戦争

2018年8月17日 (金)

戦場が兵士の心を蝕む

朝日新聞816日朝刊に「(消された戦争 記録と記憶:3)見過ごされたトラウマ」(木村司記者)という記事が掲載された。
https://digital.asahi.com/articles/DA3S13637456.html?ref=pcviewer
YAHOO
ニュース
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180816-00000007-asahik-soci

 


戦場での体験や軍隊生活を原因として、心に傷を負った多くの日本兵がいた。しかし、そうした人たちは、この社会に存在しないかのように扱われてきた。

という印象深い書き出しで始まる。

 

山形の精神科五十嵐善雄医師が紹介した事例は、2008年に「慢性の統合失調症」との紹介状を手に診察に訪れた男性。
学徒出陣で、旧満州へ。戦後4年間はシベリアに抑留。帰国後、幻聴に襲われ、自傷行為を繰り返した。40代後半から30年間、精神科に入院。
という男性。
幻聴や幻覚が、中国で手にかけた人たちの声や表情のフラッシュバックだった

統合失調症ではなく、戦争によるPTSD心的外傷後ストレス障害)ではなかったか――

というのが五十嵐医師の診断。


もう一つは

戦時中、精神疾患を発病した日本兵は主に、千葉県の国府台(こうのだい)陸軍病院に送られた。1937年から45年まで1万人余りが入院した。

 約8千人分の「病床日誌」(カルテ)は、終戦時の焼却命令に抗し、病院関係者がひそかに残していた。戦友の死や戦闘への恐怖、罪悪感によるストレス症状が読み取れる。日誌を研究する埼玉大の細渕富夫教授(61)は「悪夢に苦しめられるなど、PTSDとみられる患者は少なくない」とみる。

戦争、軍隊が兵士の心に大きな傷をもたらすことは第一次世界大戦を経験した欧米では知られていた。
でも日本(軍)では「精神的弱者が強い軍隊の障害にならないよう排除すべき」であり、徴兵が広がれば、こうした弱者が入らざるを得ないが、彼らは「落伍しても当然」という考えが優勢であった。
もっとも「死学thanatology(デーケンさんが「死生学」と訳した)」が本格的に研究されるようになった契機は朝鮮戦争の米軍帰還兵の心的障がいの研究であった。
戦場が兵士の心を蝕むリスクの研究はまだ60年くらいにすぎない。

本記事でも
イラクやインド洋に派遣され、帰国後に自殺した自衛官は61人
という事例の紹介がある。

今、10万部を超えるベストセラーとなっているのが、
吉田裕『日本軍兵士―アジア・太平洋戦争の現実』
(中公新書)


本書は、著者によるならば、「凄惨な戦場の現実」を歴史学の手法で「戦後歴史をとらえ直す」こと、「兵士の目線」で「兵士の立ち位置」からとらえ直す、という新鮮でまっとうな課題をもった挑戦である。
Photo
本書は「異常に多い戦病死者」「餓死者」に着目している。
この着目は説得力がある。

私の母方の叔父の一人がフィリピン戦線で「戦死」とされているがその実態は知らない。
姉である私の母は、骨箱として送られた中に石が一つ入っていたことを98歳で死亡するまで(認知症でありながら)悔しがっていた。
マラリアによる死か、栄養失調による餓死か、自死か、戦闘死か、その他による死か、一切が不明なのだ。

本書では、戦争が大きく兵士の心を蝕んだことについて、2項目で書いている。

1章 死にゆく兵士たち―絶望的抗戦期の実態Ⅰ

3.自殺と戦場での「処置」

2章 身体から見た戦争―絶望的抗戦期の実態Ⅱ
病む兵士の心―恐怖・疲労・罪悪感

 

描写はリアルである。

無謀な戦場が兵士の精神を蝕み、傷つけ、多くを死に追いやったことをかなり具体的に描いている。
詳しくは自ら本書を手に取ってほしい。

確かに、日本軍の無謀さがより強く日本軍兵士の心を蝕んだことは事実だ。

だが、これは日本軍だけのことではなかった点も忘れてはならない。
米軍の太平洋戦争(19391945)においても、さらに朝鮮戦争(19501953)、ベトナム戦争(19611973)の従軍者もそうであったし、その後の湾岸戦争(1991)、アフガン派兵(2001~)、イラク戦争・駐留(20032011)もそうであった。
英仏、ロシアにおいても例外ではないだろう。
また、直接戦闘には参加していないはずの、海外派遣された自衛隊の隊員たち(1991~)にも無縁なことではなかった。

