おすすめサイト

2017年1月19日 (木)

遺族にとっての別れ、友人・知人にとっての別れ

最近、2つの葬儀に出た。
一つは知人の配偶者の、もう一つは知人の葬儀であった。

2つの葬儀に共通していたのは、出棺の前の最後のお別れ(お別れの儀)に充分な時間をとっていたことであった。

参列者が一人ひとり、思い思いに遺体と対面して別れを告げていた。
一人ひとりが故人とそれぞれの関係を結んでいたのだろう。
その別れの仕方は実に多様であった。

直立して顔を見て深く合掌する人、
撫でるように顔を触る人、
立ち去り難い表情を見せる人、
すがりつきたい想いを堪えて立ち竦む人…。

ほんとうにさまざまな別れがそこにはあった。

その別れを見ていて、故人にはその参列者一人ひとりとの深い関係があり、その生を奥深くつくっていたのであろうことが実感できるものであった。
おそらくどんな人であれ、関係の深さ、広さには違いがあるだろうが、家族以外の人とさまざまな縁を結び人生を生きているのだと思う。

父の葬儀でもそうであった。
ほんとうに多様な人が湧き出てきたような気がしたものである。
そこには息子である私の知らない父の人間関係があった。
私は思わず父に嫉妬した。

家族といっても本人の全てを知っているわけはない。
本人の全ての人間関係を把握しているわけではない。
名前は仮に知っていたとしても、その関係がどんなものであったか正確に知るわけではない。
本人には本人にしか知りえない広がりと深さをもった人間関係があり、人生があるのだと思う。

父の葬儀のときに、参列者の顔の分だけ父がいたように感じた。
もちろんその中には、いわゆる義理や仕事の付き合いだけで来た人もいたであろう。
だからそれは息子としての、遺族としての主観でしかないのだが、父が私自身の父、家族にとっての父というだけではなく、一人の人間として屹立して生きたのだという実感、尊敬のようなものを感じていた。

2つの葬儀でも同じような感想をもった。

故人が、さまざまな人からさまざまな形で愛されたのであろうことが、参列者の表情から、所作からうかがえるものであった。

参列者のお別れが一巡した後、特に親しくしていた様子の仲間が数人集まり、柩に手をかけ、ある人は頭を触り、ある人は上の天井を見つめ、あるいはお互いに目で会話していた。

最後に家族が柩の周りに集まった。
周囲の人間も自然にわかる。
家族にとって本人が、特別に位相を異にした、かけがえのない人間であったことが。

だからしばらく家族のなすままに任せる。
そこには本人と遺族という独自の空間が自ずとつくられる。

それがどんなに愁嘆場になろうとけっして異質ではない。
本人をよく知る人たちにとっては、遺族がどのように振る舞おうとも、その遺族の気持ちが納得できている。
遠く囲むようにして、静かに本人と遺族との別れを見守る。
それが共感というものだろう。

私が出た葬式は特別なものではない。
それぞれの葬式ではこういったことが、それぞれの形で行われているのだと思う。

違うとするならば、多くの葬儀では出棺の時間を気にするあまり、最後のお別れに充分な時間を割かないことである。

2017年1月 6日 (金)

「終活」ブームのコンテキスト

記者さんから問い合わせがあったので、かつて雑誌に書いた記事を以下紹介する。
2年前くらいに書いた記事だが、今でも有効だろう。


「終活」は「就活」をもじって週刊朝日が名付けたことから言葉として流行した。
あまり好きな言葉ではない。


以下、が元の記事。

『SOGI』通信 No.69
「終活」という言葉は『週刊朝日』が2009年に連載した記事名「現代終活事情」が最初と言われる。
2010年6月に連載のまとめとして刊行された週刊朝日MOOK「2010終活マニュアル」のタイトルは『わたしの葬式 自分のお墓』となっているように「葬式」と「お墓」がメインテーマだった。

ちょうど2010年は島田裕巳『お葬式は、要らない』(幻冬舎新書)が刊行されてベストセラーになった年。
葬式や墓についての要、不要論が話題になった。
しかし、2011年3月11日に発生した東日本大震災が一気にそのブームを消し去った。現実の大量死を体験して、死者・行方不明者への想い、その家族の想いの痛切さ、リアルな死の衝撃の大きさを感じさせるものであったからだ。

そうした状況を背景に、東日本大震災の発生で発表が延期されていた経産省の「ライフエンディング・ステージ」に関する報告書が同年8月に発表された。
報告書では生前の「老」で抱える終末期医療、介護の問題から死後の葬式、さまざまな事務処理、遺族のケア、お墓、遺産相続まで続くステージについて、バラバラではなく一連のプロセスと考え、ネットワークを組んで消費者をサポートできるシステムづくりを提言した。

『週刊朝日』の葬式、墓中心の「終活」に異を唱えた一人がファイナンシャルプランナーの本田桂子さん。
中高年の遺言や相続の相談を手がけているなかで本田さんが提起したのが「老」の問題。
超高齢社会になった日本社会でのリスク、認知症、延命治療、老後の生活資金、財産分与…等を加えた「終活」を提起した。
本田桂子監修『終活ハンドブック』(PHP)が刊行されたのは、経産省の報告書発表と同年7月末のこと。
同年8月には「おひとりさま」問題に取り組んでいたフリーライターの中澤まゆみさん『おひとりさまの終活―自分らしい老後と最後の準備』(三省堂)が刊行された。

この公の報告書、民の本田さんらの提言にくらいついてきたのが司法書士、行政書士や保険関係の人たち。
「終活ブーム」を代表する終活カウンセラー協会は、2011年10月に第1回終活カウンセラー初級検定を実施。
『終活の教科書』(タツミムック)を2013年6月に刊行。
「終活」ブームは、ここ2年くらいに生じたブームである。

注視しておく必要があるのは、ここでの終活は「事業」である点。
そして終活事情についての講演会等が事業として展開されている点である。

そしてこの背景には戦後の大量のベビーブーマーが65歳以上の高齢者になりつつあることがある。こうした団塊の世代が「終活」や「エンディングノート」に関心を寄せてきた。

関心が高いことを証明したのが、2013年、「終活」をテーマとする季刊誌『ソナエ』(産経新聞社)を刊行、創刊号は約5万部を売り上げたこと。
「ペットの葬儀」や「おひとりさまの終活」を特集した第2号は創刊号を上回る勢い。

多くのデータが示すように、「関心がある」が3割程度はあるが、「実際に準備している」のは5%未満、という壁ははたして破られるのだろうか?

