仏教と葬儀

2018年9月28日 (金)

格差社会の葬送、寺院・教会

人口動態統計の最新の発表等があったため、それらの紹介を兼ねて、本日「も」長い。

 

■「人生90年時代」の到来と少子多死社会の伸び

 

平成29年(2017)簡易生命表によると、平均寿命(0歳児の平均余命)は、男性81.09年、女性87.14年と前年比0.1年伸びた。
1960
(昭和35)年が男性65.32年、女性70.19年であったから約60年間で1517年伸びたことになる。
より実感に近いのは寿命中位数である。
「寿命中位数」とは、「生命表上で、出生者のうちちょうど半数が生存すると期待される年数」のこと(それまで半数が死亡することと同義であるが)。
寿命中位数では、男性84.08年、女性90.03年となっている。
女性が90年を超え、「人生90年時代」の到来である。

でも、これを寿ぐ雰囲気ではない。

9
21日に97日付の「平成29年(2017)人口動態統計(確定数)の概況」が公表された。それによると、
出生数は前年より約31千人減少して946065人。
死亡数は前年より約3万3千人増加して134397人。
人口の自然減は拡大している。
※出生数が100万人を割ったのは2016年、死亡数が100万人を超えたのは2003年。出生数は19471952年まで200万人を超えていた。その世代がすべて65歳を超えた。

他方、まとまり調和した社会を謳った日本社会も1991年のバブル景気崩壊、2008年のリーマン・ショック(金融恐慌)を経て分断が進んでいる。
1970
年頃には高度経済成長を背景に内閣府の調査で自らを中流と意識する者が9割となり「1億総中流」と言われたが、今や「格差社会」である。

 

■「高齢者」の定義

 

実感として言うならば、別の言い方をすれば「私の個人的な体験に基づく極めて個人的な感想」であるが、60歳の定年は早い。

私は65歳を過ぎて、急に体力が落ちた。
あくまで「実感」にすぎないのだが、65歳定年が適切であろう。

だが、これも個体差が大きい。
65
歳を過ぎても元気に働ける人がいる。
意欲も高く保っている人がいる。
そういう人は積極的に用いないと資源の無駄遣いになる。

65
歳定年がうたわれているが、いまだに60歳定年が多く、後は65歳まで1年更新の再雇用制度が多い。
給料は2分の1
3分の2に減って。
同じ仕事をする能力があり、同じ仕事をしているならば、同じ給料払っていいではないか。

これまで一般的に「現役世代」より「高齢者世代」が相対的に裕福であった。
だが高齢者世代にも変化が見える。
大雑把に言えば4分の1が「貧困高齢者」である。

今は「高齢者」とは65歳以上を言うが、6574歳を「前期高齢者」、75歳以上を「後期高齢者」と言う。
今この75歳以上高齢者が増加していることから、年金支給、健康保険負担の問題もあり、行政は「高齢者」の定義を70歳あるいは75歳以上に変更しようと画策している。

20171月、日本老年医学会は、高齢者の定義が65歳以上であるのは、個体差はあるものの現状に合わないとして、6574歳を「准高齢者」、7589歳を「高齢者」、90歳以上を「超高齢者」と区分することが妥当、とする提言を発表している。
※プロ野球では内野手の松井稼頭央(西武)が引退を発表したが42歳。同じく現役引退を発表した投手の浅尾拓也(中日)は33歳。プロ野球では30歳を超えると「ベテラン」で、40歳を超えての現役は一握り。人間の身体能力はそうしたものなのだろう。だが、社会的に引っ張っていく世代は30代、40代、50代中心であるのが健全だと思う。ところが企業では、スポーツ選手もどきに、40歳前後でふるいにかけられることが横行している。子どもを育てる世代が苦境に陥っているのも「子どもの貧困」の一因。

■国民生活基礎調査で見る所得格差

 

「国民生活基礎調査」によると、1世帯あたりの2016年の所得では次のようになっている。平均所得金額は500万2千円であるが、中央値はもう少し下がって442万円。
所得分布を見ると、

 

平均所得金額を上回るのは、5001000万円31.7%、1000万円以上が12.6%の約44%と半数未満。
平均所得金額が500万円未満は55.6%と過半数を超える。
これだけではない。
500
万円未満を見ると、
300
500万円が24.6%、300万円未満が31.2%を占めている。
上と下に分れ、下が多くなっている。

 

2017年時点の生活意識調査で見ると、

 全体では
「大変苦しい」が23.8%、「やや苦しい」が32.0%と合わせて過半数を上回る55.8%となり平均所得金額以下の割合とほぼ同率。
「高齢者世帯」では54.2%であるが、「児童のいる世帯」が58.2%であり、「子どもの貧困」が裏付けられる数字となっている。
「大変苦しい」では、より明確で「全体」が23.8%なのに対し、「高齢者世帯」は所得が少ないにもかかわらずそれを下回る220%(資産が関係)であるが、「児童のいる世帯」では4分の125.1%となっている。

多いのは「普通」で32.0%であるから半数はもとより3分の1に届かない。
「ややゆとりがある」は4.3%、「大変ゆとりがある」はわずか0.7%。
1000
万円以上が12.6%であるから、実際のゆとり層はもう少し多いはずだが。

日本の世帯状況は、大雑把に言えば、
1
割強の「富裕」層、3割強の「普通」層、2割強の「普通以下」層、3割強の「貧困」層に分れている。
これだけの格差のある社会だ、ということになる。

※だから「平均葬儀費用」「平均布施額」などというデータは意味がなく、消費者がそれに踊らされる必要もなければ、実際踊らされるわけがない。

■格差社会と葬送、寺院・教会


1991
年のバブル景気崩壊、2008年のリーマンショック以降、日本国内においても経済格差が深刻になっている。
一時は「総中流」と言われたが、今やすっかり瓦解。
一部の者たちへの富の集中は進み、その他との経済文化には大きな開きが生じている。

テレビコマーシャルを見ても、富裕層対象とそうでないのに二分化している。
富裕層対象商品、サービスは、はなから富裕層以外を対象としていない。

貧困層は明らかに拡大している。
近年、多くの寺やNPOが「子どもの貧困」に着目し、「子ども食堂」を開く事例が増えているが、頭が下がる。

近年の葬送の変化は、単身世帯の増加等の社会変化、戦後70年以上を経過した個人の意識の多様化もあるが、経済格差の拡大も大きな要素となっている。

葬儀総費用については、おおまかに言うならば、次の3つに分かれる。

・補助なしで葬儀を営めない層から50万未満の葬儀がせいぜいとする層が3割
50200万円とする層が4割

 

200万円超でも平気とする層が3

「平均金額」などは無意味である。
富裕層がたくさん消費すれば「平均」は上がる。

葬祭業者を見ても、平均葬儀単価が100万円以下と150180万円に2分化している。
1990
年頃の200300万円が「平均」だった時代とは明らかに異なっている。