本書は、太平洋戦争における日本軍の現実に肉迫している。
その意味で必読と言えよう。

2018年6月23日 (土)

沖縄 「慰霊の日」

戦後73年の「慰霊の日」を迎えた23日、県内各地で20万人を超える沖縄戦の犠牲者を追悼する催しが営まれ、不戦と恒久平和を誓う祈りに包まれた。

 沖縄戦最後の激戦地となった糸満市摩文仁の平和祈念公園内にある「平和の礎」や、同市米須の「魂魄(こんぱく)の塔」には、朝早くから多くの戦争体験者や遺族、関係者らが訪れた。亡き家族や友人の思い出、凄惨な戦場の記憶を呼び覚まし目を潤ませながら鎮魂の祈りをささげる高齢者が子や孫らとともに線香や花を手向けた。悲惨な体験を後世に語り継ごうとする家族連れの様子もみられた。

 同公園では、午前11時50分から沖縄全戦没者追悼式(主催・県、県議会)が執り行われ、正午の時報に合わせて黙とうした。翁長雄志知事は平和宣言で、平和を希求する沖縄の心を発信。(沖縄タイムズ 2018623日)
http://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/271920

 

194541日の米軍上陸から623日の牛島司令官の自決に至る3か月間、沖縄戦では激しい壮絶、凄絶な地上戦が米軍との間に展開され、軍人以外にも多くの住民が犠牲となった。20万人以上が死亡したと記録されている。

戦後、沖縄は1972年まで米国統治下に置かれ、今なお米軍の専用施設の70.3%が沖縄に集中している。

琉球侵攻、沖縄戦、沖縄米軍基地…日本にいる者としては、犠牲、差別を沖縄に強いたし、今も強いていることを常に心しておくべきことであると思う。

2017年6月24日 (土)

平和の礎―戦争を記憶する沖縄、忘却する本土

623日は沖縄の「慰霊の日」であった。

糸満市の平和祈念公園で沖縄戦戦没者の追悼式が行われた。


沖縄タイムズは追悼式の模様を次のように報じた。


翁長知事、相次ぐ事件・事故に憤り 沖縄全戦没者追悼式典

http://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/105028

沖縄戦から72年「戦争はもう嫌だ」 慰霊の日、島を包む平和の祈り

http://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/105014


朝日新聞では「慰霊の日」にちなみ鉄血勤王隊の生存者である古堅実吉さん(87)の話を紹介している。


命の限り 沖縄戦語る

http://www.asahi.com/articles/DA3S13002339.html

 

記事に出ていた沖縄師範健児之塔も平和の礎(いしじ)も行った。
訪れたのは普通の日であったが、戦没者の家族が平和の礎を訪れ、おそらく家族とおぼしき人の名を刻んだ文字を撫で、水をかけ弔っていた姿が強烈な印象としてある。

沖縄戦は太平洋戦争の末期、1945(昭和20)年41日に米国を中心とする連合国軍が沖縄本島に上陸(その前326日慶良間諸島上陸に始まる)、日本軍と激しい戦闘が行われ、多くの民間人を含む20万人を超える犠牲者が出た。


6
23日は牛島司令官が摩文仁岳中腹の司令部壕内で自決した日(22日説もある)で組織的な戦闘が終結したとされる日である。


但しその後も散発的な戦闘は続き、沖縄市では、

沖縄戦の降伏調印式は、沖縄市の前身である旧越来村森根(現、嘉手納飛行場)で行われました。米第10軍の司令部が置かれていた旧越来村森根に、宮古島の第28師団長・納見中将、奄美大島から高田少将、加藤少将らが呼ばれ、正式に降伏調印式が執行されました。1945年(昭和20年)97日のことであります。

(沖縄市「沖縄戦の歴史」)

http://www.city.okinawa.okinawa.jp/heiwanohi/2524

 

として沖縄戦公式終結の97日を「沖縄市民平和の日」に制定している。


太平洋戦争は中国、台湾、インド以東の東南アジアの、いわゆる「外地」が中心であった。

しかし、戦況悪化により本土にも戦争はあった。

最初は1942418日東京、名古屋等へのドーリットル空襲であった.

