72歳になった。
「まだ若い」との世辞を聞くこともあるが、それは社会のすさまじいまでの超高齢化を背景としており、人間の自然としては老齢である、と自覚している。
70歳は「古来稀なり」であることを自覚している。
しばらくブログを放置していたが、少しずつ書いていく。

ブログを書いていると、「書きかけ」というのをしばしばする。
次を展開しようと思っているのだが、つい違う話になってしまう。

このブログでもいくつかの書きかけがある。
その一つが「葬祭仏教の史的展開」である。

「葬祭仏教の誕生」を書いたのが201731日であるからほぼ1年前である。

http://romagray.cocolog-nifty.com/himonya/2017/03/post-2697.html

いささか遅いが、その続編を書く。

葬祭仏教の史的展開

 葬祭仏教の誕生
http://romagray.cocolog-nifty.com/himonya/2017/03/post-2697.html

 葬式仏教と葬祭仏教(今回)


■仏教民衆化の社会的背景 「戦国仏教」


仏教が民衆化するうえで社会的背景が左右した点もあるとの指摘もある。

歴史家・湯浅治久は『戦国仏教』(中公新書)で、次のように指摘する。

 

戦国仏教という言葉がある。じつは鎌倉仏教が真に地域に定着するのは室町から戦国時代にかけてであり、それゆえ、鎌倉仏教ではなく、これを戦国仏教と呼ぼう、とする研究者が考え出したものである。

 

この本は日蓮宗を例にとり戦国仏教として僧侶たちの民衆との係わり合いを丁寧に追った本である。


湯浅は、戦国時代が「わき上がる社会の底辺の民衆の力があり、民衆が躍動する時代」という従来の見方に対して、戦国時代が「寒冷化と飢饉に見舞われた社会で、人々が生存をかけて闘った時代」という見方を紹介している。


湯浅は千葉県松戸市の本土寺の過去帳を分析し、「この時代はまさに繰り返される飢饉の時代であったのであり、その際には多くの人々が死を迎えたのである」という事実を示し、そうした過酷な時代にあって本土寺が教線を延ばしたことを指摘し、次のように述べる。

 

人々がその家族・縁者の死に直面して、信仰を欲し、葬送や追善の儀礼を受容することが、その教線の展開を保証していたとしか考えられない。

 

そして次のように書く。

 

また、有力者でさえ餓死に至る、とするならば、そうした事態での信仰への帰依、そして喜捨のもつ意味はいっそう重くなるのではないだろうか。その背後には、そうした信仰にもすがることができない無数の非力な人々のおびただしい死が存在していたに違いない。そうした現実こそ、宗教が受容される実質的な受け皿だったのである。

 

例えば現在の葬送事情の変化の背景に、超高齢社会の到来、戦後世代が喪主となること、バブル景気の崩壊~長期デフレ~格差社会、阪神・淡路大震災、東日本大震災、死・葬儀の生活離れ、地域・家族の変容による個人化の進展…という社会的変化を入れることを否定する人はいないだろう。


仏教の民衆化には、仏教側からのアプローチと併行して、民衆のニーズ、事情が大きな要因となったことは視点として確保しておくべきだろう。

 

■庶民が仏教に求めた葬祭―圭室諦成『葬式仏教』

 

葬式と仏教を語るうえで外せない文献は圭室諦成『葬式仏教』(大法輪閣)である。
圭室は、その「はしがき」で次のように語る。

 

庶民が仏教にもとめているものは、①葬祭、②治病、③招福、の三つである。歴史的にみれば、まず治病、つぎに招福、一五世紀ごろから葬祭という順序になる。そして葬祭化してはじめて、仏教は庶民の信仰を独占することに成功している。ところで現在の仏教においては、治病・招福の面が相対的に弱化し、葬祭一本といっても過言ではない。

 

これには異論のある仏教者も多いのではなかろうか。
「仏教には宗教が期待されていないのか」と。

だが、「葬祭化してはじめて、仏教は庶民の信仰を独占することに成功」したということを事実として否定はできないだろう。
また、現在の日本仏教寺院において、望ましいか望ましくないかは別として、少なくとも財政的には「葬祭」に支えられているという現実を否定できないでいるところが多い。

 

■「葬式仏教」と「葬祭仏教」

 