今でも「平均葬儀単価」は140150万円である。
中央値は100120万円だろう。
しかし、この数字をまったく消費者は参照する価値がない。
0~50万円の層が70万円だと言われたら「高い!」と思うのは自然なこと。
200
万円超が平気な層は180万円だったら「良心的、安くついた」と思うだろう。

中にはお金があっても死者のための支出は無駄と考える人間もいる。
それも一つの現実ではあるが、
「葬儀費用が高ければ供養心が高い」なんてことはない。

寺院へのお布施も当然ながら異なる。
寺院の檀信徒にもいろいろな層がいる。
10
万円がせいぜいの檀信徒も少なくない。
100
万円以上普通に出せる檀信徒もいる。
これらを平均して2030万円になる。
「平均」というものがあるわけではないのだ。
いろいろな層があって、結果として平均金額を算出すると2030万円になるのである。

低額な布施を出す檀信徒が増加していることを「宗教心の低下」と結論づけるのはやめたほうがいい。
そもそも「出せない」層が増えている。

都会の大寺院はブランド化して富裕層が多い。
だから平気で70万円以上を提示する。
それに比して、圧倒的多数の地方寺院は、檀信徒が流出して数も減り、高齢化が進み、負担できる金額は明らかに減少している。
「ほとんどが10万円」と言う地方寺院も多い。
「イオンのお葬式」で「お布施金額の目安」が15万円と聞くと、「うちより高い」と言う地方僧侶は少なくない。

「自立」が困難な寺院は増加一方である。
これは仏教寺院に限った現象ではなく、キリスト教会においても言える。

都市部(だけではないが)の仏教寺院、キリスト教会で今問題になっているのは、檀信徒、教会員に単身高齢者が増加していることである。
こうした寺院、教会内の単身高齢者の世話、サポートで忙しくしている住職、牧師、神父は少なくない。

もっともこうした問題を内包しながら、その現実を見ようとしていない住職、牧師がより多数派であるのが残念である。

 

2018年8月27日 (月)

妙光寺・安穏廟が切り開いたもの

2018年の新潟・妙光寺の送り盆(第29回フェスティバル安穏)が825日(土)に行われた。

妙光寺からの報告
https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=1660681727391950&id=503879279738873

永石光陽さん(大分・常妙寺住職)のレポート
 https://www.facebook.com/hiroshi.fujita.79677/posts/1009145359291530?comment_id=1009187275954005&notif_id=1535349947679400&notif_t=feedback_reaction_generic
瀧野隆浩さん(毎日新聞社会部編集委員)のレポート

https://www.facebook.com/takahiro.takino.3/posts/1208307602645726


今回は安穏廟とフェスティバル安穏の歴史について触れる。

19901
1989
年に当時まだ目新しい「永代供養墓」である安穏廟が開設され、翌1990年の8月に第1回の「フェスティバル安穏」が開催された。これがNHK が報じたことで一挙に墓問題に火が点いた。

この第1回の企画に際し、住職の小川英爾さん(現・院首)をサポートしたのが当時ルポライターであった井上治代さん(社会学者)。ゲストに当時の墓問題のスペシャリストであった藤井正雄さん(宗教学、大正大学教授)、女の碑の会の代表で翌年1990年に京都。常寂光寺に女の碑の会員のための「志縁廟」を開設した谷嘉代子さん(関西大学教授)等が参加してシンポジウムを開催。
この場に出席したのが90年に東京・巣鴨にもやいの会の会員用合葬墓「もやいの碑」に開設、1993年生前契約のりすシステムをつくった松島如戒さん、1991年に相模灘で「自然葬」と称して最初の散骨を行った葬送の自由をすすめる会の会長となる安田睦彦さん(元朝日新聞記者)等。
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1990
年前後の日本の葬送の変革の旗手たちが一堂に揃った記念碑となるイベントであった。
藤井正雄さん、谷嘉代子さんは亡くなられている。
私が松島さんにお会いしたのは44歳の時、松島さんは53歳であった。今、私は72歳、松島さんは81歳である。
井上さん、小川さんは当時30代であった。

地元スタッフが育ち、地元の檀信徒が中心となって2010年から「送り盆」となった。

 

現在「LGBTの人でも入れる墓」ができるなど話題になっているが、安穏廟は事実婚であろうと、LGBTであろうと、友人同士であろうと、当人同士が合意している限り、「血縁」という枠を超えて一緒に入れることを、1989年当時から可能としている。これは1999年にできた岩手県一関の樹木葬墓地(知勝院)でも同様である。

■「安穏廟」とは?

お墓を建てたいが後を委ねる家族がいない、」「子供がいても後々の負担をかけられない、かけたくない。」

こうした家族の変化を受けて、妙光寺では、宗派を越え、かつ跡継ぎを必要としないお墓『安穏廟』を平成1(1989)年、全国に先駆けて実現しました。承継者がいなくなっても、妙光寺が基金運用によって供養、管理を続けるお墓です。
時代とともに変化する私たちの暮らしのなかで、『安穏廟』が提唱したことは、単に新しいお墓としてだけでなく、家族や血縁を超えて人々が集い、生き方について語り合う交流の場の大切さです。開設から四半世紀以上が経ち、人々の心のよりどころとしてしっかり定着しています。

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■安穏廟、フェスティバル安穏の小史

 

1989(平成1)年

 安穏廟完成

1990(平成2)年

 フェスティバル安穏が開始

 第121世紀の葬送と結縁を考える」ゲスト:藤井正雄(大正大教授)、谷嘉代子(関西大教授・女の碑の会代表)角田由紀子(弁護士)、長島義介(新潟青陵大教授)
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1993(平成5)年

 安穏廟2基目完成

 第4「葬送の自由の声に仏教はどう応えるか」ゲスト:山折哲雄(宗教学者)

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1996(平成8)年
 第7回「
私の人生、私の死」ゲスト:新藤兼人(映画監督)

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19978

1997(平成9)年

 安穏廟3基目完成

1998(平成10)年

 第9回「柳田邦男が語る生と死」ゲスト:柳田邦男(ノンフィクション作家)

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2000(平成12)年

 安穏廟4基目完成
 新本堂上棟式

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2001(平成13)年

 杜の安穏完成

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 第12回「「いま寺からのメッセージ―人々の生死を寺に託せるか―」ゲスト:高橋卓志(長野・神宮寺住職)、草野榮應(東京・明治寺住職)、秋田光彦(大阪・應典院主幹)、村田幸子(元NHK解説員))
2002132

2006(平成18)年

 杜の安穏増設

2008(平成20)年

 杜の安穏増設

2010(平成22)年

 杜の安穏池の上完成

 「送り盆」が開始

 送り盆法要、院庭ステージでのイベント、トーク、参道脇でのバザール広場、大道芸、蓮の花手作り体験、京住院・祖師堂・客殿でのイベント・各種教室、墓地・安穏廟での常経、光のなかの安穏法要、夜の交流会…と多彩、かつ、さまざまな人の自主参加による「妙光寺の夏の御祭」として模様替えした。