無差別の大規模なものは沖縄戦に先行する半月前の1945310日のB29による東京大空襲(B293百機飛来し、東京下町を焦土化し約10万人が死亡)を始めとする大阪、神戸、名古屋等の各地で空襲があった。
各地の例の一つに私の出身地仙台での空襲がある。敗戦直前の710日にB29100機以上来襲、10003000人が死亡、約6万人が被災。

1945
86日には広島に、89日には長崎に原爆が投下された。
広島では投下直後を含め約12万人、長崎では7万人以上の犠牲者が出た。

ただ国内の地上戦の戦場は沖縄であった。

 


今年の沖縄慰霊の日が72年目。私の世代と時を同じくしている。

 

私の記憶としては当然自らの戦争体験はない。但し戦後の疲弊は経験していてそれが12歳頃まで明確にあった。
戦争の記憶が人々によって語られ、教育現場でも強くあった。

経済成長が始まる1955(昭和30)年頃から急速に戦争の記憶が遠のいたように記憶している。

 

急速に遠のいた背後には意識的なものがあったように思う。

 

「死」の記憶を遠ざけ、「生」を謳歌する。日本人は高度成長の裏で為政者のみならず大衆意識としても死穢意識を強くした。それが完成するのが1975(昭和49)年前後の「総中流」であったように思う。

もとより個的な戦争の影は残った。
私の叔父のフィリピンでの戦死にしても、それは母にとって認知症になっても深い傷としてあった。
だが共有はされなかった。

 

沖縄は米軍が占領し、米軍施政下に置かれた。
いわゆる本土復帰は1972(昭和47)年のこと。


沖縄は、戦時中は日本軍の、戦後は米軍の支配下にあり、戦後の日本の経済成長とは無縁にあった。
これが沖縄の貧困に影響している。

沖縄では戦争、戦後の記憶が共有されただけではなく、いまだに多くの米軍基地を抱える。

 

沖縄の鉄血勤王隊生存者である古堅さんは87歳。
おそらく1930(昭和5)年生まれだろう。
太平洋戦争開始の1941(昭和16)年には11歳、沖縄戦終結の1945(昭和20)年には15歳。
おそらく動員された最後の世代であったろう。

最後の玉砕戦の先兵として駆り出された世代が1913(大正2)年~1925(大正14)年の大正生まれ世代。

現存者は少ない。

 

指導者層の中心はそれ以前の明治中期以降生まれ世代である。現存者はいないに等しい。

ちなみに開戦時の首相であった東條英機は1884(明治17)年生まれである。

 

子どもとして意識があって戦禍を体験した世代の最後は1942(昭和17)年生まれ、75歳前後が最後である。
しかし沖縄で米軍政下を意識的に体験したのは1969(昭和44)年生まれ以前であるから現在48歳以前の人たちである。

 

沖縄では戦争、戦後の意識が共有され(風化の危険もささやかれているが)、本土ではほとんどが忘却されている。
この意識の差が大きな軋轢を生んでいる。


2015年12月 2日 (水)

戦争体験の一つの局面

水木しげるさんが亡くなった。
公式サイトに書かれた水木さんのプロフィールは
1922年生まれ。鳥取県境港市で育つ。
太平洋戦争時、激戦地であるラバウルに出征、爆撃を受け左腕を失う。
復員後紙芝居画家となり、その後貸本漫画家に転向。
代表作「ゲゲゲの鬼太郎」「河童の三平」「悪魔くん」など。
とある。
1922年とは大正11年生まれ。93歳。1945年の敗戦を23歳で迎えたのだから、戦闘の最前線に生きた世代である。

この世代はそのほとんどが第一線に赴いた。
戦闘の第一線は若者である。戦争末期には40代の老兵も徴兵されたが、第一線を担ったのは20代の兵士であり、歴戦の30代であった。

