日記・コラム・つぶやき

2014年12月30日 (火)

4カ月半ぶりのブログ再開、たわごと

今は「師走」である。
前回の更新が8月14日となっているので4カ月半ぶりとなる。
実は書きかけ原稿が11月に1回あるのだが、それは書きかけのまま放置されていた。いや、放置していて、書くことを止めていた。

「止めた」と言っても意識的にそうしたわけではない。
決められた原稿が書けずにさんざんぱら頭が混乱していたので、「ブログを書く」というところまで気が回らなかったのだ。

実感的には50代と比べると、原稿を仕上げる速度が2分の1または3分の1に低下している。
書く速度が遅くなれば当然にも次の原稿、その次の原稿の締切と重複する。焦るのだが、3つ一緒に書く器用さはもちあわせていない。
焦りで頭が混乱しながら日々を過ごすことになる。
まさに余裕のない生活を送っている。

自分の老化を意識すると、つくづく世の中の中心は40~50代であることがわかる。
30代はそれへの準備であり、その中心を侵食しようとする。ある意味で「生意気」である。
私も「生意気」な時代を過ごした過去があった。
その時漠然と思っていたのが
「60代以上はもう終わっているので、相手にしても仕方がない」
ということであった。
まさに戯言であり、若いゆえのバカさ、エネルギーが言わせたものだ。
そう思っていた自分が今60代の末、70手前にいる。
「終わっている}のだろうな、と思う。

前に書いたかもしれないが、私が見ていたのは10~15年くらい前の人たちのことである。今は80前後の人たちである。
彼らが書くことに学び刺激を受けて書いてきた。
また、彼らがどうあるかによって自分の10年先を見ていた。
早世した人もいるが、今は順調に生きていたその人たちも次々に鬼籍入りしている。

私が個人として師事している一人が青木新門さんである。
新門さんはネットで日記を書いている。というか書き続けていらっしゃる。
私の怠慢さ、いい加減さとずいぶん違う。
日記のおかげで新門さんが今どうしているか、今何を考えているかがわかる。
その新門日記に先日次のように書かれている。

この2日間、部屋や書類や書物の整理整頓をしていた。明日はゴミの日の最終日。
ゴミ袋を玄関に積んでいたら、パトカーが何台も来ているに気付いた。数軒先の家で何かがあったようだ。
しばらくして、同居する75歳の夫が80歳の妻を包丁で刺殺した事件が起きたことを知った。動機はわからないが、貪欲・瞋恚・愚痴の三毒がもたらす師走の悲しい事件のように思えた。こうした事件が多発するのは、人生の始末算用が出来ない人が多いからである。言い換えれば、老化を受け入れ、死を受け入れる心構えに欠けているからである。老いれば、身を如来に預け、あなた任せに生きている限り、起きない事件であろう。悲しい。


「三毒」についてはこのところよく書かれている。そのたびに私は自分は三毒の塊のようなものだ、と思っている。
新門さんは「悲しい事件」と言っておられるのだから断罪をしているわけではない。
しかし、
老化を受け入れ、死を受け入れる心構えに欠けているからである」
と言うのはいささか違うのではないか。
死だけではなく、老もその人の計らいの外にある。
死後の自己決定権についても、その前にしろ、本質は自由意思の及ぶ範囲ではない。
また「老々介護」「身障者を抱える家族」の問題は、実にシンドイ、疲労が蓄積され見通しを失うものだ。
そこで自分を見失うのはある意味自然である、と私は思う。

人間は「三毒」だけではなく、もっとたくさんの毒を自分の中に飼って生きている。しかし自分の力でそれをどうすることができる、と考え努力するのが自力で、それは如来の働きに任せる以外にない、と考えるのが他力なのだろう。
他力には自分の力ではどうしようもない、という自力への絶望がある。

しかしそれも現実を甘く見ていると思うのだ。
いくら向こうからの呼びかけ、働きかけによっても、なんとも現実は、人は変わらないのだ。この現実をあるがまま受け入れるしかないのだ、と私は思う。

現実を変えなくていい、というのではない。
ますます深刻化する老々介護の現場、身障者・精神を病んでいる人とその家族の現実にはもっと行政の力による改善が必要だ。
このままでは「棄民政策」だと思う。
だがその被害者に対して「こうすればよかった」と言うことはあってはならないことだ、と思うのだ。

近年ますます思うのは、生や死について自力では何ほどのこともできない、ということだ。

私が「終活」という言葉が嫌いなのは、自分の終末期あるいは死後の事務処理について考えておくほうがいいには違いないが、老や死、死後のことについて高齢者に対し恐怖感、不安を煽って、そこで商売をしようとする嫌なニオイを感じるからだ。

※ちなみに「終活」は「終末活動の略」ではなく、自分の老後やいかんしがたい大病を負った時や死後の葬儀、墓、財産等の処理について予め自分の意思が生きるように決めて、エンディングノートや遺言に記載すべく準備をしておくことで、「就活」と音を似せて週刊朝日が造語したもの。
最初は「自分らしい葬儀」を考えて準備をしておきましょう」程度だったのが、さまざまな業界の連中が参入して商売しようとして盛り上げてつくられたたブーム。
経産省レポート「ライフエンディング・ステージ」が火付け役になるなどしているので私にも大きな責任があるのだが。


政府も言いだしてている「尊厳ある死」にしても、本音では、
{国の財政は逼迫しているし、これ以上の社会保障の充実は無理だから、不便でも自宅で、できるだけお上にも地域行政にも家族にも「迷惑かけずに生きて死んでね」、それが「尊厳ある死」
…だと言っているのだ。

ばか言うんじゃない。
人間の生も死も存在するだけで尊厳あるものだ、と徹頭徹尾思う必要がある。それを社会の基本に据えないのは極めて不健全な社会なのだ。いのちに何らかの価値観を与えようとするとおかしくなる。

 

(注)

「尊厳死」というのは、ウィキペディアによれば、
「人間が人間としての尊厳を保って死に臨むこと」
と定義している。

「尊厳死宣言」と言われるものは、日本尊厳死協会によれば
「自分が不治かつ末期の病態になったとき、自分の意志により、自分にとっての無意味な延命措置を中止し、人間としての尊厳を保ちながら死を迎えること」
とある。

 日本尊厳死協会の前身は産婦人科医の太田典礼らがつくった「安楽死協会」である。
「安楽死」とは、患者の苦痛からの解放のためには死を医療的に幇助することも含む概念である。日本ではこれを「積極的安楽死」と言い、「消極的安楽死」を「尊厳死」としてきた過去がある。

 「延命治療」を可とするのでは全くないが、死を価値づけることには変わりがない不毛な議論のように最近の私は思っている。
死は、自由意思で何とかコントロールできるものではない、と思うが…。

 

 

 

2012年12月14日 (金)

女たちのお葬式

10月25日付で新しい本が出た。
この会の初期にはささやかだが関係したので、出版のお祝いを兼ねての紹介となる。

 

女たちのお葬式』(太田出版、本体1,000円)

本書は、札幌にあるNPO法人葬送を考える市民の会(以下、市民の会)が著した。

市民の会は1997年に女性8人を創立メンバーとして発足。
当時、全国で市民参加の葬送への取り組みが行われており、
「札幌から新しい葬送文化を作り出そう」
との意気込みでスタート。

「生まれるときに助産婦さんの助けを受けるように、逝くときにも手助けは必要である。死をタブー視することなく、死をタブー視することなく、自分の生を最後まで自分らしく終えることができるよう、サポートを続けたいと考えている」
団体である。

従来の葬儀慣習が男性視点のもので、女性は「妻」という役割に固定され、さまざまな実際上の負担を強いられていることへの批判から、女性のしなやかな視点から葬送を見直し、各人に合った自分らしい、かつ、納得がいき、心のこもった葬送を実現することをサポートする活動を行っている。