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2013(平成25)年

 杜の安穏池の上第2期工事完成

永代供養

永代使用料の一部を基金運用することで、お盆と春秋のお彼岸、合同供養祭の年4回の法要回向、及び維持管理を妙光寺が行います。ご事情で年会費の納入が停止された場合、その年から起算して13年間は個別埋葬を継続し、その後も総廟に合同埋葬のうえ、お名前を刻み、引き続き永代にわたり供養を継続します。

 

■使用権の相続

使用権は血縁等に関わりなく、契約者が指定してお届けいただくことによって継承できます。使用権の継承者は継承以降の年会費を納入いただきます。

 

■会員制

契約者はすべて「安穏会員」として登録いたします。会員としての義務は一切ありません。妙光寺から定期的に通信物を郵送し、所在地の確認と行事のご案内をいたします。 

 

2018年7月 2日 (月)

海洋民族の記憶の古層―『海へ還るー海洋散骨の手引き』を読む①

太田宏人さんとの縁で、村田ますみさんから彼の遺稿が収録された本を出す準備をされていると教えていただいた。

 

(注)太田宏人さんについては
ペルーとの関係を含めてわかる晃輝和尚の
https://ameblo.jp/seiryo-koki/entry-12377528763.html

asunohaさん(僧侶)の

http://taka.hasunoha-blog.info/shinsai6year/

私が書いた太田さんの訃報

http://romagray.cocolog-nifty.com/himonya/2018/05/post-134c.html

私が書いた太田さんの葬儀の報告

http://romagray.cocolog-nifty.com/himonya/2018/05/post-10c5.html

 

村田ますみ編『海へ還るー海洋散骨の手引き』(啓文社書房)

である。

アマゾンで予約したが、それに先行して、贈呈いただいた。感謝!

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この本はいろいろな意味で学ぶところが多かった。
海洋散骨について論じる場合に、避けて通れない必読書であろう。
とても丁寧に作られている。

本書については追々書いていき、感想も書かせていただくが、まずは太田さんの遺稿について触れたい。
全体の1割、20ページ足らずであるが、この小論、太田さんらしいキラリと光るものがある。

太田宏人さんは第2章「宗教面から見た海洋散骨」について書いている。

海洋散骨(海上散骨)について、日本の既存の伝統宗教からは、懐疑的な声が聞こえます。しかしながら、この国には「海へ還る」「海で眠る」という伝統があったことは事実です。

 

そして太田さんは「海洋民族の記憶の古層」を指摘する。
太田さんが展開するように、「人種的にも、文化的にも、日本人のルーツは多様」であり、「いくつもの他界観」をもっている。


その一つが「山上他界」「海上他界」である。

四方を海で囲まれた島々から成る日本列島。

長い海岸線に囲まれ、島の多くは山岳地帯。

平野部に後に都市が建設されるが、私たちがかつて住んだ地域は、背後が山で海岸線に沿った集落か、山間にあって河川の傍の集落であるかが多い。

山間部では死者は近くの霊山の麓から「浄土」へ還っていくと考えられた。
海岸線では海岸の洞窟から死者は海の彼方にある「浄土」へ還っていくと考えられた。

宗教学者である山折哲雄が日本の地理から生まれた日本人の浄土観を描いている。
これが近世以前の日本人の「古層」の他界観であった。

 

太田さんは、「補陀落渡海(ふだらくとかい)」を紹介する。

 

仏教の浄土といえば、阿弥陀如来の住む西方浄土が有名です。もうひとつ、観音菩薩が住む、あるいは降り立つ山「補陀落」または「補陀落山」という浄土が、南の海上はるか彼方にあるとされました。

 

私は、太田さんが海上他界に着目したことに彼の豊かな宗教観を反映していると見る。

太田さんの小論は「仏式海洋散骨」はどうあったらいいか、について実践的に書くのであるが、その背後には彼の禅僧としての供養へのこだわりがある。

 

仏教が海の上での散骨そのものについて反対する根拠は、私は希薄だと思っています。散骨に反対する僧侶は、墓制度や、供養の場所として大切な機能をもつ墓の存在と相容れないためと考えているようです。しかし、墓制度そのものは明治以降も常に変化を続けています。また、散骨を選ぶ確たる理由がある場合、やみくもに反対するのは衆生救済、衆生の抜苦与楽(苦しみを抜き安楽を与えること、慈悲)を旨とする大乗仏教の実践者として、どうなのでしょうか。

 

僧侶に対して批判して傍観者になるのではなく、供養をしてほしいと願う人がいれば、参加して供養すべきではないか、と勧めている(もっと穏便にだが)。
そして極めて実践的に仏式の海洋散骨での法事のあり方を提示している。

 

どこでも苦あるところには馳せ参じた。

供養することに生命を削り、一介の聖(ひじり)たろうとした太田さんの姿がここでも見ることができるように思う。

 



 

 

2018年6月26日 (火)

葬儀の風景は一変したが 個々の生死の現実を突きつける―中外日報コラム④最終回

中外日報に4回にわたりコラムを掲載した。
今回は最終回。

1回は、
「孤独死」「無縁墓」 価値観伴った不当な言葉―中外日報コラム①

 http://romagray.cocolog-nifty.com/himonya/2018/06/post-5ece.html#_ga=2.10109173.1943673036.1528352822-775014334.1512971023

2回は、超高齢社会 「死」の観念、大きく変化中外日報コラム
http://romagray.cocolog-nifty.com/himonya/2018/06/post-ac5c.html

3回は都市化・過疎化と葬儀、墓—中外日報コラム③

http://romagray.cocolog-nifty.com/himonya/2018/06/post-ad89.html

 

葬儀の風景は一変したが 個々の生死の現実を突きつける

 

■葬送の変化の20

 

「葬送が変化した」と言われて20年が経過。
葬送が明確に「個人化」へ舵を切ったのが1995年。
阪神・淡路大震災が発生し、6千人を超える大量死を生んだ年であった。


1990
年前後から跡継ぎ不要の永代供養墓(合葬墓)散骨が話題となり、1999年には樹木葬が誕生。
今や「送骨」も現れた。


葬儀では1995年に「家族葬」という言葉が誕生。
2000
年には葬儀式を伴わない「直葬」が話題を集めた。

宮型霊柩車は姿を消し、葬儀は自宅から斎場(葬儀会館)へ場所を移動。

1990年頃は会葬者300人という葬儀もごく一般的であったが、今や3060人程度が最も多い。

 

■仏教各派の葬送儀礼に変化が見られない

 

こうして何もかも変化したように思えるが、仏教各派の葬儀儀礼の次第にはあまり変化が見られない。

禅宗のみならず各宗派の次第を見ると、「葬列」が行われていた時代痕跡を多くが残している。

しかし、おそらくほとんどの僧侶は葬列を知ることはない。

 