「ラバウル」ば「パブア・ニューギニア領ニューブリテン島の都市の名前であるが、ドイツ統治の後豪州が統治していたが、1942(昭和17)年に日本軍が占領、この方面の一大拠点となった場所である。
21歳で召集された水木さんは陸軍のラバウル方面隊に所属、爆撃で左腕を失っている。
戦争体験も作品にしているが、水木さんの現地の人たちへの対応は,軍人としてより生活者としてのものであったようだ。多くの若い兵士たちが戦争に殉じたのと比べると特異なものであったと言ってよいだろう。

水木さんを追悼する番組の中で、コメントした人が、若い兵士たちにとっては戦争は「災害」のようなものだった、と言っているのを聞いて、思わず「?}と思った。

兵士たちが戦争を起こしたのではない。若い頑健な体力をもつがゆえに第一線に送られ、戦争を強いられた。
戦争初期には勝利の高揚もあったろうが、その多くは敗退戦であった。
当然第一線にいた若い兵士たちの犠牲が多かった。
「出征」という自由意思の形を取っていたが、それはほとんど自由意思によるものではなく、強制によってであり、どこに赴くか、どう行動するか、ほとんど選択の余地がないものであった。

軍隊生活はそうした強制もあり、人間の素がもろに出た、「非人間的」「暴力性」も人間ならではの地を露呈するものであった。
兵士たちは周囲の人間にそして自分に「人間」というものの裸の姿を見ざるを得なかった。また、軍隊生活は生活である側面もあたりまえにもっていた。
番組でも語られていたが、元兵士たちは「運」と言う。
自分の隣りの人間が死に、自分が生き残る、そこには何の理由もない。
生と死を隔てるのが「運」という極めて根拠のないもであることを身をもって知った。

その元兵士たちのほとんどはあまり兵士時代の己の体験を語らず、死んでいった。

2015年9月26日 (土)

「戦争ゲーム」は直ちにやめよう

安全保障関連法がついに立法化。

これを受けて自衛隊はPKO派遣軍の軍備拡充に早速乗り出した。
南スーダンで派遣部隊に「駆けつけ警護」の任務追加とその場合の「武器使用基準」の緩和である。

これは派遣部隊が紛争の前線に立って、「普通の」国の派遣部隊と同じく、同じ軍備で戦闘する事態を想定したものである。

これまでもイラク等への自衛隊派遣で自衛隊員に大きな精神障害を与え、自死に追い込んだ事例が指摘されている。
戦闘参加は外的に銃殺される、というだけではなく、戦闘員の精神もむしばむ、極めて危険度の高いものである。
これは日本だけのことではない。
戦後サナトロジーが注目されたのは朝鮮戦争、ベトナム戦争において生死の第一線に置かれた帰還兵の精神的障害が大きな契機になっている。

今回、安全保障関連法案が注目されたのは、単に「憲法9条」の問題だけではない。
憲法9条は実質的に戦後解釈改憲が行われてきた。
純粋に守られてきたわけではない。
9条を素直に読めば、近代兵器で武装した自衛隊自体を「合憲」とはけっして言えない。
ただ、法は常に現実状況に置かれ、そのなかで解釈される。
しかしそれは「自衛」の範囲で、というのがこれまでの話であった。

「集団的自衛権」というのは、もはや「自衛」の範囲ではない、憲法違反だというのが法曹界がこぞって反対にまわった理由である。
そこで出てきたのが「9条改正論」で、9条を変えるならかまわない、と読める。
無論、総理も9条を改正したいのが本意だが、難しいので法律で行うという理屈で、もともと憲法論議では無理を承知だったのに違いない。
そこで出たのが国際状況の変化に対応する「抑止力」で、「日本の平和を守るため」と言ってきた。

議論されたように「抑止力」というのは歯止めがない。軍備拡張は際限なく進む可能性がある。「軍事力」の発動に「存立危機」という歯止めを与えたというが、それは時の政府の恣意である。国会承認と言っても、第2次大戦の翼賛体制になれば、民主主義の名で行われることになる。そうした恣意を許さないのが本来憲法の意味なのだ。

「仮想敵国」とされた中国が軍備拡張を進めれば、潜在的抑止力もそれに応じて拡張される。
軍事衝突は暴発が怖い。ミサイル一つ間違って発射されたらどうなるか。
日本国民はもとより中国国民も危険に晒される。