私は従来「仏教が、概ねにおいて、葬祭一本でしかないことを否定的に語る」ものとして「葬式仏教」という名を与え、「仏教が、概ねにおいて、葬祭一本でしかない事実を語る」ものとして「葬祭仏教」という名を冠してきた。

この2つを分けるのは経済基盤でも外見的行動でもなく、言葉ですらない。
態度である。
態度を分けるのに適当な用語がないものだから、勝手に使い分けている。

言うならば「葬式仏教」は「堕落した」とか、さんざん手垢に塗れているため、中立的表現としては、より使用されることが少ない「葬祭仏教」を持ち出したのである。

また、これは私のみの意見ではない。
浄土宗宗教研究所が、仏教が葬祭に係わることを貶めたり、自嘲すべきでもなく、「課題」として取り上げた『葬祭仏教』(伊藤唯真・藤井正雄編、ノンブル社1997)に負っている。

「葬式仏教」という言葉自体がすでにマイナスの価値評価(開き直りも含めて)をもつことから、いったん「葬式仏教」という言葉から離れて、いまだ手垢がついていない「葬祭仏教」という言葉で論議すべきだ、という主張が、この本には見られるからである。
これはいまさら「葬式」という言葉と「葬祭」という言葉を知ったかぶりして意味的に区別することによって出てきたのではない。


私が「葬式仏教」を批判するのは、葬式に対して生業として係わるものの、葬式に対して必ずしも自覚的に取り組んでいる例が少ないからである。

実際に僧侶養成機関において、「死」について、「グリーフ(死別の悲嘆)」について専門的に教育してきただろうか。(東日本大震災以来、「傾聴ボランティア」としての教育が多少開始されてはいる。)
それもせず、ポンと(私がよく用いる擬態語であるが、サポートもなく放り投げられ)寺という現場に置かれた僧侶が、死にゆく人や、死者を抱えることになった遺族の前に立たされて、試行錯誤してきたのではないだろうか。


多くの僧侶が語ることであるが、初めての葬儀への出仕は、人生経験も少ない若い僧侶を当惑させるものであった。

その体験に「よりよく学んだ僧侶」とその体験に「何も学べなかった僧侶」とがいるというあたりまえの事実がある。
学べなかった僧侶は、結局のところ「葬式に係わる意味」を自覚しないままに、収入源としての葬祭行事を執り行う。


また、「教義的には意味はないが、檀家が求めるから応じる」という態度を取る僧侶もいる。


また、僧侶のなかには、葬式、法事において「異常に」としか表現できないほどに「権威的」である場合がある。
「導師」は死者(の霊)の行き先を左右できる力があり、権威と受け止められるべきである、と暴力団の縄張りよろしく、対抗するものが何であれ排除して、自らの権威を守ろうとする僧侶がいる。
葬式の主宰者は「僧侶以外にはいない」と思い込み、権益を守ろうとする。


こうした誤解をした僧侶が、死者を抱えた遺族を顧みず、どれだけ不当に嘆かせ、どれほどの痛苦をもたらしてきたことだろうか。
その怨念、諦観、嘲笑が「葬式仏教」に対する非難を形づくってきた原因の一つであることは確実であろう。


「葬式仏教」が非難される点は、よく「葬式や法事にしか係わらない」点と言われる。
事実はそうではないだろう。
「葬式や法事でも、意味あることをしているとは思われない、いい加減な係わり」からであろう。


日本仏教が民衆の中に根付いたのは、「死」を抱えて精神的危機、困難、悲嘆を抱えた庶民に係わった、つまり葬祭をしたことによる。
また、日本仏教が民衆からいま見放されるのではないかという危機にあるのは、一人ひとりの死、悲嘆に寄り添うことを忘れた僧侶が白日のもとに晒されるようになったからである。
もちろん戦後文化が伝統的習俗としての葬祭への仏教の係わりを当然視しなくなった、いわゆる「世俗化」も反映してのことだが。

実際に「寺」を見ていると、それは皆同じではない。
無論、地方にある寺は村落の過疎化、檀信徒の高齢化には共通に影響を受けている。
そうであるものの、寺と檀信徒の関係は一様ではない。


力を込めていっておくが、死という現場に誠実に対応している僧侶の下にいる檀信徒や信者は、仏教を疑おうとすらしていない。
そこには深い信頼で結ばれた絆がある。
もちろんそこまで信頼を受けている僧侶が「死」だけに係わっているわけがないのだが。
そういう寺も、残念ながら多数派を構成するまでにはなっていないものの、確実に存在している。