2016年12月31日 (土)

今でも読まれている昔の記事

このブログ「碑文谷創のはざまの日々」をココログに掲載始めたのが2005年12月。
ちょうど11年になる。

正確にはその前ヤフーで書いていた時期がある。
ココログでは記事数は373本でしかない。
1年にすると約34記事だから月に2.8本、約3本というルーズさである。
半年以上手をつけなかった時期もある。

アクセス記録を見ていると、1年前以前の記事がまだ結構読まれていることに気づく。
古い記事が読まれるということは、検索キーワードに合致しやすい、ということが多いせいであろう。
その意味では、私の書いた記事の良さを反映するものではない。
その一例をランダムに以下に示す。

2014年1月20日
青木新門『それからの納棺夫日記』を読んだ
http://romagray.cocolog-nifty.com/himonya/2014/01/post-e5fa.html
青木新門さんは『納棺夫日記』で有名。
だが、この本も必読の本である。
新門さんは、いわば私の恩師である。
だいぶ書いているものは違うが。
新門さんは今ブログ「新門日記」を毎日書いている。
私には真似できない真摯さにはおそれいる。10年年上であるが、筆力に衰えがない。

2011年10月7日
学者は手を抜くな 松尾剛次『葬式仏教の誕生』
http://romagray.cocolog-nifty.com/himonya/2011/10/post-42f4.html
これは松尾さんに悪いことをした。
中世仏教専門の良書だが、冒頭に現代のことについて書いたのだが、エンバーミングの情報が古い、カトリック理解がおかしい等、と私が嚙みついた。
松尾さんからもコメントをいただき、それについてまた書いたのが
http://romagray.cocolog-nifty.com/himonya/2011/10/post-662c.html
松尾さんは誠実な方で再版時に指摘した分を修正され、贈ってくださった。
真言宗の僧侶の方のコメント、私の反論を含めて読むことができる。
当時の私は「人間の現実を知らず論じる学者」に対して腹を立てていたものだから、松尾さんに矛先が向いて迷惑をかけた。


2008年10月19日
樹木葬10周年で一関へ
http://romagray.cocolog-nifty.com/himonya/2008/10/10-749a.html
日本の樹木葬の一号は1999年の岩手県一関市にある現在は知勝院が経営する樹木葬墓地。
現在では墓地の一画に木を植え、その下に遺骨を埋蔵するスタイルを「樹木葬」、「樹林葬」と言うことが多い。
一関の樹木葬は、一帯が森であり、その周辺の河川を含めた自然保護を目的とした理念もスケールの大きいものである点が現在流行りの樹木葬とは異なる。
こんなに商用の樹木葬、樹林葬が乱立するなら商標登録しておくべきだった、と後悔する。
創設した先住(先の住職)の千坂げんぽうさんは私の子ども時代の同級生という間柄なものだから、樹木葬墓地の約款の原型は私が書いている。
また、断わりなしに真似をしている墓地業者も多い。
2011年3月31日
疲弊する被災地
http://romagray.cocolog-nifty.com/himonya/2011/03/post-8d8d.html
東日本大震災は途方もない衝撃だった。
震災発生直後から、情報収集、現地との連絡等で気持ちが急き、極めて不安定だったことを思い起こす。
現地の人たちはほんとうによくやった。
現地の葬祭業者は遺体の世話に関しては自分たちの後には誰もいない、と自覚し、逃げずに責務を全うした。
この時期のブログは彼らへのエールでもあった。
震災はまだ終結していない。
東日本大震災についてはブログ以外でもずいぶんと書いた。
先日(12月19日)に書いた
「輿や葬列の写真を見たことがありますか? 樹木葬や大震災の遺体安置所の写真も」
の中で

東京都行政書士会の会報『Puente』vol.16
「特集 少子高齢社会の‘別れ‘を考える~日本人の死生観は変わったか~」
を取り上げていて、そこに寄稿した。
これが東京行政書士会のホームページからダウンロードして読める。
私が書いたのは第2部に掲載されている。
テーマは、いつもの「変わりゆく葬送事情」

に比較的に詳しく震災について書いている。


2013年8月22日
「式中初七日」てなんだ
http://romagray.cocolog-nifty.com/himonya/2013/08/post-db07.html
2010年前後から急激に都市部で普及した「式中初七日」には怒った。
仏教葬儀の形骸化を象徴する出来事だった。



2014年4月25日
姉の最期の記録
http://romagray.cocolog-nifty.com/himonya/2014/04/post-c473.html
2年前に72歳でがんで死亡した姉の最期の記録。
「記録」というのは親戚や知人に送ったメール等をまとめて記載したものであるからだ。
今話題になっていることではない。
極めて私的な出来事なのに読み継がれているのが不思議だ。

2016年10月25日 (火)

「家族葬」における「家族」とは?

「脳死」が出て「心臓死」という言葉が流通するようになったと同じく、
「家族葬」が流行することで「一般葬」という言葉が使われるようになった。
しかし「一般葬」という言葉はあまり好きではない。
葬儀というのは本来死者や家族によって個別固有なはずなのに、と思うからだ。

大体「家族葬」という言葉はブレのある言葉だ。
出現した時はバブル期までの葬儀への反発から出てきた言葉だったように思う。
バブル期の末期には、普通の個人葬で200~300人の会葬者を集めた葬儀が珍しくなかった。
そして会葬者の7割程度を生前の死者を知らない人が占めた例が少なくなかった。
本人の関係者というより家族の会社関係者とか。
7割が死者本人を知らない人ということは、悲しんでいない第三者が7割ということだ。
家族はそうした人たちに失礼がないようにと葬儀では気を遣う。
本来は弔うことに専心すべき家族がだ。
家族の弔いは、葬儀が終わり、皆が去った後、仏壇、後飾り壇の前で始まる。
弔うべき人が弔うのが葬儀であるならば、弔うべき人の想いが活かされないのはもはや葬儀ではない。

何のための葬儀か、と不信感をもった家族が少なくなかった。
高度経済成長以降、葬儀は社会儀礼化が異常に進んだ。その結果が弔う人を疎外する葬儀を生んだ。
祭壇の大きさで葬儀の立派さが競われた。
死者を弔うことと祭壇の大きさなんかと比例すべきもないのに。

高度経済成長期~バブル期の「一般的な葬儀」というのは歴史的に見れば異常な葬儀だった。
社会儀礼というのは葬儀がもった一つの機能ではあったが、社会儀礼に偏した葬儀は異常であり、それは葬儀の本質を破壊するものであった。
今の葬儀の状態を見て「伝統儀礼の軽視」と批判する人が多い。
しかし、高度経済成長からバブル期の葬儀が決して褒められるようなものではなかった。
それこそが葬儀の本質の破壊行為であった。
散々破壊しておいて今になって「伝統儀礼の軽視」などというのはそもそもおかしい。