全国の葬送関連の市民団体との交流にも積極的。
北海道でも求めがあれば各地に出向いての講座も行っている。

NHKTⅤでは「旅立ちの衣装」として自由なデザインでの手作り死装束の講習の模様が紹介される等、女性の感性を大切にした活動が紹介されて注目を浴びた。
(私の出演した番組で市民の会のⅤが流された、という映像上の共演も3回くらいあった気がする。2回はNHKの全国放送で、1回は北海道地方局だった…)

市民の会は、葬儀の打ち合わせから立ち会う。生前の本人の意思を実現するように、であり、家族は死別の悲嘆で動揺しているので支援が必要だからだ。
この打ち合わせで葬儀社の進める葬儀との衝突を経験する。

女性の目から見て不要なもの、不可解なものを、専門家である葬儀社、互助会はあたりまえの如くに進めようとするからだ。
一つひとつの葬儀現場が学習の場となった。
そのなかで「納得のいく送り方・送られ方」「故人と送る人の思いを大切にした旅立ちの実現」「心のこもった葬送」が鍛え上げられていった。

会員に女性のほうが多いが、男性会員もいる。400人の会員中男性は4割を占める。

2011年10月、市民の会は「一人暮らしの方への支援事業」も発足させた。
死後だけではなく、生前支援のニーズが高かったからである。

今、週に2回行っている一人暮らしの方への「元気コール」は、長く会員だった方が死後時間が経過して腐敗状態で発見され、家族も対面がかなわなかった、という悲しい体験からだ。

今生前意思を明らかにする「エンディングノート」が人気だが、井上治代さんらの活動に刺激を受けて、99年に市民の会が『旅立ちノート』を制作。
また、市民の会が開催する模擬葬儀は「こんな手作りの葬儀があるんだ」と市民に驚きと共感をよんだ。

テレビでも話題になった「旅立ちの衣装」はファッションショーを行うまでになった。

本書は、市民の会の成り立ちから、どういう経緯でさまざまな試みが行われるようになったかを丁寧に語った本。
いわば市民のなかから生まれ、市民視線の葬送への新しい提案活動報告書。

15年間の貴重な記録。
細部の記述にこだわるより、全体から市民の会の思い、感性を学ぶのが本書を読む正しい態度といえよう。


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2012年12月 8日 (土)

12月7日17時18分

昨日(12月7日)17時18分
ゆっくりと揺れ出し、だんだん強くなり最後は大きく長い横揺れ。
1分くらいだというから揺れの長さは11年3月11日14時46分の巨大地震の長さの半分以下。
M7.3は3.11のM9.0の200分の1とかなり小さかった、とテレビで専門家が解説していた。
おそらく多くの人が思っただろうが、その揺れ方は3.11を確実に思い起こすものであった。
フラッシュバックした人はかなりいるだろう。

私の本棚は3.11の痕跡をいまだ残している。
地震ですっかり本が落ちた後、緊急に適当に本棚に縦横ばらばらに入れたまま。
きのうはそれでも10冊くらいは床に落ちた。

昨夕の地震は3.11の余震で、解説者は10年以内に三陸沖でM8クラスの地震が起こる可能性がある、と言っていた。
「まだ続くのか!」と怒鳴りたい気分だが自然相手には空しい。

本日12月8日は日本軍の真珠湾攻撃等の一斉行動で太平洋戦争を開始した日である。
その前からすでに中国大陸での戦争は行われていたが、今度は米英相手の戦争である。
1945年の沖縄戦、東京大空襲、各地での玉砕戦、広島・長崎の原爆…日本が敗れ、攻撃され犠牲者となった記憶がたくさん語られるし、それは実に忌まわしい記憶なのだが、12月8日は終わりの見通しなく戦争を開始し、特に戦場となったアジアの国々に凄まじい犠牲を強いることになった日として記憶されていい。

1935年頃からだが、日本人は狂騒に巻き込まれていった。煽った人間も実はそれほど冷静に戦略を立てたわけではなく、軍、マスコミ、地域社会、教育、宗教、思想が大きな渦になって煽りあい、無謀な戦争にと突入した。

思想はその前に無残に敗北した。
敗北したならせめて沈黙すればよかったのに、己を守るために煽り手になった。
「身を守るために仕方がなかった」と言い訳し、自らも犠牲者面をした。

千万規模の犠牲者が出た傷みを放置したのだ。
せめて死者を思い、傷み、悼み、弔うべきである。
民間人、軍人、日本人だけではなく、アジアの国々の戦場となり暮らしを奪われ、死んだ人々も含め、時代の狂騒は一人ひとりがもつ物語を奪った。

せめて戦く感性を殺してはならない。

11年3月11日の記憶、そこで一瞬にしていのちが濁流に呑まれた人の記憶を忘れるのにはまだ早すぎる。
死者は常に忘却されてきた。戦争は10年で、約7千人の犠牲者を出したコウベも3年で忘れられてきた。ほんの一部の者を除いて。

死者を思うということは奪われたそれぞれの物語がある、ということを胸にしっかりと抱え込むことだ。そしていまなお傷ついていることを思うことだと思う。

何も戦争や大災害だけのことではない。
死者の記憶を忘却しての生は虚妄だと思うのだ。

2011年9月26日 (月)

自然の脅威、自然の恵み

9月24日付けの『中外日報』を見ていたら、別な場で荒俣宏さんと山折哲雄さんが似たようなことを言っていたようだ。

荒俣さんは臨済宗青年僧の会(私も2度ほど呼ばれたと思う)で「人類と地球の仲直り」というテーマで講演した。(以下、中外からの引用)

東日本大震災の被災地の印象を語り、「自然には破壊と恩恵の2つの側面があるが、人間は受け止めるしかない(略)」

山折さんは九州市民大学の9月講演会で話した。(以下、中外からの引用)

東日本大震災や津波、大きな爪痕を残した台風12号のように自然は恐ろしさを持つ反面、打ちのめされた人間を優しく包み込み、癒してくれるという「残酷なまでの二面性を持っている」と話した。

前にも書いたと記憶しているが、日本の歴史を政治的な変動ではなく、「死」という側面から描くと「自然災害と疫病」がいかに人間の歴史に影響したことかわかる。それは政治的変動よりもむしろ大きいのではないか。

日本の民族宗教である神道は自然信仰と言ってもよいだろうが、そこには太陽や自然の恵みだけではなく「畏怖」として捉えられているのは「暴虐」とさえ思える自然災害と疫病への恐怖である。そこで「清める」「祓う」という儀礼のもつ意味の大きさがわかる。

とかく自然に対して恵みを強調しがちだが、人間の根には災害、飢饉、疫病への恐怖感が深く根づいている。

政治的な事件、例えば二二六事件の叛乱の裏には兵士の家族の住む東北の大飢饉があった。
仏教の民衆化の背景にも戦国時代にあって天候不順による飢饉が影響している。
日本で火葬が進展したのも当時のコレラの大流行が背景にあり、火葬の進展と明治民法の「家(イエ)制度」が絡み、「家墓(イエハカ)」が以降大流行するところとなった。

祝い事の背景にもさまざまな問題がある。
幼児の七五三が祝われるのは、かつての乳幼児の死亡率が半端でなく高かったことがある。
今では親や祖父母の虚栄心の徴のようになっていて、戦後初期まで共有していた緊張感が失われているが。