日本国民が今回の安全保障関連法に多くが反対したのは「戦争の臭い」ではなかろうか。
第2次大戦が教えてくれた最大のものの一つは、国家間の対立には政治的につくられた大義しかなく、民衆の利益をことごとく損なう、ということだ。

日本の「大東亜共栄圏」に大義がなかったように、欧米列強にも大義はなかった。
「民主主義を守る」と言うのを突き詰めればそれはすべての人間の尊厳に行き着く。
「民衆の無差別爆撃」という発想は出るはずがない。欧米列強の大義もしょせんは政治のデモクラシーで人民のデモクラシーではなかったことを立証している。

政治の恣意に軍事力行使が委ねられる、というのは極めて危険なのだ。

自衛隊に対する評価は東日本大震災で高まった。
今回の茨城や東北の大水害でも自衛隊の存在が大きかった。
公平に見て自然災害が生ずれば、最大10万人を動員できる自衛隊抜きで災害後にまったく対応できない。
その意味では国民生活の安全の大きな一翼を担っている。

だがその民衆の評価を国際政治の道具にすることへの認容に結び付けては断じてならない。
戦闘こそ免れたがPKO派遣を原因にして数十人の自衛隊員が自死したのだ。今彼らがもっと危険に晒される事態になった。

「冷戦」はその最たるものであったが、戦争ゲームは辞めなければならない。

2014年2月 7日 (金)

臨済宗の戦争協力への懺悔

青木新門さんの『それからの納棺夫日記』の発売日は2月15日らしいが、もう増刷がかかったという。
新門さんも心配していたが、僧侶をあれだけ批判しておいて、その反発はないだろうか、と私も思ったが、新門さんの周囲にいらっしゃる僧侶の方々はよくできている。
反発よりも同意する意見が多かったようだ。

「仏教タイムス』紙の1月30日号の巻頭は「歴史に学ぶ仏教と平和」と題する臨済宗妙心寺派管長の河野太通師の談話であった。

「平和活動の原点は何かとよく聞かれます。やはり戦争体験が大きい。結論から言うと、日本が戦争に突入する以前の平和な時、すでに戦争に対する罪が始まっていた。そして教団が歯止め役をなしえなかったことへの反省。そういう思いが私にものを言わせるんです。」

ここまで言い切る仏教教団の指導陣はそうはいない。

キリスト教団でも過去に戦争責任について大きな議論があった。
そして「戦争責任の告白」を「教会の務めからの逸脱」、ととらえる輩が今では牛耳っている。

情けない、と思う。

おそらく戦争協力した教団(ほとんどすべての宗教宗派の教団)の戦争責任について明言される僧侶の方は多いと思う。
私もよく知っている。
しかし、多くの僧侶は教団に期待することをやめている。

河野老師のことについて知ってはいたが、ここまで明言される方とは思わなかった。疎かった、と思った。
教団のトップにいる方、として最初から色眼鏡で見ていた、とつくづく反省。

こうした骨のある老師の努力によって妙心寺派宗議会での「非戦と平和の宣言文」(2001年9月)となって結実した。

老師はこれが「自浄作用」ではなくオーストリーの女性からの戦時宗門に対する質問状を契機としたことを残念がっておられるが、宣言にこぎつかれたことは大変勇気が必要だったろうと思う。

教団の過ちをはっきりさせずして、平和を説くことはできない、という覚悟はすべての宗教教団がする必要がある。
これは1臨済宗の問題ではない、と思う。

老師の談話を読みながら、日本キリスト教団議長在任中に大きな抵抗を受けながら第二次大戦中の日本キリスト教団の戦争責任の告白を発表した鈴木正久のことを思い出した。
発表は他の教団より早かったかもしれないが、鈴木正久の死後は、完璧に骨抜きされてしまっている現在の惨状を思う。
その意味では臨済宗も、河野老師が退任されるこれからがたいへんなのだと思う。

2013年12月28日 (土)

死者を利用してはならない

どういうわけか2か月間、このブログを放置したことになる。
というより気持ち的に余裕が失われていたことが書かなかった理由である。

今年1年、気持ちが落ち着かない日々を暮していた。
個人的には従妹の50日にわたる終末期と死。
重なるように姉のがんステージⅣの告知とたび重なる入退院。
姉は今自宅療養中であるが、事態は確実に進んでいる。
大腸ががん細胞に圧迫されてのたびたびの腸閉塞は、バイパス手術で今のところは乗り切ったが、今度は肝臓がんの進行で胃を圧迫しているようだ。
穏やかに新年を迎えてくれるといいが、これはわからない。