だからバブルが崩壊し、高齢化ということが大きく影響するようになると、「一般的な葬儀」がもっていた価値観が崩れた。
崩れた葬儀の受け皿となったのが「家族葬」である。
死者を弔うべき人が疎外された葬儀を本来の弔うべき人に戻そうという機運、というよりも、「だれのためかわからない葬儀は嫌だ」という、家族の葬儀で嫌な体験をした人々の想いが「家族葬」に向かった。
自分たちが「遺族」として嫌な想いをした葬儀を子どもたちに体験させたくないと思う人たちが「家族葬」志向に向かった、という面がある。
「家族葬」を支持した人が最も多いのは若い世代ではない。
若い世代はそもそも葬儀を体験していないから、体験しても隅に座っていただけなので肯定も否定も切実な感覚がない。
「家族葬」を支持したのは60代以上の家族の葬儀を体験した世代であった。

また環境も大きく変わった。
日本の葬儀を支えていたのは地域共同体であり、高度経済期以降はこれに企業が加わった。
地域共同体は弱くなり、もはや葬儀を差配する力をもたなくなった。
企業もバブル景気崩壊の痛手が大きく、従業員を支援する余力を失った。
いやがおうでも「個人化」を葬儀は強いられた。
共同体の規範も社会的常識も力を失った。
「一般的な葬儀」を要請する力は急速に衰えた。

もう一つは高齢化である。
よく出される例であるが、90歳の人が亡くなった時、本人の同世代の約半数は既に死亡しているか、生きていても要介護状態にあるとか出席が難しい人が多い。
同世代のきょうだいやいとこたちも同じである。
子どもももはや定年後であることが多い。子どもの義理で集まる人ももはやそれほど多くない。
地域社会でも付き合いが続くのはせいぜい80歳である。その世界でも隠退して10年を経つとその人をよく知る人も少ない。
ほっておいても葬儀であるからと集まる人は少数化せざるを得ない。
あえて「家族葬」と言わなくとも葬儀は小型化する。

「家族葬」は言葉自体がもつ難しさを抱えている。
もともと「家族葬」への傾斜は厳密な「家族葬」の概念規定に基づくものではない。
しかし「家族葬」と言うと、それを概念化する愚かな者が出てくる。

その大きなものが「家族葬」とは「家族だけでする葬儀」という誤解だ。
人を囲む関係は血縁だけとは限らない。
血縁者ほどあてにならないものはない、という人は多いはずだ。
家族が本人を最も支えている人である場合が多い一方、家族から疎外されている人も少なくない。
本人に最も親しい人を「近親者」と言うならば、それは「家族」には必ずしも限定できない。
本人にとっての「近親者」はその人によって異なる、数の範囲も異なる。
人の生き方、環境によって異なるのがあたりまえなのだ。
(※「近親者」という語の意味を少し変えてみた。)

私は一般の人に比べると血縁者に対する感情が強い人間らしい。
従妹の終末期にやきもきし、その葬儀も仕切った。
姉の死に対してもそうである。
しかし、これは今の「家族観」から言えば、いささか主流ではないらしい。
例えば親が死ぬ。
弔いの中心は子どもとなる。
その子にとって家族とは親と自分たち子どもであり、せいぜいその子(本人の孫)までが一般的らしい。
私に言わせれば、死者中心に考えると本人のきょうだいは立派な本人の家族であるはずだが、子にとってみれば単なる「親戚」と考えてしまう例が少なくないらしい。
実際に私の年上の知人の女性は、早く両親を亡くし親がわりだった姉の死を半年以上知らされないままだった。
姉の子を問い詰めると「母が家族葬を希望していたから」と応えたという。
本人の妹は「家族」ではなかったらしい。
その女性が悔しがっていたのは言うまでもない。

しかし他方、さまざまな意味で困窮しても親やきょうだいからの支援を得られない人も少なくない。
本人の家族からも孤立すれば、死亡し葬儀だからといって子は、本人のきょうだいだからという理由だけで「近親者」ではないのだから連絡すらしたくない想いになっても不思議ではない。

またこんな例もある。
老親だけが地方に残り、子は都市に出るという例は多い。
子は再び地元に戻る気がない。
老親の日常の仲間は地域の人である。
その老親が死亡すると葬儀で戻ってきた子どもたちは「葬儀は家族葬で」と言って、本人が付き合っていた親の仲間を締め出す。
子たちにとっては「親」といっても特別な存在ではない。特別な存在であったのは親の仲間たちである。
子も本人にとっては真の「近親者」ではなく、血縁ではない地域の仲間が本人にとっての「近親者」である例は少なくない。
「家族葬」という名で、本人にとっての真の「近親者」が疎外され、排除され、締め出される例は少なくない。

老人施設で終末を迎える高齢者は少なくない。
老人施設に入った人を面会する人がほとんどいないという事例は4分の1以上いる。
普段面会に来ない家族に「症状が悪化した」と職員が連絡しても、「危篤」と連絡しても来ない。
「死亡」したと連絡すると「そちら(施設)で葬儀をやってくれないのですか」とのたまう家族もいる。
死亡しても家族に弔われない人は意外と多い。

家族から切られた人もいれば、家族を切った人もいる。

葬儀を見て、家族が柩の側から離れようとしない家族がいる一方、柩に近づこうとしない家族もいる。

「家族」幻想を抱えた人は3分の2以上いるだろう。しかし、3分の1はそうではない。その人たちにとって「家族」は解体し、浮遊している。
生涯未婚率が高まり、結婚しても離婚する人が3分の1の時代である。
「家族」観が多様化するのは当然だし、そこに「規範」をもち出すとおかしくなるケースが多い。
そんな時代環境で「家族葬」が主流となるとさまざまな歪みもまた生じる。

実態としての「家族葬」はさまざまである。
家族数名から80人くらいを集める「家族葬」もある。
「家族葬」が主流となれば「家族葬でいいんだ」と便乗する者も出てくる。
死者である家族に愛情を抱いているわけでもないのに、安易な簡易な遺体処理を「家族葬」という名で営むものもある。

葬儀が多様化しているのに葬儀社では「家族葬」プランや「一般葬」プランが並ぶ。
なんでこうパターン化しなければいけないのか?
中には「直葬(火葬式)」プランまである。
人によって考え方が違うのに「これが家族葬です」と言う葬儀社がいるが、その無神経ぶりに腹が立つ。
そもそも「家族葬」志向は消費者の志向に業者が便乗したもので、業者が提唱、主導したものではない。