各地の災害の跡地には、復興リーダーの像や神話が残るが、裏返せば災害の大きさとそれへの恐怖感がそこにはある。

山折さんも私同様に東北人であるが、一つ意見が異なる。

震災での日本人の冷静ぶりが海外に報道されたことについて、「海外で被災者が怒り、悲しみ、苦しみを全面的に解放して泣き叫ぶのと対照的。これは単なる偶然ではなく、何か大きな理由が横たわっている。ここに大震災を生き抜く可能性があるのではないか」と指摘。

と、中外は山折さんの発言を紹介している。
山折さんの日本人一般と海外との比較するという大きな尺度は聴く人を魅了するが、そんな美しい話ではないだろう。
私は海外の論調について訊かれる度に「東北人は虐げられることに馴らされたからで、いいことではない」と怒ったものである。
同じように対比するなら東北人と関西人だってえらく違う。それは歴史が違うのだ。

今度の震災でも発見された遺体の身元判明には近隣の人たちの証言が役に立ったと、東北に住む友人は語る。
家族ごと流されて、証言する家族がいなくとも地域共同体のつながりが東北では相対的に強いことからきている。

3・11から半年が過ぎても行方不明は約4千人。これは家族等が申請した数であるから、申請する者が不在の人、住民登録していない人はカウントされていない。
一方、発見された遺体の7%が身元不明、約1千人。DNA鑑定してもわからない死者たち。もちろん遺体の損傷度も高かったが。
地域共同体のつながりが強い東北ですらこうなのだ。

東京などの大都市で同じような事態が発生したら、行方不明の数は実際の行方不明届の出た数と大きく乖離するであろうし、身元不明の死者の割合ももっと大きいはずである。

今度の東電原発事故で明らかになったのは、放射能汚染、放射性物質の危険度について、今まだ信頼できるデータがないことである。
日本の戦後はヒロシマ、ナガサキで始まり、核実験場所近くで被爆した第5福竜丸の件もあり、今では50を超える原子力発電所もあるというのにである。これは科学の怠慢ではないか。

何が安全で何が危険なのか、どのくらいがどうだというのか、公認され信頼される基準値がないところで不毛な意見対立が起こっている。「情報が知らされていない」と言うが、どこに信頼できる情報があるというのか。

私もこの件で親しい年若い友人としなくてもいい口論となった。彼は危険度を強調し、私は情報がないところでの覚悟の話をする、というまさに不毛な口論であった。
その背後には年若い友人らは小さな子をもつ親であり、それだけ危険度の察知感覚が鋭くあるということだ。
こちらはもう毎年同級生が複数死んでいく高齢世代で、若い時代には高倉健演じる任侠精神の虜であったものだ、というのもあるだろう。
こちらの「危険を顧みずにやれることはする」が、向こうでは「それによって影響を受ける人がいたら責任を取れるのか?」という解のない世界に入ってしまった。

情報をもっていない辛さを痛感する。
でも今度の原発事故、思ったより酷いことは確かなようだ。

どうも歴史は「現代」となっても、古代・中世の人々とどっこいどっこいの世界に住んでいるようだ。
現代から見れば「理不尽」とも思えるケガレへの恐怖感と現代から見れば何の効果もないキヨメ、に頼った時代を、原発事故に面してわれわれもけっして嗤えない地平にいるのだ、とつくづく思う。

2011年8月15日 (月)

8月15日

8月15日は太平洋戦争終結の日

完全にこの日で終わったのではなく、天皇が連合国のポツダム宣言を無条件で受け入れ、降伏。昭和天皇がラジオで、いわゆる「玉音放送」でそれを発表した日。

その後の大きなことはシベリア抑留である。シベリア抑留者の帰還が終わったのは1956年。100万人以上が送られ(シベリア以外にも)、約30万人が死亡したとされている。戦争終結は11年後だったと言わざるを得ない。
私の尊敬していた人(故人)も学徒動員で満州にわたり、ソ連に抑留された経験があった。

・太平洋戦争の被害 
東京大空襲、死者・行方不明約
10万人
沖縄戦 死者・行方不明
20万人以上
広島原爆 死者・行方不明
12万人以上
長崎原爆 死者・行方不明
7万人以上
日本関係者の死者・行方不明は
200万人以上。

・アジアを含め太平洋戦争全体の死者・行方不明は1千万人以上。第二次世界大戦全体の死亡・行方不明は数千万人に及び、確定していない。

こんなばかげたことが66年前にあったということ。
私のもの心ついてからの疑問は、これに対する「どうして?」から出発している。
「軍国主義」だけが犯人ではない。

2011年7月16日 (土)

暑い日々 憂鬱な日々

暑い、湿度が高い。
これは室内にいることが多い私でさえこたえるのだから、病気で体力を奪われた人、また高齢者は温度調節機能が衰えているから大変であろう。

『葬儀概論 増補三訂版』で体力を使い果たしたので、グダグダになっている。
そのなかで短い原稿のいくつかはやっと書いている。
現在書いているのは現在進行形のものばかり、過去の焼き直しはしていない。大体がそういう状況ではないのだ。
ここで紡ぐ文章自体が問われている。

このところの「高濃度の放射性セシウムを含む稲わらを与えられ出荷された肉牛が各地で消費されている」という問題は憂鬱だ。このままではフクシマは滅びる。
いかにも「生産者、流通業者が悪い」的論調が見え隠れしている。
生産者が取材で答えていたが「私たちも被害者」という声を重く聞く。

新聞の後ろに
厚生労働省は『東京都や山形県で見つかったレベルの牛肉なら、仮に一度食べても健康上の問題は考えにくい」ろしている。」(毎日7月16日)
と書き添えてあるが、何か気にいらない。

これからこういう記事の冒頭で「東電の福島第一原子力発電所事故で東電が放出した高濃度の放射性物質を原因とする」と東電に責任があることを一々明記すべきだろう。

原発1ヵ所の事故が民間大会社でさせ負担が不可能な経済的損失を招き、今県さえ立ち行き困難にさせられている。10年以内に日本のどこかでまた同様の原発事故が起きたら節電どころではない。
金の問題だけではない。暮らしを破滅させている。
もっとリアルに人々の暮らしを考えないといけない。

震災はどこも終わっていないではないか。

震災が起きた時、被災地は雪であった。今は夏、しかも暑い夏。
行方不明の遺体が今でも少しずつ見つかっている。また、いったん仮埋葬した柩が掘り返され、納棺し直し、改めて火葬に付されている。どういう状態かリアルに考えてみたらいい。
怖いと言って触らないで済ませられる人間が何を言っても無効だと思う。こうした遺体を手厚く扱っている人々がいる、ということを片時も忘れてはいけないだろう。
どこに震災は終わっているのか。

過去、現在を見ずして未来は語れないだろう。
こうした死者や犯罪者扱いされ続けている生産者の想いを忘れて、「元気」も「夢」も「希望」もないだろう。
過去を忘れた猛進が危険極まりないこと、それは高度経済成長がもった脆さと危険であった。
高度経済成長を称え、夢見る人間は、その裏に張り付き、その後の日本社会に深く影響を与えた「負」の部分を見なければならない。

島田裕巳さんが2匹目のどじょうを狙ってたて続けに出しているが、彼の浅薄さがどんどん出るだけ、反論する価値もない。私が一々書いていないのはそうした理由だけ。
死についてきちんと考察しない冠婚葬祭の本や雑誌はまったく意味をもたない。
阪神・淡路大震災は日本人の薄っぺらな幸福感を変える、死生観を変える、と思っていた。でも5年くらいしかもたなかった。

これから東北に1泊予定で出かけるが、話し合うために行く。取材でもない。だが、新幹線は混むだろうな。
こんな催しがあるからだ。
東北六魂祭は、震災からの復興を願って今回、初めて行われるイベントです。東北の6つの県の「青森ねぶた祭」「秋田竿燈まつり」「盛岡さんさ踊り」「山形花笠まつり」「仙台七夕まつり」「福島わらじまつり」が一堂に集まり、16日と17日の2日間、仙台市の大通りでパレードを行います。」(7月16日NHK)