中には遺体安置から始まり、柩を前に読経し、棺を閉じて出棺し、葬列を組み、火葬の火を点火するまで、かつての葬儀プロセスが1時間の中に再現されているものがある。

おそらく葬儀の進行に合わせ、都度行われてきたものなのだろう。


しかし、今、かつての葬儀進行への知識も想像力も欠いたまま、「正しい儀礼」を踏襲している。

 

■儀式に現場感覚が失われている

 

儀式が本来もっていた具体性、現場感覚が失われてはいないか。葬儀は、固有の死に直面し、死者を葬り弔うという遺族や死者の仲間たちの悔恨、絶望、悲嘆等の心情の揺れのプロセスを背景としたものであったはずである。

 

例えば、引導の松明は火葬の点火の名残。

今導師は、その生々しい緊張感を保持して引導しているだろうか。

 

死者個々に向き合って行われただろうことを示すのが引導文、歎徳文、諷誦文と言われるもの。

定型文中の名を入れ替えただけのものになってはいないか。

 

■死、葬儀は、どこまでも個々の生死の現実を突きつける

 

「葬儀式は大切だ」と多くの僧侶は言うが、自分たちが営む儀礼にどこまで自覚的だろうか。

 

通夜と葬儀の意味の違いも知らず、遺族が式としての通夜を省くと「儀礼軽視」と難ずる。

そのくせ意味不明な「式中初七日」は簡単に受け入れる。

 

死、葬儀は、どこまでも個々の生死の現実を突きつける。

その場に立ち竦み悩む僧侶にこそ期待したい。



(補足)小型化は全国で起こっているが、東京では20人以下が多いという。
家族5人程度といったのも普通に見られるようだ。

個人化した今、人数が問題ではない。
それぞれで考え方、事情も異なるからだ。
問題は弔いの実質を持っているかだろう。

過去の高度経済成長期の葬儀、多数の会葬者を集めて行われたが、社会儀礼に偏し、弔いの実質が伴わない葬儀が少なくなかった。

中高年の僧侶と話していると、今の葬儀の変化を嘆いているが、それは高度経済成長期の葬儀に比べて、というのが多い。
ちょっとおかしい。

社会の背景も異なる。

しかし、過去のありようへの反省がなくては、今を批判するのはおかしいだろう。

2018年6月23日 (土)

都市化・過疎化と葬儀、墓ー中外日報コラム③

中外日報に4回にわたりコラムを掲載した。

1回は
「孤独死」「無縁墓」 価値観伴った不当な言葉―中外日報コラム①

http://romagray.cocolog-nifty.com/himonya/2018/06/post-5ece.html#_ga=2.10109173.1943673036.1528352822-775014334.1512971023

2回は超高齢社会 「死」の観念、大きく変化中外日報コラム
http://romagray.cocolog-nifty.com/himonya/2018/06/post-ac5c.html

そして、今回は3回目。
ちなみに中外日報では「
人口、地方から都市へ 墓じまいより放置墓深刻」と編集部がタイトルを付けた。

■都市化・過疎化と葬儀、墓

 

1950(昭和25)年時の日本の人口は郡部が8割、市部が2割。それが戦後高度経済成長で1955(昭和30)年に始まる戦後高度経済成長以降、人口大移動が発生。今や郡部2割、市部8割と逆転している
戦後日本はこれだけ大きな変化をしたのだ。
地域共同体が中心だった社会が個人化した。
多くのものが変化したし、人の死も葬送もまた大きく変化した。

 

人口分布が大きく変化したのに寺の分布は江戸時代より大きく変わっていない。

過疎地の寺院が残った高齢檀信徒の手では維持できなくなり、消滅が相次ぐのは社会の趨勢ではある。

 

問題の一つは、都市化した住民が大量の宗教的浮動層を生んだこと。

地方寺院と都市寺院を結ぶという点では教団はネットワークとしてまったくといっていいほど機能しなかった。
住民を送り出す側の地方寺院は、都市寺院に檀信徒を奪われるのを嫌って紹介しなかった。

(補記)もとより寺院だけに宗教的浮動層の大量発生の責を負わせることは不当である。
都市住民の足元が浮遊し、家族は核家族を中心とし、将来の単身化を生んだ。
テレビが普及し、情報が溢れる。
都市はたくさんの興味あるもので満ちていた。
経済的には総中流を生み、大量消費社会となる。
しかし、1990年代以降、個は孤に変じ、今や大格差社会となる。
宗教は懐かしさの対象であって、観光として魅力をもつが、人間の生死にあまり交差しない。
それこそ盆、彼岸、葬儀、法事でのみ頭を過(よぎ)るのだが、過らない人もまた多い。


都市寺院は、都市化の恩恵を受け、地方出身の住民の葬儀・法事で泡銭を獲得し、地方寺院の疲弊化と反対に富裕化。
だが、その住民を取り込み檀信徒化することには失敗した。
葬儀に対し、頼まれ仕事という意識で、死者、遺族に責任をもって取り組もうとする寺があまりに少数に留まった。

(補記)都市住民、特に地方から都市に来た新住民はそれなりの悩み、問題を抱えていたのだが、それに対応したのは創価学会、立正佼成会、霊友会等の新宗教。
既成宗教は軒並み新住民の取り込みに失敗する。


その間隙を今ネット企業が僧侶派遣事業で攻める。
派遣要員となったのは地方、都市を問わず寺院格差により食えなくなった僧侶たち、2世僧侶たちだ。

都市寺院は、僧侶派遣を自分たちに入ってくるはずの収入を横取りするものとして敵対視。
だが、葬儀だけを頼む宗教的浮動層からは、都市寺院僧侶の「やってやる」とばかりの尊大さが人気を低くし、「お客様サービス」として評価を受ける派遣僧侶がむしろ相対的に高く評価される傾向にある。

(補記)僧侶個人の資質により大きく異なる。
今は、若い僧侶を中心に、身を低くして接する、誠実な僧侶が増えていることは確かだ。
しかし、総じて大きな名門寺院の僧侶ほど、偉そうな顔して、自分たちが上席に座るのは当然、敬語で話しかけられて当たり前、と思っているのが多い、と思うのは偏見だろうか?
自分に能力がないのを知っているから、上から目線でしか接しようとしないのか?


無論、僧侶派遣事業は宗教収奪であり、正当性はない。
だがそれに対抗すべき寺院側にも宗教性が欠ける点が問題を深刻にしている。


今、NHKが若手のディレクターが中心になり「墓じまい」を煽る。
地方等の家墓を整理し、都市周辺の承継を必要としない永代供養墓(合葬墓、合同墓)へ改葬することだ。
90
年代は「お墓の引っ越し」と言われ、今は「墓じまい」

(補記)確かに住居を地方から都市に移し、もう地方に戻る意思がない者は多く、高齢になれば墓参も大変になる。
地方に親や親戚がいたときはともかく、帰っても実家もない、あっても地元に残る親戚とは疎遠。
子がない人も多い。
子がいても、その子に子がいない例は多い。
継承されるべき家(イエ)がない人は多い。
だが、墓は何とかしなくちゃいけない、と念慮しなくてはならない存在としてあるのか?