世代交代とは、前の世代と次の世代とが重なりながら進行する。
60代を過ぎると、この境目の重なりが多くなる。
前の世代が80後半より上、生きているとしても何かしらの障害を抱えることが多い。
それを介護する次の世代で、早いのは前の世代を追い越して先に逝く者が多くなる。
前の世代は次の世代の先行した死を沈黙して淋しく受けとめる。

長生きすることは、こうした悲哀をも経験することである。

65歳を過ぎて経験することは、体力の弱まり、体型の崩れだけではない。
前の世代の死が頻繁になり、同じ世代からも先行した死が珍しいものではなくなることだ。
時には後ろの世代の先行した死がある。
やりきれない想いを抱えて生きている。

きょうは12月28日。
帰省ラッシュが始まっている。
今年の年末年始が珍しく揃っての9日間。

東京の今、昼は陽も射し、穏やかである。
日本海側はもう真冬の荒れた気候になっているらしい。

私の年末年始は1日くらいを除いて通常どおりとなる。
これは例年と同じである。
年末年始に原稿をこれだけ仕上げる、と遅れた原稿の処理を皮算用して、例年予定どおりにいかないものだから、今年は2つに絞った。
どうなるものか…

政治のことを考えると血圧によくない。
2013年の後半から昨日のことまで、腹立たしいことが続いている。
自民党の大勝という選挙結果がもたらしたものは大きい。
安倍内閣はしたい放題。

日本軍の戦死者、それも多くは大日本帝国の無謀な戦争でいのちを落とした人たちであり、また沖縄、広島、長崎、東京、満州…と甚大な民間人の死者を生んだ。
それが300万人という途方もない数字である。

だが、戦地となり、巻き込まれたアジアの人々の死は、日本人戦死者総数の3倍近い1千万人以上。

こうした戦禍の事実を無視して、民間人の死者も除いて、大日本帝国陸海軍の戦死者だけを追悼する、というのはいかに恣意的であるか。
自分の家族を弔うという私事とは異なる。

死者の追悼は残された者の義務でもある。
第二次大戦による死者を追悼するのであれば、すべての死者に対してなすべきである。
それをイデオロギーによって散々汚された場所にのみこだわるのは、もはやある目的をもって意図的に行っているものと見なさないわけにはいかない。
ここには死者への弔いはない、というべきである。

議論の中にA級戦犯を祀っているから反対だ、という意見がある。
これは死者に対する態度としては誤っていると思う。
当時の政治・軍事指導者のなしたことには、歴史的に究明することで行うべきである。もはや無化した死者を口実に使うべきではない、と思う。

しかも戦争に責任を負うべきは、一握りの政治家、軍人だけではなかった。マスコミも宗教界も民衆も煽り、協力したではなかったか。
それをなかったことのようにして一部指導者だけの責にすることは頽廃だ、と言うべきである。

アジア諸国の人がそれを口実に非難するのはわかるが。
だが日本人には、第二次大戦の死者を区別する権利も手段も基軸も生者にはない。

これは戦死者に対することだけの問題ではない。
死者を区別、差別することは刑死者、自死者に対して連綿としてあった。
われわれの社会は差別の塊のようなものであったし、未だにそれを解消できていない。
それはなすべきことではない。
それと同じで、死者に対し、どんな政治利用もしてはいけないのだ、と私は思う。

2013年8月15日 (木)

8月15日

きょうも暑い。
68年前、各地で違ったろうが、私の記憶にないその日は、やはり、陽が照りつける暑いイメージだ。

天皇によるポツダム宣言受諾=敗戦、を受け入れずにその後、数は少なかったものの特攻出撃し、死んだ者もいた。

そうした例外も少なくなくあったが、それ以前の本土決戦の煽りに比して、日本人は敗戦を比較的におとなしく受け入れたようだ。

天皇の判断、という当時の大権を保持した天皇の決断を受け入れた、ということもあろう。
2・26のことを考えれば、天皇の判定に異議を唱えることは賊軍になることを意味したから従った、という人たちもいたろう。
長い激しい戦闘で消耗し、燃料、食糧、体力、気力…あらゆるものが限界を超えた結果ともいえる。