それぞれが異なるのだから、どんな葬儀をしようと、その形態だけで評価はできない。いいも悪いも言えない。

「直葬」だから単なる遺体処理ではなく、「一般葬」(繰り返すが嫌な言葉だ)なるものでも家族の想いとしては単なる遺体処理である事例が少なくない。

宗教儀礼を選択したからといってそこできちんとした弔いが行われているわけではない。
遺族は宗教儀礼中は退屈な時間を過ごし、死者も家族の想いも知らない雇われ僧侶が気のない経を唱えている光景はよく見る。
そんなのは弔いではない。
そこで行われているのは「宗教儀礼」という名の単なる虚飾に過ぎない。
所詮虚飾に過ぎないものに「安い」も「高い」もないし、「適正」「明朗」もない。
せめて遺族か宗教者かどちらかに死者を真剣に弔う気があるなら意味もあろうが。
またその間に「消費者のために」という顔を演じるブローカーが介在することがしばしばなのが腹が立つ。

2016年10月14日 (金)

「自死」ではなく「自殺」? 血迷ったか中外日報②

サナトロジー(デス・スタディ)の研究の端緒となった一つが、朝鮮戦争やベトナム戦争の帰還兵の精神病理の研究であった。
米軍の帰還兵だけの問題だけではない。自衛隊員の自死率、PKO派遣隊員の自死率の高さは異状である。

これは昔から言われてきたことだが、中外日報の社説子は読んでもいなかったのだろう。知らなかったのだろう。

「人を殺すのは刃だけではない」

他者や環境からくる凄まじいまでのストレスは人をも殺すのだ。
そこで死ぬのも生き残るのも、当事者の意思力や健康、助け手の存在なんかではない。
たまたまなのである。
人が戦場に行って死ぬのも生き残るのも自分でさえ充分には決定できないのと類比できる。
しかも戦場の場合、生き残って帰国しても安泰ではない。
多くの元兵士の精神を蝕み、自死に至らせるケースも少なくない。

いじめは子どもの世界だけではなく、およそ人間が集まるところに発生する。
これも病理である。
いじめられ自死する者だけではなくいじめるのも病理である。

人間はそもそもそんなに強くできていない。
自然災害にも事故にも、病気にも、人間関係にも、与えられた環境にも、そんなにふてぶてしくは生きていられない。
それに宗教が打ち克つこともない。
自然災害、事故、病気による死と人間関係、社会、環境、精神病理がもたらす死を区別することはない。
死はどんなものでも苛烈なのだ。
そして常に精神的、距離的に遠いものにとっては何事でもない酷薄なものである。

自死について精神病理の研究者は、「その7~8割は自分で死を選択していない」と言う。
いくら研究が進んでも個々の自死の決定的分析は不可能であるから数値はあげないが、多くの場合、自ら死を自己決定していないし、自己決定しているように見えたり、書き残されたとしてもそこにどれだけの自己決定能力があったか疑わしい。
とするならば「自殺」ほど無責任な価値観からくる言葉ではないか。
自死は自分を殺めたのではなく、他の要因(個々によって異なる)によって「殺された」事例が多くあるのではないか。
それを他人が直接手を下していないという理由だけで「自殺」というのは安易すぎないか。
そして中外日報の社説子のように高見から論断するバカまで現れる始末だ。

「自死」への偏見はどこかに自死者への犯罪人に見立てるところから出ている。
死というのは固有のもので、死者といえども尊厳をおかされていいわけがない。
「自殺美化」よりも問題なのは、中外日報社説子のような安易な生命観がはびこっていることである。
死者に同情なんて不要である。同情は関係ない他者が一瞬「かわいそう」と言うだけの話である。
人間の弱さ、わからなさ、固有の事情に知らないふりをしているから「自死と言い換える」のは「自殺という行為を美化する危険性をはらむ」などと臆面もなく言えるのだ。
こんな安直な生命観が宗教的価値観とするならば、それをもたらす宗教もなんとも安直だとしか言いようがない。
筆者は道元の言を引用しているが、引用された道元は嗤っていることだろう。

こうした社説を許した中外日報は、自死者の尊厳を貶めることだとして、すぐさまの自己批判をすべきである。
わからないことはわかったような顔をして語ることではなく、しばし沈黙することである。

 

「自死」ではなく「自殺」? 血迷ったか中外日報①

仏教界のオピニオン紙「中外日報」2016年9月30日号の社説「自殺美化の危険」は、自死に対する偏見を助長するもの以外のなにものでもない。
http://www.chugainippoh.co.jp/editorial/2016/0930.html

新聞などでは近年、自殺といわずに「自死」と言い換える傾向が見られる。刺激的に響く語を避けて穏やかな表現に修正することはよくある。本紙では自殺と自死を併用するが、「自死」と表記する場合、残された「自死遺族」の立場・人権を特に配慮している。

そのことも踏まえ、あえて指摘したい。「死」と「殺」は違う。「死」は自動詞だが、「殺」は他動詞である。病気や事故による死は病死、事故死といわれ「殺」は用いない。つまり「殺」は誰かの殺意と行為がもたらす死である。

すると自殺はやはり自「殺」であって、自「死」ではない。もともと生きとし生けるものは必ず死を迎える。生にとって死は当然であり自然ですらある。死とは、はじめから生に含まれる。人間の思うままにならない、頭を垂れるほかない厳粛な定めの現実化である。(略)

生と死は対立概念、あるいは矛盾概念とさえ考えられているが、実は死は生の否定ではない。本来は生き了えること、生の完了である。それに対し「殺」は生の中断で、まだ完了しない生の破壊である。一切の事物の存在には必ず始まりと終焉がある。しかし終焉と破壊は同じではない。要するに生の否定は「死」ではなくて「殺」なのだ。

人がいつか死ぬのは致し方ないが、殺人はそうではない。罰しようがないから自殺罪はあり得ないが、自殺幇助は犯罪になる。私のいのちは私のものだから、どう扱おうと私の勝手だ、という人がいるが、とんでもない心得違いである。そもそも生命があって私があるので、反対ではない。生命は私が手に入れたり、自分で作ったりしたものとは違って、自分の所有物ではないから、自分勝手に処分してよいものではない。

「自死」とは「自分で死ぬこと」「みずから死を選ぶこと」という意味であるようだ。誰でも自殺を考えたこと、もう死んでしまいたいと思ったことがあるだろうし、自殺には他人には窺い知れない苦悩、同情すべき事情があるのだろう。しかし、死は来るもので、招くものではない。自分勝手に選んではいけない選択肢である。

「殺」と「死」は全く別物だ。親しい人の自殺を「自死」と考えたい心情は理解しなければならないが、それはやはり言葉の誤用であり、自殺という行為を美化する危険性もはらむのである。