 

騒がれてはいるが、はたして「墓じまい」は増加しているのだろうか?

改葬数を見ると1998年7万件、20068.9万件、2014年8.4万件、最新の2016年は9.7万件。

確かに増加はしている。
だがもてはやすほどではない。


他方、確実に増加していると思われるのが地方郡部の放置墓。
2~3割に及ぶ。
墳墓総数を少なめに1千万基と推定、1割としても放置墓は100万基となる計算になる。

(補記)日本人は「先祖」を大切にする、と言われる。
先祖祭祀の事例は多い。

しかし、「墓」ということが大衆に定着してくるのは室町末期の戦国時代以降のこと。

江戸時代に入り、大名、旗本、上流武士、豪農、豪商といった守るべきものがある人たちは、生活の起源となった人を崇拝し、それを祀ることで家のアイデンティティを確保したであろう。

だが名もなき大衆はどうだったのか?
せいぜいが生を共にした両親、祖父母までであり、それは「祖先祭祀」というよりも「死者祭祀」ではなかったか?

一つの墓石に同じ家の死者の遺骨を納める「家墓」。
まず火葬でなければ同じ場所に納骨(法律的には「埋蔵」)できない。
火葬率が高かったのは江戸、大坂等の大都市、地方では浄土真宗の門徒の勢力が強かった北陸地域等。
1896
(明治29)年の調査で火葬率は3割以下(26.8%)であるから、一般的ではあり得ない。

 

江戸時代に一つの墓石に複数の遺骨が納められた事例はあるようだが、家族全員代々となると、よほどではないか。

私の母方の家は大名の家老職であった。
今でも寺の墓地の一角に代々の墓石が広く置かれているが、祖父母までは個人墓である。
叔父が「こんなことは続けられない」と家墓を造り、今では叔父と昨年死んだ叔母が一緒に入っている。

私の父方は関東の大名で「取り立て家老」というのだろうか、代々ではなく、家老になったこともある家であった。

参勤交代があるので、東京と地方に墓はあったようだ。
東京では宗派の異なる複数の墓があったらしい。
というのは、明治で陸軍の将軍になった曽祖父の巨大な墓(隣に妻の墓、一角に息子の墓)があり、私が管理しているのだが、大出世した曽祖父以前の墓の記録がないのだ。
曽祖父が新たに求めた寺は元々の檀那寺とは異なる。
大成功した曽祖父は、それ以前の父母、祖父母等の墓を捨てた。

私の双系は江戸期までは上流武士である。
しかし、そんなものだ。

 

火葬が急速に進捗するのは明治末期以降。
コレラが大流行し、伝染病予防法が制定され、明治政府は公衆衛生の観点で土葬から火葬へ舵を切った。
「家」が単位となったのは1898(明治31)年公布の明治民法が家制度を強調した影響が大きい。

といっても急に火葬率が増えたわけではない。
第二次大戦の直前、1940(昭和15)年に火葬率はようやく5割になった。
昭和の初期に「〇〇家」の墓は大流行するのだが、大都市や火葬が進んでいた地域でのこと。

戦後になり、国が融資制度を設け、地方自治体に火葬場建設を奨励した。
この結果、196063.1%、196571.8%、197079.2%、197586.5%、198091.1%、198594.5%、199097.1%、199598.3%、200099.1%、201099.9%、2015年には統計上100%の99.99%と火葬率は急上昇。
土葬はまれになった。

大人口移動で都市に来た人たちが、都市近郊に墓を求める「墓ブーム」が到来するのは1970年代のこと。
家族形態は戦後民法の基礎、世帯である核家族。
都市周辺は火葬がすでに一般的。
新しい墓地許可条件は「焼骨の埋蔵に限る」と条件づけられた。
時代は総中流。
墓石もブランド物が選ばれる。

古いと思われる「家墓」が一般化したのは戦後、70年代、80年代のこと。
そこで言われた「家」はもはや明治民法下の「家(イエ)」ではなく「世帯」であった。

世帯単位であれば、継承が困難になるのは目に見えている。
今では一般世帯の3分の1(全世帯の4分の1)が一人世帯。
今後は継承を必ずしも前提としないシステムでなければ墓は行き詰る。

近年の東京、大阪に出現しているビル型「大納骨堂」「室内墓地(霊廟)」と称されるもの(墓地埋葬法上は「納骨堂」)。
墓参りに便利、無縁にならない、が売り。

でも、少し危険。
建物、骨壺を自動移送するシステム(倉庫システムの応用にすぎない)、いずれも将来はメンテナンスを必要とする。
納骨堂は「死者の安寧」の観点から維持されるべきである。
売ったお金の一部は常に基金として保全し、将来の用途に備える必要があるが、事業主体である寺院がどれだけ基金化しているだろうか?

すでにいくつか経営困難になり、事実上「売り」に出され、経営母体が変更している事例がある。
経営実態の公開は必要である。



2018年6月14日 (木)

藤井正雄先生のこと

宗教学者、大正大学名誉教授である藤井正雄先生(1934年生まれ)が69日にお亡くなりになった。83歳。

浄土宗僧侶(お父上は浄土宗門主、知恩院85世、増上寺84世の藤井實應師)。
仏教と民俗の関係についての研究の第一人者である。
「仏教の民俗化、民俗の仏教化」は名言。
1990
年以降は生命倫理に強い関心をもたれ、京大再生医学研究所倫理委員会委員、日本生命倫理学会会長も歴任された。
若い頃、当時気鋭だった学者仲間には奈良康明、佐々木宏幹、山折哲雄、伊藤唯真氏らがいる。

私の関心から言えば、先生は葬送と仏教の関係について、最初にトータルに教授してくださった方。
雑誌の顧問として多くの学者、宗教者をご紹介くださり、座談会への参加、連載のご執筆…と、四半世紀にわたりご指導、ご協力いただいた。

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雑誌『SOGI』創刊号(1991.1)に誌上特別講義を行ってくださったうちの冒頭の2ページ。
この時に私が取材し、記事をまとめたのを評価していただいて以降四半世紀以上お付き合いいただいた。


雑誌の編集には多くの方からご協力をいただいたが、その筆頭は藤井先生であった。

私が何がしか葬送と仏教について語れるのは藤井先生あってのこと。
ご自宅にもおうかがいしたし、先生が用事の途中で事務所に来られたことも多い。

主著は博士論文『祖先祭祀の儀礼構造と民俗』


1990
年の対談集『葬儀を考える』はとかく葬儀に対して理論的に斜に構えていた仏教界に、葬儀というテーマを提起した画期的な本である。
藤井正雄先生と伊藤唯真先生(当時:仏教大学教授、現:浄土宗門主)が1997年に編まれた『葬祭仏教 その歴史と現代的課題』は、浄土宗の立場からであったが、教義仏教と生活仏教に分立並行していた仏教界に寺という基盤に立って日本仏教を見直すことを促す最初期のものであった。