第二次大戦の戦没者数は日本人の場合、軍人・軍属といった軍関係者の死は約230万人、民間人約80万人の計約310万人(推定、以下同。8月15日の武道館での戦没者追悼式でNHKは約310万人と言っていた)。

日本人戦没者の死亡の地は、多い順に日本本土約70万人、フィリピン約52万人、中国本土約47万人、中部太平洋諸島約25万人、満州(日本傀儡政権下であるが)約25万人、沖縄約25万人、ビルマ(ミャンマー)約14万人、東部ニューギニア約18万人、ビスマーク・ソロモン諸島約12万人…。
戦没者の76%が本土以外での死。

戦争は1945年8月15日をもって終わったが、実はその前年に勝敗は決していた。1945年の戦闘は、なくてもいい戦闘だった。

1945年1月以降の主な死者は以下の通り。

硫黄島 日本人死傷者約2万人、米軍死傷者約3万人
マニラ市街戦 日本約1万7千人、米軍約1千人、フィリピン人約10万人
沖縄戦 本土出身軍人約7万人、沖縄の人約18万人、米軍約1万3千人
特攻隊 約6千人
空襲 東京約9万人をはじめ全国で約24万人
原爆 広島約20万人、長崎約14万人
おそらく日本人戦没者約310万人の3割以上が最後の年に集中している。
満州にいた軍人中心に約70万人が戦後シベリアに10年間抑留され強制労働を課せられたが、この結果約6万人が死亡。

太平洋戦争の日本人戦没者は約310万人と夥しい数である。だが、アジアが戦場と化したことで日本人戦没者数の6倍以上の約1900万人以上がアジアの他国人の戦没者であった。この事実は重い。
内訳は中国1千万人以上、ベトナム約200万人、フィリピン約110万人、朝鮮半島約20万人、ビルマ(ミャンマー)約15万人、マレーシア・シンガポール10万人以上、台湾約3万人、…

第二次大戦全体では推定だが、軍人約2300万人、民間人3000万人の計5300万人(以上)となっている。

ここに上げた数は戦没者、つまり死者の数だけである。傷害を受けた人、家を失った者等はこれの10倍以上ではきかない。
日本軍で「戦死者」とされた者に多数の感染症による死者、餓死者がいたことも記憶されるべきだろう。

今朝、車の中のラジオで聴いた話。視聴者の話を紹介していた。
天皇の8月15日12時からのいわゆる「玉音放送」の時、父親にどうしていたかと訊いた。父親は、重い口で「死んだ仲間の埋葬をしていた」とこたえた。

満州から帰還の行程で多くの人が倒れて船に乗れなかったこと。
帰還者の多くは、その帰途に倒れ死亡した人の火葬や埋葬に立ち合っていた、あるいは置き去ったこと。
沖縄では地上戦があり、艦砲射撃で多くの民間人も死んだこと。
東京大空襲で下町は火に覆われたが、地方都市の多くも空襲にさらされたこと。
ヒロシマ、ナガサキでは戦後も原爆症で多数の人が死んだこと。

死が日常であった時代があった。
その時から68年が過ぎたが、それはそのまま私らの世代の生涯の長さである。
私らの世代は戦争の記憶を刻印されてこの世に誕生したようなものである。

1947年生まれから年間出生数200万人以上というベビー・ブームの時代が始まるが、それは戦争から帰ってきた元兵士らの子どもたちだ。それは日本以外でも同じ現象が起こった。

2013年8月 6日 (火)

原爆忌 68回目

本日8月6日は広島原爆忌。
1945(昭和20)年8月6日朝8時、米軍爆撃機が広島上空で原爆を投下。

まさに焦土と化した。

その被災国が「作ろうとすれば短時日で核兵器をもてる」というのが「核抑止力」になる
…というのが昔、中曽根と正力が核平和利用をうたった原子力発電所開発に方向を転じた公然たる秘密。