まずこの社説の目線が問題である。これを「上から目線」と言わずして何だろう。
これは80~90年代の文かと思わず疑ってしまう。
80~90年代には文芸春秋を始めマスコミが大量の文化人を動員して「せっかくのいのちを中断してはならない。生きる価値がある」とばかりに自殺防止キャンペーンをはったものである。
問題は「自殺者」の「生への意思が欠けている」ことにあるとの論理であった。

近年、「いじめによる自殺」「パワハラによる自殺」等々が報じられており、学校や企業が告発されているが、この社説の論理に従うならば、こうした自死者も(他人には窺い知れない苦悩、同情すべき事情があるのだろう、とは言いながら)また自らを殺した者であり、死んで罰しようがないだけの話になる。

かつてキリスト教の牧師や仏教の僧侶の中には自死者の葬儀を断ったり、葬儀をするのでも、その中で「自分のいのちであっても授かった尊いいのちなのだから、自分だけのいのちではない。自分のいのちを殺めてはならない」と説教し、自死者を断罪した例が少なくなかった。
中外日報が仏教のオピニオン紙であるならば、こうした自死者への宗教界の過ちを自己批判すべきなのであって、今さら自死者を犯罪者扱いする論理を展開することではないだろう。

私は今も抗うつ剤を処方してもらっているうつ患者であるが、その酷い時は視野が極度に狭窄し、自己判断することは全くできず、生きることの展望がまったく途絶える状況に陥ったことがある。そこで死に至らなかったのは意思による克服でもなく、他人のアドバイスでもなく、単なる偶然でしかない。その瞬間に電車が入ってきたら線路に転落していても全く不思議ではなかった。常に死を窺っていたし、それ以外の選択肢はなかった。

もとより人がうつに陥るのは固有の問題である。それぞれの健康、経済、人間関係、あるいはそれが錯綜している場合も少なくないだろう。
だがずいぶんと時間が経過し、今では「今危ないな」と自覚できるようになったが、それでも自分がうつになった原因を分析することは困難だ。おそらく精神的疾患はそう論理的に説明できないのだろう。
だが、極度に酷いうつを体験した者としては、そこでは判断力も意思力も一切が失われるということはよくわかる。
だから、少し回復した時に人によく言ったものである。
「がんで死ぬ者がいるように、うつで死ぬ者もいるのだ」と。

(この項続く)

2015年9月12日 (土)

鬼怒川の越水による大洪水

i鬼怒川が越水し、堤防決壊、濁流が茨城県常総市に流れ込み、死者も行方不明者もいまだ孤立して援助を求めている人が多い。

台風17号はその後宮城県大崎市、栗原市でも川の堤防を越水、決壊させた。

その映像が4年半前の東日本大震災の大津波の映像と重なった。
被災地で映像を見た人は悪夢がフラッシュバックする想いだった人が少なくないだろう、と思った。

4年半前の大震災では太平洋沿岸部の人たちを大津波が襲った。
茨城県、宮城県の沿岸部は壊滅的被害を受けた。
今回は内陸部である。
どこにも自然の脅威はあり、災害はいつの時代にも大きな痛苦を与えている。

宮城県の大崎市、栗原市は地震の被害はあったが大津波被害はなかった。
だからといって大震災と無縁だったわけではない。
被災地の火葬場が稼働停止になったため、この両市にある火葬場はほぼフル回転して被災死者の火葬を行った。
この両市の宗教者も付き添ってこれない被災地の宗教者に代わって読経に勤めた。

私の生地は岩手県一関市である(厳密に言えば西磐井郡一関町)。
父が赴任していた先であったので、親戚がいるわけではない。
現在は昔の西磐井郡と言っていた地域が平泉町等を除き合併したため12万都市になったが、かつては人口4~5万の旧城下町であった。
しかし今の規模は旧伊達藩の支藩であった旧田村藩とほぼ重なる。
戦後における一関の変遷は一関市のホームページにある。
http://www.city.ichinoseki.iwate.jp/index.cfm/33,25912,42,html
これを見るとかつての町村が吸収合併され今の行政単位である「市」が成立していく過程がよくわかる。
これは全国の市町村の変遷とほぼ同様である。行政単位としての町村は現在ほとんどない。

少し横道に逸れたが、一関を例にあげたのは、ここが戦後大規模水害を2回起こした地であることだ。

岩手県の盛岡から宮城県の石巻に至る大河川が北上川である。
東日本大震災で石巻で大津波が北上川を遡上し大被害を与えたが、北上川は北上平野を造り、肥沃の大地を形成した一方、氾濫を数多く繰り返し、被害を与えている。

戦後の1947年にカスリン台風、1948年にアイオン台風(占領軍下で台風に女性名がつけられていた)により北上川の支流で一関の中心を流れる磐井川が2年続きで氾濫、大水害を起こした。

47年のカスリン台風(私の子ども時代は「キャサリーン台風」と呼んでいたと記憶しているが、今の記録では「カスリン台風」と書かれている)で最高水位17,58メートルで死者行方不明100名、48年のアイオン台風では最高水位15,58メートルで死者行く不明473名、という2年合わせて約600名の犠牲者を生んだ。

私は生まれたばかりでほぼ記憶はないに等しい。2階に避難し、家族に抱えられて濁流を見たような記憶があるが、これとて後に家族から聞かされた話が記憶のように思ってしまったものかもしれない。

子ども時代、私は家族、地元の人からこの水害の話を繰り返し聞いた。「一関の記憶」は戦争戦後よりも第一に水害の話であった。
そして私たちは水害の結果造られた大規模堤防の空き地で草野球に興じたのが小学生時代の記憶である。

一関の水害でもそうであったが、水害の凄さも語られたが、それによって生命を喪った人たちの話が語り継がれたものである。
生活は戻るかもしれないが、犠牲者は戻らない。

日本の盆についてもそうである。
過去の被災地でとりわけ盆祭りが重要となっているのは死者の記憶を共有する機会となるからだろう。
「祭り」は「祀り」である。
土地によっては「感染症(疫病)による死者たち」を祀るために祭りが定着した。

夏の暑さの中で行われる祭りに影があるのは、祭りが生者だけのものではない、ことを示している。

とりわけ日本の夏は暑い。
それは戦争の記憶を背負っていることにある。

今「安保法案」が立法化されようとしているが、戦争が武器同士で決着するかのような幻覚があるが、多数の軍人だけではなく民間人の生命を奪い、奪われる中で行われ、それがいかなるものかの痛覚が欠けていることにあるように思われる。
「平和」というのは「戦争がない」だけのことではない。
戦後日本は「平和国家」だと言うが、それは戦争がなかった(朝鮮戦争、ベトナム戦争の背後には経済を通じて深く関与したのだが)だけのことである。いのちが大切にされ、それは自国のみならず他国のものも、大切にしてきたか、というならば問題は大きくある。