貴重な辞典・事典も編集された。

『仏教儀礼辞典』『葬儀大事典』

遺骨、墓についても広く説明、問題提起した

『骨のフォークロワ』『お墓のすべてがわかる本』
は今読んでもおもしろい。
晩年も新しい動きには関心をもたれ、散骨、永代供養墓、樹木葬については直接お会いし、電話などでずいぶんと意見交換したものだ。

啓蒙書も多く出されているが
『仏事の基礎知識』は出色である。

訃報が入り、奥様とお話をさせていただいたが、5年前より病み、昨年秋以降は、自宅での看護が困難となり入院され、最期は心臓が弱くなられたとのこと。

通夜は61718時から
ご葬儀は61813時から
いずれも増上寺光摂殿講堂にて行われる。
供花等は下記にお問い合わせください。

㈱牧野総本店 電話03-3445-0506 FAX 03-3445-0508

以上、藤井正雄先生に心からなる感謝を表し、報告させていただきます。

 

2018年6月 2日 (土)

「孤独死」「無縁墓」は再考を―中外日報コラム①

 

仏教関係の新聞『中外日報』2018420日から518日まで4回にわたってコラムを掲載した。

これについては後で紹介するつもりであったが、予想よりも早く中外日報ホームページに1回目が掲載された。

「孤独死」「無縁墓」 価値観伴った不当な言葉

 www.chugainippoh.co.jp/rensai/zuisou-zuihitu/20180420.html

 

そこで慌てていったんアップしたが、少し注を入れよう、ということで再アップする。
以下が原文に注を加えたもの。


東京都監察医務院「世帯分類別異状死統計調査」によると、東京23区内で自宅死亡した単身世帯のうち死後2日目以降に発見された者は、2004年が2148人、08年2630人、12年が3257人、16年には3657人と増加している。

 

(注)死後2日目以降を再集計して得られた数。上記調査では当日発見された場合も含めて出している。

 

 

ここから推計するに、全国で死亡時に看取る人がいなかった「ひとり死」は年間約3万人となるだろう。

 

(注)「ひとり死」は小谷みどりさん命名。私は「単独死」と称していたが…

 

監察医務院は「孤独死」といい、人によっては「孤立死」というが、これは価値観をともなった用語で不当である。

 

「国民生活基礎調査」によるならば、16年は単独世帯が27%を占めた。若者から高齢者まで4人に1人以上が「ひとり暮らし」。

「ひとり暮らし」をよぎなくされる者もいれば選択する者もいる。「ひとり暮らし」の実態はさまざまである。

 

知人は「ひとり暮らし」の兄を毎月2回訪問していたが、その合間に兄は突然死。妹である知人は「孤独死」という言葉に深く傷ついた。

 

いずれにしろ生前を知らずして、結果として死亡時に看取る者がいなかった人を、死亡後に第三者が安易に「孤独死」「孤立死」と呼んでいいわけはない。

私は価値観なしの用語「単独死」「ひとり死」を用いる。

 

そう言えば「無縁墓」もいやな言葉である。

 

誰とて縁のない人はいない。
たまたま子がいなく墓の跡を継ぐ血縁者がいない、というだけのことである。

 

(注)墓地埋葬法施行規則第3条に「死亡者の縁故者がない墳墓又は納骨堂(以下「無縁墳墓等」という。)  

とある。
法令上の文言であるが、だからといって「いい」とする訳にはいかない。

 

 

16年の合計特殊出生率は1.44人、少子化傾向は続く。
生涯未婚率(50歳時の未婚率)は男性23%、女性14%(15年)と非婚化は進む。

離婚数は婚姻数の約3分の1。


結婚する、一生添い遂げる、子どもがいる、家族が一緒に住む、病者を看護する、高齢者や障がい者を介護する―のがあたりまえとは言えない時代となった。
「ひとり」という生き方をすべてが選択したわけではないが実態は多様で個別の事情はさまざまで異なる。


寺はすべての人と縁を結ぶ存在だろう。
それであるならば、せめて寺から「孤独死」「無縁墓」という言葉を追放したいものだが…。

 

2018年3月27日 (火)

いくつかの報告―経王寺「ハスのカホリ」、毎日新聞「合葬墓」

経王寺

少し前の話だが、互井鑑章さんが住職の日蓮宗経王寺(東京都新宿区)の寺報『ハスのカホリ』2018年春号47号が送られてきた。


経王寺のホームページ
http://www.kyoouji.gr.jp/index.html
経王寺のFacebook

https://www.facebook.com/kyoouji/

 

ハスのカホリ』2018年春号47こに互井さんと私の対談「葬儀とお寺の未来」が掲載されている。

 

ハスのカホリ』表紙

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目次

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互井住職×碑文谷創

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合葬墓

毎日新聞2018322日夕刊「どうすれば安心」で合葬墓(永代供養墓)が取り上げられた。
契機は築地本願寺が合同墓を造ったことにある。

 

築地本願寺の合同墓

https://tsukijihongwanji-lounge.jp/top/goudoubo.html

 

毎日の記事は小松やしほ記者が取材して記事にした。
これに私と小谷みどりさんがコメントしている。

記事は

https://mainichi.jp/articles/20180322/dde/012/040/004000c

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2018年1月25日 (木)

聖たちの世界ー葬祭仏教の史的展開③

葬祭仏教の史的展開

1 葬祭仏教の誕生
http://romagray.cocolog-nifty.com/himonya/2017/03/post-2697.html

2 葬式仏教と葬祭仏教

http://romagray.cocolog-nifty.com/himonya/2018/01/post-c6ed.html

3 聖たちの世界(今回)

 

 

■仏教伝来

 

圭室の『葬式仏教』の本文の書き出しはこうである。

 

日本人の信仰基盤は自然崇拝であった。それは私たちを取りまく自然のなかで、自分たちに有益なものにたいする依頼、そして危険なものにたいする恐怖、という相対立する二つの感情の、率直な宗教的表現である。

 

圭室はこの先、古代からの神話、発掘成果をもとに辿るのだが、ここでは省略する。


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世紀に、日本古来の信仰があるなかで仏教が輸入されることになる。

 

仏教伝来当時の日本は、蘇我・物部二氏のあらそいに典型的に表現されているように、氏族檀権の時代であった。(略)当時の氏族首長は、現世利益的な貴族宗教を要求していた。かれらの求める現世利益の宗教とは、一体どんなものであったろうか。一口にいえば、息災延命と富貴栄達の要求を満足させてくれる宗教である。

仏教は、恩恵性の豊かな宗教で、インド・支那におけるながい歴史において、貴族の要求に対応する資質を充分に獲得していた。かくて仏教は、六世紀中葉に、日本の社会の要望にこたえて颯爽と登場した。

 