久しぶりの更新となった。
忙しい、めげる、とブログはどうしても犠牲になる。

2011年2月17日 (木)

ハカはいろいろ

ハカ(墓)についても要る、要らないの議論があります。
葬式の要る、要らないの議論の後に出版社が連想ゲームのように仕掛けたものですが、90年代の墓の大きな変化の動きの後追い紹介のようなもので、なんとも気が抜けたものです。

死者の身体である遺体を葬るには大きく3通りあります。

その一つは土葬です。
遺体を土を掘った穴にいれて、土を被せて葬るのです。その上に埋葬された死者の名前を木や石で刻印されます。
これが墓(ハカ)です。
土の上の木や石は誰が埋葬するかを示していているだけなのです。
木ですと朽ちるので永続性はなく、石であると半永久なものになります。

2番目は風葬と言われるものです。
これは大きくは遺体を自然の中に置き、葬りを自然に委ねるというものです。
中世までの日本の墓は、土葬と風葬が多かったようです。
でもその差はさほど大きなものではなかったようです。
風葬でよく知られるのに霊山と言われる地に遺体を置いてくる。あるいは海岸線の人であれば海に面した洞窟などに遺体を置いてくるものです。
チベットの鳥葬も風葬の一種かもしれません。遺体を鳥が運ぶ先は天であるとして「天葬」と言われることもあります。また森の木の上に箱に入れて葬る形態もあるようです。
霊山の麓などに置かれる遺体も通常の動物の自然界での死と同様に自然に還元されていくことをある宗教的希望によって行ったものでしょう。ですから「死体遺棄」と形態的には類似していますが、「遺棄」と「葬り」には違いがあるというべきでしょう。

沖縄では大きな壺に遺体を入れ、遺体が自然に骨化するのを待ち、数年後に骨になった遺骨を洗い、再び骨壷に入れて葬る、という二重葬を取っていました(最初を「一次葬」2回目を「2次葬」)。
欧州でも土葬した遺骨を集め、改めて葬る二重葬はそう珍しいものではないようです。

3番目は火葬です。
明治維新で「火葬は仏教式葬法」ということで一旦は禁止されましたが、すぐ認められました。
火葬はかつてのローマ帝国では「異端者の風習」と唾棄され、カトリックに禁止された行為です。
インドなどアジアでは早く浄化されるものとして古くから採り入れられました。仏教の伝播に付き従うように火葬も広まっていきました。

日本は「火葬国」と言われますが、それは大都市と戦後においてのことです。
火葬は記録的には700年の僧道昭が最初の例ですが、実際には5~6世紀にすでに行われたようです。
といっても今でこそ日本は99.9%の火葬率ですが明治の半ばでは30%未満、近代以前は土葬・風葬がむしろ多かったのです。
火葬は多数の木が必要だから、と火葬は民衆には手を出せない葬法でもあったようです。

 明治末期に世界的な感染症流行の恐怖から日本では伝染病予防法ができて火葬が奨励されるようになりましたが、火葬率が6割を超えたのは1960(昭和35)年以降のことです。

 世界的に火葬が遅れた要因は、欧米ではカトリック教会が反対していたという事情もありました。また近代になると火葬施設をもたなければいけない、という課題もありました。
 1970年代になるとカトリックが強かった地域でも火葬が多くなりました。1962~65年の第2バチカン公会議を経て火葬が容認されたことで各国で火葬率が大きく上昇しています。今や火葬は近代葬法となっています。


火葬された骨(焼骨)を砕いて山野海に撒くのが散骨。
欧米では火葬された焼骨は散骨できるように砕かれて骨壷に入れて戻されます。日本やアジアでは遺骨はできるだけ人体の原型を留めるようにされます。

「遺骨」に対する感覚の違いは日本内でも見られます。
関西では死者の霊魂が宿るとされる本骨(ノドボトケ、実際には軟骨なため火葬時に溶解するので第二頚堆がそれと言われる)を中心に拾骨されます。
九州で体験したのは各部位の代表的な部分を拾う部分拾骨でした。東日本では全骨を拾います。
従って大きく骨壷は小、中、大とあります。

火葬となることにより墓というのは位置づけを少し変えたように思います。関西の本骨中心となるともはや葬りというより記念碑的な性格を強めたように思います。

土葬時代は主として墓は個人墓ですが、焼骨になるとグループ単位になっていきます。明治末期に火葬が推進されたことと、「家」を基盤とする明治民法により「○○家」という墓が出てきて昭和の上半期までに大流行を引き起こします。(しかし北陸には村人が一緒に入る惣墓もありました)
しかし戦後に明治民法が改められると、墓は「家」単位から「核家族」単位となり、90年代以降は承継の永続性の問題と環境・自然保護の観点から多様化してきています。

日本の調査で判明しているのは、すでに入るべき墓地や納骨堂がある、と回答しているの人が7割います。変化は3割で生じ、また遺体は腐敗するという問題がありますが、遺骨となると腐敗進行はないので、死者が増えても即墓需要が高まるわけではありません。一時収容してくれる納骨堂もあるし、家族が家に置いておくことは不法ではないのです。急ぐ要因はないのです。

90年以降の変化は、①家単位ではない永代供養墓(合葬墓・合葬式墓地)、②遺骨を細かく砕き海山等に撒く散骨(自然葬)、③山や森を墓地として許可された区域、墓地内の特定エリアを掘り遺骨を直接・間接土中に埋め、その地に花木または植えたり、桜等の木の下に埋め、個々には朽ちない石等を置かないのが樹木葬―と多様化しています。

欧米には遺体を棺に入れたままにして葬ることもあり、これらの柩が多く安置されている場所もあります。大理石等の時代とともに風化しない固形の棺をロッカー式に収納した形態は、火葬後に骨壷に入れられたまま収納されている納骨堂と似た感じがします。
また現在の墓はかつては下が土になっていて骨壷から出して遺骨を収納する家族合葬型だったのが、墓石の下に骨壷単位に収納するコンクリートで固められたカロートがあり、そこに個人別に収められています。
これらを見ると「葬る」というよりは遺体や遺骨を「収容」する施設のように感じられます。

日本の墓地でも骨壷収容・カロート型が多いのは戦後の特徴で、東京の古い寺墓地の昔の墓石の下は土になっていて骨壷からあけるタイプがまだ残っていますし、地方では骨壷が入らないようにしているところもあります。

墓地には今は寺院境内墓地、公営墓地、民営墓地とあり、民営墓地のほとんどは宗教法人経営のもので、一見しては寺院境内墓地と民営墓地の境い目がわかりません。
また、戦前では地域の共同墓地もありますし、家の敷地内の屋敷墓というのもありました。これは新設は認められませんが、使用している限りは現在も使えます。

「墓」というのはとかく特定なイメージをもちますが、実態はかように多様なので、また各々はその多様性に気づいて議論しているわけではないので、とかく墓地論というのはおかしなものになりがちです。

2010年11月21日 (日)

同級会のことなど

あまりにご無沙汰していました。
その間、早い冬かと思ったら穏やかな秋になったり、季節は行きつ戻りつ動いています。
紅葉が見ごろとか、でもまだ見ていません。
今朝は穏やかです。
仕事を始める前に近況報告とかしておきます。
といっても書いていいだろうと思える範囲ですからスカスカですが。