あまり先を急ぎすぎたようだ。次回以降、圭室らの説くところをいま少し追っていこう。

2017年11月20日 (月)

角田山妙光寺法灯継承式に行ってきました

新潟市(旧巻町)の日蓮宗角田山妙光寺の法灯継承式に行ってきました。
妙光寺は永代供養墓の先駆け安穏廟で知られますが、それだけではなく、お寺が生きるということを模索し続けてきた寺です。
http://www.myoukouji.or.jp/about/index.html

700年の歴史をもち、まさに過疎地にある寺。
日本の寺の典型ともいうべき寺でした。
その寺がどう変わったか、は一つの実験例として広く検証される価値があります。

角田山妙光寺の住職が2017年11月18日に第53世小川英爾(今後は院首)さんから第54世小川良恵さんに交代する法燈継承式が行われました。

小川英爾さんの在任期間は42年。
先代小川陽一住職が66歳で亡くなり、引き継ぎもなく22歳で就任。
先代と同じ年齢となるのに合わせて次代への円滑な承継を願ってのもの。
良恵さん32歳。妙光寺初の女性住職。
今後は「院首(インジュ)」で、良恵さんが「御前さま」

継承式を迎えた角田山妙光寺
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客殿での受付
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山門から住職、新住職、檀徒総代等が行列で入堂(先頭は前に妙光寺に勤務した大分の常妙寺住職・永石光陽さん)
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檀徒役員の入堂
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小川英爾さん53世最後の導師
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小川良恵さんに住職任命状授与
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法燈の継承
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54世住職として良恵さん最初の払子
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見守る小川なぎささん(53世夫人、54世母)
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継承式を前に(左から大分の亀山さん、大分の菊地さん、私、小川英爾さん、鎌倉の松脇さん。松脇さんは良恵新住職の師僧)
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継承式前に新住職の良恵さんと
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寺を支える女性陣(の一部)上右は新住職の師僧である松脇さん夫人。20年前に妙光寺で出会った。
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継承式記念誌(A4,108ページ)
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記念誌編集後記

碑文谷 創

 

■本書は、「寺が生きる」とはどういうことか、を実践、模索した記録である。
角田山妙光寺は、700年の歴史をもつ古刹である。
しかし、その歴史、地域社会との関係を大切にしつつ、時代、社会の変化に対応して、寺に縁をもつ人々の信仰と生活、地域社会との関係を築こう、と変化を模索し続けている寺である。

■現在、1955(昭和30)年以降の日本社会の都市化、地方の過疎化の大きなうねりが地方の寺を直撃、「寺院崩壊」という声を聞く。
7万ともいわれる全国の仏教寺院で、自立可能な寺は、厳しく見るならば3万にもならないだろう。
人が地域を去り、残るは高齢者のみ。寺は老朽化したまま、地域から去った人々の墓は放置されている。
最も深刻なのは、都市、地方を問わず、寺と人々の関係の距離が開いていくばかりなことである。寺の存在意義がどんどん失われていっていることである。

■妙光寺が他の寺と一線を画す一つは、信仰の見直しを行ったことである。
日蓮宗は日蓮聖人以来、強固に現世安穏を提唱した。
これを現代に活かすために「徹底して人々の生活現実に寄り添う寺であろう」とした。
檀信徒のみならず、地域の人々が高齢化、家族の変容、労働環境の悪化、精神的孤立という中で呻吟している。
人々のところに行って話に耳を傾け、また、人々が困った時に気軽に寺に寄ることのできるように、と考え、実践した。

■いま妙光寺では生前に法号を受ける人が多い。
法号は死後の名ではなく、仏弟子として生き、死のうと志すことの証である。
法号を授与された人々が寺の活動の支え手となっている。
寺は住職のものではなく、寺を支えようという意思のある人々がいて生きる。

■「安穏廟」は、どんな家庭環境、人の個性、個別事情にもかかわらず、すべての人に開かれた寺を志向している。
「墓」は単なる死後の葬地ではない。
墓は、どんな境涯であってもすべてのいのちの尊厳を守るところであると同時に、寺はその墓を求める人の生死を支える責務がある、という永代供養墓の理念を明らかにした。
これが人々の共感を呼び、墓を求め、墓を求めた人の中から寺の支え手を生み、寺を活性化させてきた。