しかし、この仏教の受容は首長宗教としての限界、病気平癒、災害除去を「祈願される程度」であった。
そして聖徳太子が国力強化を企図して、宗教面においては「首長仏教を国家仏教に転換することを意図」した。
国家の積極的な保護により大化の改新(646年)以降、寺院が顕著に増加する。
国家仏教として奈良時代もっとも華やかだったのが華厳宗で743年の東大寺建設計画に至る。


平安時代、仏教は貴族の信仰を集め、貴族の喜捨により荘園領主化を進め、顕密諸教は、平安末期には貴族の財力をしのぐほどにまでなる。


また、この時代、本地垂迹説
(小学館『佛教大事典』によれば、「
本地より迹を垂れるの意。本地は根本の本体、迹は具体的な姿のこと。『法華経』の教説に由来し、宗義は、絶対・真実の仏が釈迦としてこの世に身を現わしたこと。転じて、諸仏・諸菩薩が衆生を救うためにそれぞれの風土・社会に応じて身を現わすこと、また、その現わした姿をいう。〈略〉一一世紀末ころには八幡神の本地は阿弥陀仏であるという説が成立し、以後、続々と各地の神社の本地仏が確定していく」
により、神即仏菩薩として神仏習合が進んだ。


これを政治的には台頭する武士勢力と王朝側のせめぎ合いとして見たのが日本中世史家・義江彰夫の『神仏習合』(岩波新書)である。


義江は、仏教伝来以降も基層信仰としての神祇信仰は社会底辺に根強く生き続け、王権と結びつき、普遍宗教としての仏教に見合うべく変容した。
キリスト教がヨーロッパで各地の基層宗教を吸収し、下に置いたのに比して、神祇信仰と仏教が開かれた結合、並存をした「神仏習合」を高く評価している。


また、この貴族層と結託した仏教を変えよう、そこから離れようとして遁世した聖(ひじり)たちの先駆者が9世紀の教信沙弥、10世紀の空也である。

 

■聖たちと浄土教

 

圭室は、遁世聖たちが限界をもっていることを指摘しながら、

真実の宗教をもとめる人々が聖となって、清貧の生活のなかで求道に精進する姿、それは日本仏教史において、もっともすがすがしいひとこまである。その中から鎌倉時代の新仏教である浄土宗・真宗・日蓮宗・禅宗などがめばえたのも当然のことと思われる


と述べている。


曹洞宗総合研究センターの竹内弘道は「日本仏教と葬祭の関わり」(曹洞宗総合研究センター編『葬祭―現代的意義と課題』所収)の中で、高野聖たちが全国を巡って高野山への納骨を呼びかけたこと、火葬に関与した私度僧(在野の僧)である「三昧聖」がいたことを指摘している。
10世紀の空也がその先駆けといわれる。


一方、浄土教の僧侶たちの中から臨終行儀、葬式を重視する恵心僧都源信(9421017)らの二十五三昧会が現われ、阿弥陀信仰、浄土信仰を盛んにし、浄土教を庶民化する契機となった。

 

■鎌倉新仏教と葬送儀礼

 

竹内は次のように述べる。

 

仏教的葬祭儀礼が広く民間へ普及したのは、鎌倉から南北朝・室町・戦国期にかけてですが、そのことに、鎌倉新仏教の祖師たちが創設した中世仏教教団が、大きく寄与したことは歴史的事実です。彼らが、日本の歴史社会に果たした大きな役割はここにあったといっても過言ではないでしょう。そして、そのことを可能にしたのは、こうした祖師たちの教団が、遁世教団としての性格を持っていたことと無縁ではありません。

鎌倉新仏教を創設した祖師たちと、葬祭儀礼を積極的に行ったその門流の人々とを、単純に同一視することはできません。しかし、前時代から葬儀をになってきた三昧聖や念仏僧、さらに陣僧のように戦乱の中で死者の供養にたずさわった僧や、「毛坊主」とよばれた半僧半俗の僧たちと、これら遁世教団は、体制外の仏教者として、共通した伝統のなかにあったことは重要です。彼らは、そのことによって平安時代以降次第に強まった「死穢」の観念を厭うことなく、民衆救済のための布教活動として積極的に葬祭にかかわっていくことができたのです。

もちろん、彼らは独自の信仰や理論によって「死穢」の観念から自由であったのであり、葬祭儀礼を執行するに当たっては、前時代からの滅罪や鎮魂にとどまらず、往生や成仏という新たな意義づけをもって、これを執り行ったことは見落としてはならない重要な要素です。

 

しかし、「鎌倉仏教」と言われるものが仏教の民衆化をなしたというのは短絡である。

鎌倉仏教と言われるものを担った僧たち、聖と言われ民衆の葬儀に係わった僧侶たちが共通に「遁世聖」という共通の存在であったこと。
また、仏教葬儀が平安時代にはもっぱら死者の滅罪や死者の霊の鎮魂ということに求められ、その呪力に期待されていたのが変わり、聖たちは、民衆の中へ入り、死者(死者の霊)の往生、成仏という死者(の霊)の行方を問題とし、弔ったということである。

 

2018年1月24日 (水)

葬式仏教と葬祭仏教ー葬祭仏教の史的展開②

72歳になった。
「まだ若い」との世辞を聞くこともあるが、それは社会のすさまじいまでの超高齢化を背景としており、人間の自然としては老齢である、と自覚している。
70歳は「古来稀なり」であることを自覚している。
しばらくブログを放置していたが、少しずつ書いていく。

ブログを書いていると、「書きかけ」というのをしばしばする。
次を展開しようと思っているのだが、つい違う話になってしまう。

このブログでもいくつかの書きかけがある。
その一つが「葬祭仏教の史的展開」である。

「葬祭仏教の誕生」を書いたのが201731日であるからほぼ1年前である。

http://romagray.cocolog-nifty.com/himonya/2017/03/post-2697.html

いささか遅いが、その続編を書く。

葬祭仏教の史的展開

 葬祭仏教の誕生
http://romagray.cocolog-nifty.com/himonya/2017/03/post-2697.html

 葬式仏教と葬祭仏教(今回)


■仏教民衆化の社会的背景 「戦国仏教」


仏教が民衆化するうえで社会的背景が左右した点もあるとの指摘もある。

歴史家・湯浅治久は『戦国仏教』(中公新書)で、次のように指摘する。

 

戦国仏教という言葉がある。じつは鎌倉仏教が真に地域に定着するのは室町から戦国時代にかけてであり、それゆえ、鎌倉仏教ではなく、これを戦国仏教と呼ぼう、とする研究者が考え出したものである。

 

この本は日蓮宗を例にとり戦国仏教として僧侶たちの民衆との係わり合いを丁寧に追った本である。


湯浅は、戦国時代が「わき上がる社会の底辺の民衆の力があり、民衆が躍動する時代」という従来の見方に対して、戦国時代が「寒冷化と飢饉に見舞われた社会で、人々が生存をかけて闘った時代」という見方を紹介している。