10月30日
日帰りで愛知県稲沢市の葬儀社かとうさんの邸宅風斎場「桜木の森」の取材。
今このような1軒建てでその家を1軒が占有して使用できるタイプが多くなっている。
小型葬が増えたことと、それぞれの自由な組み立ての葬儀ができるため。
また大切なのは死者と近親者がゆっくりと別れる時間と空間を確保するということ。
斎場が効率よく葬儀を進める施設から、新しいのは各遺族中心にしようとする理念の施設に変わってきている。また、それを望む遺族が増えているということだろう。
ちょうどこの日は長く社長をやっていた父親から娘にバトンタッチすることを披露する場でもあった。
祝賀会で津軽三味線に合わせて突然お父さんが上着を脱いで踊りだした。その見事さ、その表情には次代へバトンタッチできた喜びが出ていた。
往復の新幹線で解説を頼まれた親しい方の原稿を持参したが、往復とも眠ってしまい、読み損なった、

10月31日
東京新聞、中日新聞の文化面11月掲載分の原稿を送る。
その第1回分が昨日(11月18日)掲載されたようだ。
第2回分は11月25日掲載される予定。
何年かおきにこの新聞には書かせていただいている。
写真つきというのはどうも指名手配になるようで落ち着かない。
でもこのネット時代、もう遅く、何枚かの写真が露出してしまっている。

11月1日
この日の夜は毎年1回の東京目白の日本聖書神学校で「キリスト教と葬儀」の講義。
ここは夜間の神学校ということもあって、学生の年齢幅が大きい。
私の歳と変わらないのではないかと思われる学生もいる。
今年の講義を受けた学生は8名。こぢんまりとしている。
こういう規模で話をするのは結構好きだ。
講義を受けるのは最終学年の学生で、将来牧師となろうとする者。
僧侶だけでなく、牧師も地方に赴任し、教会員の葬儀に立ち会う。
死や葬儀について基本的な学習をさせておこうという意図からだ。

11月5日
大嫌いな「週刊ダイヤモンド」の取材をしぶしぶ受ける。
個人としてではなく葬祭ディレクター技能審査関係の取材なので個人的好悪を差し置いて受ける。
かなり念を押して話したつもりだが、どの程度理解してもらえたか。
取材者はきちんとしたライターであったが編集段階に信頼がない。

11月10日
岐阜県大垣市に。真宗大谷派大垣教務所で講演。
タイトルは「現代社会と葬儀ー寺は何を問われているか」
最初丁寧に数字を出して今という時代、社会について話したのだが、この部分はもうわかっている、という感じであまり緊張感をもっては聴かれなかった。
そこで後半は予定していた資料を飛ばして、挑発に徹したら、急に聴いている側からの熱意が感じられるようになった。

終了後の懇親会が楽しかった。
若い世代の僧侶の本音が聴けた。がんばっているな、と感心。
真宗の連中の議論好きは健在。
今度は彼らの挑発に乗ってこちらが建前をかなぐり捨てて論戦に。
「先生、けっこう喧嘩(口論)が好きでしょう」と評されてしまった。
普段は温厚を装っているが、論戦大好き。いつでも受けてやる、というところは学生時代から変わっていない。

11月14日
岩手県一関市に住む親友K君から電話。
10月23日に行われた一関中学時代の卒業50年記念前期高齢者入り同級会のアルバムに近況と同級会の感想を書けと言われたので書いてメールで送った。
その内容を下に紹介しておく。

1.近況
 あいかわらず儲からないモノガキ業(筆名:碑文谷創)をしています。
 でも60歳を過ぎた頃から集中力が弱くなり、原稿執筆に時間がかかるようになっています。
 そのため原稿が遅れ、結果、書くべき原稿が溜まり、ついには徹夜をよぎなくされることも多々あります。
 先日、岐阜の大垣駅で振り返ろうとしてポールに頭をぶつけました。
家族は義母が亡くなったため、同居は人(妻、次男)、長男は結婚して別居。8月に初孫が生まれましたが、私は意地をはってまだ顔を見に行っていません。
 筆名でブログも書いています。(月3回くらいの更新ですが)

2.同級会
 集まりましたね80人も!
 世話人の方々のご苦労に感謝です。
 私の頭髪は、全部白髪だけではなく前頭部がすっかり薄くなりましたが、皆さんもそれぞれ歳相応にお変わりでした。お名前とお顔が一致できない方が多く、失礼しました。
 毎年、数人ずつ鬼籍に入る友人が出るのは淋しいものです。
 K君に言わせれば、私が「過労死第1号」候補。病や死を避けられない年代に突入しているのを感じます。
 個人的にはバスケットボール仲間のA君に会えたのが大収穫。籠球部の男子はKR、K、A、私と4人全部揃いました。次は女性陣も駆けつけてくれるとうれしいです。
 中学時代は学年が上がるごとにクラス替えがあったので、いつも自分がC組であることを失念しています。オール関中という感じです。ご勘弁を。

11月15日
主として関西地方で放映される毎日放送の取材を受ける。狭い汚い事務所でカメラマンが苦労していた。
これは当日は見られないのでDVDを放映後に送ってもらった。
その後産経新聞の旧知の記者の取材を受ける。その結果はここで見られる。
http://blog.canpan.info/dogenkasenaika/archive/4676

11月16日
横浜市金沢区仏教会で講演。
往復車、湾岸を使っていく。
往路渋滞にひっかり時間が足りなかったので、途中PAでパンを買って食べながら運転する。
講演後にいただいた鍋焼きうどんがおいしかったこと。

会場は浄土真宗本願寺派のお寺であったが、会には真言宗御室派のお寺が多く珍しい。
御室派は京都の仁和寺が総本山。代々皇室と縁がある寺である。
神奈川には御室派の荘園があったらしい。会長は御室派の方。
ここでは全仏シンポジウムで配った資料
http://romagray.cocolog-nifty.com/himonya/2010/09/post-e2ff.html
を中心にして話した。

20日
締切がきた「高野山時報」の原稿を書く。
タイトルは「『葬式仏教』は壊れる?」を書く。分量制限があるので削るのに苦労。
送信後、分量はオーバーしていいからと加筆要請がきて、編集者の言にうれしくなって気持ちよく、すぐ加筆して送る。

2010年10月10日 (日)

「危機」ということ

コメント広場が賑わい、私もそれにコメントしていますが、ここで私の考え方の一端を言っておきます。

「家族の危機」
「仏教(でなくても何の宗教でもいいのですが)の危機」

と言われ、私も発言していますが、その問題はかなりの深刻な問題ではあるのですが、けっしてそれ以前がよかった、問題がなかったというわけではないのです。

「イエ制度」下の家族には大きな問題がありましたし、また、それを必要とした社会的背景もなかったわけではありません。
戦前の二・二六事件や五・一五事件の背景には、近代化にまい進する社会が同時に農村の危機を抱えていたということがあります。その上に公娼制度も成り立っていました。家族の生存のため間引きも行われました。

明治後期以降の日本仏教の実態は、そのイエ制度を利用して、それに乗っかってきた部分があり、当然、現在はそのときの綻(ほころ)びを受けた部分があります。

高度経済成長は確かに民衆に食い扶持を与えましたが、その急激な社会変化はさまざまな問題も起こしました。
今でこそ問題とされますが、セクシュアルハラスメントやパワーハラスメントの温床でもあり、日常化していました。
またその経済成長の結果が地域コミュニティの崩壊をもたらしたことも事実です。
また、「生の謳歌」主義とも言うべき社会風潮が死を隠匿したことも事実です。
高度経済成長からバブル景気に至る社会による歪みが今さまざまな問題をよんでもいるのです。

また、崩壊した地域コミュニティも懐かしい共同体だけであったわけではなく、そこに多くの偏見や差別、強要があったことも事実です。

今「無縁社会」という言葉がNHKが取り上げたことで話題を呼んでいます。ジャーナリズムとして大きな貢献をしたと評価しています。
そこで指摘されたように、今という時代が、人々の生きる基礎の仕事がとても安定性を欠いており、その結果、誰もが「無縁」となる可能性を内包し、現にそうした事実を生み出している、とても危険に満ちている社会でもあります。