■こうした寺をつくったのは、小川英爾という異能な住職の力だけによるものではけっしてない。
それこそ700年にわたり寺を地道に支えてきた檀信徒たちの「自分たちの寺を生かそう」という熱意と参加の賜物である。
檀信徒だけではない。
妙光寺に縁のある人々が、それぞれの仕方で住職を信頼し、足らざるところを補い、寺を支え、再生させたのである。

■本書の編集に参画できたことは幸いであった。
本書は、小川英爾住職の次代への強烈な想いの産物である。
併せて、新倉順さん、新倉理恵子さん、かもかよこさんの献身的な参画があって誕生したものであることを記し、感謝したい。
また、編集中、常に頭にあったのは「檀信徒の方々の寺への想いに応える記念誌に」ということであった。

2017年3月 1日 (水)

葬祭仏教の誕生―葬祭仏教の史的展開①

戒名、布施の問題を取り上げてきたが、そもそも歴史的に「葬祭仏教」とはどう展開されたかについて数回に分けて書く。


葬祭仏教の誕生


■「葬式仏教」の誕生

 

すぐれて「日本教」とでもいうべき「生活仏教」の形成に大きく影響を与えたのが「葬式仏教」であった。

寺は室町時代後期の「近世」の誕生と共に民衆、地域社会に入り込む。
仏教は
6世紀に日本に紹介されたとはいえ、近世以前は、基本は貴族、そして武家のための宗教であり、民衆の宗教ではなかった。
葬祭仏教化することによって仏教は民衆社会に土着し、外来仏教であることをやめたのである。

江戸時代中期に至り、キリシタン禁制を名目としての民衆管理、行政下におくために宗門改め、いわゆる寺請制度が定められ、寺と民衆との関係では檀家制度となった。
幕府・藩は、行政的には民衆を支配したが、それだけでは足りず、宗教の力、具体的には民衆化した仏教寺院の力を必要としたのである。

これにより仏教は国教となり、明治維新によって廃されるまでそのシステムは継続した。


明治維新により行政的位置づけを失ったからといって、檀家制度がなくなったわけではなかった。
法制的な位置づけは失ったものの、民衆との関係では生き続けたのである。
そこには仏教がすでに「外来宗教」ではなく、「生活仏教」として民衆の中に内在化していたことを示す。


この内在化にとってもっとも影響を与えたのが、仏教思想というよりは、葬祭との関係であった。

 

民俗学者の宮田登は『霊魂と旅のフォークロア』(吉川弘文館)で、近世以前の日本仏教の葬送儀礼における役割を「タマシズメ」、つまり死者の霊魂があの世に移行するのを守る「ある意味で呪術的な機能」にあったと考える。

 

 (死によって)肉体を離れた霊魂がさまようと、この世に災いをもたらす恐れがあると考えられていたことは、前にも述べた。日本仏教は、この人びとの原初的な恐れの感情に応え、霊魂を落ち着かせる儀礼を行ったのである。

 近世に檀家制度が定着する以前、民衆の葬送に携わったのは、「聖」と呼ばれる、特定の宗派に属さない民間の宗教者たちであった。彼らは、行き倒れの死体を埋め、死者の霊魂が鎮まるように念仏を唱えながら諸国を回った。(略)

 葬儀などで読まれる念仏やお経の意味は、おそらく民衆には理解されず、霊魂をあの世に送るための、一種の呪文と考えられていたであろう。また戒名も、言霊、つまり言葉や文字のもつ不思議な力によって霊を鎮めるという役割をはたすものであったと考えられる。

 日本仏教の各宗派は庶民の習俗を取り入れて定着していったが、宗派性の濃い浄土真宗は、もっぱら伝統的な慣習を忌避する傾向があった。

 

中世においても、光明真言や土砂加持という密教的要素が取り入れられ、葬送儀礼で尊重されたのは、死者の滅罪のためもあったろうが、死の穢れ、および伝染を防御するための呪術的機能が求められたからなのかもしれない。
それに浄土教の阿弥陀信仰、浄土思想が貴族の葬送儀礼で大きな影響力をもったが、これと民衆との関係は全てが解明されているわけではない。
(この項続く)

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