2015年5月24日 (日)

川崎簡宿火災事件の根は深い

5月17日未明に起きた神奈川県川崎市川崎区日進町の簡易宿泊所(「簡宿」と略すらしい)の火災で9人が死亡、19人が怪我という大事件になった。

本日(2015年5月24日)の朝日新聞で「簡宿 浮かび上がる無縁」と題する記事が掲載された。

 死者は9人。身元がわかったある男性の遺体は、家族が引き取りを拒否した。「決して珍しいことではない」と市の担当者は言う。
 30軒以上の簡宿がひしめく川崎区日進町の取材を通して浮かび上がってきたのは、「無縁社会」へと突き進むこの国の姿だった。
 キャバレー店長、沖縄の基地関係者、潜水士……。職を転々とし、この街に流れ着いていた。「行く当てなんてどこにもない」。みな異口同音に言った。
 市によると、周辺の簡宿には、1300人の生活保護受給者が暮らす。7割にあたる880人は、65歳以上の高齢者だ。
 「結局、ここに押しつけていたのはみなさんじゃないですか」。この街に70年以上住む、ある簡宿の男性経営者は憤った。1960年代、大工や作業員といった労働者が中心だった。どこの宿も廊下にあふれるくらい人がいた。
 JR川崎駅前にいた路上生活者
らを受け入れ始めたのは74年。男性は「川崎大師の玄関口にホームレスがいると見栄えがよくないという声が出て、組合として受け入れた」と振り返る。(朝日新聞2015年5月24日東京版朝刊)

これによると9人の犠牲者のうち身元が判明したのが3人、そのうち1人が家族関係者から遺体の引き取りを拒否されたということになる。
2011年3月11日の東日本大震災で、身元不明遺体についてDNA型鑑定が本格的に導入され、時間は要したものの身元判明に役立った。
大震災では歯型による鑑定も大きな効果を上げたが、歯型鑑定が本格的に導入された事案で思い起こすのは、1985(昭和60)年8月日航機123便墜落事故(群馬県御巣鷹山)であった。
歯型鑑定に必要なのは歯医者の歯のカルテ、治療痕から比較、DNA型鑑定に必要なのは近親の血縁者。近親の血縁者のDNAと比較して確率論的に判定する。
同記事では最後に

犠牲者の身元確認も難航している。判明したのは3人だけ。DNA型鑑定を進める方針だが、血縁のある親族を探し出さなければ照合はできない。(永田大)

と結んでいる。

火災したのは2つの宿泊所、同日は合わせて70~80人が宿泊していたという。1人あたり空間は3畳程度。付近には約30の簡易宿泊所があるという。
宿泊所には単身者、生活保護受給者が多い、という。
現在生活保護を受給しているといっても、それぞれの仕事歴は多彩だ。

同記事には稲葉剛さん(NPO自立生活サポートセンターもやい)のコメントが掲載されていて

今回の火災について「『住まいの貧困』という社会の構造的な問題をあぶり出した」と指摘する。

 生活保護受給者への住宅扶助は、一般的に月5万~6万円。アパートを借りられる金額だが、単身で低所得の高齢者は、孤独死を嫌う家主から受け入れられにくい。「住居の選択肢が少なく、劣悪な環境に追い込まれている」と稲葉さん。


とある。

単独世帯での死が長期間発見されないというケース(「孤独死」「孤立死」と呼ばれるが)が多くなり、そのため賃貸住宅の場合、リニューアル費用、家賃が低くなる、新規賃貸者がいない等でなかには1千万円という損害賠償金が遺った家族に請求、というケースもある。
単身で労働できなくなった人たちの行き場がない。

この記事では防災上の違法建築の問題がまた指摘され、このことは火災発生当初から大きく取り上げられてきたが、ここにきてようやくことの本質に迫る記事が出てきた。

中高年の単独者の問題は、特に男性に多い。
自死が多いのもこの人たちである。

2010年のNHK「無縁社会」によれば、身元不明者も含め遺体引き取りがなかった遺体は3万2千件であったから、今では5万人を超えているだろう。これは死後であるから生前に周囲と関係なく生きざるを得なかった人はこの倍はいるだろう。
2013年の死亡者は約127万人、このうち約10~15万人は理由や意思はそれぞれだろうが、孤立を強いられて生きた人と推定できよう。これらの人が死亡すれば盛大に葬式をされるというわけはなく、葬式をしない直葬に処されるケースが多い。

2013(平成25)年の人口動態統計(確定数)が5月22日に公表された。
これによると13年の年間死亡数は1,268,436人、年間出生数は1,029,816人、自然増減はマイナス238,620人。
ちなみに、合計特殊出生率は前年より若干改善されて1.43、婚姻は660,613、離婚231,383となっている。

離婚数は婚姻数の35%になる。(これは正当な比較ではないが)
婚姻が永久就職ではなく、離婚は珍しいものではない、ということが定着した感じである。
離婚に至る原因にはさまざまあり、そこに男性の意識、言動、暴力、就職、その他の問題があり、女性配偶者がそれから離脱せざるを得ない事情も多々ある。
しかし、特に中高年者の離婚が貧困男性に与える影響は大きいのも事実である。それは生命のリスクと言ってもよい。

また、生涯未婚率は男女とも年々上昇している。『厚生労働白書』によれば、

   
生涯未婚率の推移
(単位:%)
男性 女性
1985 3.9 4.3
1990 5.6 4.3
1995 9.0 5.1
2000 12.6 5.8
2005 16.0 7.3
2010 20.1 10.6
2015 24.2 14.9
2020 26.6 17.8
2025 27.4 18.9
2030 27.6 18.8
2035 29.0 19.2
資料:国立社会保障・人口問題研究所「日本の世帯数の将来推計(全国推計)(2013年1月推計)」、
    「人口統計資料集(2014年版)」
(注)   生涯未婚率は、50歳時点で一度も結婚をしたことのない人の割合であり、2010年までは
    「人口統計資料集(2014年版)」、2015年以降は「日本の世帯数の将来推計」より、
    45~49歳の未婚率と50~54歳の未婚率の平均。

1960年生まれの生涯未婚率は9.4%(実績)であるが、社会保障・人口問題研究所の『将来推計人口』では1995年生まれの人の生涯未婚率を14.7%~26.2%と仮定しており中位推計の仮定値を20.2%としている。

こうしたデータの意味するところは人間は結婚して家庭をもつ、という以外のモデルを考えなくてはならない、ということだ。
高齢者の単独世帯のもつ問題がさまざまな形で露出しているが、この問題は今後いやがおうにも拡大していくことを前提に考えなければならない。