また、政府も地方自治体も「自殺防止」を声高に叫んでいます。
確かにそこには社会的にドロップアウトしたことが追い込んだ部分もあるでしょう。でも、「防止」を強く言えば言うほど、「自死」は駆逐されるべき対象であり続けるのではないでしょうか。
そこで論理として「自死」は否定されているのです。
自死の多くを、私は本人の意思を決定要因とは見ていません。これは軽々しく言えない個別、固有の問題です。
しかし、自分の貧しい知見と体験的考察でしかありませんが、人間を追い込むものは社会だけではないのです。

近代医療が「病」を敵視し、その結果、「死」を忌避し、死を医療の敗北ととらえ、結果として人間の生と死を物理的な生命にのみ還元し、いのちのもつ危うさと尊厳をトータルにとらえるべき視点を失った、ということを反省する必要があるでしょう。

私は断固としてがんを撲滅対象とは見ないし、自死を撲滅対象とは見ません。
(医学としての発達は携帯電話の進化同様、それはあくまで科学的分野のことで、死生観とは接続してはいないのです。)
私の個人的な体験を言うならば、
このところ同級生も毎年がんで死んでいます。
若い時から友人を自死で失っています。

私は自死もがんによる死と同様に人間として引き受けざるを得ないものと理解しています。
そのような危うさをいのち本来が抱えているのです。
不老長寿は人間の理想であってはいけないのです。

今「孤独死」の問題が取り上げられていますが、「孤独死」そのものを悪いと言ってはいけないのではないか、という意見もあります。
この言葉自体がきちんとした概念規定をもち得ないでいることも事実です。

私は、一応ですが「単独死」と「孤独死」を分けて考えています。一応分けただけで、その間は限りなく近接しているのですが。

単独世帯が増加しており、これからも増加する以上、「単独死」は避けられません。
しかし、社会との関係を自ら切るのはともかく、切られて生きている人が、死亡に至り、その死が長く発見されず、腐敗し、骨化されるままであるのは、人間の尊厳として避けられるようにしたいと思っています。

孤独死の善悪を言うのではなく、死亡は止められないかもしれないが、それが朽ちるまであり、朽ちた状態が晒されるのは避けたいと思うのです。

昔の「風葬」とは異なります。
かつての「風葬」は葬法の一つで、自然の中に遺体を置くことによって、他の動物がそうであるように、自然の中で遺体が骨化して、その魂は山や海や、あるいは彼岸へと同化したり、昇華することを願ってのものでした。
そこには送り手がいたのです。

もとより人間は、送り手がいないまま街や戦場で遺体を放られたままのことも、けっして珍しいことではなく、たくさんありました。
ただ、それを私は無念と思います。

人によっては何も今の時代、これからの時代に対して「危機」という意識をもっていないかもしれません。
但し、私は危険に満ちていると思っています。
しかし、それは「理想」を描いて、それと対比してのものではないのです。

「人間的」という表現はさまざまに理解されていることでしょう。
私は、人間はあるがままに生きることが許されている存在であるし、それでしかないと思っています。
それを大切にていねいに見ていきたい、と思うのです。
それは諦めることだけではなく、時として怒ることであったり、泣くことであったりします。

うまく表現されませんが、強制されない、強制することのない人間的感情を大切にしていきたいと思うのです。

まとまったものになってはいないでしょう。破綻もあるでしょう。でも率直なことを書かせてもらいました。

2010年9月17日 (金)

葬式と布施 私の意見

葬式と布施についての全日本仏教会主催のシンポジウムについて先に2回感想めいたものを書きました。

コメントをいただいたように、地方寺院の問題は大きな問題です。前にも紹介したように、都会にある住職のある意味ノホホンとしたものとは異なり、特に40代、50代の僧侶の方が強い危機感をもっています。
私がシンポジウムの席上配布した資料をそのまま掲載したほうが、私の考えについてご理解いただけるかと思います。長いですが、以下に掲載します。ご批判を歓迎します。

おそらく私の認識はまだまだ甘いものでしょう。それを承知の上、掲載します。当日に配布した資料に一切手を入れていません。討論の感想は先回のをご覧ください。

(私見) 寺院と檀信徒の現状とこれから

~葬式の「お布施」がもつ問題点~

碑文谷 創

1.問題の背景

■無縁化が進む社会

 百歳以上の方が実際にはかなり多くが行方不明になっていた、と報道されている。「長寿社会」の裏が姿を現した。今後は療養病棟から出されて受け皿となると想定された老健(老人保健施設)の拡充が進まず(特別養護老人施設はもとより)高齢者難民時代の到来が予測されている。

 そのほか誰とも認定されない行旅死亡人が1千人(年間、以下同)、縁者がいても引き取り拒否された死者が3万人というデータがNHKの「無縁社会」で報道され衝撃を与えた。推定するに、おそらく縁者に遺体が引き取られたとはいえまともに弔われず、死体処理された人が10万人はいるだろう。2007年の死亡者数は114万。死亡者数の約1割がこうした人々である。

 生活保護の葬祭扶助を受けた人は3万人、自死者は12年間3万人台を続けている。路上生活者の3割以上に知的障害があり、これらの障害者が捨てられている現実がある。

 こうした問題の先頭に立って取り組んでいる人の中に必ず僧侶の方がいる。だが、多くは無関心である。

■維持できなくなる地方寺院

 宗教的浮動層を抱え、檀信徒でない人の葬儀サービスをして「布施」という名のサービス対価の支払いを受けているのは東京をはじめとする大都市圏の問題である。

 今、地方寺院は都市化による地方の過疎化が一段と進んだために、寺院の財政的自立の危機に立たされている。

 寺院自身の自立が危ういのに、教団は賦課金をそうした寺院にも課しており、これが大きな重荷となっている寺院は少なくない。

 ある教団の地方の檀信徒大会に招かれた時、ある住職は「私は学校の教職を兼職して住職を務めてきたが、今では学校、役場、農協という過去の兼職の受け場がなくなってきており、兼職寺院は成り立たなくなってきている」と話していた。

 また、檀信徒代表は「檀家は寺の普請には責任をもつが、住職の生活費までは面倒見切られない」と話すと、数百人という満場の檀信徒から拍手喝采受けた。

 過疎地では若者が去り、残された檀家のおばあちゃんの葬式をすると、「檀家が1軒なくなった」という事態となる。

 檀家に「寺を支えよう」という意識はあるものの、経済不況、おまけに中心層が高齢者となり寺院維持のための寄進ははっきり減少傾向にある。

 無住の寺をいくつも兼務している僧侶も少なくない。檀信徒にとっては「オラガ寺」であるから、寺の合併はままならない。普請すら充分にできず荒れていく寺が少なくない。

 地方寺院の墓は無残である。放置された墓があちこちにある。

 墓の「改葬」(引越し)は確実に増えている。地方の寺の墓から都市の墓へである。都市に呼び寄せられた高齢者が地方までの墓参は困難だからと墓を移す。寺は何とか檀家として残そうとするが、それは改葬に際してより多額の礼金を得ようとしているように映る。

 最も多いのは地方の墓の放置である。幽霊檀家が多くなっている。「改葬」は都市寺院にもある。「寺が嫌い」「住職が嫌い」という理由が少なくない。「墓質」が成り立たなくなり、寺が「選ばれる時代」になってきたようだ。

■人口移動を寺はどう考えたか

 60年代からの高度経済成長に伴う都市化、つまり住民の地方から都市への移動に際し、地方寺院のとった態度はどうだったのか。

 最初は長男は残り、出て行くのは主として次・三男であったから、「長男が残ることで檀家は維持できる」と考えた。ある曹洞宗の住職の方が「長男仏教」と言った。次・三男に都市の寺を紹介するのではなく放置した。都市の寺を紹介すると「檀家をとられる」と心配したからだ。

 地方経済の疲弊もあり、今では長男すら地元から離れることが多くなった。

2.なぜ「布施」が問題になったのか?