その「秘密」がまた自民党幹部の口からあたりまえのように口にされる。

愚か者よ。

ヒロシマ、ナガサキを体験した人は奥底まで核廃絶を祈るが、遠く立っていたものは、それさえ他人事だという話。

この愚かさは人間につきまとう。

東日本大震災のことでも、同じ市でも被災した海岸線と被災しなかった地域とでは意識が異なる。
家族に死者や行方不明が出た家とそうでない家ではやはり違う、

残念ながら状況の差による意識差を人間は超えられないでいる。
自分の中にもそれを感じる。

復興は大切なことだが、行方不明の家族を抱える者には行方不明者のことを置いて復興に走る姿にはどうしても感覚的に違和感を感じ続けている。

元気も大切だが元気になれないことも大切にしようよ、と思う。

3.11の教訓の一つは喪われたいのちがかくも過酷であること、死者行方不明者が「済んだ話」ではなく、その記憶がもっともっと大切にされ続けるべきこと。
それは「話」ではなく、現地の死者、行方不明者をもつ家族が心に抱える大きな現実であると思う。
何ができるわけではない私はこの一事にこだわろうと思う。

東京に来れば、震災の最大の記憶は「帰宅難民」だったことに矮小化されがちであるし、関西に行けば明らかに温度は低下する。
九州に行けば「たいへんだったね」と言うが、どこか他人事に聞こえる。

フクシマは依然として終息していない。
高濃度の放射線を今でも海に垂れ流している。
当時、復旧活動に動員された人たちは末端生活者でその健康被害は放置されたまま。
東電が行った作業はもちろん東電社員もいたが、そこで動員されたのはより高いペイに引かれて、ろくな情報も防具も健康管理も受けず、前線に入った人たち。

若者の福島県からの流出は依然として続いている。

原発周辺の地方自治体は原発の安易な再開に拒否の立場を崩さない。
当然のことだ。

だが、それでも現地は再開を希望する。
いったん事故発生したら逃げどころがないにもかかわらず。
その町は、それ以外に生きる術を失われた町だからだ。

哀しいなと思う。

改めて思う。
人間は手にしてはならなかったものを手に入れてしまった、と。

ナガサキ、ヒロシマ、敗戦を強く記憶にとどめる夏の8月。

11年に東日本大震災で宮城県で仮埋葬されたのは約2千体。
仮埋葬された柩の掘り返しをしていた建設業者がその遺体の解体過程にある生々しい様子、そして圧倒する臭いに、ついに仕事を放棄したのも夏であった。
この湿気の高い猛暑である。逃げたからといって非難できない。

それを引き継ぎ、黙々と、そうしたリアルな遺体を尊厳ある者として取り扱い、再度納棺をし直し、遺族の待つ火葬場に届けたのは現地の葬儀社の若い人たちである。
彼らはこの体験によって「プロ」になったのだと思う。

彼らの仕事はそれほど広く認識されていない。
死者と遺族の関係を取り戻す葬りは彼らがいなければできなかった。

そういえば、掘り起こしの現場に、仮埋葬された子の姿を確認しようと来た若い父親がいた、という話を掘り起しを行った人から聞いた。
親にとって、どんな状態になっていようと、それはわが子なのである。

2012年8月 6日 (月)

忘れてはいけない時間がある

1941年12月8日1時30分 太平洋戦争開始

1945年8月6日8時15分 広島原爆投下

1945年8月9日11時2分 長崎原爆投下

1945年8月15日12時0分 昭和天皇、太平洋戦争ポツダム宣言受諾表明の玉音放送

1995年1月17日5時46分 阪神・淡路大震災

2011年3月11日14時46分 東日本大震災

時刻が明らかになっており、忘れてはならない時刻である。

そのほかにもたくさん忘れてはならない日があるが、時刻まで明らかになっているのは少ない。

私は自分を健忘症だとつくづく思っているが、この時刻は忘れてはならない、と思っている。

今も続く、おそらく数十年単位で終息しないだろうフクシマは、戦後の核平和利用なるものが幻想であったことを知らしめてくれた。戦争も原発も弱いところに食いつき進められた。

戦前の東北大飢饉が戦争の理由とされ、戦後高度経済成長の裏の地方の疲弊、過疎化につけ込んで原発地が選定された。

いやらしいよな。
東北だけではないが、東北は常に利用され続けてきた。

と、僕は思っている。

フォト
2018年11月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30  
無料ブログはココログ

仲間

ウェブページ