湯浅は千葉県松戸市の本土寺の過去帳を分析し、「この時代はまさに繰り返される飢饉の時代であったのであり、その際には多くの人々が死を迎えたのである」という事実を示し、そうした過酷な時代にあって本土寺が教線を延ばしたことを指摘し、次のように述べる。

 

人々がその家族・縁者の死に直面して、信仰を欲し、葬送や追善の儀礼を受容することが、その教線の展開を保証していたとしか考えられない。

 

そして次のように書く。

 

また、有力者でさえ餓死に至る、とするならば、そうした事態での信仰への帰依、そして喜捨のもつ意味はいっそう重くなるのではないだろうか。その背後には、そうした信仰にもすがることができない無数の非力な人々のおびただしい死が存在していたに違いない。そうした現実こそ、宗教が受容される実質的な受け皿だったのである。

 

例えば現在の葬送事情の変化の背景に、超高齢社会の到来、戦後世代が喪主となること、バブル景気の崩壊~長期デフレ~格差社会、阪神・淡路大震災、東日本大震災、死・葬儀の生活離れ、地域・家族の変容による個人化の進展…という社会的変化を入れることを否定する人はいないだろう。


仏教の民衆化には、仏教側からのアプローチと併行して、民衆のニーズ、事情が大きな要因となったことは視点として確保しておくべきだろう。

 

■庶民が仏教に求めた葬祭―圭室諦成『葬式仏教』

 

葬式と仏教を語るうえで外せない文献は圭室諦成『葬式仏教』(大法輪閣)である。
圭室は、その「はしがき」で次のように語る。

 

庶民が仏教にもとめているものは、①葬祭、②治病、③招福、の三つである。歴史的にみれば、まず治病、つぎに招福、一五世紀ごろから葬祭という順序になる。そして葬祭化してはじめて、仏教は庶民の信仰を独占することに成功している。ところで現在の仏教においては、治病・招福の面が相対的に弱化し、葬祭一本といっても過言ではない。

 

これには異論のある仏教者も多いのではなかろうか。
「仏教には宗教が期待されていないのか」と。

だが、「葬祭化してはじめて、仏教は庶民の信仰を独占することに成功」したということを事実として否定はできないだろう。
また、現在の日本仏教寺院において、望ましいか望ましくないかは別として、少なくとも財政的には「葬祭」に支えられているという現実を否定できないでいるところが多い。

 

■「葬式仏教」と「葬祭仏教」

 

私は従来「仏教が、概ねにおいて、葬祭一本でしかないことを否定的に語る」ものとして「葬式仏教」という名を与え、「仏教が、概ねにおいて、葬祭一本でしかない事実を語る」ものとして「葬祭仏教」という名を冠してきた。

この2つを分けるのは経済基盤でも外見的行動でもなく、言葉ですらない。
態度である。
態度を分けるのに適当な用語がないものだから、勝手に使い分けている。

言うならば「葬式仏教」は「堕落した」とか、さんざん手垢に塗れているため、中立的表現としては、より使用されることが少ない「葬祭仏教」を持ち出したのである。

また、これは私のみの意見ではない。
浄土宗宗教研究所が、仏教が葬祭に係わることを貶めたり、自嘲すべきでもなく、「課題」として取り上げた『葬祭仏教』(伊藤唯真・藤井正雄編、ノンブル社1997)に負っている。

「葬式仏教」という言葉自体がすでにマイナスの価値評価(開き直りも含めて)をもつことから、いったん「葬式仏教」という言葉から離れて、いまだ手垢がついていない「葬祭仏教」という言葉で論議すべきだ、という主張が、この本には見られるからである。
これはいまさら「葬式」という言葉と「葬祭」という言葉を知ったかぶりして意味的に区別することによって出てきたのではない。


私が「葬式仏教」を批判するのは、葬式に対して生業として係わるものの、葬式に対して必ずしも自覚的に取り組んでいる例が少ないからである。

実際に僧侶養成機関において、「死」について、「グリーフ(死別の悲嘆)」について専門的に教育してきただろうか。(東日本大震災以来、「傾聴ボランティア」としての教育が多少開始されてはいる。)
それもせず、ポンと(私がよく用いる擬態語であるが、サポートもなく放り投げられ)寺という現場に置かれた僧侶が、死にゆく人や、死者を抱えることになった遺族の前に立たされて、試行錯誤してきたのではないだろうか。


多くの僧侶が語ることであるが、初めての葬儀への出仕は、人生経験も少ない若い僧侶を当惑させるものであった。

その体験に「よりよく学んだ僧侶」とその体験に「何も学べなかった僧侶」とがいるというあたりまえの事実がある。
学べなかった僧侶は、結局のところ「葬式に係わる意味」を自覚しないままに、収入源としての葬祭行事を執り行う。


また、「教義的には意味はないが、檀家が求めるから応じる」という態度を取る僧侶もいる。


また、僧侶のなかには、葬式、法事において「異常に」としか表現できないほどに「権威的」である場合がある。
「導師」は死者(の霊)の行き先を左右できる力があり、権威と受け止められるべきである、と暴力団の縄張りよろしく、対抗するものが何であれ排除して、自らの権威を守ろうとする僧侶がいる。
葬式の主宰者は「僧侶以外にはいない」と思い込み、権益を守ろうとする。


こうした誤解をした僧侶が、死者を抱えた遺族を顧みず、どれだけ不当に嘆かせ、どれほどの痛苦をもたらしてきたことだろうか。
その怨念、諦観、嘲笑が「葬式仏教」に対する非難を形づくってきた原因の一つであることは確実であろう。


「葬式仏教」が非難される点は、よく「葬式や法事にしか係わらない」点と言われる。
事実はそうではないだろう。
「葬式や法事でも、意味あることをしているとは思われない、いい加減な係わり」からであろう。


日本仏教が民衆の中に根付いたのは、「死」を抱えて精神的危機、困難、悲嘆を抱えた庶民に係わった、つまり葬祭をしたことによる。
また、日本仏教が民衆からいま見放されるのではないかという危機にあるのは、一人ひとりの死、悲嘆に寄り添うことを忘れた僧侶が白日のもとに晒されるようになったからである。
もちろん戦後文化が伝統的習俗としての葬祭への仏教の係わりを当然視しなくなった、いわゆる「世俗化」も反映してのことだが。

実際に「寺」を見ていると、それは皆同じではない。
無論、地方にある寺は村落の過疎化、檀信徒の高齢化には共通に影響を受けている。
そうであるものの、寺と檀信徒の関係は一様ではない。


力を込めていっておくが、死という現場に誠実に対応している僧侶の下にいる檀信徒や信者は、仏教を疑おうとすらしていない。
そこには深い信頼で結ばれた絆がある。
もちろんそこまで信頼を受けている僧侶が「死」だけに係わっているわけがないのだが。
そういう寺も、残念ながら多数派を構成するまでにはなっていないものの、確実に存在している。


あまり先を急ぎすぎたようだ。次回以降、圭室らの説くところをいま少し追っていこう。

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