■地方出身者が宗教的浮動層を形成した

 東京で檀家となる寺をもつ人が約5割。厳しく見れば3~4割。千葉や埼玉の周辺では従来の住民は寺と檀家関係をもっているが、今増えてきている「新住民」はそのほとんどが宗教的浮動層である。

 宗教的浮動層のほとんどは地方出身者である。地方出身者は糸が切れた凧状態にある。

 その新住民が葬式をすると、出身地の檀那寺には頼まず、葬儀社経由で僧侶を依頼する。彼らはあくまで「一見さん」である。寺の維持に責任をもとうとはしない。頼まれた僧侶も一時的関係だから、遺族の状況を聴こうとしないし、死者のことを何も知ろうとせず葬式を行って帰る人が少なくない。

都市の寺院にとっては檀信徒以外の葬式は「臨時収入」である。中には「葬式をやってやった」とカン違いして遺族に声をかけず、むしろ遺族が挨拶に来ない、と怒り出す。

イオンが葬式の「お布施」の標準価格を出して論議を呼んでいるが、こうした「標準価格」の表示は今始まったものではない。イオン以前から大手互助会と「料金協定」を結んでいる僧侶は少なくない。

 最近ではこれに僧侶派遣プロダクションが加わる。チャペル・ウエディングでは偽牧師が大多数であるが、こちらには僧籍をもつ人が少なくない。

最初は都市周辺部の次・三男が中心だったが、そして彼らが互助会、葬儀社に3割~4割のキックバックを条件に売り込んだ。

最近は地方寺院住職で、地方寺院の収入だけでは食べていけない僧侶が登録して出稼ぎするケースが目立つ。僧侶が単身都会のアパートに住み、プロダクション経由の注文に応じて葬式に出かける。彼らは腰が低く、遺族の声にも耳を傾けるので都会住職より人間的魅力があると好評である。

プロダクションは「明朗価格」を訴える。信士・信女20万円、院号居士・大姉40万円、おまけに「後からのお寺の付き合いは不要です」と断る始末である。僧侶の収入はその3~5割のようだ。

■都会の檀家-寺との関係が弱まる

 地方では関係が薄れてきたとはいえ住職と檀信徒に面識はない、ということは少ない。だが、都会の場合、住職と檀信徒が葬式で初めて顔を合わせることも少なくない。

 檀家であっても寺の維持に対する責任感がなく、そういう意味では宗教的浮動層に意識が近くなっている。頼む寺が決まっているだけで、「お金をとられる」という感覚は近いし、できたら寺との関係を薄くしていきたいと思っている。

彼らに言わせれば、「檀那寺は自分たちが選んだ寺ではない。生まれた時から決まっている」のであるから責任や愛着も薄く、信仰の関係にはない。

■布施

 民衆と寺の檀家関係は、中世末期、近世初期の戦国時代に始まり、江戸時代中期に宗門改めによって法制化された。

明治維新によって一時神仏分離政策で関係が壊れたが、1898(明治31)年の明治民法で家制度が強調されることが追い風で定着した。戦後、新民法で家制度が廃され、都市化で基盤が揺らいだ。今檀家制度は瀕死状況にある。

 寺と檀家という関係は、基本的には住職である僧侶が仏教の教えを説くという法施を行い、それを檀家は財施で応え、ともどもに宗教共同体である寺を維持していく、という関係にある。

檀家が死者を抱え危機に陥る葬式という状況では、特に僧侶の行う葬式が法施として重要な意味をもった。つまり死者を仏弟子としてあの世に送り、遺族の悲しみに配慮することによって。
 死の連絡が寺に行ったら住職はすぐ檀家の家に駆けつけ枕経をし、その後の進め方を地域の人たちと打ち合わせて段取りを決める。死者は日常よく知った檀信徒であったから、死者にふさわしい戒名(法名)を考えて授与した。死者を送るということは宗教者、遺族である檀家、地域共同体にとっても一大事だったのである。

寺は檀家の生活を知っていたし、檀家も寺を支えようとそれなりの布施をしようとしたから、「布施の額」が問題になることは少なかった。

それぞれの状況で負担する、という意味はこうだ。

例えば、ある家の年収は200万円、またある家の年収は5千万円でれば、布施は200万円の家では10万円、年収5千万円の家では250万円で実質等価である。もちろん財施はお金だけによるものではない。労働奉仕もあり得る。それぞれがそれぞれの分に応じて檀家は寺院を支えたのであり、それが「布施」としての意味である。

■「布施」を巡る不幸

ところが2つの不幸があった。

一つは戦後農地解放で寺は地主として保有していた土地を剥奪され、主要な財源を失ったことである。主要な土地持ちの檀家総代も没落した。寺は財政に窮することとなった。

もう一つは高度経済成長である。これは経済の民主化をもたらした。

それまでは院号を望めなかった人たちも平等に院号を要求し始めた。

寺院はそれまで社会階級に応じて寺院への貢献度をはかっていたものが、お金に窮し、「それ相応の金銭的貢献があれば」と取引に応じ、正式ではないが「院号料」なるものが誕生した。

事実、東京のある寺院の墓地では1965年頃を境に、それまで「信士・信女」が多数であったものが、「院号居士・大姉」が主流になっていった。

これが「お経料」「戒名(法名)料」発生の経緯であり、「布施」であるべきものの「料金」化の経緯である。「料金」であれば「安い」を望むのが消費者心理。今度は「寺の費用が高い」という声になった。

■寺の問題点

 寺が戦後の財政的な困窮を背景にしたとはいえ、仏事として葬式を行うこと、檀信徒の寺への貢献を判断し院号等を信仰的尺度で授与すべきものを、お金の高で判断するようになったことである。これは全ての寺院に当てはまることではない。地方では「戒名料」がない寺院も少なくないし、寄進の額によらず檀信徒であれば等しく院号をすべての檀信徒に授与している寺院もある。

 問題は寺だけの問題ではない。「立派」と言われる戒名(法名)を信仰抜きで金で求めた民衆の浅はかさも指摘されるべきである。ブランド品を買い漁る心理と共通したものであったように思う。

 第2に寺院が反省すべきことは、戒名(法名)が歴史的にもっていた差別性である。

歴史的に戒名が純然とした寺への信仰に基づく貢献で授与されたのではなく、社会的地位や寄進が多額であったこと等の社会階級差別を背景としたことが多かった。この点への反省が必要である。これは仏教寺院だけの問題ではないが、この負の歴史に目を瞑らないことである。

■寺の課題

①布施は寺の活動を支えるためのお金であるならば、寺院の活動を檀信徒に見える、感じるようなものとすることである。この活動はそれぞれの寺で特色があっていい。

 その寺のあり方を見て、檀信徒は「寺を支える」必要性を感じることになる。

②寺を住職だけのものから檀信徒のもの、宗教共同体にすることである。住職個人に依存すれば、その住職の限界に寺は規定される。檀信徒のもっている力を有効に活用することなく、寺の発展はない。

③寺の会計の公開である。寺は言うまでもなく住職の個人財産ではなく、宗教法人である。

今財政的に自立できている寺院は全国7万7千カ寺の3割程度だろう。むしろ公開したほうが檀信徒は寺に責任をもつし、寺を信頼するだろう。

④僧侶が葬式に携わるならば、死とは何か、それは家族に何をもたらすか、きちんと僧侶養成プログラムに入れて、葬式への取り組み姿勢を学習させる必要がある。遺族のグリーフへの認識もなく、生業として惰性的に葬式に係わってはいけない。