TBSラジオの22時から始まる「荻上チキ セッション22」22時~24時頃帰宅途中で運転しながらよく聴く番組だ。
これを聴くと、若い世代の問題意識が鋭く、深くなっていることに気づかされる。
この番組でも「大人のひきこもり」をテーマにしていた。
10年以上前には「ひきこもり」は若年者の問題として盛んに語られたが、複数の県の調査では40歳以上のひきこもりが半数を超えたという。
将来的にこのまま何も対策しないでおけば中高年のひきこもりが拡大していき、高齢世帯におよぶことは必至である。

こうした問題は社会の底に隠されて、なかなか表面化しにくい問題であるが、川崎簡宿火災事件は、こうした問題のいったんを露わにしたといえよう。

2014年4月25日 (金)

姉の最期の記録

このブログにたびたび書いてきたが、がんの終末期にあった姉が死亡した。
その直前のいとこへの通知から、各所への報告とお礼、と私が記したものを掲載する。

①危篤に際してのいとこたちへの通知

ご無沙汰しております。
叔母さまが施設の方へ入られたとうかがってますが、その後いかがでしょうか?

本日は、姉・祐子のことで報告いたします。

昨年5月に大腸がんで、肝臓にも、リンパにも転移していてstage4であることを宣告され、その後、腸閉塞で入院等してまいました。
4月に入り、入浴等でも介助が必要となり、数回目の入院をしております。
それでも話しなどできる状態でしたが、今は肝臓が悪く、痛み、10日前ほどからモルヒネを使用するようになりました。

7日前ほどから昏睡状態がほとんどの生活となり、ほとんど認知できない状態になっております。
モルヒネだけで栄養分等の補給は行っていないこともあり、もともと痩せていたところにほとんど骨と皮状態です。
昨日1日行っておりましたが、夕方の5時頃に数分かすかに反応しただけでした。

この状態が後どの程度もつかわかりません。きょうでもおかしくなく、2週間程度つづくのか、まったくわかりませんが最終期であることは確実なよう です。
一応、ご報告させていただきます。

〇〇さんには見舞いに行っていただき、姉も喜んでおりました。
ありがとうございました。

②親戚に姉の死亡の通知
皆さん

今朝14日朝9時半頃、姉・祐子が入院中の宗像市医師会病院にて息を引き取りました。
昨年5月下旬に大腸がんでstage4と診断され、積極的治療は行わず、痛みのコントロールを行ってきました。
10日ほど前から急変。モルヒネ投与もあり、意思疎通に欠ける状態が続いておりました。

遺体は自宅に移動しました。
自宅:宗像市(略) 電話(略) 最寄駅 鹿児島本
線東郷駅(福岡空港から地下鉄2つ目博多駅乗り換え)

前夜式 4月15日18時より自宅 兄・重宣が司式します。
告別式 4月16日13時より〇〇にて行います。
兄が司式しての30分ほどの礼拝を行い、その後皆さんにゆっくりお別れいただ きます。 親戚の方は16日11時まで〇〇に来ていただければ、昼食を用意するほか、お別れいただけます。 会場 (略)  最寄駅 東郷の2つ手前の東福間駅が最寄りです。 宿泊いただく方はホテル(略)を予約します。 電話(略) 私の名で予約いたします。
いずれにいたしましても来られる場合、あるいは問い合わせは
私の 携帯(略) メール(略)
に集中していただくとありがたいです。 また、ご案内しましたが遠いのでご無理なさらないでください。 姉のことをそれぞれの地で思ってくださればありがたいです。
③お花等をいただいた方へのとりあえずのお礼
私事である姉の葬儀に際し、皆様から手厚いご厚志をたまわり、恐縮すると共に、深く感謝しております。
お名前を記さないで飾る、という失礼な申し出をご了解いただいたことに感謝すると共に、失礼をお詫び申し上げます。

おかげさまで無事姉の葬式を行うことができました。

私ども家族の大きな見込み違いで、少数の方がお集まりになるだろうという予測を大幅に超え、たくさんの方々にお集まりいただきました。
お願いした葬儀社の方にはたいへんなご苦労をおかけしましたが、それに迅速に対応いただき、厚く感謝しております。

姉の告別式で「お礼」としてハガキを挟ませていただきました。
義兄の「お礼」の文に仮託して私が書いたものです。
以下、記させていただきます。

〇〇祐子は、2014年4月14日午前9時29分、宗像市医師会病院にて72歳の生涯を静かに終えました。
生前、皆様に愛され、短いながらも充実した人生でした。
心より感謝申し上げます。
2014年4月16日
夫 〇〇好史
長男 〇〇博教
(愛犬)子竜

姉は生前、今は閉鎖しましたが、「ボーダーコリー子竜」というブログを開いておりました。

なお、締切が遅れた徳島新聞に姉の葬式のことを本日書き、寄稿しましたので、それを添付し、報告に代えさせていただきます。

ありうがとうございました。

碑文谷 創
④徳島新聞(4月24日掲載予定)
葬式をするということ
 4月14日午前9時半過ぎ、運転していた車がもうすぐ事務所に着くという時、携帯電話が鳴った。
車を停め、受話器を取ると、甥が「5分前に母
(私の姉)が息を引き取った」と告げた。
  2日前、私は福岡県に住む姉を見舞った。朝から入院中の姉のベッドの傍にいた。顔はげっそり痩せ、昏睡状態で、いくら呼んでも反応しない。手や足をさするだけしかできなかった。 

 夕方、ベッドの傍には私一人。このまま帰るのも悔しく、耳もとで姉の名を呼んだ。子ども時代からの愛称「ゆこちゃん!」と。すると不思議なことに、目を見開いた。私の顔を見て言葉を発しようとするのだ。しかし、言葉にならない。それが3回ほど繰り返された後、再び姉は昏睡状態に戻った。


 甥からの電話に、「とうとう」「ついに」という想いと共に、何とも言えない寂寞感、喪失感に包まれた。 

 だが私にはすることがあった。昨春すでに末期がんを宣告され、死を覚悟した姉に託された葬式の手配の一切をすることだった。事前にいざという時の打ち合せを地元の葬儀社と行っていた。電話で病院から姉を自宅へ搬送することを依頼し、併行して義兄と私の兄と電話で葬式の日程を決めた。


 当日は自宅に寝かせ、翌日に通常「通夜」に相当するキリスト教式の「前夜式」を、自宅で親族だけで行い、3日目に葬儀会館で姉の友人たちを加えて告別式を行うこととした。
 


 前夜式は牧師である兄が執り行い、柩を囲み、親族一人ひとりが、姉との思い出を語った。一人ひとりの話に私は涙して、私の番では嗚咽してろくな話ができなかった。
10人だけで、深夜まで、アルコール抜きでしみじみと語り合った。