 また、檀信徒、僧侶に葬式を依頼する人も、もっと真剣に死に向き合う必要がある。かけがえのない家族を送ること、それは固有のいのちに向き合う一大事である。安易な死体処理モードで行うべきではない。僧侶が葬式をするのは、社会的形式や体裁を整えるためではなく、仏弟子として送るという寺の重要な仏事としてある。

⑤寺として反省すべきことは少なくない。

 葬儀会館で遺族が挨拶に来ないと怒った僧侶がいる。なぜ自ら足を運ばないのか。自死者の葬式で「自死はいけない」という法話をした僧侶、ゴルフの予定があり火葬場へついていかなかった僧侶、葬儀会館で「ご本尊がない」と葬儀社に不手際のように怒った僧侶。それほど大事な本尊をなぜ自らもっていかないのか。仏事には寺が責任をもたないでどうする。

⑥寺院の中で高い利益をあげているのは一部にすぎない。多くは困窮している。それなのに「高い」「お金をとられる」と言われるのは、寺院の財政基盤が葬式に偏り、不況ということもあり、檀信徒の負担が重くなってきていることもある。寺院経済の葬式・法事への依存度を低めること。恒常的な財源確保の策を見つけること。

⑦寺院の開放性を高めること。物騒とはいえ、門は閉まり、人が来ることを拒否しているかのような寺院の何と多いことか。

⑧寺と寺の協働である。一つは地方と都市の寺の協働であり、もう一つは地域の寺同士の協働である。地方寺院と都市寺院が協働しないと都市の宗教的浮動層は増える一方、地方寺院は疲弊する一方である。地域の寺同士がネットワークを組むことで、寺の意識も開かれるし、単独ではできない催しもできるし、住職の交代休暇も可能となる。

⑨過疎化地域への派遣制度である。住職を支えられない寺をグループ化して教団の責任で僧侶を一定期間、交代で派遣する。できれば初任の僧侶に過疎地赴任を義務づける。そして大規模寺院を世襲のものと私物化せず大胆な人材抜擢をはかることである。

 世襲制が寺院維持に貢献した面は確かにあるが、弊害をもたらし、自覚のない大規模寺院の後継僧侶が贅沢三昧していることが批判を呼んでいる。僧侶間の経済格差は凄まじい。

■布施を料金にしているのは誰か

 一つは信仰もないのに葬式・仏事を依頼してくる「消費者」の存在である。できるだけ安く、「立派」と言われる戒名をほしがることである。

 もう一つは、仏式葬儀の減少、檀家の高齢化、減少を背景に寺収入が減少していることである。

このため地域の僧侶が談合して布施の釣り上げを画策することがある。地方都市では檀家は住職の指示に従わざるをえないが、これでどれだけ寺への信頼感をなくしたことか。

寺の財政が厳しければ、檀信徒に説明をし、協力要請をすることが第一であろう。それを僧侶が裏で根回しして葬式の礼金の引き上げを行っていて「料金ではない」と抗弁することが空しくないだろうか。

 また、もっと檀信徒を知る必要がある。檀信徒の生活レベルでは困難な金額を要求してはならない。

 檀信徒や僧侶を依頼する人も葬式をしてもらうならば、もっといい意味で僧侶を利用し、それぞれの分に応じてでいいが、感謝の心を示す必要があるだろう。

ある僧侶が「お気持ちで」と応じたら、「お布施」と書かれた封筒に5千円札1枚入っていたという話もある。生活が困窮している人の話ではない。生活に困窮した人が、なけなしの1万円札を出すなら、心ある僧侶はそれを尊いお布施としていただくだろう。

よく「金額が不明瞭」と言われるが、個々の事情を無視して一定金額を要求するのはビジネスであって宗教行為ではない。

■教団の責任

 過疎寺院の問題を含め、個々の寺院で解決できない問題があるのに、教団は教団政治や行事にだけ目を向け、寺院の抱える問題に対処しようとしていないかのようである。

多くの場合、僧侶の役職は、あくまで個人的栄誉であって教団全体への責任としては認識されていない。だから心ある僧侶は、教団に期待することを既に断念している。

 実際には、個々の僧侶はさまざまな活動をしている。僧侶だからできる活動もある。しかし、これを共有する仕組みが教団には見られない。

3.葬式の危機

■9割を切った仏式葬儀

 仏式葬儀は長く95%前後を推移してきた。しかし2007年の日本消費者協会調査ではじめて89.5%と9割を切った。仏式葬儀が当たり前でない時代がすぐそこにきている。

 新年の教団トップの談話を見ていると「宗教教育がない」「経済至上主義がよくない」という外向けの批判はあっても「寺」自体への反省はほとんどない。寺は他の力で変わるのではなく、自ら変わろうとしないでは変わるわけがない。

 地方では、4050代の僧侶の危機意識が強い。生き残れるか、と真剣に心配している。仏教界の問題意識格差、経済格差の解消、寺はどこに行こうとしているのか、社会における存在意味を確認しないと、そのうち社会から放置され、次第に姿を消してしまうのではないか、と懸念している。

 95年頃より日本の葬式は共同体から離れ私事化した。その背景にあるのは経済不況もあるが、団塊世代を中心とした戦後世代が喪主の中心層となったからである。また、各種の意識調査を見ると、伝統的意識離れを言われた60代戦後世代に比べても40代以降の世代感覚はさらに大きく隔たっている。若い僧侶が「寺に葬式を頼むのか?」と心配するのも根拠がないわけではない。

■弔うこと

 また安易な宗教離れは、死にきちんと正面から向き合う機会を奪う可能性がある。「無宗教葬」「自由葬」がその人の信念で行われるならは少しも非難されるべきことではない。しかし葬式が単なるファッションになってはいけないだろう。

日本仏教が中世末期・近世初頭の戦国時代に民衆の中に入り、民衆の支持を受けたのは、家族、近親者の死という危機にあって、その死者の存在を尊いものとして受け止め、共に送り、葬る作業を僧侶が行ったからである。現代的な表現をするならば、どんないのちにも意味があり、価値があり、尊ばれるべき、人格をもった存在として位置づけ、そのいのちの喪失の厳しさ、辛さ、悲しさに共感したからである。これがそのまま葬式の本質である。

「葬式仏教」と言われるのは恥ずべきことではない。人の生死に係わるというのは並大抵のことではないからだ。しかし、その現場に固着するならば、死後だけではなく、生きているときからの関係が重要だということも見えてくるはずである。

 葬式を執り行う僧侶(僧侶に限らない宗教者)を信頼できないで安心を託すことはできない。また、そうであるなら宗教者は不要である。「葬式を託される」というのは宗教者にとって名誉である。信頼されているということの究極表現だからだ。

 宗教者は信頼されるように人間関係を築き、檀信徒、僧侶に葬式を依頼しようとする人は信頼できる宗教者をさがし、その人間関係を大切に育む必要がある。それはけっして「偉いお坊さん」という意味ではない。

 今、社会で「死」が軽くなり、冷淡視されるようになったのは、生前のその人を囲む関係が希薄になってきているからだ。死者を忌む前に高齢者を忌むようになり、その死の看取りが家族の中でも共有されなくなってきている。無縁化は家族内で始まっている。

 弔い方は多様であっていい。お金をかければいいわけではない、というのはバブル景気の崩壊で学んだ教訓である。

 しかし弔われることがない死者は不幸であり、弔うべき人がいるのに弔うことをしない人もまた不幸である。

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