 翌日午後1時から告別式を行うべく、柩と共に葬儀会館に入った。
 姉は、息子に「親しい友人8人にのみ告別式の通知をすること」と託していた。姉は親族、親友の計30名程度の告別式をイメージしていた。私も姉の意思どおりに、葬儀社には30人程度の告別式を行うよう依頼していた。

 式場は、中央に姉が自分で遺影用に用意した写真を飾り、柩の回りは美しいさまざまな生花で、あたかも花園のように、しかし清楚に飾られた。席は柩を半円で囲むように50席用意された。中央は大きく空け、最後の姉との告別用のスペースとした。式の後に1時間半の時間を用意し、姉の選曲していた音楽を流し、思う存分別れることができるようにしていた、はずであった。
 だが、開式の30分前に、用意した席は埋まり、中央のスペースも急遽椅子を入れられ、ロビーにも会葬者は溢れた。用意したプログラムはあっという間に不足。会館の従業員総出でコピー作業と椅子を追加する作業を必死に行ってくれた。私の息子たちもその作業に加わっていた。 


 連絡した友人8人からあっという間に関係者の間に訃報は拡がったのだ。聞けば皆姉と親しくしていた人たちだった。姉が主宰していた聴覚障がいで言葉の不自由な人たちの臨床教室の人、パソコン教室の人、近所の人…。皆一様に目を真っ赤にして参集してくれていた。


 集まった人たちは、まさに姉の生きた痕跡とも言うべき人たちであった。開式は遅れ、混乱したが、温かな気持ちに溢れた告別式となり、参加した人たちが揃って出棺を見送ってくれた。
 火葬を待つ間、私は姉に心で話しかけた。「あんたの人生、72年と短かったが充足していてよかったな」と。
 骨片となった焼骨は光って見えた。
 

 

 

2014年3月31日 (月)

「迷惑な死」を宣伝するな

サクラが満開である。

花見をしたわけではないが、車で走ると目に入ってくる。
これが私のいつもの花見である。


数日前にはまだ2分咲きだったが、満開への展開があまりに早い。
今年のサクラ、人生になぞなえるにはあまりに速すぎる。

終末期にある姉がしだいに、確実に弱ってきているようだ。
病院の看護師が「最後の花見」に連れ出してくれたようだ。
午前中の花見だったようだが、午後にはその疲れでひーひー言っていたという。
最後の花見がよかったのか、それをしなければもう少し安穏な午後を過ごせたのか、難しい。
花見は本人の希望でもあったのだからよしとしよう。

私は最後はがんがいい、と日頃言っているが、従妹の終末期といい、姉の終末期といい、当然のことながら厄介なものだ。
突然の死も後の家族に現実感覚をなくし、難しい。
歳若くしての死も悔いが残る。
87歳で死んだ父も生きていれば100歳。
父は、頭は最後までしっかりしていたが、身体はボロボロになって死んだ。長男であったが弟3人を先に亡くしていた。
母は99歳を迎える1か月前に死んだ。しかし、10年以上の認知症の末である。母の弟は20代でフィリピンで戦死している。

人間の最後は自由意思では何ともならない。
平均寿命の約80歳を超えたから「大往生」とは言えない。
人の生死は、いつもこれでいいというものがない。

人の死はそれだけで屹立しているものではない。
それは関係の中での死なのだ。
「迷惑」という次元ではないのだ。

「自分は長生きして認知症になったあげく、家族に迷惑をかけてまで生きたくないし、自分の死後は葬式も墓もなくていい」
と言う高齢者が増えている。
それはあくまで元気な自分のそれこそ「自由」な意思であろうが、人は望んだとおりには生きられないし、常に関係の中で死ぬのだから、関係者の心情が深く関係することに想像力が働いていない。
誰もなりたくて年齢を重ねるわけではなく、認知症を選択しているわけではない。長寿を望んでも、若くして突然死ぬこともある。

『平成24年版高齢社会白書』によるならば、2010年で、65~74歳人口は全人口の11.9%の1,517万人、75歳以上は11.1%の1,407万人になる。
平均寿命は、あくまで平均にすぎないのだが、これが約80年となっているが健康寿命は約70年である。これは「日常生活に制限のない期間」とアンケート調査によるものであるが、平均ではあるが、約10年は自立しての生活が困難な期間を送るというのが一般的ということになる。

「健康寿命」という言葉をあちこちで耳にするが、日常生活に支障のある高齢者、障がい者は、家族に、社会に「迷惑をかけている」存在だと言うのだろうか。
「迷惑をかけない死」はなんと不遜な言葉だろうか。

「終活」をビジネスとして考えている人の中に、「社会に役立たなくなり、税負担を増す」高齢者への蔑視の感情を見て取ることがある。
高齢者に恐怖感を植え付け、準備を強制しているようにも思える時がある。すべての人がそうではないが、ここでは名前を挙げないが、そうした不遜な事業者が実際いることは確かなことだ。

高齢者自らが「迷惑をかけたくない」と言う気持ちもわからないではない。
87歳で死亡した父は、自由闊達な人だったが、自分の身の周りについて何一つできなくなったら、生きていることへの申し訳なさが感じられ、早い死を渇望していた。
でも家族からすれば、あるいは父親と親しい関係にあった者には「迷惑」というよりも、父が自尊すら守れない生き様を「大変だな」と思っていた。

人は自由意思と関係なく、病、認知症、半身不随に陥るし、死も選択できない。

高齢者の終末期を「迷惑」ととらえていた人間は、「迷惑がなくなった」と安堵し、家族の死にまともに対処しない例が結構多い。
言っておくが、これは葬儀の形態とは無関係である。
死者を遠巻きしたり、どう死者と対峙していいのかわからないのだ。
死者との接し方に決まったものはなく、自然に自分の感情のままに係わればいいことなのに、終末期を「家族でないもの」として扱い、それが長期化した場合、葬送の場面でも「疎遠な家族」の顔になる。
残る関心は「遺産」だけ。
もっとも最近は遺産を残せない死者も多くなっている。

死者との距離によって、遺された者の死者への感情はほんとうにさまざまである。同じ家族でも温度差が大きい。
「遺族はどうあるべきか」なんて決まっていないし、そんな慣習があったとしても、それの強制は、こうしたケースでほぼ無力である。
しかし、家族の死に対処できない人はその人にとっても不幸だと思う。多くの場合、後にその傷が膿みだすことさえあるからだ。
Photo_2

2017年6月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30  
フォト
無料ブログはココログ

仲間

ウェブページ